2020年3月23日月曜日

南京と長春

 聞いてほしい。どうしてもわからないことがあるのだ。これほど大規模な戦争暴力でありながら、どうして長春包囲戦は南京大虐殺のように脚光を浴びないのか?どうして数多くの学術発表がされたり、口述記録が広く残されたり、年に一回は報道キャンペーンがあったり、大小さまざまな記念碑が建ったり、広大で立派な記念館が完成したり、各方面の政治リーダーたちが何かにつけて献花したり、小学生が整列して頭を下げたり、フラッシュを浴びるなか市民が黙祷を捧げたり、記念の鐘が毎年鳴り響いたりしないのか?/どうして長春という都市は、レニングラードのように国際的知名度のある歴史都市として扱われないのか?(略)三十万人以上が戦争の名のもとにむざむざ餓死させられたにもかかわらず、どうして長春は海外においてはレニングラードほど有名でなく、南京ほど重視されないのか?(p186)
 これは現代台湾を理解するための必須の書といわれる『台湾海峡一九四九で作者の龍應台が記す悲痛な嘆きである。『台湾海峡一九四九』は、「1949年、国共内戦に敗れた国民党政府軍と戦乱を逃れた民間人とが大挙して台湾へ押し寄せたその数ざっと200万。一方、50年にわたる日本の統治期を経て、「外省人」という新たな勢力の大波にのみ込まれた台湾人。互いに痛みを抱えながらこの小さな島に暮らしてきた外省人と台湾人の「原点」を、60年が過ぎたいま、見つめ直す。出版社の“内容説明”からの引用)」衝撃的なノンフィクションである。(天野健太郎訳・白水社
 
 ではその虐殺の規模はどれほどのものであったのだろうか。
 包囲戦が始まった時点で、長春市にいた民間人の人口は五十万であったといわれている。が(それ以外に難民や居候がいるから)総人口はおそらく八十万から百二十万人であったろう。そして包囲戦が解かれたとき、共産党軍の統計によれば、中に残っていたのは十七万人であったという。(略)餓死者の数は十万から六十五万といわれ、あいだをとって三十万とすると、ちょうど南京大虐殺で引用される数字と同じになる。(p186)
 それであるにもかかわらず「長春包囲戦の史実を、台湾の友人たちのほとんどは聞いたことがなく、中国の友人たちもまた“よくわからない”と首を振るばかりだった。(略)やっとわかった。長春人自身、この歴史を知らないのだ。/どうしてこんなことになったのだろう?(p187)」
 
 長春包囲線はどのようにしてはじまったのか。
 林彪は五月中旬(一九四八年)、包囲戦指揮所を設置し、同月三十日、長春封鎖作戦の布陣を定めた――(一)(略)大小すべての道を塞ぎ、主要陣地を構築。主力部隊は市外にある空港を確実に制圧する。(二)遠距離射程火力により、市内の自由大街と新皇宮空港を制圧する。(三)食料及び燃料の敵地区流入を阻止する。(四)一般市民の市外流出を禁じる。(五)予備隊を適切に掌握し、各検問所との相互連絡を密にし、分散している我が方の包囲部隊に対し攻撃を仕掛ける敵をいつでも撃退、殲滅せしめる。(六)(略)長春を死の街にしむる。(p189)
 解放軍の士気を高めるスローガンはこれだ――「食糧一粒、草一株、敵に渡すな!長春の蒋賊軍を閉じ込めて飢え死させろ!」。十万人の解放軍が市外より囲み、十万人の国民党軍が市内を守る。百万人近い長春市民は家に閉じ込められた。(p189)
 
 飢餓のすさまじさは言語を絶した。
 うだるような七月が来た。市内の道路に死体が捨てられ始めた。骨が突き出すほどやせこけた野良犬たちが死体を囲む。禍々しい赤光で眼をぎらつかせて食い散らす。そして野良犬たちはその後、飢えた人びとに食べられることになる。(p190)
 それは、裸のまま捨てられた赤ん坊であった。飢餓のため、肛門から直腸が体外にはみ出して固まっていた。死んでいなかったが、赤ん坊は虫のように弱々しく地面にうごめくだけで、もはや泣くことすらできないようだった。/「母の愛ってなにかね?」と彼は言う。「極限の状態になったら、そんなものは消えてしまうんだろう。きっと流す涙すら乾ききって。」(p190)
 
 これほどの虐殺がどのようにして歴史の暗闇に葬られるようになったのか。
 五十二日間にわたる遼瀋戦役全体で、四十七万の国民党軍が「全滅」した。
 十一月三日(一九四八年)、共産党中央委員会は前線にいる共産党軍将兵に祝電を送った――。
 瀋陽を解放し、敵を全滅せしめた諸君を心より祝福する。(略)三年間の奮戦で百万あまりの敵を殲滅し、ついに東北九省全てを解放した。(略)諸君が今後、関内(長城以南)の人民および人民解放軍と緊密に協力し、ともに前進し、国民党反動派の統治を完全に打倒し、中国にはびこるアメリカ帝国主義勢力を駆逐し、全中国を解放させるため奮闘されんことを望む!
 この「偉大な勝利」の記述において、長春包囲戦の凄惨な犠牲はまったく触れられていない。ただその「勝利」だけが、新中国の歴史教科書に載り、「無血開城」と称される輝かしい解放として代々受け継がれている。(p193)
 
資料》「国共内戦」…20世紀前半の中国において、中華民国国民政府率いる国民政府軍中国共産党率いる紅軍との間で行われた内戦である第一次国共合作の破綻によって生じた第一次国共内戦1927年1937年)と、第二次国共合作の破綻によって生じた第二次国共内戦1946~1950とに大別されるが、単に「国共内戦」と言う場合には一般に第二次国共内戦を指すことが多い。(ウィキペディアより)
 
 
 
 

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