2020年3月30日月曜日

近視眼的な、余りに近視眼的な

 東京五輪2020が延期になった途端、東京の新型ウイルス感染者が40人を超えたり(それまでの最高は前日の17人だった)不要不急の外出自粛を要請したりと感染状況が一挙に深刻化した。大幅な数字の変化と行政の深刻な対応要請は、五輪のために感染の現実が『隠蔽』されていたのではないかという「疑惑」を抱かせるし、それまで大阪を中心に「終息への出口戦略」が現実感をもったスケジュールで語られていたのは、「情報の非対称化」によって政権中枢部や首都機関とそれ以外の地方・機関とで「ほんとうの現状」が共有されていなかったせいではないかという疑いを抱く。その後全国各地が東京都との往来を週末自粛要請したことによって東京は事実上「ロックダウン(都市封鎖)」状態になったがそれでもなお、平日の通勤については「自宅就業」を推奨するだけでほとんど規制されそうにないが、もしこれが原因となって「オーバーシュート(爆発的拡大)」につながったりしたらだれが責任を負うのだろうか。
 それにしても、もし「五輪のために事実が隠蔽」されていたとしたら、日頃「国民の生命と財産を守るために最善を尽くしてまいります」と事ある毎に口にする安倍首相は、国民の生命と財産よりも他にもっと重要な「守るべきもの」があったということになる。そういえば、先週末(3月19日)1万6千円台に割り込んだ(16,995円)株価がわずか3営業日で1万9千円台をうかがおうかとする動き示したのも不可解で、新型ウイルスの影響で倒産の瀬戸際に追い込まれている多くの中小企業を救済するよりも、株価を何とか2万円台に戻して政権の人気挽回を図る方が安倍首相にとっては大事なことなのだろうか?また五輪延期前に「学校の4月新学期からの再開」という考えが打ち出されたのは五輪のために感染を「矮小化」する偽装工作だったのではないかと疑いたくなってくる。公立学校は文部科学省の支配下にあるから政権が恣意的に扱っても許されるという驕った思いがあったとしたら、その犠牲になる子どもたちこそいい迷惑だ。
 恣意的で近視眼的な大人の思惑で教育が蹂躙されたとしたらこの国の将来は暗澹たるものになってしまうだろう。
 
 21世紀になってサーズ(SARS2002年)、マーズ(MERS2012年)そして今回の新型ウイルスと3回も経験する新型感染症の世界的な流行は、決して異常なことではなく数年に一回は繰り返される「常態」として取り組むべき世界的課題なのではないか。しかし我が国をはじめ世界各国の認識はそこまでに至っていないように感じられて不安を覚える。
 
 感染症の影響が経済を劇的に下降させる懸念があるがそれへの有効な対策が打ち出される可能性は極めて低い。何故なら、従来の経済の枠組みであれば、金利を引き下げて企業の投資を喚起したり、貨幣の供給量を劇的に増加させて、例えば国民に一律十万円なり二十万円なりを支給して消費を拡大させるという方策がとれたのだが、ゼロ金利だから金利引き下げは不可能だし、日銀の量的・質的緩和がもう十年近くつづいて市場に貨幣が溢れかえっている現状では企業活動への影響はほとんど期待できないうえに、雇用の不安定化と賃金の下降傾向が続いて将来不安を抱えた個人は消費よりも貯蓄に回す可能性が高いから、こうした従来型の景気浮揚策には期待をかけられない。
 アベノミクスの名のもとにデフレ脱却と景気浮揚を狙って目先の効果ばかりを追い求めた政策を繰り返してきた結果、日本の経済システムが今回のような三十年に一度、五十年に一度というような劇的な経済変動に耐えることのできない脆弱なものになっているのだ。
 市場の万能性を信じて「民営化」と「自己責任」を追及してきた「新自由主義的」経済政策の破綻に気づかない限り日本経済の立ち直りは困難であろう。
 
 さらに気がかりなのは「観光立国」という国策への否定的な意見がチラホラ聞かれることだ。特にインバウンドへの過剰依存に対する危険性を過大に評価する論調が少なくないことに懸念を覚える。グローバル化によって世界がひとつになり、工業製品の生産工場が賃金の高い先進国から低い発展途上国に移動するのが世界的潮流となった現在において、先進国は産業構造を高度化させてサービス産業化せざるを得ない状況にあるという認識に基づいて打ち出された「観光立国」という国策に間違いはない。一方で世界の貧困率(世界の貧困ラインは1日1.90ドル)は1990年36%から2015年10%に、貧困層の数は19億人弱から7億人強に減少しておりこの趨勢は今後継続していくだろう。アジア、アフリカ、中南米の貧困国が、中国がそうであったように中所得国に成長していくであろうことは十分可能なシナリオであり、そうなったとき、安全で衛生的で歴史的蓄積の豊富なわが日本は、アジアは勿論のこと世界各国から「魅力ある国」と憧れをもって見られても何の不思議もない。また長期的には「円安傾向」になるであろうからその方面からも日本はインバウンドに有利な条件が整ってくる。ここは何とか踏ん張って『魅力ある日本』を追及すべきではなかろうか。2020年4千万人を達成し2030年6千万人へ、というシナリオは今回の新型ウイルス騒動で頓挫するだろうが、長期的な可能性は決して悲観的なものではない。関連事業者の奮起と中央・地方政府の手厚い補助が望まれる。
 
 最後にわが国の感染者数について、もし今の数字が正しいものとするならその原因はマスクと手洗いにあるのではないか。マスクの予防効果は疫学的には否定的だそうだが今後見直されるにちがいない。また手洗いに関してはわが国ほど習慣的に丁寧な手洗いを躾られている国は少なく、ポンプ式の消毒泡洗剤が各家庭に常備されている国も珍しいのではないか。表面的にはこのふたつが他国と際立って効果の認められる原因だが、専門家に是非調査検討を願いたいのはこの感染症が「有色人種」には感染力、重篤率が低いという傾向はないかということである。まったくの直感にすぎないが直近の印象からなぜかそんな感じを受けている。
 
 突拍子もない方面からのアプローチが意外な真実を導くかもしれない。
 
 
 

2020年3月23日月曜日

南京と長春

 聞いてほしい。どうしてもわからないことがあるのだ。これほど大規模な戦争暴力でありながら、どうして長春包囲戦は南京大虐殺のように脚光を浴びないのか?どうして数多くの学術発表がされたり、口述記録が広く残されたり、年に一回は報道キャンペーンがあったり、大小さまざまな記念碑が建ったり、広大で立派な記念館が完成したり、各方面の政治リーダーたちが何かにつけて献花したり、小学生が整列して頭を下げたり、フラッシュを浴びるなか市民が黙祷を捧げたり、記念の鐘が毎年鳴り響いたりしないのか?/どうして長春という都市は、レニングラードのように国際的知名度のある歴史都市として扱われないのか?(略)三十万人以上が戦争の名のもとにむざむざ餓死させられたにもかかわらず、どうして長春は海外においてはレニングラードほど有名でなく、南京ほど重視されないのか?(p186)
 これは現代台湾を理解するための必須の書といわれる『台湾海峡一九四九で作者の龍應台が記す悲痛な嘆きである。『台湾海峡一九四九』は、「1949年、国共内戦に敗れた国民党政府軍と戦乱を逃れた民間人とが大挙して台湾へ押し寄せたその数ざっと200万。一方、50年にわたる日本の統治期を経て、「外省人」という新たな勢力の大波にのみ込まれた台湾人。互いに痛みを抱えながらこの小さな島に暮らしてきた外省人と台湾人の「原点」を、60年が過ぎたいま、見つめ直す。出版社の“内容説明”からの引用)」衝撃的なノンフィクションである。(天野健太郎訳・白水社
 
 ではその虐殺の規模はどれほどのものであったのだろうか。
 包囲戦が始まった時点で、長春市にいた民間人の人口は五十万であったといわれている。が(それ以外に難民や居候がいるから)総人口はおそらく八十万から百二十万人であったろう。そして包囲戦が解かれたとき、共産党軍の統計によれば、中に残っていたのは十七万人であったという。(略)餓死者の数は十万から六十五万といわれ、あいだをとって三十万とすると、ちょうど南京大虐殺で引用される数字と同じになる。(p186)
 それであるにもかかわらず「長春包囲戦の史実を、台湾の友人たちのほとんどは聞いたことがなく、中国の友人たちもまた“よくわからない”と首を振るばかりだった。(略)やっとわかった。長春人自身、この歴史を知らないのだ。/どうしてこんなことになったのだろう?(p187)」
 
 長春包囲線はどのようにしてはじまったのか。
 林彪は五月中旬(一九四八年)、包囲戦指揮所を設置し、同月三十日、長春封鎖作戦の布陣を定めた――(一)(略)大小すべての道を塞ぎ、主要陣地を構築。主力部隊は市外にある空港を確実に制圧する。(二)遠距離射程火力により、市内の自由大街と新皇宮空港を制圧する。(三)食料及び燃料の敵地区流入を阻止する。(四)一般市民の市外流出を禁じる。(五)予備隊を適切に掌握し、各検問所との相互連絡を密にし、分散している我が方の包囲部隊に対し攻撃を仕掛ける敵をいつでも撃退、殲滅せしめる。(六)(略)長春を死の街にしむる。(p189)
 解放軍の士気を高めるスローガンはこれだ――「食糧一粒、草一株、敵に渡すな!長春の蒋賊軍を閉じ込めて飢え死させろ!」。十万人の解放軍が市外より囲み、十万人の国民党軍が市内を守る。百万人近い長春市民は家に閉じ込められた。(p189)
 
 飢餓のすさまじさは言語を絶した。
 うだるような七月が来た。市内の道路に死体が捨てられ始めた。骨が突き出すほどやせこけた野良犬たちが死体を囲む。禍々しい赤光で眼をぎらつかせて食い散らす。そして野良犬たちはその後、飢えた人びとに食べられることになる。(p190)
 それは、裸のまま捨てられた赤ん坊であった。飢餓のため、肛門から直腸が体外にはみ出して固まっていた。死んでいなかったが、赤ん坊は虫のように弱々しく地面にうごめくだけで、もはや泣くことすらできないようだった。/「母の愛ってなにかね?」と彼は言う。「極限の状態になったら、そんなものは消えてしまうんだろう。きっと流す涙すら乾ききって。」(p190)
 
 これほどの虐殺がどのようにして歴史の暗闇に葬られるようになったのか。
 五十二日間にわたる遼瀋戦役全体で、四十七万の国民党軍が「全滅」した。
 十一月三日(一九四八年)、共産党中央委員会は前線にいる共産党軍将兵に祝電を送った――。
 瀋陽を解放し、敵を全滅せしめた諸君を心より祝福する。(略)三年間の奮戦で百万あまりの敵を殲滅し、ついに東北九省全てを解放した。(略)諸君が今後、関内(長城以南)の人民および人民解放軍と緊密に協力し、ともに前進し、国民党反動派の統治を完全に打倒し、中国にはびこるアメリカ帝国主義勢力を駆逐し、全中国を解放させるため奮闘されんことを望む!
 この「偉大な勝利」の記述において、長春包囲戦の凄惨な犠牲はまったく触れられていない。ただその「勝利」だけが、新中国の歴史教科書に載り、「無血開城」と称される輝かしい解放として代々受け継がれている。(p193)
 
資料》「国共内戦」…20世紀前半の中国において、中華民国国民政府率いる国民政府軍中国共産党率いる紅軍との間で行われた内戦である第一次国共合作の破綻によって生じた第一次国共内戦1927年1937年)と、第二次国共合作の破綻によって生じた第二次国共内戦1946~1950とに大別されるが、単に「国共内戦」と言う場合には一般に第二次国共内戦を指すことが多い。(ウィキペディアより)
 
 
 
 

2020年3月16日月曜日

ではどうすればいいのか?

 新型コロナウィルス騒動に関してどうしても納得できないことがある。クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号のオペレーション会社の責任である。この船が日本に入港してきたときの映像に驚いた。感染者を香港で下船させたことを「認識」しているにもかかわらず船内の往来は自由であるような、上甲板を普通に往来している船客の姿が映し出されているのを見て、こんなことが許されていいのか?驚愕した。その後の報道で、レストランが普通に開かれていてダンスパーティーが催されていたことも知って、これで大丈夫なのか強い疑問を感じた。案の定船内感染は想像以上の状態に達していた。もし感染者が発見されたときに、優秀なCDC(アメリカ疾病予防管理センター)に対応を問い合わせて適当な対策を講じておれば今回のような惨状は招かずに済んだ可能性が高かったに違いない。今のところわが国マスコミのこの会社に対する批判的な報道やコメントは見ていない。不思議である。
 かといってその後の日本の対応が極めて不首尾だったことへの批判が免れるわけではない。およそ考えられる範囲で最も不適切な対応をしたという非難は甘んじて受けねばなるまい。強制停泊を命じたにもかかわらず医学的対応は学術的に整合性を欠いた無様なものだった。船は世界から「ウィルス培養器」とまで誹謗され日本の国際的信用は地に堕ちた。
 
 ではどうすれば良かったのか。
 病院船を派遣して、乗客乗員を罹患者と健常者に分別してクルーズ船から避難させる。第一段階は簡易に手早く測定できる体温で判定して振り分けるしかできないだろう。それで37.5度以上の人と重症化するおそれのある高齢者(75才以上)を病院船の治療棟に収容し暫定的な治療とPCR検査を早急に行う。健常者に分別された人たちは血液検査で健康度をさらに判定して異常の認められない人はPCR検査用の検体を採取して順次自宅へ防疫機能を備えた自動車で送り届け、14日間の健康監視を経てPCR検査が陰性なら普通の生活に戻ってもらう。治療棟に収容された罹患可能性のある人と高齢者はPCR検査の結果に基づきその後の措置は専門臨床医療に沿った治療を受けて異常が認められないと判定された人から自宅帰還させる。
 もちろん以上は素人の手順だから実際は専門家の監修による分別、経過措置、治療の手順で行われるのだが訴えたいことは、「病院船」に避難させるという考え方である。もちろん現在わが国には病院船は存在しないらしいから今回の場合は病院船に充当できる可能性のある一般船舶をチャーターしてクルーズ船から緊急避難させて対応に当たる、という措置が取られるべきだったということを指摘したいのだ。
 
 なぜこのような指摘をするかについて述べてみたい。
 SARS(サーズ)の流行したのが2002年、MERS(マーズ)の流行は2012年で今回の新型コロナウイルスの流行へとつづいている。21世紀になって20年の間に3回も世界規模の新型の感染症が発生したということはこれが決して「異常」なことではなく、いつでも起こり得る「常態」として捉えるべきなのではないか。何故ならこれは「風土病」が原因と考えられるからだ。
 
 サーズは中国広東省、マーズはサウジアラビアやアラブ首長国連邦など中近東の数ヵ国が発生源国となっており今回は湖北省武漢市が発生源である。中国は2000年には1人当りGDPが1千ドルにも満たない貧困国であったのが今や1万ドルに達しようかという大発展を遂げた国であるが、広大な国土の内陸部にはほんの20~30年前まで交通が不便で地域外との交流の乏しい地域が少なからず存在していたと想像できる。内陸部では動物性たんぱく質を摂取するには一般的な食用獣が不足しているから我々が食肉に用いていない動物を食用にしていたらしいことが今回の武漢の例で分かった。しかしそうした「食用珍獣」には既知でないウイルスであったり細菌を感染させる可能性があるかも知れなくて、人体に新型の感染症を発症させていた可能性がある。ところが地域外との交流が稀であったから域内で終息しており、その繰り返しが何世代も――百年二百年の間繰り返されて抗体ができて、遺伝となってその地域では同じ感染症が発生しても感染しないか発症しても極めて軽微で済むようになっていた。これを今「風土病」と名づけるならば、世界の発展の遅れている国々には同じような風土病が相当あると考えてもあながち的外れではないだろう。
 とすれば、交通が発達し、経済のグローバル化によって国と国との交流が密になった現在においては、狭い地域に閉じ込められていた風土病の原因になっているウイルスや細菌が一挙に広い地域で感染を拡げることは十分に覚悟しておく必要がある。場合によっては今回の新型コロナウイルスのように世界大の流行になることも決して少なくないであろう。
 ということは我々は今、世界に偏在しているであろう「風土病」が「新型感染症」として世界的流行になることを『常態』として取り組む必要に迫られているのだ。
 
 他国と往来する船舶や航空機の乗下船時・搭下乗時には必ず「滅菌行程」を設定する、病院船をわが国なら複数船常備する、主要飛行場の近傍に感染症病院を2千~3千床用意する。この程度の対応を早急に――できれば2025年頃までには実現するべきではないか。
 実施には数千億円、ひょっとしたら一兆円以上要するかもしれない。しかし今回の例でも明らかなように一旦事が生じたらGDPを数パーセント低下させる可能性が高く、その経済的損失は数兆円規模になることは十分考えられるから決して多すぎる負担ではない。
 加えてこれは一種の「戦争」でもあるのだから軍事予算の幾らかを削ってでも――100機購入予定の戦闘機を50機に削減してでも、そうなれば1兆円程度の予算は簡単に捻出できるのだから決して不可能な計画ではない。
 
 新型コロナウイルスの流行をどう捉えるか。世界の人知を結集して世界規模の対策を講じる。地球規模の考え方の大転換を遂げなければ、今回の流行に要した一切の費用が無駄に帰する。
 
 
 
 
 
 
 

2020年3月9日月曜日

すでに起こってしまった未来(6)

 二十世紀自由主義的資本主義経営学の最高峰ドラッカー、彼の「未来予測ではなく事実としての“すでに起こってしまった未来”を発見せよ」という教えはわれわれに大変革を迫っている。
〈すでに始まっている自由主義の制限〉
 しかし目を転じてみるとすでに自由主義は有無を言わさず制限を受け入れざるを得ない状況に追い込まれている。身近な例として思い浮かぶのは漁業資源の捕獲量制限だろう。クジラは捕獲そのものが禁じられているし、サンマの漁獲量は北太平洋諸国8カ国で漁獲総量が規制されるようになっている。食料に関する最大の自由主義の見直し運動としては「世界食糧サミット」がある。また石油はOPEC(石油輸出国機構)が15の産油国が参加する世界最大のカルテルとして価格決定権を持って供給量の制限を行っている。アメリカのトランプ大統領は暴力的な市場介入で資本主義の破壊者として否定的に捉えられる向きが強いが、見方を変えれば中国の国家資本主義の猛威に対抗して資本主義を正常化しようとする行動と言えないこともない。さらに今アメリカで行われている民主党の大統領候補選でサンダース候補が選出されるようなことがあれば、自由放任の資本主義を推進してきたアメリカに一種の社会主義的制限が加えられる可能性の「萌(めばえ)」と捉えることができる。
 今後世界のあちこちで極点に達した矛盾の解消策として「自由主義的資本主義の制限」が起こってくるに違いない。
 
 こうした動きを後押しとして資源を民主的に共同管理する「コモン」という考え方が一部の経済学者や哲学者のあいだで起こっている。戦争の愚劣さを歴史を通して学習した人類の「賢者たち」が、理性を毛嫌いする「政治」に世界の大転換をまかせることはできないと声を上げるのは当然のことで、かってローマクラブが1972年に提言した『成長の限界』は先進諸国の指導者たちに「無視」されたが、その提言は今こそその重みが増している。
 
 先進国の思いやり、資源配分の優先権を途上国に譲って成長至上主義から撤退する。こんなことが可能なのだろうか。世界銀行は、2030年までに極度の貧困を世界全体で%まで減らす、また、全ての途上国で所得の下位40%の人々の所得拡大を促進する、というつの目標を掲げているが、これを達成するために先進国が所得再配分という形をとるか途上国の生産力を高める方策をとるかで世界のかたちが変わってくる。根底から世界のかたちを変えようとするなら後者を推進すべきなのだが、先進国の国民がそこまで「賢明」になれるかどうかは今後の課題になる。
 
 世界の貧困ラインは1日1.90ドル(2015年10月世界銀行発表)とされているから一年に換算すると約700ドルになる。先の2018年1人当りGDPの統計によれば12カ国が相当するが、世界の10%7億3600万人が貧困所得以下で過ごしている(1990年36%18億9500万人)。これらの人を含めて世界の貧困層の人たちを豊かにすることを先進国の人たちの責任と考えることができるかどうか。そのためには識字率を高め教育レベルを向上させなければならない、そのうえで彼らを職業に就かせなければならない。当然難易度の低い仕事から始めねばならないからその分先進国の単純労働は減少する。加えてAIの活用とロボット化の進展は先進国の職業を急速に消滅させる可能性がある。
 職業を得て労働の対価として所得を獲得するという国のかたちはいつまで可能なのだろうか
 
 あらゆる側面から「無制限の自由主義」は制限を迫られている。そしてわれわれ先進国ほど大幅に制限されるにちがいない。それを受け入れられるほどわれわれは『寛容』になれるだろうか。
 
〈価値観の大転換〉
 近代以降われわれは豊かさを求めて生きてきた、豊かさこそ「幸福のシンボル」だと考えてきた。豊かさには「欲求」にもとづく段階と「欲望」にもとどく段階がある。欲求は主に人類の長い間の希望であった「飢餓からの脱出」を満たせば解消できるはずのものだった。ところが人間は愚かだから自分の欲求が満たされると「他人」と比べて「欲望」を抱くようになる。他人はいくらでもいるから欲望には限りがない、そのうち実在でない「つくられた他人」と比較すようになると「欲望」に歯止めがかからなくなる。資本主義の発達は「欲望の供給者」の出現をもたらし彼らによって「つくり出された欲望」を満たす商品で溢れかえるようになった。
 今世界は、「有限な資源」のほとんどを「つくり出された欲望」を満たす商品の生産に使っている。そうではなくて、「有限な資源」をまず世界の貧困な人たちを救う商品の生産のために使えるような「仕組み」をつくらなければならないのだ。そのためには、「豊かさ」が「幸福の指標」でない「幸福観」を共有する社会にしなければならない。価値観の大転換を図る必要があるのだ。
 
 考えてみると多くの場合「豊かさ」は「便利さ」だった。欲望は「便利さ」を満たす商品として生産された。生活の便利さ、移動の便利さ、時間を省く便利さ、病気を治す便利さなどなど。最近よく町の本屋さんが少なくなったと嘆く人が多いが、言っている本人が本を手にするのを三日待てないという便利さを求めてアマゾンで本を買っているのだから世話はない。一時間に三本しかバスがないから不便だと自家用車を使う人が多いから不必要なガソリンが大量に使われる。スーパーとコンビニと百円ショップという「便利さ」を求めたお陰でいくつもの個人商店を潰した結果、彼らを非正規雇用者にしてしまった。
 アマゾンがなくても、自家用車がなくても、スーパーもコンビニも百円ショップがなくても、少々不便だが生きるのに支障はない。そんな「不便な社会」を受け入れるところから価値観の転換は生まれてくる。その代わりにどんな「新しい価値」をつくり出すのか、それが問われているのだ。
 
 「節度ある自由主義」の構築、そして「民主主義」の護持。
 人類は今ほど「歴史に学ぶ賢明さ」を要求されている時代はない。
 
 以上で6回にわたって連載した「すでに起こってしまった未来」を終わります。長文で読みにくい文章にお付き合いいただきありがとうございました。これからも市井の一老書生として「アマチュアリズム」に徹した自由な考え方を追求していきたいと思っています。
 
 

2020年3月2日月曜日

すでに起こってしまった未来(5)

 経営学の泰斗ドラッカーが二十世紀から呼びかけた警句「未来予測は不可能でも、すでに起こってしまった未来をいちはやく気づくよう努めよ」に従ってすすめてきた経済社会の変化の検討は、われわれが信奉してきた「自由主義」の経済がこのままでは破綻してしまう危険性を読み取るに至った。危険性の最悪のシナリオは『戦争』であることはいうまでもない。
(2)ビルトイン・スタビライザーとしての戦争
 人類の歴史は「戦争の歴史」とみてもまちがっていない。古代、中世、近世、近代とそれぞれの時代で、一揆であったり内乱・内戦であったり国と国との戦争であったり、貧困と暴虐に苦しめられた人民や貴族や政治家や軍人が、それぞれの時代で極点に達した矛盾を解決する手段として「暴力」に訴えて、戦争という手段で矛盾をチャラにして次の時代へすすんできた。まるで『戦争』は、人類がある発展段階から次の発展段階へ発展するためのビルトイン・スタビライザー・「自動安定装置」でもあるかのように機能してきた
 矛盾、それは「格差」といい直してもよい。「農耕」によって「富の蓄積」が可能になって最初の「格差」が発生するようになった。次に産業革命が起こって生産活動が「自然力(太陽)」から解放されて年一回の収穫から資本力次第でいくらでも生産が可能になって「格差」が飛躍的に拡大した。次に起こった「格差」はほとんど無限大の「格差」になった。現物資源も土地も機械も必要としない「金融」と「情報」という商品は「時間」の制約さえも極小化して生産力を「無限大」に近いところまで拡大できるから、そこから生まれる「格差」はこれまでのそれとは比較にならない厖大なものになってしまう。
 
 これまで市場経済はこの三つの生産物を「同じ市場(特に株式市場)」で流通させてきたがそれは誤りではないのか。自然という制約があって収穫(生産)が年一回(年数回のものもあるが)に限られているものと、資本力次第でいくらでも生産できるものが同じ市場で競争すれば前者(一次産品)が負けるのは当然の結果である。同じことは二次産品と金融・情報産品との間にでも成立する。原料は無形のものだし工場も機械も不必要で事務所と人間とパソコンさえあれば商売になる産業が現物産業と競争すれば勝つのは金融・情報産業になるのは当然なのであり、創業僅か二年や三年の企業が巨大資本を有する製造業の会社を「時価総額」という「電磁情報」で買収するという『理不尽』をなぜ許すのか?
 この理不尽がまかり通った結果が今の「格差」だ。今度の格差はこれまでとは比較にならない圧倒的なもので、世界の最も富裕な8人の資産は世界の約36億人の資産と同じになるほどまで「格差」は拡大している。これを解決するにはこれまでと同じ「仕組み」では無理なことは誰の目にも明らかだ。「矛盾」が極点に達した今の状態はこれまでの人類の仕組みからすれば当然「ビルトイン・スタビライザー」としての『戦争』が機能するはずなのだが、少しは知恵のついた人類はその直前で右往左往している。覇権国アメリカのトランプ大統領は「パリ協定」から離脱すると喚いているし、民主主義のお手本のはずのイギリスはヨーロッパの歴史の知恵の産物「EUからの脱退」を決めてしまった。そのヨーロッパは植民地時代の負の遺産である「難民」に圧し潰されそうな状態に陥っている。中国、ロシア、インドは「旧い価値観の豊かさ」を求める国民の「希望」をいかに満足させるかの難問に為政者は解決策を見つけられないで混迷を極めている。わが日本はこれまでの「豊かさ」を維持することが不可能になっているのにその事実を国民の目から遠ざけようと躍起になっている。
 世界中が極点に達した「矛盾」の解決策が見いだせないままに、右往左往しているのだ
 ではどうすれば良いのか?
(3)節度ある自由主義の構築
 一つになってしまった世界では、すべての国の国民が等しく「幸福になる権利」を有している。しかし、「豊かさ」が幸福の指標である限り「富裕国――1人当りGDP2万ドル以上」になることは不可能である。なぜなら、資源は有限だから、世界中の国がすべて富裕国になるほどの資源量が地球に存在していないから(地球が6つも7つも必要になる)。さらに、その有限の資源を今のように「制限のない自由主義」で配分が決定される仕組みのままではいつまでたっても弱い国――遅れてきた資金力も軍事力もない――は成長に必要な資源を手に入れることができないから。
 
 2018年の1人当りGDP(名目、USドル)で世界の国の豊かさを分類すると次のようになる。①富裕国(2万ドル以上)42カ国②中所得国(2万ドル未満~1万ドル以上)28カ国(中国の9580ドルまでを含めている)③低所得国(中国未満)120カ国(合計190カ国、地域)。最高額はルクセンブルク11万5500ドル、最低はブルンジ307ドル。
 何度も繰り返すが世界の資源を7カ国か8カ国で利用しているうちは『豊かさ』は「幸福の指標」として最適合理性を有していた、世界の生産力チェーンがそれらの国々で完結していたから(植民地を搾取していたが)。第二次世界大戦後、特に1991年にソ連邦が崩壊して社会主義が資本主義・自由主義に敗北して以降、世界が資本主義経済圏として統一市場に編成されることによってすべての国が世界資本主義のプレーヤーとして組み入れられてしまった。そして先進国のあくなき利益追求は「フロンティア(市場経済の未開拓国)」を侵食し途上国をも低賃金労働力供給国と進展しつづける商品需要国として組み込んで、世界を一つにしたのだ。先進国は途上国を「豊かさを共有しよう!」という惹句でコチラ側に引き入れた。山岳地帯を毎朝二時間かけて学校へ通うことを貧しさと思っていなかった人たちに、道を造ってオートバイを走らせることを教えて「われわれの幸福観」を押しつけてしまった。世界中の国の人たちが「豊かさ」を「幸福の指標」として認識し、受け入れてしまった。にもかかわらず、このままでは「豊かさ」を手に入れることができない現実を突きつけたのだ、COP25の「温暖化ガスの排出権」について合意できないことによって。
 
 『豊かさ』を世界のすみずみまで行きわたらせることに意味があるのだろうか?