2022年10月31日月曜日

見えないもの、分からないこと

  プーチンは卑怯者だと思います。この期に及んでたとえニ十万三十万の兵を手当てしたところで戦況好転の可能性はほとんどなく、ましてわずか三日ばかりの訓練で武器も糧秣も不足する状況では、戦地に送り込むということは「自殺」に追いやるに等しく、そこまでするプーチンの狙いは絶対的不利な状況のなかで停戦の時間稼ぎをして少しでも自分に有利な条件を引き出そうとする他にありません。このまま泥沼の長期戦がつづけば敗戦は必至でそうなると自分の生命も危険にさらされることは自明の理ですから、プーチンは必死で命永らえる策を得んがために無辜の国民を戦地へ赴かせようとしているのです。

 なぜプーチンがこのような無謀な戦争に突き進んだかといえば、見えないもの、分からないことへの畏怖の精神がなかったからです。「傲慢」だったのです。狂信的な世界観(ロシア正教的宗教感と歴史観に基づく)とそれを補強する情報のみを収集(イエスマンの取り巻きから)して戦術を組み立てたからです。結果として同盟関係にある中国、インドとさえ価値観を共有することができなかったのです。

 

 しかしこうした傾向は決してプーチンだけではありません。ここ3世紀ほど人類を制御し世界を蹂躙してきた主たる考え方――工業化を土台とした欧米の近代主義は概ね「科学主義」を奉じて「見えないもの」から目を逸らし「分からないこと」を分からないままに「結果」だけを功利的に利用してきました。その最悪の例が「原子爆弾」と「原子力発電」です。原子核のエネルギーを一挙に解放してその破壊力を活用したのが「原爆」であり、原子核のエネルギーをコントロールしてその熱エネルギーを電力に転用したのが「原発」です。しかし爆発がもたらす破壊力以外の原子核エネルギーの人体や自然への影響を解明する過程は研究せずに実用化してしまいました。発電したあとの廃棄物の処分、発電装置の廃棄技術は分からないままに世界中に原発を設置してしまいました。「安全神話」は分からないことを放置したまま偽装されたものです。そこには「見えないもの」を「畏れ」る精神は微塵もなかったのです。

 科学は「科学の方法」で分かるもの、分かり易いものに特化して発達してきました。北朝鮮がミサイル実験を繰り返していますが、これは超音速における空気の流体力学のロケットが飛ぶのに必要な知識だけをうまく利用しているのですが、超音速流体力学についてのその他の現象についてはほとんど分かっていないので実験を繰り返しているのです。流体力学でいえば、ビルの屋上からチリ紙を落としたときの「軌跡」と「落下地点」を現在の科学で予測することはできません。ヒトゲノム解析が99.9%完成したと言われていますが、機能不明な暗黒物質(ダークマター)というDNA配列が存在しこれらの分子が制御する生命機能の全体像はまだ解明されていないのです。 

 私たちは理科の教科書を勉強すれば科学のすべてが分かるように思い込んでいますが実は「見えていないもの」「分かっていないこと」の方がずっと多いということに気づいていません。というかそんな教育を受けてこなかったのです。だから「専門家」のいうことに疑問を持つという習慣がないのです。原子力の専門家が「安全」だといえば信用してしまいますし、医者に「あなたの余命は3ヶ月」ですと告げられるとそうなのだと覚悟するのです。しかし原発は安全ではなかったし、ガンの余命宣告を受けても2年も3年も生きた患者は決して少なくありません。

 

 突然変なことを言いますが、人類が知性を持つ以前、自分の頭で考えることができる前、さらにいえば意識を持つまでは、どのようにして行動していたのか考えたことがありますか(この3つは厳密にはまったく異なる現象ですが今は深く突き詰めないでおきましょう)。「本能で動いていた」というひとが多いでしょうがでは、本能はどう行動に結びついたのでしょうか。

 人間の脳は右脳と左脳に分かれています。論理的思考などの知的な機能は左脳が、一方右脳は感性に基づく芸術などの機能を担っています。読み書きや会話などは左脳の分野ですし顔や図形の認識、声や音の認識は右脳の働きです。古代の人たちは太陽の光や温度、風の感触や音の認識を右脳で受けてそれがDNAに埋め込まれている食糧を獲得する動作や有毒な食物を避ける本能などを刺激されていたのでしょう。今と違って右脳が人類の行動の多くを支配していたにちがいありません。やがて言語を習得し文字を発明するなど左脳の領域が拡大して今日に到っているのです。

 古代で活躍していた右脳の働きが退化して左脳ばかり酷使されているのが現代なのです。

 

 現在の国際的緊張も見方を変えると経済や戦力など左脳領域ばかりで考えているから解決不能に陥るのであって、右脳を働かすと西側の価値観と異なる中国やロシアなどの文明の力が増大してこれまでの従属に耐え切れなくなった『文明の衝突』と捉えることが可能になります。そうなると戦力による暴力的な解決ではなく「文明の融和」というより大きな視野でこの危機を乗り超える展望も開けてくるのではないでしょうか。

 

 「秩序」というものはそれで守られている人にとっては心地よいものでしょうがそこへ後から入った人には居心地の悪いものですし理不尽でもあります。別の言い方をすれば「秩序という価値」を共有できる人とできない人がいるということです。今の世界はわれわれ「西側の人間」にとっては勝手の良い「秩序」ですが中国やロシアにとっては理不尽なものと映っているにちがいありません。

 

「秩序」というもので「見えなくなっているもの」があることに気づかないといつまでたってもひとつの地球をつくることはできないことに気づくべきです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年10月24日月曜日

自白しない政治家は罪にならないのですか

  「記憶にない」といえば政治家は罪にならないようです。旧統一教会(以下統一教会とする)の創始者や幹部との写真や教会の大会で挨拶する動画、教会への賛辞を記した文書などがいくつ提示されても「記憶がない」といえば政治家は罪にならないという何ともおかしな論理が政治の世界でまかり通っているのです。司法の現場では「自白偏重」を見直して取り調べの可視化や客観的事実を示す証拠重視の制度改革を推進しているというのに政治の社会はまるで逆を行っているのです。この摩訶不思議な論理をマスコミも知識人も一切不問に付しているのはどうしてなのでしょうか。この論理の淵源を辿ると1976年のロッキード事件で贈収賄の嫌疑をかけられた小佐野賢治被疑者が国会の証人喚問で「記憶にございません」の一言で逃げ切ったことにあります。以来政治家は糾弾の場でことごとくこの「記憶にない」を多用して犯罪を糊塗してきつづけているのです。しかしどう考えても厳然とした客観的事実を示す証拠が提示されているのを「記憶にない」という一言で逃れるという論理はありえません。こんな論理――自白偏重の論理をヌケヌケと展開する政治家の姿を見た子どもたちに我々大人はどう説明すればいいのでしょうか。(統一教会がらみの政治家の言動が厳密に罪に相当するかの論議はここでは省略します)。

 

 もうひとつ、論理的におかしいのが現今の「円安、物価高」の対策です。150円を超える円安をアメリカのインフレ対策としての大幅な利上げと金融緩和継続を維持する我が国との金利差にもとづくドル買い円売り相場を直接の原因とし、円安による輸入物価の上昇が物価全般の上昇を引き起こし家計や企業経営を直撃している一方で国力低下に伴う「日本売り」も影響していると分析しています。政府はガソリン代の補助や電気・ガス代などのエネルギー価格抑制策、子育て世帯や低所得層への現金給付で対応しているが、そうした小手先の対応は一時しのぎの弥縫策であり、経済構造を根本から立て直すことが不可欠だとして、脱炭素やデジタル化などで世界の潮流を先取りする事業を強化し政府がそれを後押しして国力の向上につなげる戦略が求められる、というのがおおよその今の論調になっています。こうした論調の問題点をふたつ上げることにします。

 

 まず第一は「アメリカの身勝手」です。アメリカは世界経済の主導者です。だから「基軸通貨国」という絶大な『権力』を付与しているのです。どんなに「国力低下」――工業生産力が劣化して我が国に追い越されても、GDPが低下する危機に瀕しても、ドルを無尽蔵に刷ることができるという『特権』で時間稼ぎして「金融」「情報」という次世代技術を涵養する余裕をもつことができたのです。

 それだけにアメリカは世界経済の主導者という『責任』があります。自国の経済政策が世界経済にどれほどの影響を及ぼすかを分析して冷静に行動する責任があるのです。今回のインフレ対策としての「利上げ」は正当性の認められる政策です。しかしそれにも限度があります。アメリカはFRB(アメリカの中央銀行)の3会合(FOMC)で連続0.75%利上げを実施したのです。その結果アメリカのFF(フェデラル・ファンド)の金利は3.0~3.25%になりさらに年末には4.0%を目ざすと言われています。通常利上げは0.25%を幅として段階的に切り上げられます。ところがアメリカはその3倍の0.75%を3度も実施したのです、余りの物価騰貴になりふり構わず国民の不満を抑えるために利上げしたのです。我が国の物価上昇ばかりが報道されていますがヨーロッパを含めて世界中が物価高に見舞われているのです。勿論ウクライナ戦争の影響は無視できません。しかしドル建てて国債を発行して財政運営している経済弱小国の被害は「国家経済崩壊」クラスです。たしかにアメリカの物価騰貴は激烈ですがそれは「金融要因」だけに拠るものではありません。それこそ「構造要因」によるものも多分にあるのです。それを解決するのはアメリカ政府です。それをせずに、する能力もないバイデン政権がすべてを「金利アップ」という金融政策だけで解決しようとしているのです。ヨーロッパはこうしたアメリカの「わがまま」にこれまで何度も抗議してきました、今度もしています。我が国は一度も「反抗」したことがありません。唯々諾々とその軍門に下って――国民を犠牲にしてアメリカに服従してきたのです。どうしてマスコミや知識人はアメリカを非難しないのでしょうか。今回もまた国民と中小零細企業だけが泣かされるのでしょうか。

 

 二つ目、「国力低下」って何のことですか。「指標」を上げて具体的に示してください。これまでも繰り返してきたように経済力の総合指標である「GDP」は世界第3位を維持しています。確かに1位2位のアメリカ、中国との差は拡大の一途です。だとしたらドイツもイギリスもフランスも国力低下しているというのですか。そうは誰も言わないではないですか。

 我が国の現状は『経済問題』が原因ではないのです。国全体――社会制度であったり学校制度であったり文化の問題も関係しているのだということにどうして目が向かないのでしょうか。大体今の経済制度は高度成長期からのもので半世紀以上経過しています。この変化の激しい時代にそれではグローバル化に適応できるはずもありません。女性の力が半分も活用されていない、学校制度は高度成長期に求められた「単一モデル」の大量生産システムのままです。言葉上は「グローバル化に適応した」多様性、創造性を謳っていますが入試制度が50年前からまったく同じ評価尺度では変化するはずがありません。労働組合を企業経営の阻害要因と捉えて、政治も加担して組織率低下を図ってきたのですから経営力の「多様性」が損なわれて当然です。若者の活用の半分は非正規雇用ですから新しいものを生み出す力が衰えるのも当然で、おまけに教育への公的資金の投入量がOECD最低では成長力を望むこと自体がまちがっています。純経済問題と捉えて日銀を「子会社化」して中央銀行の「国債引き受け」という禁じ手を10年間実施したのですから我が国が世界で一番「インフレに弱い国」に成り下がって当然です。ここからの脱却は至難の業で日銀黒田総裁の責任は重大です。

 

 国難国難と政治家は時局を都合のいいように利用しますが現在のわが国の状況は生やさしいものではありません。「国のかたち」を本気になって改革する覚悟がないと立ち向かうことはできません。自分を国に差し出すつもりで――自分の有利な立場を投げだすことを厭わずに率先垂範できる政治家が今ほど求められている時代はないでしょう。「記憶にない」と自分の過ちの責任を負わない政治家など今すぐ退場願いたいものです。

 

 

2022年10月17日月曜日

つながる

  父が死んで33年になります。もうそんなになるのかと時の移ろいの早さに驚きを禁じえません。過去帳を繰ってみると享年82才となっていますが数え齢ですから満81才で亡くなったことになります。ということはとうとう私の年齢が追いついたのです。元中尉さんで頑健な人でしたからもっと長命と思い込んでいましたが、それよりも虚弱な私が父を追い越すことになったのは思いもかけないことです。

 毎日の朝トレでラジオ体操をやっていますが、これは父が戦後すぐに電蓄を響かせて近所の子供たちを集めた「朝のラジオ体操」が今日につづいているのです。また毎朝お仏壇のお世話をして般若心経を唱えていますがこれは小学生の頃お祖母ちゃんに躾られたもので、そう考えると今の私の肉体と心の健康の礎が幼い頃の父と祖母のお陰になりますからその恩は感謝してもしきれません。それに比べて私が子どもたちにどれほどのことを残したかを考えるとその不甲斐なさは恥ずかしい限りです。

 

 毎朝の勤行――勤行と呼べるほどのものではありませんが、とりあえず手を合わせて称名と般若心経を唱え、昨日生かしていただいた事を感謝し昨日あったことの報告をします。今なら孫の成長ぶりが報告のほとんどですが、たまに妻と諍いをしたときはそれも伝えるとともに原因や感情のもつれなども伝えます。すると不思議とわだかまりが解けて妻に普段通り「お早う」と挨拶ができるのです。要するに毎朝ご先祖と話をしているのです。これが精神衛生上とても良い結果をもたらしているように感じています。この齢になると日々の細々とした報告など誰にもできるものではありませんから気持ちの整理ができて新たな今日に向き合えるのかもしれません。

 

 核家族になって、SNSの生活に占める割合が大きくなって、家族などのラディカル空間とSNSのバーチャル空間のつながりの中で、どこまでが「人間関係」と呼べるのかあいまいになっていますがそれでもそれで満足している人が多いのですからそうした状況を認めざるを得ないのでしょう。しかしその関係性は「今、ここ、私」だけで「どこから、どこへ」がありません。つまり「横」の関係はあっても「縦――時間的歴史的」のつながりがないのです。たしかにSNSの関係は物理的な制約を超えてこれまでよりも広い人間関係が結べますが何か「はかない」関係に思えるのは縦の関係――過去とのつながりがないから「浮草」のような頼りなさがつきまとうのではないでしょうか。何人も友だちがあるのに「孤独」に陥るのはこれが原因ではないでしょうか。つまり「どこから」来たのかという自分の出自がつまびらかでないことが一種の「不安」を感じる原因になっているとは考えられないでしょうか。父母、祖父母、そして友だち――みな「今」のつながりです、「今」は瞬間瞬間に消えていくものです。祖父母、父母は自分より先に死ぬのが普通ですし友だちとの関係もいずれは消滅します。「今」のつながりの底には「消えるもの」というはかなさ、頼りなさが潜んでいるのです。これが「孤独」感を生みだしているのです。

 核家族になる前、先祖とのつながりが当たり前だったころ、未開の呪術的支配が優勢だったころ――卑弥呼のまだ以前から戦後間もないころまで先祖との交わりは生活に確然とした影響を及ぼしていました。こんなことをしたらご先祖に叱られるとか、ひとに後ろ指さされるようなことをしたらご先祖を汚すことになると言った風に。もっと具体的には今と違ってサラリーマンは少なく家業を継いで生計を営む家庭が多かったから先祖の残してくれた仕事を粗末にしてはバチが当たると懸命に家業に勤しむ人が多かったのです。高度成長の頃から地元で親の後を引き継ぐより東京へ出て、都会へ出てサラリーマンとして働く傾向が全国的に広まりました。今ではサラリーマンの割合は9割に近くなっていますし都市(東京、大阪、愛知、福岡圏)への集中度は7割近くに上っています。サラリーマン化都市化核家族化はこの70年で究極まで進展してきたのです。これを即「孤独化」と結びつけるのは早計ですが、多くの日本人の先祖とのつながりが希薄になっていることはうかがえます。

 

 今年4月に初孫を授かりました。思いがけないことで「有頂天」を実感しました。何カ月か経って、多分三ヶ月頃だったと思います。いつも通り仏壇に手を合わせて先祖に話しかけている時突然「つながった」という感情が走ったのです。先祖と私が未来という見えない時間の先に「つながった」と感じたのです。子どもたちはいずれ死ぬ――私との血脈が途切れるにちがいないという予感が絶えずありました。ところが孫はその先に広がる未来が、私の力の及ぶずっと先までつづいているのです。私の支配の圏外に私がつづいているのです。「つながった」という感覚は「私」というものの「存在圏」が無限に拡大する可能性に接続したのです。

 

 現在のわれわれは「今、ここ、わたし」に止まって自分という存在をそれ以上に拡大することがありません。「今」は瞬間瞬間に消えていく時間――発生(誕生)から消滅(死)までのブツブツした有限な線分にすぎません。いかに多くの友人とつながっているように思っても宙に浮遊するはかない点と点のつながりです。どこまでいっても頼りなさがつきまといます。だから現代人の孤独は癒しようがないのです。これが過去から未来へつづいた幅広の線のつながりとなった時ズッシリとした安定感が生まれるのです。

 

 その第一歩はは先祖とのつながりです。毎日仏壇に手を合わせるのもよし、墓参りで先祖と再会するのもよし、自分という存在を過去と結びつける習慣をもつことが精神の安定をもたらし孤独におちいる頼りなさから救ってくれるのです。

 最近そんな思いを抱くようになりました。老いのせでしょうか。

 

2022年10月10日月曜日

成長の先に(続)

  前回わが国のシステム――現在日本の経済・社会システムにはもう「成長の伸びしろ」が残されていないということを述べました。そりゃあそうでしょう、戦後のセロの状態、いやマイナスからわずか20年ちょっとで世界第2位の経済力を達成し、爾後42年間その地位を維持し中国に2位の座を取って替わられてからも3位を保ちつづけているのですからソロソロ限界に近づくのも当然なのではないでしょうか。というよりもこの変化の激しい時代に1つのシステムがよくも半世紀ももったというべきでしょう。そう考えればいまだに同じシステムに拘泥していること自体がおかしいのです。最後のあがきとして黒田日銀が非伝統的・異次元の「金融緩和」という「純経済的」施策で現状打破を企てましたがそんな弥縫策で乗り切れるほど現状は生やさしいものではありませんでした。それに気づくために10年も要したこと――貧富の格差の拡大と国民を分断に追い込んだことはかえすがえすも残念なことでした。

 

 ではどうすれば良いのか。純経済的システムだけでなく広く日本の社会システムの全体を新しく改革しなければ次のステージを切り拓くことができないとするならどんな社会に変革しなければならないのでしょうか。約2割も減少した給料を取り戻しそれ以上に国民が豊かになって格差が解消し分断した国民が豊かでぬくもりのある社会に生まれ変わるにはどうすれば良いのでしょうか。重要と思われる5つの分野を取り上げてみましょう。

(1)女性と若者の力の活用…はっきり言って今の停滞は男性に偏った――それも主におっさんの力ばかりで経済と社会を運用してきた結果であることは国際比較で明らかです。社会を構成している半分は女性なのですからこれを活用してこなかったこれまでが余りに異常なのです。男女雇用機会均等法は昭和60年に成立しましたが35年以上たった今でも「男女平等ランキング2021」は世界の120位という体たらくです。これでは世界に伍していく創造性や成長力が生まれるはずもありません。性根を据えて女性を前線に押し出さねばなりません。

 若者に関しては「教育投資の大幅拡大」で彼らの能力を高めることも必要です。教育への公的支出がOECD平均の4.9%(対GDP比)から大きく離れた4.0%(韓国5.1%)ではグローバル競争に耐える水準ではありません。

(2)企業と銀行(金融機関)の緊張を取り戻す…高度成長をもたらした大きな要因に「銀行と企業」の緊張関係があったことが忘れられています。投資(運転)資金の借入時に銀行の厳しい審査があって同意を促すために両者で緻密な協議と展望を重ねたことで投資の有効性を高めてきたのです。今や「ゼロ金利」ですから借り入れが容易になって企業の投資に関する意欲と熱意が極度に劣化しています。企業の競争力を高めるためには銀行との緊張感ある関係は欠かせないのです。

(3)企業と労働者の緊張感を高める…成長の要因として企業と労働者(組合)の緊張関係があったことも忘れられています。組合をつぶして企業側(経営者)の経営の自由度を高めることが成長につながると考えられて組合の無力化が進められてきました。しかし銀行と組合という経営者にとって大きな「対抗力」が消滅した結果は「イノベーション力」の劣化となってわが国の成長力を大きく毀損したのです。アメリカでさえアップル、アマゾン、ウォルマートという大企業で組合結成の機運が高まっているのです。「眠れる経営者」を目覚めさせることが成長力再生の決め手なのです。なお非正規雇用の存在が正規雇用者から緊張感を奪い能力向上意欲を阻害しているという側面は今後の研究課題でしょう。

(4)東京一極集中の解消と地方創生…国力を向上し「成熟期」に至るまでは東京一極集中は「必要悪」として認めざるを得ませんでした。しかし成熟を果たしたこれからは、放置されていた「地方の活力」を活用しなくては国全体を成長させることはできません。掛け声だけでなく本腰を据えてこの問題に取り組む時期に来ています。

(5)行政の専横を矯正する…昨今の政府内閣の暴走は目に余るものがあります。「国葬」の強行はその例のひとつですが、国会の軽視、多額の「予備費」は民主主義の崩壊をもたらします。なぜ政府の暴走が成長を阻害するかといえば、政権党――政府与党支持者の利益に政策が偏向するからです。これは「既得権者の擁護」につながり「新規参入」を拒絶して「イノベーション」を排除してしまうのです。

 

 最後に人口減の問題について。国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口(平成14年推計)」によれば2050年には約1億人(1億59万人)に減少すると推計されています。しかしドイツは6千万人余で5万ドル強(1人当GDP)、英国6千万人余で4万7千ドル、仏国6千万人余で4万4千ドルと我が国の3万9千ドル強よりも豊かな生活水準を達成しています。それらの国との比較においてどこが違うのかを検討すると上記の5項目において明らかに我が国より上位に位置していることが分かります。そのうち女性活用の効用は相当大きいのではないでしょうか。そして特に注目するのはドイツや北欧圏での新たな動向として労働者の経営参画が進展していることです。それは「労使共同決定制度」といい、選出された従業員代表が大企業の取締役会の議席を半分まで占めることができるというもので、経済発展を妨げるのではないかという心配はむしろ逆の結果でその正当性が証明されています。先にも述べましたがアメリカの大企業でも組合結成の動きが加速しているように、経営者が株主利益を保証すればその地位が安定し経営的バーバリズムが減退する――成長力を阻害する悪弊を、労使・対金融機関との緊張感を醸成することで企業の成長力を高める効果をもたらすに違いありません。

 

 20世紀後半から資本主義は株主利益に偏向した短期の成長に拘泥しすぎました。しかし経済の究極の目的は国民の豊かな生活の達成にあります。豊かさは単なる経済的豊かさだけでなく格差の少ない国民皆が能力を発揮できる社会にあります。成長至上主義から脱却し国民の誰もが豊かさを共有できる不平等でない社会を成長の先に築きたいものです。

 

 

2022年10月3日月曜日

日本は世界3位ですぞ

  安倍さんの国葬で世界の要人現役トップ級の名がないのを「これが国力が衰えたわが国の現在の実力でしょう」と賢らに解説する連中の多いのに腹が立ちました。日頃は大言を吐く保守系右派の人たちもこれに反発しないのを見て猶更怒りを覚えます。反中嫌韓を愧じることのない「大日本主義者」がなぜ「日本はGDP世界3位の大国ですぞ!」と反論しないのでしょうか。しかも「国民皆保険」で「老齢年金」もカバーしている「範囲」、「支給金額」の両面で世界水準を達成している、こんな国がなぜ「国力の衰えている国」と『卑下』しなければならないのですか。国力世界最高のアメリカは健康保険も年金も不完全でその「格差」に99パーセントの人たちが不満を抱いています。2位の中国は共産党独裁の「専制国家」ですから「基本的人権」は十分に保障されていませんし国民の平均所得も1万ドル(約100万円)を少し超えたところで停滞していて今後上昇する可能性は厳しいと言われています。

 これでも日本は国力の衰えた『衰退国家』と蔑まれなければならないのですか。

 

 日本は1968年GNP(国民総生産)で西ドイツを抜いて世界第2位になりました。当時は今と違ってGDP(国内総生産)ではなくGNPで国家の経済規模を表していたのですが当時わが国はいざなぎ景気で経済は絶好調でした。以降2010年に中国に追い抜かれるまで42年間2位を堅持しつづけたのですから凄いものです。しかも中国に追い抜かれたとはいえ2010年から2021年まで3位を保っているのですから何のかのといわれながら日本は頑張っているのです、なに憚ることがあるものですか。4位以下のメンバーはドイツ、イギリス、インド、フランス、イタリア、カナダ、韓国(ブラジル)で異動ありませんから(6位以下は順に若干の異動があります)世界上位の国力はほとんど不変なのです。(ロシアは2013年の8位を最後に11、12位に低迷しています)。

 世界経済に占める日本経済の大きさ(比率)で国力を計ってみましょう。最も比率が大きかったのは1995年の17.8%です。以降2000年14.6%、2005年10.1%、2010年8.7%、2015年5.9%、2020年5.9%と急激に影響力がかげりましたがそれでも5~6%は保っています。アメリカは近年でも25%程度で安定しており、一方中国は2010年の9.1%、2015年14.8%、2020年17.8%、2021年18.1%と急激に存在感を高めていますが、2022年以後急激に成長が低下すると予想されていますから我が国同様20%手前で失速するかもしれません。

 問題は国民の豊かさを示すと言われている「1人当GDP」の推移です。ランキングでは2000年の世界2位(3万9千ドル)が最高でしたが金額的には2012年の49,175ドル(世界14位)が最高額でした。以後継続して低下の一途をたどり2015年3万5千ドル(27位)と最低を記録しました。現在は若干持ち直して2021年は3万9千ドル(28位)になっています。10年間で約1万ドル――約2割低下したのですから国民の生活は相当苦しい状態に陥っていることが数字に出ています。

 

 世界のGDPに占めるわが国の割合が2位から28位に低下したことをもって「国力低下」とするのならまちがいなく低下しています。問題はこの間に大企業の内部留保が2010年の266兆円から2021年485兆円とほとんど倍増していることです。GDPが500兆円台で横ばいの中で企業と国民の取り分が大企業に偏った配分に移行しているのです。

 これをどうみたらいいのでしょうか。戦後わが国は「護送船団方式」といわれる日本型経済運営で驚異的な経済成長を遂げました。行政が業界(企業)を保護しながら監視・監督するなかで資源と資金を成長目標分野に集中的に活用することで効率をはかるこの方式が、2000年代に入ってグローバル化に対応するため行政の関与を可能な限り排除して「規制改革」と「民営化」に舵を切り、市場の自由な活動に経済運営を委ねる「新自由主義」を打ち出したのです。その結果小泉政権から安倍政権の「失われた20年」となって今日に到っているのです。

 この20年の間あらゆる経済施策を駆使してデフレ脱却を図ってきました。アベノミクスは究極の形で新自由主義的経済運営を行なったのですが結果を出せませんでした。黒田日銀の行なった「ゼロ金利」と市場にジャブジャブお金を供給する「異次元の金融緩和」は究極の「純経済的施策」でしたが物価も経済も上向くことはありませんでした。もはや『経済的』な施策で現状を改革することは出来ないということではないでしょうか。今の「日本の経済・社会システム」ではもう経済成長の「伸び代」は残っていないのです。

 としたら『経済外的』な我が国のシステムに目を向けなければならないということになるのではないでしょうか。経済以外の社会構造でまだ手を付けていない改革や世界的に遅れている分野を改善することが必要なのではないでしょうか。                                                          (つづく)