2012年1月9日月曜日

去年今年

久し振りに「紅白」を見ていて感じたことがあった。演歌に生彩がないのだ。「新しい演歌」が面白くないのだ。近来演歌が売れないと言われていたがこれじゃ仕方がないと思った。決まりきったテーマを手垢に汚れた演歌言葉と破調のないメロディで作られているから訴えるものが全く無い。かっての演歌は、例えば森進一の「おふくろさん」でも都はるみの「北の宿から」でも『新しかった』し時代を切り取っていた。琴線にふれる詩でありメロディであったから「レコード」も売れた。このままでは演歌が消えてしまう。

 うたた寝から眼覚めてテレビに目をやると「浜崎あゆみ」のカウントダウンコンサートのカウント前の場面だった。あゆが一言一言噛み締めるように言葉を選びながら一年を振り返り大震災を悼み、感謝し、新しい年への期待を語った。ビデオに採っていなかったのでその言葉をここに表すことができないのは残念だが心うつものがあった。聞き飽きた政治家の言葉とは異次元のものだった。

 初詣に上賀茂神社へ行った。本殿の入り口に行くと行列ができているので仕方なく並んで待つことにした。しかし合点がいかないので先頭へ行ってみると「御手洗(みたらし)」の順番待ちであることが知れた。そこで手水を飛ばして本殿へ行き参拝を済ましてフトあたりを見渡すとほとんどの人が神妙に「二拍二礼一礼」している。ちょっと異様な光景に写った。
こんなことは今までなかった。御手洗で口を漱ぎ手を清め参拝は二拍二礼一礼が正式な神社の参拝の仕方だとテレビで何度もやっていた。それを皆が知りそれに従っていたのに違いない。

 大量の情報が溢れている今の時代だ、こんなことは当たり前だろう。しかし知識は豊富にあっても実践に移されているものはその内の僅かなものだ。上賀茂神社で多くの人が作法通りにキチンと拝んでいたのは、お願いを叶えて貰いたいからであり無作法でバチが当たるのを懼れたからだろうか。
幾ら情報があっても、『継ぎ接(は)ぎだらけの知識』のままでその内から自分に都合にいいものだけを寄せ集めてひとりの人間の価値観ができているとしたらこれほど危険なことはない。しかし今の我国は政治家も企業家も職業人も、子どもでさえも皆そうなっていはしまいか。

年 末に掃き集めた公園の枯葉が元旦の朝グランド一面に撒き散らかしてあった。

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