2019年1月28日月曜日

検査、統計、初七日

 品質管理を軽視したことによる不祥事が頻発している。2005年の姉歯事件――構造計算書偽造による耐震不良マンションが摘発され、高額の補償問題に発展した――、2015年の東洋ゴムによる「免震ゴム装置のデータ改竄」、タカタのエアバック・リコール事件、三菱マテリアルの品質不正、日産自動車の検査不正問題などなど、枚挙に暇がない。わが国経済の主導産業であった「製造業」の「高品質」は今や『神話』に成り下がってしまっている。品質保証――「検査」は利益を産まない、という昭和の時代では考えられなかった考え方が「短期利益至上主義」の平成時代に跋扈して、戦後の苦難を乗り越えて日本経済を世界有数の地位に高めた「先達」の苦労を水泡に帰させようとしている。確かに検査にはコストがかかる。しかし、不正が明らかになった場合のリコールにはそれに係わる人員だけでなく「補修部品」というコストが余分にかかるうえに「高額の賠償・補償金」さえ発生する。
 今ならまだ間に合う。根本的に「経営思想」を改良してわが国に寄せられている「品質への信頼」が維持できるように「大改革」すべきである。
 
 今問題になっている厚労省の「毎月勤労統計」不正問題も根は同じであろう。統計も検査同様表舞台のはなばなしさはない、いわば「縁の下の力持ち」的な仕事であり官庁では企画・政策畑のようなスポットライトの当たる部署の仕事ではないが、現場では統計を仕事上の有効かつ重要なツールと考えている人たちも多い。「短期の成果」――昇進に役立つ評価を得られやすい目だった仕事――を重視するトップ層の覚えは目でたくないから、人員削減、業務縮小に追いこまれて今回のような不祥事になってしまったのだろう。しかし「毎勤」は国の基幹統計であり「賃金、労働時間及び雇用の変動を明らかにすることを目的」とした最重要統計だ。「雇用と賃金」は時の政府の「勤務評定」の主たる指標であり、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)は「最大限の雇用と物価安定」を目的として掲げていることをみてもその重要さは想像できる。アベノミクスの評判が芳しくないのも、雇用の伸びが「非正規雇用」に限定されていることと賃金の伸びが低いことにある。
 そんな重要な統計、統計法にも統計手法の定めのある、その手順を何故無断で変更するような「無謀」がまかり通ったのだろうか。
 勤労者――特に公務員の場合昇進は最大の関心事である。というよりも給与が年功と職務・職階で決定されている公務員にとって昇進こそすべてといっても過言ではない。長くわが国では各省庁のトップ―事務次官が実権を握っていた(大臣の承認が必要なことはいうまでもないが)。この人事権がピラミッド型のヒエラルキー―権力構造の綱紀を厳格に保ってきた。ところが2014年に「内閣人事局」が設置され上層部の人事権が各省庁の内部から消滅し「政府」――時の政権に移動してしまった。俗っぽい表現になってしまうが「上のご機嫌を伺う」よりも内閣人事局―官房長官(=総理大臣)の顔色を伺う方が得だ、ということになれば内部の権力は劣化し綱紀が緩んでしまうのもむべなるかな、ということになる。本来であれば統計法を揺るがせにするなど考えられない行為だが、それが内々の「便宜主義」――請負機関である東京都の担当者からの陳情―業務量削減―があればそれに阿(おもね)る向きに流れ、「安きに」偏することにもなろう。
 厚労省ばかりでなく文科省も財務省も防衛省もまったく官庁の態を成していない現状は「綱紀の緩み」の大元を正さなければ決して解決しないであろう。
 
 さて今日のタイトルに何故「初七日」を入れたについてこれから説明しよう。
 今年も早々に親戚のお葬式がありお参りさせてもらったが最近の傾向として「初七日」が葬儀当日に行われる。参加メンバーの親子や親族の近しい人が昔のように亡くなった方の住まい近くに居る人ばかりでなく、子供でさえ勤務地が遠方であることが多い昨今の事情を斟酌して、六日後にまた時間と交通費を費やす煩を避けて葬儀当日にまとめて行うようになったのだろう。止むを得ないことと素直に認めざるを得ない。しかし、それでも、一言申し述べたい。
 初七日などの忌日法要は、死を契機として得度して(葬儀の途中に剃刀を当てる儀式がある)仏徒となり修行を積んで成仏するという仏教の考えに基づいており、その修養の段階ごとに試験のようなものがありその試験日に忌日が設定してあって法要して合格をお願いするという意味になっている。初七日、四十九日、三回忌など十段階があり試験官が閻魔様だという説もある。弘法大師の真言宗では修養の段階を「十住心(じゅうじゅうしん)」と定義されておりが大いに教えられる考え方である。しかしこのような宗教的な意味以外に、残された妻(夫)や子どもを慰め力づける働きも忌日にはあり、とりわけ初七日は大切な人を亡くして日も浅く悲しみも強く先行きの見通しも定かならざる状態にあるのだから彼や彼女が最も慰めを必要とし、頼りになる近しい人に傍にいて欲しいと願う時期だ。昨今の世相を考えれば高齢でひとり残された老いた妻であったり夫であったりする場合が多いにちがいなく、そんなとき、息子や娘が寄り添ってくれればどんなに嬉しく、ありがたいか知れない。愛しい人の居なくなった家にぽつねんと独りでほうっておかれる寂しさを思えば、初七日こそ娘や息子に傍にいてほしいのではなかろうか。
 公式の、親戚縁者の集う初七日は告別式当日に済ますことに異存はない。しかし残された人のことを考えれば、せめて娘や息子、あるいは姉妹(兄弟)ぐらいには付き添ってもらって亡き人をしのぶ「初七日」を共にしたいと願うのは、それほど負担を強いることなのだろうか。
 
 短期利益や便宜を重視して本質を蔑ろにしている点で手抜き検査も不正統計も現代初七日事情も同じように感じたので今日のコラムのタイトルにした。
 愚直さと他人への思いやりが日本らしさだったのではないか。グローバル化の激流がそんな「美質」を吞み込んでしまった平成の時代だったが今年は代替わり。成熟期を迎えた新時代にふさわしい「余裕」のある日本に生まれ変わってほしいものである。
 
 
 
 
 
 
 

2019年1月21日月曜日

幼児化のひとつの見方

 新潟市を拠点として活動するアイドルグループNGT48の山口真帆さんへの暴行事件がニュースショーを賑わしている。アイドルと何とか接触しようとする熱心なファンが暴徒化した事件のようだ。一部の週刊誌の報じるところによると彼らは「アイドルハンター」と呼ばれ自分が推すメンバーのために何十万円もの大金をつぎ込む「太客」で、メンバーが寮として利用するマンションの一室を借りてチャンスをうかがっていたという。 
 この事件は偶然に起こったものだろうか。
 秋元康の主宰したAKB48に端緒をなすご当地アイドルグループが林立、身近なアイドル―「会いにいけるアイドル」を売りとしたAKBの姉妹グループが音楽業界を席巻している。ミリオンセラーなど夢のまた夢となった同業界で「ひとり勝ち」の様相を呈している『AKB商法』は、「ファンにCDを複数枚買わせようと誘導する手法」で、同一タイトルを複数仕様発売する(通常盤と劇場盤など)、購入特典の生写真封入、各種投票権(メンバーのランクづけを行う選抜総選挙やベスト盤作成投票権など)、握手会(商品1点あたりメンバー一人を指定して行う握手会など)、などなどあらゆる手段を講じてCDの売上増を図る商法である。あまりの『あくどさ』に最近批判も激しくなってきており、今回の事件以前にも握手会でアイドルを傷つける事件が起るなどファンの熱狂化と暴力化が懸念されている。
 私が特に『危険視』していたのは「握手会」だった。握手は最近ではわが国でも企業社会や公的な場で一般化してきたが、相手が自分の「好きな人」となれば話は別になる。単なる儀礼には止まらず「擬似性交」になってしまう可能性が否定できない、そう危惧していた。熱烈なファンは「おたく」と呼ばれるように、自分のすべてを賭けて「アイドル」に憧れている。もともとアイドルは「手の届かない」存在だからこそ憧れの存在であった。それがCDを大量に買えば「会いにいける」存在になって、そのうえ握手さえできるようになる。親しい異性の友達をつくることの苦手な「うぶな男性―男の子」を「貢ぎ」に誘導することは、プロのあこぎな「おとな」にとっては赤子の手を捻るよりも容易い業(わざ)であろう。そして、性に未熟な若者にとって「握手」は「性交渉への入り口」、いや「軽度の性交渉」そのものになる、これは決して誇張でもなんでもない、われわれ世代の青春時代を思い出せば頷ける感覚だと思う。未熟だからそのあとの「処置」に戸惑い、困惑することは容易に想像できる。低級で俗悪なエロビデオで発散するか手淫で紛らすか。若者を弄(もてあそ)ぶ「あこぎ」で「えげつない」こんな商法がいつまでも許されていいのだろうか。
 
 AKB商法は今問題になっている「つながり依存症」の一種とみることもできる。
 つながり依存症は「ネット依存症」と表裏の関係にあり、「リアルな友達と、いつもつながっていたい」「リアルな関係を維持するため、常にネットで確認しないと不安だ」という心理が底にあり、とりわけ中学校や高校に進む13歳や16歳といった年齢で、「つながり依存度」が高くなる傾向が認められており、その背景には仲間外れや一人でいることの恐怖があるといわれている自分に否定的な意識が強くなったりネット上の人に相談する傾向が強いとつながり依存度が高まる。
 電車やバスに乗ったとき、若い人のほとんどがスマホに夢中になっている姿を見るとその危機的状況がうかがわれる。
 
 日本人の幼児化が問題になっているがこれはなにも若者に限ったことでなくおとなを含めての傾向だが、「つながり依存症」はまぎれもなく幼児化の一類型といえる。
 大人とは?辞書によれば、考え方や態度が十分に成熟していること、思慮分別があること、としている。別の表現では、目先のことだけに感情的に反応したり単細胞的に反応したりせず長期的・大局的なことを見失わず理性的な判断ができる状態、ともいえよう。子どもが親に依存しているのに比して大人は自立している、自分のしたことに責任が持てる、子どもが往々にして無軌道で衝動的にあるのに対して大人は自分を律することができる―自律的である、などとも表現できるであろう。
 では、いつから、どのようにして、子どもは大人へ変わるのだろうか。家庭や学校で学習すること、失敗や衝突の経験を積み重ねることも重要な要素だろう。しかし最も重要な過程は『孤独』と向き合うことではないだろうか。自意識が目ざめて、いままで渾然一体であった親や周囲の人たちとの一体感が壊されて剥き出しにされた「自分」。不安、孤立、寂寥感。そこからいかにして「脱却」するか。「青春の苦悩」の過程で自立心が磨かれ他者との共存とつながりを築いていく。価値観を確立していく中で友人と出会う。そんな過程を踏みながら徐々に「おとな」に成長してゆく。
 欧米のキリスト教国や中東・アフリカなどのイスラム教国では入信時、「神との対峙」を経験することで孤独と向き合うことが強制され多くの若者が「自動的」に孤独を通過するが、我が国や中国のような多神教や無宗教国の若者は意識しないと孤独と向き合うことがないから避けて通ることも可能になる。そこに「ネット依存」がつけ入る隙がある、意識せずに「つながり依存」に陥ってしまう可能性が高くなる。現在のように親の庇護のもとにあって食うに困らない経済状態が保障されている「なまぬるい」状況では、知らず知らずのうちに「孤独」とすれ違っていることも珍しいことではなくなってくる。
 
 「つながり依存症」が幼児化傾向を助長しているのは明らかだろうが、「目先のことだけに感情的に反応したり単細胞的に反応したりせず長期的・大局的なことを見失わず理性的な判断ができる」おとなが今の世の中にどれほどいるのかは極めて心細い状態といわねばなるまい。さらに晩婚化非婚化も経済状態以外に「つながり依存症」が絡んでいるいる可能性も否定できない。
 人間は独りで生まれ独りで死んでいく。孤独こそ人間存在の根本だということを改めて考えてみる必要があるのではないか。
 
 
 
 
 
 
 
 

2019年1月15日火曜日

Fさんの死

 Fさんが急逝した。暮の十二月中ごろ異変を感じ近くの病院で診察を受けると白い影(肺炎の)があるから大きな病院に入ってくださいといわれ、スグに移って治療が施されたが快方に向かうことなく急劇に重篤化して正月明け早々に帰らぬ人となった。十月二十日ころ展覧会で彼の油絵を見、親しく話し込んだあとだけにまさに「突然の訃報」だった。
 通夜、告別式を終え、最近の流儀で「初七日」も済んだ後の足洗いの席で隣の長女に「Fさんは思い残すこと、なかったでしょうね」と話しかけると「そうでしょうね、私もそう思います。おホホ…」と答えたことがすべてを語っていた。彼の伴侶――私の四つ上で幼いころから姉のように遇してくれたW子ねえちゃん、縁あってFさんと結婚した彼女も「ほんまにそうやは…」とあっけらかんと同意するし、一切を取り仕切った長男も深く頷いていた。儀礼的な悲しみや涙が一切なくむしろ晴れやかささえただようこんな葬式ははじめての経験だった。
 ことほど左様にFさんの一生は見事なものだった。どんな事情があったのかは知らないが小学校へ上る前に故郷の静岡から小僧同然の形で妙心寺に入り、そのまま僧籍に進むかと思われていたのが英語教師に転じる。中学高校と教えた後大学教授となり、英国の詩人ワーズワースに関する著作と夢想国師の「夢中問答集」のT..Kirchner教授(花園大)との共訳が主な著作となった。私生活はW子ねえちゃんと結婚して二児を生し、それぞれ独立して家庭を持ち子ども(彼の孫)も立派に成長している。残された妻の老い先は恙なく送るに十分な手当てがしてあるようだからご立派なものである。リタイア後の生活はテニスと油彩で充実していたから申し分ない。インプラントの治療も完了、油彩用のオイルを大量に娘に買い込ませて「生きる気まんまん」の彼はほとんど苦しむこともなく死ぬことができたのだからまさに『大往生』と呼ぶにふさわしい人生だった。中学時代の教え子に俳優の近藤正臣が居るのがご自慢で、あまり人付き合いの得意でなかった彼が教え子たちから同窓会の案内を受けると喜々として参加していたというエピソードを聞いて彼の幸せな人生を偲びながら、なぜか幸田文の『父』にある「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」と云って死んでいった幸田露伴が思い浮かんだ。 
 
 葬儀告別式で唯一心を痛めた「事件」が骨上げのときにあった。長男(外務省関連機関勤務)のコロンビア人の妻が骨上げがはじまると悲鳴に近い小さな叫びを上げ涙ぐみながら口元を押さえた。日本人の私でさえ成人になってはじめてこの「儀式」に立ち会ったときには「なんという残酷なことを…」と激した感情を抱いたのだから、死生観の異なる彼女がカルチャーショックを受けたのも無理はない。しかし仏教的には、死んで人間界を離れ剃髪(葬儀が始まると導師がカミソリをもって髪を剃る態の儀式を行う)して仏徒となり修行を重ねて仏となる行路に旅立つという教えに従うのなら、足元から頭までの骨を拾い集め最後に喉仏を添えて「人体」を完成させる儀式は、長い修行を積む身を整えるという意味で必要な行程なのだろう。三途の川を渡る「まいない」として仏銭を棺に入れる風習が一部の地方にあるのも同じようなことになろうか。
 こうした行いを「迷信」と一笑に付す向きもあるがそれは「人間」という存在を「時空」、すなわち縦横高さの空間と時間の次元において捉えるからで、人間の命、存在を宇宙という「時間」を超越した次元で考えると、四次元の存在としての人間は前の次元から次の次元へいく僅か百年足らず――138億年の流れのなかの一瞬の在り方でしかない、そんな考え方もあっていい。なにしろ物理学の最新理論「超弦理論」では『9次元』が数学的に証明されているのだから宇宙世界が4次元で説明できないのは確からしいことになっている。また原始仏教では「十方諸仏」という考え方があり全宇宙が十の世界で構成されていてそのそれぞれに仏が存在しているとみており、さらに密教の「胎蔵界曼荼羅」では大日如来を中心とした十二区画に世界を理解している。「人類の智慧」の蓄積を受け入れれば人間を4次元の存在としてのみ理解する仕方はあながち『賢者』のものとはいえないかもしれない。
 世の中を時空の世界と考えて人間存在を僅か百年足らずの生命として捉えるから百年のうちにすべてを完成させなければならないという「せせこましい」人生観におちいり利益追求に汲々としてしまう。時間がないから「戦争」という手っ取り早い「暴力」で相手をねじ伏せようという刹那的な考えもしてしまう。そうではなくて、人間としてのあり方は「全存在」のほんの一瞬の「時間的存在」にすぎない、そうでない方がずっとずっと長いのだと思えば、ゆっくりじっくりと交わり合おうとすることもできるのではないか。
 
 なにを分かったような、と批判を受けるかもしれないが、ならば「死とは何か」をあなたはご存知なのか。次に掲げるソクラテスの言(『ソクラテスの弁明(光文社古典新訳文庫・納富信留訳)』)にあなたはどう反論するのか。
 死をおそれるということは、皆さん、知恵がないのにあると思いこむことに他ならないからです。それは、知らないことについて知っていると思うことなのですから。死というものを誰一人知らないわけですし、死が人間にとってあらゆる善いことのうちで最大のものかもしれないのに、そうかどうかも知らないのですから。人々はかえって、最大の悪だとよく知っているつもりで恐れているのです。実際、これが、あの恥ずべき無知、つまり、知らないものを知っていると思っている状態でなくて、何でしょう。
 さらに身近な例を引けば、死というものが決して終わりではないこと、生が一度きりのものでないことを経験した漱石はそのことを『思い出す事など(岩波文庫・夏目漱石)』であの修善寺の大喀血前後をこう述べている。
 強いて寐返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛を挟む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほど経て妻から、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのですと聞いた折は全く驚いた。(略)妻の説明を聞いたとき余は死とはそれほど果敢ないものかと思った。そうして余の頭の上にしかく卒然と閃いた生死二面の対照の、如何にも急劇でかつ没交渉なのに深く感じた。どう考えてもこの懸隔(かけへだ)った二つの現象に、同じ自分が支配されたとは納得出来なかった。よし同じ自分が咄嗟の際に二つの世界を横断したにせよ、その二つの世界が如何なる関係を有するがために、余をして忽ち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめたかと考えると、茫然として自失せざるを得なかった。
 死生観が齢とともに変化し、宗教(私の場合は仏教だが)への「向き合い方」が徐々に日常化してくる。
 
 それはさておきFさんの死でとうとう親族の男で最年長になってしまった(妻側の姉婿は六歳年長ではあるが)。しかしFさんの死が余りに見事なものだったせいもあって死に対する見方が少し楽になった。己の欲するままに楽しんで生きれば案外死は穏やかに迎えられそうに思えてきた。ただ健康で周囲の人に恵まれることは必要だが。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2019年1月7日月曜日

新年に思うこと

 新年早々物騒なことをいうようですが「戦争は人類が生き延びていくための『ビルト・イン・スタビライザー』ではないか?」と、最近思うようになっているのです。ビルト・イン・スタビライザーというのは「自動安定化装置」とでも訳せばいいのでしょうか、もともとは経済用語で、好不況を調整するために仕組みとしてに経済に埋め込まれている景気安定システムのことで、不景気になったら中央銀行が市場に貨幣を投入して経済活動を活発にし景気が過熱すると金利を高くしてお金を借り難くし投資や消費を沈静化させるといった中央銀行の役割などがその代表的なものです。
 
 トマ・ピケティが『21世紀の資本』で喝破したように「資本収益率は経済成長率よりも高い」のであれば『格差』の存在は「常態」であり平和な時代が続けばつづくほど格差は拡大していくことになる。歴史を振り返ってみれば、格差が拡大して社会に不満が蓄積してどうにもならなくなると必ず「戦争」が起って蓄積されてきた富――国の資産や個人の財産がゼロになって一旦格差がチャラになり、平和が戻ってまた徐々に格差ができ、やがて不平等が我慢の限界をこえて、また戦争になり……。国内の場合は「内乱」になり、それは往々にして国と国との不平等に飛び火することが多く「戦争」に拡大した。そんなことを繰り返してきたのが人類の歴史であったのではないか。
 そうした歴史を教訓として「再分配」を社会システムとして取り入れたのが「福祉社会」だったし、国際的に築き上げたのが「国連」を中心とした「国際協調」システムであった。「累進課税」で金持ちや儲けている会社からは多くの税金を取りそれを恵まれない所得の低い人たちに「社会保障」として再分配する、それが福祉社会を支えるわが国の経済システム(税制)だった。
 こうしたシステムは高度経済成長とも相俟って着実に機能し、いわゆる『中間層』を幅広く生み出すことによって世界も羨む『高福祉社会』と『民主主義』を達成し国民の多くが『格差』を意識しない『総中流社会』を実現した。「ジャパン・アズ・ナッバーワン」といわれた時代でありバブル社会でもあった。
 ところがバブルがはじけた頃から社会の様相が一変する。バブル崩壊は1991(平成3)年から1993(平成5)年の期間を指すがこの間を挟んで所得税の最高税率は50%に、法人税は37.5%に低下している。期を同じくしてソ連が崩壊し(1991年12月末)アメリカ単独覇権が実現すると「グローバリゼーション」が一挙に加速した。社会主義の敗北は資本主義の『獣性』を野放図に解き放ち、グローバル化の名の下に平和の代償として有無を言わさず『格差』の受容が強いられた。
 ここで戦後わが国税率の変遷を辿ってみよう。終戦直後進駐軍がシャウプ勧告(1949、50年)によって富裕税を設定するなどわが国税制の根本的な改革を指示して平等化を図ろうとした。やがて占領体制が終わり独立国家となったその後の所得税の最高税率は1962(昭和37)年の75%を頂点として1984(昭和59)年70%、1987(昭和62)年60%、1989(平成元)年50%と順次低減し現在では45%に設定されている(平成に入って一時37%まで低減されたこともあったがその後40%に修正され現在に至っている)。法人税(基本税率)は1984(昭和59)年43.3%を頂点として漸次低減、現在(平成30年)は23.2%にまで低下している。
 格差拡大に追い討ちをかけたのが間接税=消費税の導入だった。1989(平成元)年税率3%でスタートした消費税は1997(平成9)年に5%、そして2014(平成26)年8%に増税され今年(2019年)10月には遂に10%にまで税率が高められることになる。間接税の逆累進性は導入当時から懸念されていたことだが、わが国労働市場の激変――不安定・低所得を強いられる非正規雇用の拡大は2017年2036万人、総労働人口の37.3%にも達し、平均給与(2016年)は172万円で正規雇用の487万円の35%に過ぎない――は低所得者に逆累進性をますます増幅して強いている。
 
 格差の拡大はわが国に限られた現象ではなく世界的な傾向でもあって「1%の富裕な層と99%のその他の層」を不満とした「ウォール街を占拠せよ!」というデモが2011年アメリカで起り、それを引き金とした格差に対する不満の爆発は「トランプ大統領の誕生」という「不幸な真実」をもたらした。第二次世界大戦の教訓をもとに営々として70年間に築かれた国連を中心とした「国際協調体制」はトランプによって僅か1年で全てが覆らされようとしているし、第一次世界大戦の悲惨を二度と繰り返さないというヨーロッパの覚悟が昇華された「EU―欧州連合」もイギリスの離脱によって風前の灯となっている。西欧列強の「野望」が引き裂いた「アフリカの矛盾」は『難民』となって旧大陸―ヨーロッパ諸国を『崩壊』の危機に陥れている。
 
 国内の格差、国家間の格差、先進国と後進国の格差――あらゆる格差が『臨界点』に近づき「戦争」が「絵空事」でなくなりつつある。今度もまた、人類は「戦争」という『愚行』によってしかこの『難局』を切り抜けることができないのか。
 
 妄想はさらにつづく。
 20世紀は「戦争の世紀」だった。その究極として「原爆」が生まれた。同じ原子力の平和利用として「原発」が発明され「安全でクリーン」な電力が人類永遠の繁栄をもたらすと期待された。しかしチェルノブイリと福島第一原子力発電所の大惨事は「人類の夢」が実は「悪夢」という『事実』であったことを突きつけることになる。
 21世紀は文字の発明、印刷機の発明に次ぐ文化大革命―「インターネットの世紀」になるといわれている。その発展系としてのAI(人工知能)は人類社会の成り立ちを根本から変化させるかも知れないことを予感させる。しかし「原発」が「トイレのないマンション」といわれたようにインターネットは「ハッキング(クラッキング)」―システムへの不法侵入と破壊行為―という『脆弱性』をいまだに克服できていない。昨年暮れのソフトバンクの通信障害はひとたびネット・インフラが破綻したときの現代社会のもろさを露呈したし、トランプ大統領の出現がもしロシアのサイバー攻撃によるものだとしたら民主主義の根幹が揺るがされたことになる。そんなものに人類社会の基礎が築かれているとしたら21世紀にうちに「人類の滅亡」という予期せざる惨事に見舞われることも覚悟しておく必要がある。
 
 世界で唯一の「被爆国」であり西欧列強以外ではじめて近代化に成功した「日本」。あらゆる意味で「技術的特異点」を迎えている21世紀の世界をリードできる資質と地位を有している「日本のかじ取り」を誰が担うのか。
 既存の政治家だけがその権利者とは限らない。