2019年1月28日月曜日

検査、統計、初七日

 品質管理を軽視したことによる不祥事が頻発している。2005年の姉歯事件――構造計算書偽造による耐震不良マンションが摘発され、高額の補償問題に発展した――、2015年の東洋ゴムによる「免震ゴム装置のデータ改竄」、タカタのエアバック・リコール事件、三菱マテリアルの品質不正、日産自動車の検査不正問題などなど、枚挙に暇がない。わが国経済の主導産業であった「製造業」の「高品質」は今や『神話』に成り下がってしまっている。品質保証――「検査」は利益を産まない、という昭和の時代では考えられなかった考え方が「短期利益至上主義」の平成時代に跋扈して、戦後の苦難を乗り越えて日本経済を世界有数の地位に高めた「先達」の苦労を水泡に帰させようとしている。確かに検査にはコストがかかる。しかし、不正が明らかになった場合のリコールにはそれに係わる人員だけでなく「補修部品」というコストが余分にかかるうえに「高額の賠償・補償金」さえ発生する。
 今ならまだ間に合う。根本的に「経営思想」を改良してわが国に寄せられている「品質への信頼」が維持できるように「大改革」すべきである。
 
 今問題になっている厚労省の「毎月勤労統計」不正問題も根は同じであろう。統計も検査同様表舞台のはなばなしさはない、いわば「縁の下の力持ち」的な仕事であり官庁では企画・政策畑のようなスポットライトの当たる部署の仕事ではないが、現場では統計を仕事上の有効かつ重要なツールと考えている人たちも多い。「短期の成果」――昇進に役立つ評価を得られやすい目だった仕事――を重視するトップ層の覚えは目でたくないから、人員削減、業務縮小に追いこまれて今回のような不祥事になってしまったのだろう。しかし「毎勤」は国の基幹統計であり「賃金、労働時間及び雇用の変動を明らかにすることを目的」とした最重要統計だ。「雇用と賃金」は時の政府の「勤務評定」の主たる指標であり、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)は「最大限の雇用と物価安定」を目的として掲げていることをみてもその重要さは想像できる。アベノミクスの評判が芳しくないのも、雇用の伸びが「非正規雇用」に限定されていることと賃金の伸びが低いことにある。
 そんな重要な統計、統計法にも統計手法の定めのある、その手順を何故無断で変更するような「無謀」がまかり通ったのだろうか。
 勤労者――特に公務員の場合昇進は最大の関心事である。というよりも給与が年功と職務・職階で決定されている公務員にとって昇進こそすべてといっても過言ではない。長くわが国では各省庁のトップ―事務次官が実権を握っていた(大臣の承認が必要なことはいうまでもないが)。この人事権がピラミッド型のヒエラルキー―権力構造の綱紀を厳格に保ってきた。ところが2014年に「内閣人事局」が設置され上層部の人事権が各省庁の内部から消滅し「政府」――時の政権に移動してしまった。俗っぽい表現になってしまうが「上のご機嫌を伺う」よりも内閣人事局―官房長官(=総理大臣)の顔色を伺う方が得だ、ということになれば内部の権力は劣化し綱紀が緩んでしまうのもむべなるかな、ということになる。本来であれば統計法を揺るがせにするなど考えられない行為だが、それが内々の「便宜主義」――請負機関である東京都の担当者からの陳情―業務量削減―があればそれに阿(おもね)る向きに流れ、「安きに」偏することにもなろう。
 厚労省ばかりでなく文科省も財務省も防衛省もまったく官庁の態を成していない現状は「綱紀の緩み」の大元を正さなければ決して解決しないであろう。
 
 さて今日のタイトルに何故「初七日」を入れたについてこれから説明しよう。
 今年も早々に親戚のお葬式がありお参りさせてもらったが最近の傾向として「初七日」が葬儀当日に行われる。参加メンバーの親子や親族の近しい人が昔のように亡くなった方の住まい近くに居る人ばかりでなく、子供でさえ勤務地が遠方であることが多い昨今の事情を斟酌して、六日後にまた時間と交通費を費やす煩を避けて葬儀当日にまとめて行うようになったのだろう。止むを得ないことと素直に認めざるを得ない。しかし、それでも、一言申し述べたい。
 初七日などの忌日法要は、死を契機として得度して(葬儀の途中に剃刀を当てる儀式がある)仏徒となり修行を積んで成仏するという仏教の考えに基づいており、その修養の段階ごとに試験のようなものがありその試験日に忌日が設定してあって法要して合格をお願いするという意味になっている。初七日、四十九日、三回忌など十段階があり試験官が閻魔様だという説もある。弘法大師の真言宗では修養の段階を「十住心(じゅうじゅうしん)」と定義されておりが大いに教えられる考え方である。しかしこのような宗教的な意味以外に、残された妻(夫)や子どもを慰め力づける働きも忌日にはあり、とりわけ初七日は大切な人を亡くして日も浅く悲しみも強く先行きの見通しも定かならざる状態にあるのだから彼や彼女が最も慰めを必要とし、頼りになる近しい人に傍にいて欲しいと願う時期だ。昨今の世相を考えれば高齢でひとり残された老いた妻であったり夫であったりする場合が多いにちがいなく、そんなとき、息子や娘が寄り添ってくれればどんなに嬉しく、ありがたいか知れない。愛しい人の居なくなった家にぽつねんと独りでほうっておかれる寂しさを思えば、初七日こそ娘や息子に傍にいてほしいのではなかろうか。
 公式の、親戚縁者の集う初七日は告別式当日に済ますことに異存はない。しかし残された人のことを考えれば、せめて娘や息子、あるいは姉妹(兄弟)ぐらいには付き添ってもらって亡き人をしのぶ「初七日」を共にしたいと願うのは、それほど負担を強いることなのだろうか。
 
 短期利益や便宜を重視して本質を蔑ろにしている点で手抜き検査も不正統計も現代初七日事情も同じように感じたので今日のコラムのタイトルにした。
 愚直さと他人への思いやりが日本らしさだったのではないか。グローバル化の激流がそんな「美質」を吞み込んでしまった平成の時代だったが今年は代替わり。成熟期を迎えた新時代にふさわしい「余裕」のある日本に生まれ変わってほしいものである。
 
 
 
 
 
 
 

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