2012年1月30日月曜日

検察とドリームキラー

朝刊のスポーツ欄を開けると『ドリームキラー』というヘッドラインが目についた。直感的に「JR福知山線脱線事故・検察控訴断念」が思い浮かんだ。勿論スポーツ面であるから記事は全く関連の無いものだったが、読み進むうちにこれはあながち無関係ではないのではないかと思うようになった。
 
スポーツの世界で記録更新を阻むものは、肉体より自らの頭の中に設けてしまう「壁」の方が大きいらしい。日本男子陸上100mでいまだに10秒を超えられないのも、日本人の身体能力の限界はそこらあたりだと思い込む「壁」を選手が勝手に作ってしまっていることによるらしい。野球でその壁を崩したのが野茂投手だった。メジャーに比較すれば日本のプロ野球はマイナー級だと長い間思われていたのを彼が挑戦者としてその壁を破ってからは続々と日本選手がメジャーへ行き、立派に通用することを証明した。錦織圭が全豪オープンでベスト8入りした男子プロテニスはこれから展望が開けてくる可能性が高い(2012.1.27日経「アナザービュー」武智幸徳より)。

 乗客106人が死亡したJR福知山線脱線事故で、業務上過失致死傷罪に問われたJR西日本の山崎正夫・前社長(68)に対する神戸地裁の無罪判決(11日)について、神戸地検は24日控訴を断念する方針を固めた、と報じられたとき、いわゆる「検察の刑事裁判有罪率100%神話」を強く感じた。こうした「控訴断念」を繰り返す検察のあり方は『100%の壁』を身勝手に「ドリームキラー」にしていないか。現在の法体系が法人を刑法犯に問うことが極めて難しい内容であることを前提として『100%の壁』を突破できない故に控訴断念を当然としてきた検察は、法人が法の制定時代と社会的存在として全く異なる「多様性と実在性を深化」させた現状に法を整合させる努力を放棄したとして断罪されても致し方あるまい。まして本件は愛する家族を不条理に奪われた多くの人たちの怨念を如何にして解きほぐすかという意味合いもあると思われるだけに、1審をもって「控訴断念」では被害者は悔やみても余りあるに違いない。裁判員制度や検察審査会の改革があっても検察は「裁判の専門家による私物化」を改める姿勢を一向に見せないのは残念だ。

 政治には絶望しかない、というドリームキラーは超克できるだろうか。

2012年1月23日月曜日

野球の殿堂

2012年の野球殿堂入り選手等の発表があって北別府、津田の広島投手勢の名が華々しく報じられているが同時に殿堂入りした故・大本修氏について豊田泰光氏が日経「チェンジアップ」に紹介しているのを読んで己の不明を愧じた。発表時の記事では『バット素材の研究に従事した』とのみ報じられていたが豊田氏によればとてもそれだけの人ではなかったようだ。

 芝浦工大の学長まで務めた大本氏の専門は電気工学であったが「金属バットの安全基準」の策定等に尽力されたことが表彰対象になった。しかし「金属はあくまで木の代替物」が氏の信条で安全性を考慮して金属バットの反発力抑制に指導力を発揮された。木への愛着はやがて国産アイダモ(バットの素材)の保護育成に発展し豊田氏も協力を惜しまなかった。ところがプロ野球選手のバットは国産アイダモから『球のはじきが良い』北米産の輸入材が主力を占めるようになりそのうえスイングスピードを手軽に上げるためにバットを極端に乾燥させ軽くする傾向が強くなった。その結果バットが折れやすくなり「使い捨て」の風潮が一般になる。大本氏の亡くなる前の仕事は「折れやすいバットへの対応」となっていた。
 易きを求める選手の風潮とそれに阿(おもね)る業界の儲け主義は野球機構の助長も手伝って野球を大味なものにしてしまった。ラビットボールを大リーグと同じ世界標準に改めた昨年のゲームに緊迫した白熱戦が多くなったのを見ても用具の改善余地はまだまだあるように思える。野球人気の復活のためにも大本氏の殿堂入りを期に再考を求めたい。

 ところで、もし「政治の殿堂」があったとしたら野田佳彦首相は殿堂入りを果たすだろうか。「ネバーネバーネバーネバーギブアップ」と消費税増税を不退転の決意として声高に叫ぶばかりでその先にある『国のかたち』が全く見えてこない彼の政治姿勢に国民は早くも危うさを感じ始めている。「事の勝敗はその事に当たる人物の如何に因る。(略)人物の如何とは、即ち誠実の有無、正義観の強弱をさすのである。信念の如何を謂うのである」、「冬日の窓」で永井荷風のいう正義観が野田首相に殆んど感じられないのは残念である。
  
 「正義観念の確立は民族の光栄を守る強力の武器である。これ無きところに平和の基礎は置き得ぬであろう。」荷風のこの言葉を政治家諸氏に伝えておきたい。

2012年1月16日月曜日

原発とメガバンク

「東電追加融資、4月にも実施―値上げ・原発再開が条件」という記事が10日の日本経済新聞に掲載されていた。内容の概略は以下の通り。
 ▼政府は福島第1原発の廃炉などの費用に充てるため、1兆円規模の公的資金を東電に資金注入した上で、運転資金として民間金融機関から1兆円規模を調達する計画を示した。▼主要金融機関は追加融資を4月にも実施する方向で調整に入る。融資の前提は東電の財務基盤の安定で、電力値上げや原子力発電所の再稼動が欠かせない。▼東電と賠償機構は2年後をメドに停止中の柏崎刈羽原発を再稼動させる方針を主要金融機関に示した。▼再稼動できるかは政府の判断に依存するだけに、主要金融機関は再稼動に向けて政府に働きかけを強める方針。▼主要金融機関が追加融資するには、既存の東電向け融資を「正常債権」に査定する必要がある。不良債権に査定することになる債権放棄や金利減免などの金融支援は実施しない方針。

 この記事の問題点は第1に東電と賠償機構が2年後をメドに停止中の柏崎刈羽原発を再稼動させる方針を主要金融機関に示したことであり値上げを前提とした融資条件にも疑問がある。更に東電向け融資を「正常債権」と査定するというメガバンクの考え方は奇異であり不良債権に査定することになる債権放棄や金利減免などの金融支援は実施しないとう方針は強欲であり傲慢である。

 値上げに関しては未だ政府認可は降りておらず総括原価方式の不都合や発送売電分離による合理化など根本的な電力事業の再構築に関しても何一つ解決を見ていない。にもかかわらずそれを前提条件にして4月の追加融資を検討するなど一般常識としてありえない。
 東電向けの既存融資を「正常債権」と見なし、不良債権に落とさないために債権放棄、金利減免には応じないというメガバンクの考え方は身勝手な自己矛盾である。
看過できないのは東電と賠償機構が2年後をメドに柏崎刈羽原発の再稼動をメガバンクに示したことであり再稼動を政府に働きかけるメガバンクの姿勢は国民の意志を全く無視している。

 メガバンクの論理は債権保全が全てであり、そのためには産業や国民生活に重大な影響を与える電力料金値上げも安全性の合理的な保証が担保されていない原発再稼動さえも当然であるとする、国民の犠牲を省みないメガバンクの姿勢には憤りさえ感じる。

 メガバンクよ驕る勿れ。

2012年1月9日月曜日

去年今年

久し振りに「紅白」を見ていて感じたことがあった。演歌に生彩がないのだ。「新しい演歌」が面白くないのだ。近来演歌が売れないと言われていたがこれじゃ仕方がないと思った。決まりきったテーマを手垢に汚れた演歌言葉と破調のないメロディで作られているから訴えるものが全く無い。かっての演歌は、例えば森進一の「おふくろさん」でも都はるみの「北の宿から」でも『新しかった』し時代を切り取っていた。琴線にふれる詩でありメロディであったから「レコード」も売れた。このままでは演歌が消えてしまう。

 うたた寝から眼覚めてテレビに目をやると「浜崎あゆみ」のカウントダウンコンサートのカウント前の場面だった。あゆが一言一言噛み締めるように言葉を選びながら一年を振り返り大震災を悼み、感謝し、新しい年への期待を語った。ビデオに採っていなかったのでその言葉をここに表すことができないのは残念だが心うつものがあった。聞き飽きた政治家の言葉とは異次元のものだった。

 初詣に上賀茂神社へ行った。本殿の入り口に行くと行列ができているので仕方なく並んで待つことにした。しかし合点がいかないので先頭へ行ってみると「御手洗(みたらし)」の順番待ちであることが知れた。そこで手水を飛ばして本殿へ行き参拝を済ましてフトあたりを見渡すとほとんどの人が神妙に「二拍二礼一礼」している。ちょっと異様な光景に写った。
こんなことは今までなかった。御手洗で口を漱ぎ手を清め参拝は二拍二礼一礼が正式な神社の参拝の仕方だとテレビで何度もやっていた。それを皆が知りそれに従っていたのに違いない。

 大量の情報が溢れている今の時代だ、こんなことは当たり前だろう。しかし知識は豊富にあっても実践に移されているものはその内の僅かなものだ。上賀茂神社で多くの人が作法通りにキチンと拝んでいたのは、お願いを叶えて貰いたいからであり無作法でバチが当たるのを懼れたからだろうか。
幾ら情報があっても、『継ぎ接(は)ぎだらけの知識』のままでその内から自分に都合にいいものだけを寄せ集めてひとりの人間の価値観ができているとしたらこれほど危険なことはない。しかし今の我国は政治家も企業家も職業人も、子どもでさえも皆そうなっていはしまいか。

年 末に掃き集めた公園の枯葉が元旦の朝グランド一面に撒き散らかしてあった。