2022年9月26日月曜日

変だぞ、日本

  とうとう今日(9月23日金曜日)は見たいテレビが1本もありませんでした。「おわコン」と言われて久しいテレビですがそれでも1日に何本かは――私の場合ドラマかドキュメント――見たいものがあったのですが徐々に減って来て遂に「ゼロ」になってしまったのです。しかし考えてみれば我々のような80才を超えた年寄りなどターゲットになっていないのですからこれも当然の成行きでおとなしく受け入れるしかないのでしょう。とはいえテレビは見ます、習慣ですから。今の人がスマホを手放せないのと同じです。そんななかでどうしても納得のいかないCMがあります。関電の「オール電化」のコマーシャルです。一日に何度流されるか数えたことはありませんが一度や二度ではありません。関電の人たちは何とも思わないのでしょうか。

 反原発の動きとウクライナ戦争の影響で天然ガス不足が「電力不足」をひき起こし、この夏「節電」が要請され一部では計画停電もありました。この状態は終息が見通せませんから当然この冬も夏季にもましての節電が求められるにちがいありません。なのに「オール電化」です。完全な関電の「自己矛盾」です。テレビのCMでは「タワーマンション」がニギニギしく宣伝されています。もし「停電」したら、と考えると身がすくみます。関電さんもマンション屋さんも「変」です。

 

 まだまだ「変」はあります。昨日(9月22日)日銀が「円買い介入」しました。ドルを売って円を買う日銀による為替市場への国家権力の介入は「ルール違反」です。本来は市場を通じた「見えざる手」に委ねられるべき市場の趨勢を強制的に日銀が「変更」しようとするのですからその背景には今の市場が「投機的」――ある種の金融筋による恣意的な市場価格の形成が行われているという認識がなければなりません。鈴木財務相も記者会見で「投機による過度な(相場)変動を見過ごすことはできない」と発言しています。しかしそうなのでしょうか。今の為替市場は「投機」によるものでしょうか。そうではないでしょう。世界がウクライナ戦争による物資不足や滞留による「過度な物価騰貴=インフレ」の抑制に動き「金利アップ」に動いているなかで唯一日本だけが「異次元の金融緩和=ゼロ金利」を継続しつづけている『矛盾』を市場が『獲物=日本』ととらえて「円売り」を浴びせて「円安」を加速させているのです。日銀の金融政策が「まちがっている」と市場が教えているにもかかわらず日銀がその教えに「逆らう」から円安がつづいているのです。決して「投機」によるものではありません。こんな簡単なことは専門家集団である日銀や財務省の役人が知らないはずがありません。それでも「ゼロ金利」と市場への貨幣の過度な投入=「異次元の金融緩和」を変更できないのは何らかの事情があるのでしょう。「物価の番人」が守るべき『国民』以外の誰かを日銀は守ろうとしているのです。

 円買い介入は一時的に「円安」を演出するかもしれません。しかしドル売りする手段=「米国債」の売却は米国債の下落をもたらしますからアメリカ(FRB)は国債の価格=「金利」を高くせざるを得なくなり日米の金利差を更に拡大する結果をもたらします。円安介入は決して物価高の解決策にはならないのです。またドル売り円買いは円がそれだけ日本市場に還流=円の流通量が増えるわけですからこれも結果として「金融緩和」につながりますから外国筋は円売りに走ることになるでしょう。

 日銀の円買い介入は決して物価を下げる効果はもたらさず、国民の汗と努力で貯め込んだ「米国債」を「安値」で「たたき売り」して財産を目減りさせるだけで、決して国民の利益にはならない『愚策』です。日銀は「変です」。

 

 いよいよ安倍元総理の「国葬」が9月27日(火曜日)に行なわれます。この国葬は本当に安倍さんの名誉を高め我が国と世界の敬意を集めることになるのでしょうか。

 安倍さんにとって不運だったのはイギリスのエリザベス女王の急逝でした。19日に行われた国葬は伝統にもとづく荘厳で華麗なものでした。イギリスの2800万人、世界の41億人の人びとがテレビの実況でその死を悼み敬意をもって葬送しました。おそらく英国国民のほとんどは女王の死に服喪したにちがいありません。ひるがえって我が国では国葬に反対する人が6割りを超えています(賛成派4割弱)。国葬であるのに「服喪」を国民に強制しないとも言います。これで「国葬」なのでしょうか。

 2千年以上の歴史を誇る国であるにもかかわらずエリザベス女王の国葬に比べて余りにも「貧相」な葬儀になることの屈辱に耐えられないという人も多いのではないでしょうか。伝統がありませんから式場や式典装備も整えられていませんし式次第も引継がれていませんからまったくの「急ごしらえ」の「バッタもん」の国葬になるのも仕方ないのです。

 国民の多くに「無視」され「貧相」極まる「儀式」で送られる安倍さんはこんな『国葬』を望んだでしょうか。拙速で「民意」を無視した「国葬」を決定した岸田さんと自民党のお偉いさん方は本当に安倍さんに「敬意」を抱いていたのでしょうか。

 

 岸田さん、麻生さん、そして安倍さんの信奉者の皆さん、「変」ですよ。

 

 

2022年9月19日月曜日

変だぞNHK

  NHKの不祥事が続いています。ひとつは昨年末に放送した東京五輪に関するドキュメンタリー番組で、反対デモの参加者が金銭で動員されているとの誤った字幕を付けた問題で、BPO(放送倫理・番組向上機構)が「重大な放送倫理違反がある」との意見書を発表しました。もうひとつは8月31日に放送されたNHK・BS1の「国際報道2022」の出入国在留管理庁の特集で、「入管側の主張を一方的かつ無批判に伝えるだけの番組内容だった」とNPO法人「移住者と連帯する全国ネットワーク(移住連)」から抗議声明を受けた件です。ふたつとも制作サイドの「思い込み」が十分な裏付けも取材されないで放送されたものです。

 

 五輪関係の番組は、東京五輪の公式記録映画の監督を務める河瀨直美さんに密着したドキュメンタリーで、取材で出会った男性の映像に「五輪反対のデモに参加している」「実はお金をもらって動員されていると打ち明けた」と字幕を付けました。実際はデモへの参加も金銭の授受も確認していなかったのです。意見書では、事実確認など取材の基本を怠ったことや、編集で男性が別のデモに関して述べた発言を五輪反対デモの発言にすり替えたことを問題点として挙げ、社会運動への関心の薄さから試写でチェックが甘くなったとも指摘しています。

 新型コロナウィルス禍の開催で賛否が分かれていた東京五輪を扱う番組にもかかわらず、取材のずさんさや制作スタッフの意識の低さは驚くばかりですが、その裏に開催を強行した政府への擁護の意識が働いていたのではないかという見方もあります。結果として、五輪を反対した人たちをおとしめたことになり、何らかの意図が働いていたのではないかという不信感も拭えません。

 問題を重く見た総務省は16日行政指導をしました。「視聴者の信頼を著しく損なうもので、誠に遺憾」と指摘し、再発防止策を徹底するように求めています。

 

 8月31日放送のBS1「国際報道2022」は、出入国在留管理庁への取材を中心に送還や医療の課題を紹介するものです。またその中で帰国を拒む外国人たちの滞在が長期化する傾向にあり在留資格を失った外国人数について2021年は5年前と比較して2万人ほど増えており、国の費用負担増につながっていると報じたのです。また批判の多い在留資格のない外国人を送還する際の入管の対応について「人道上の理由から、基本、身体拘束するなどして強制的に退去を強いることはない」と説明しています

 これに対して移住連は「長期化の客観的な根拠が一切示されていない」「入管側の発言をそのまま伝えたのだとしたら、報道機関としてあまりに無責任」として抗議するとともに報道姿勢の見直しと改善を求めました。

 NHKは批判にこたえて9月12日の放送で「22年のデータを使うことが適切だった」と謝罪したのですが、実は22年の人数は年前と比べてほぼ横ばいだったのです

 これも構図は五輪報道と同じで、政府と行政を擁護しようという意図が明らかです。昨年11月の名古屋入管に収容中のスリランカ女性死亡報道以来出入国管理庁と入管制度への激しい批判がつづいているなかで、明らかに忖度が働いているように見えてしまうのです。データの恣意的な利用はあまりにも視聴者を馬鹿にしています。

 

 最後に問題にしたいのは朝ドラ「ちむどんどん」です。放送の早くからネット上では炎上していて、脚本家への批判、抗議は「番組打ち切り」にまで及びました。実際何度見るのを止めようと思ったか知れません。ドラマの展開が読めるのだけでも作者としては落第ですが、それ以上に手垢のついたセリフと性格描写が視聴者を馬鹿にしていると思わせるのです。

 ただここで問題にするのはそうしたドラマづくりに関するものではありません。今年の朝ドラに「沖縄」を取り上げたのは「沖縄本土復帰50周年」を意識してのものであることは誰にでも想像できます。にもかかわらず「ちむどんどん」は素材を沖縄に取っただけで、沖縄問題への真摯な取り組みも沖縄県民と本土の間に横たわる不信を解きほぐそうとする姿勢もまったく見られなかったのです。別に沖縄料理でなくても道産子料理でも薩摩料理でも良かったドラマにしかなっていないです。沖縄県民の皆さんは今、復帰50周年という記念の年を迎えて憤懣と後悔の念におそわれているに違いありません。終わったばかりの知事選で普天間基地の辺野古移転に「ノー」の審判を政府に突き付けましたが、それにもかかわらず日本政府は「沖縄県民の意志」をまったく「無視」して「唯一の解決策」を繰り返すばかりです。それどころか2023年沖縄振興予算概算要求を10年ぶりに3千億円を割り込んだ2022年分より200億円減の2798億円にする「報復」で意趣返しするという非情を示したのです。こうした「不条理」をどうして沖縄県民は受けつづけなければならないのでしょうか。

 「ちむどんどん」は今年朝ドラになった意味はまったくありませんでした。

 

 NHKがBPOから重大な放送倫理違反とされたのは今回で2回目で、単なるチェック手続きの問題だけでなく、組織全体の報道姿勢や指摘された内容の検証にもとづく抜本的な改善を図らなければ、公共放送としての信頼回復を果たすことは難しいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年9月12日月曜日

五輪汚職と電通鬼十則

  オリンピック汚職の泥沼の様相をみるにつけ私のようにかって広告業界に身を置いていた者は「電通・吉田の鬼十則」を思い出した人が多かったのではないでしょうか。「鬼十則」は1951年に当時の社長だった吉田秀雄氏が定めた「営業鉄則」で揺籃期の広告業界を独走した電通営業力の「核」となっていました。我が国広告業界で圧倒的な地位を占めていた電通は1960~70年代、業界2位の博報堂の4倍の売上高を誇っており1973年には年間取扱高で世界1位に昇りつめました。当時広告業界はまだ未成熟でメディア(主力4媒体―新聞、雑誌、TV、ラジオ)の広告を取り扱う「代理店営業」の色彩が強く「広告代理店」から「広告会社」への脱皮を図っている時期でした。「鬼十則」はそうした状況にぴったり当てはまった営業方式だったのですがその後の広告業界の驚異的な進化には追いつけず、その悪弊が2015年女子社員の過労死として表面化するに及んで2016年末に廃止に追い込まれました。しかし「鬼十則」隆盛の真っただ中で育った高橋治之(78才)容疑者らは骨の髄まで「鬼十則」が浸み込んでいて今回の汚職に突き進んだのでしょう。

 

 では「鬼十則」とはどんなものだったのでしょうか。

 (1)仕事は自ら創るべきで、与えられるべきではない。(2)仕事とは、先手先手と働き掛けて行くことで、受け身でやるものでない。(3)大きな仕事に取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。(4)難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。(5)取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……(6)周囲を引きずり回せ、引きずると引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。(7)計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。(8)自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚みすらない。(9)頭は常に全回転、八方に気を配って、一部の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。(10)摩擦を怖れるな、破擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

 驚くべき「精神主義」ですがこれで当時の広告業界は罷り通ったのです。高橋氏らは(5)取り組んだら放すな、死んでも放すな、(6)周囲を引きずり回せ、(2)先手先手と働き掛けて行く(3)大きな仕事に取り組め、(4)難しい仕事を狙え、とラグビー世界大会や東京五輪2020の舞台(表と裏の)で活躍したのでしょう。

 

 しかし「鬼十則」には「コンプライアンス」の条項がありません。法令順守は二の次と考えられていたのでしょう。広告の中心価値である「顧客志向」もどこにも見あたりません。顧客の利益を最大化するという広告の主価値がないがしろにされて、とにかく自己の売り上げ増大を図ることに専念する営業に継続性はありません。この取引が成立すれば良いという売上げ至上主義は「五輪が終わればすべてチャラになる」という刹那主義を生んだのでしょうか。広告の主手法である「マーケティング志向」も見えません。市場を科学的に見つめる視点が欠け市場を強引に方向づけようとするメーカー主導、消費者軽視の考え方は五輪の主役――アスリートや観客を軽視したスポンサー選定業務につながったのでしょう。

 「鬼十則」は前近代的精神主義で貫かれた「代理店時代」の広告業界でこそ威力を発揮した営業鉄則ですから廃止の憂き目に至ったのは当然のことでした。

 

 今のところ汚職に関係した企業は、AOKIホールディングス、KADOKAWA,、大広、駐車場サービス「パーク24」の4社に留まっていますがとてもそんなことで済むとは思えません。五輪スポンサーは権利の利用や関連グッズの提供などで「ワールドワイドオリンピックパートナー――OICと契約したトヨタなど14社」「ゴールドパートナー」「オフィシャルパートナー」「オフィシャルサポーター」の4種で構成されていますが、大企業中心の上位2パートナーは別にしても大・中企業の「1業種1社」の枠で電通に選定が一任された下位2つのパートナー、サポーターからは今後高橋容疑者との不明朗な関係を疑われる企業がゾクゾクと出てくる可能性が否定できません。大体なぜスポンサー選定を電通1社に一任されたのでしょうか。なぜ選定の過程や契約料も非公表の「ブラックボックス」化した組織を認めたのか理解できません。これでは不透明な資金の流れができるのは当然で、そもそも組織委員会はすべてを承知の上でこんな組織をつくり上げたのではないかという疑いさえ湧いてきます。そしてその資金の何割かがどこかへ流れたのではないか。たとえば森さんに200万円が流れたように(本人はまだ認めていませんが)。

 

 電通で隠然たる権力を誇っていた旧専務の高橋氏とその庇護のもとに地位を築き高橋氏に尊敬の念さえ抱いていた部下――子分が五輪事務局ににらみを利かしていたのであれば、事務局に出向していた電通の若い社員に不正を正せと求めることは無理かもしれません。とにかく数年前まで「電通・鬼十則」が支配していた会社なのですから。

 

 円安が危険水域を超えて進んでいます。その根本に日本企業の競争力の鈍化がいわれていますが、こんな前近代的な組織で「スポーツの祭典・オリンピック・パラリンピック」を開催しても世界に恥じるところのない国ではグローバル競争に負けても当然でしょう。

 「公正な競争」と「機会の平等」のないところに『成長』はありません。今のわが国にどれほどそれがあるでしょうか。そろそろ本気になって「新しい資本主義」をつくらないとあっと言う間に「過去の国」に成り下がってしまうことでしょう。

 

 

2022年9月5日月曜日

じじバカ日誌(22.9)

  早いものでもうすぐ5ヶ月になります。先日の4ヶ月検診で標準より身長が5センチも伸びていることが分かっておお喜び、体重は標準だったので「家系」的に突然変異の「スラリ長身」のイケメンになるのではと早トチリのハシャギ方に「じじバカやね」と娘に笑われてしまいました。幼児の定期検診は1ヶ月、3ヶ月、半年が標準なのですがそれ以外の月でも助産師さんが家庭訪問して大ざっぱな発育状態のチェックや育児相談にのってくれるのが最近の傾向のようです。

 孫自慢をもうひとつさせてもらうと「寝返り」が3ヶ月手前から始まったのです。ハイハイはまだですが最近の状況を見ているともうすぐできそうな気配です。寝返りは4~6ヶ月、ハイハイは8~10ヶ月頃が標準とされていますから孫の場合は随分早い成長度合いといえそうですが、これは思いもかけないことがキッカケになりました。ウチでの40日の産後養生を経て自宅に帰った娘は、寝室は2階、家事は1階という設計になっていて家事をするとき2階のベッドではなく1階のフロアにフトンを敷いて目が届くようにしたのですがこれが思いがけず孫の成長にいい効果をもたらしたのです。狭い「囲い」から解放されてノビノビできたのでしょうか動きが活発になってその延長が「寝返り」につながったのです。最近は声もよく出すししばしば笑うようにもなって順調に成長してくれて嬉しい限りです。

 成長を感じたこんな場面がありました。婿さんの道楽が「スキューバダイビング」でコロナの自粛でかれこれ5年以上モグリができなくなってていたのですが、4ヶ月も過ぎて子育てにちょっと余裕もできた8月の夏休みに高知の柏島へ3泊4日出かけたのです。婿さんが帰ってきて父親の膝に抱かれて親子3人で写った写真で見せた孫の「安心しきった」「ちょっと満足気な自慢気な」表情がお母さんだけでなくお父さんともしっかり「親子の絆」ができていることをうかがわせて安心しました。

 

 孫ができるまでほとんど見ることのなかったテレビの育児番組や新聞記事に目を通すようになってこれはと思う「教え」がありました。ひとつは「子育て」という言葉がもっている親主体の育児ではなく、子どもに本来備わっている「成長力」を育児の中心において親はそれを手助けするものなのです、という考え方です。もうひとつは「人間は強制早産」で生まれてくるという人類学の見方です。大型書店の育児書コーナーに行くと多くの本が並べられていますがそれだけの育児メソッドがあるのでしょうが、これではお母さんたちも迷うはずです。川上未映子の『きみは赤ちゃん』を読んで「マタニティブルー」に陥る人や「育児クライシス」に泣いているお母さんたちが溢れている様子が描かれていてネットには悩みの相談が数限りなく上げられているのも当然です。

 私もそうだったのですが、親は子どもを育てなければならないという強迫観念にとらわれています。しかし子どもには「育つ能力」が備わっています。それはどんな動物でも植物でも同じで生物はみな「放っておいても」育つものなのです。畑に種をまけばそのうち芽を出すのが自然なのですが、水をまき飼料をやれば生育が促進されます。子育ても同じなのではないでしょうか、子どものもっている「成長力」に手助けするのが親の役目だと考えれば、体重が標準より少ないと嘆いたり言葉の発達が遅いからといって不安にかられることもないのです。育児の教科書を絶対視してそれに当てはめて一喜一憂する、そうではなくて子どもの成長を注意深く観察して、何をしようとしているか、何がしたいのか、どこに注意すべきかを発見する能力が親にいちばん要求されるのではないでしょうか。よその子どもと比較するのではなく自分の子どもだけの「育児法」を見つけ出すのが親の役目だと思うのです。だってそうでしょう、どんな育て方であっても6才にもなればみな一応それなりに小学生になっているではありませんか。

 

 ただ人間には人間だけの特殊事情があります。それが「強制早産」で生まれてくることです。ほとんどの育児書には書いてありませんがこれこそ人間の育児の根本ではないかと思うのです。本来人間の赤ちゃんは胎内で12~14ヶ月成長する必要があるのですが、直立二足歩行するようになって骨盤が狭くなり産道が狭くなったことで10ヶ月で早産させなければならなくなったのです。母子の健康を守るための自然進化なのですが、考えてみれば首の据わった赤ちゃんが狭い産道を通るとなれば首を折って死んでしまうのは明らかです。そんな状況で生まれてくるのですから授乳も下手です、骨格も筋肉も内臓も未成熟なまま生まれてくるのです。だから「育とうとする力」が旺盛なのです。だから余計親は注意深く子どもの成長を見守らなければならないのです。子どもの成長しようとする力を阻害しないように育児するのがもっとも重要になるのです。

 

 うちの孫がそうだったようにベッドから解放したら寝返りが普通より2ヶ月も早くできるようになるなど8ヶ月頃まではベッドで育てたほうがいいという一般的な育児法には疑問もあります。それはひょっとすると「親中心の子育て」がそんな常識を生んだのかもしれません。それは「知育」を重要視する傾向にもうかがわれます。1才にもならない幼児には「知育」よりもっと大事なことがあるのではないでしょうか。人類の歴史を考えてみれば、手が自由になって道具を使ったことが人類進歩の重要な契機になりましたし、厳しい自然の中で武器となる器官がひとつもない弱い存在で助け合い共感する力が強くなったことも人類進化の大きな要素です。そんな人類の歴史を考えると「考える力」「手を使う能力」「仲良くする心」をどう引き出すかが育児の基本なのではないでしょうか。

 

 それにしても孫は可愛いいものです。なんとか健康に育って欲しいものです。