2010年4月26日月曜日

弘法は筆を選ぶ

 ラケットを新しくした。
 ぶらっとスクールのショップへ行くと以前から欲しいと思っていたモデルが半額近いバーゲンになっている。コーチに訊ねると近いうちにニューモデルが出るので安いという。即お買い求め、と思ったがその前に『試打』して発見したことがあった。今使っているのが私のレベルにもう『間に合わなく』なっているのだ。我の腕自慢をしているのではない、相手関係も含めてそういう状況になっていることに気づいたのだ。ここ数ヶ月ほとんど目覚しい進歩がなく、特にコーチと相対のレッスンのときにしっくりこないことが多かった。別に悪いところもなくキチンと対応している積りが『打ち負け』してリターンが思うところにいかないことが度々で自信を無くしていた。それがニューラケットだとほとんどミスショットがないのだ。
 
 テニスをはじめて4年半、この間自分自身も上達したがクラスメートも腕を上げている。従って相手の返してくるボールの威力も格段に強くなっているし、コーチの送ってくるボールも始めた頃とは比較にならないほど鋭いことが多い。初心者用のラケットでは『打ち負け』するのも当然なのだがそれと気づかないで相当長い期間過ごしてきたのだ。ラケットコーナーに「初級者用」とか「中級以上」とか書いてあるのには意味があることにやっと気づいた。

 昨年マラソン(5km)を走ったとき専用シューズをはいて驚いた、普通のスニーカーと走り心地が全く違うのだ。オーバーにいえば『どこまでも走れそう』な気がした。禁止になった水着「英スピード社製レーザー・レーサー」による世界記録量産が記憶に新しいように、スポーツと道具に密接な関係があるのは分かっている。それを素直に受入れられないのは物が潤沢にない時代に育った「貧乏性」のせいだろうか。

 今週はニューラケットで颯爽とプレーを楽しもう。

2010年4月19日月曜日

蟷螂の斧

 万葉集に「物皆は/新(あらた)しき良し/ただ人は/旧(ふ)りぬるのみし/宣(よろ)しかるべし(巻十作者未詳)」という歌がある。「なんやかや言ってもやっぱり物は新しいものが良い。しかし、人間だけは私のように年経た経験豊かな方が好い」と言い切っている『老人讃歌』なのだが、これは陶淵明の『龐参軍(ほうさんぐん)に答う並に序』の一節「物は新たに人は惟(こ)れ旧」にそっくりである。陶淵明は『書経』にある「人は惟れ旧を求め、器は旧を求むるに非ず、惟れ新」を踏まえている。万葉歌人は四書五経や漢詩を必須の基礎教養として身に着けていたにちがいない。

 京都市の北区、上賀茂神社のすぐ近くに「高麗美術館」がある。ここに収蔵されている白磁や青磁は素晴らしい。こうした到来物に接した我国の陶工たちは心血を注いでこれらに肉薄しようと研鑽したに違いない。

 万葉歌人の代表格である柿本人麻呂は歌の聖と称され、彼の肖像を掲げて祭る『人麿影供(ひとまろえいぐ)』ということさえ行われたほどの存在であったが、その人麻呂も中国から深く学ぶことなくしては歌の道を極めることができなかった。人麻呂だけでない、我国の成り立ちを考える時中国や朝鮮との交わりなしに今日がないことは明らかである。又歴史を顧みるとき、ここ二、三百年を別にすれば我国はほとんど中朝の後塵を拝してきたのであり、文明史的に見れば『中国の周辺国』という位置付けを甘受しなければならないことも事実である。

 唐突にこんなことを書き並べるのは昨今の我国関係者の中国や東アジア、又アジアを中心とした新興国家への無節操な接近振りに気恥ずかしさを覚えるからである。欧米中心に経済活動を進めてきたこれまで、中国であれ韓国であれ又その他のアジア諸国を見下してこなかったといえば、それは嘘だ。それが掌を返したように上辺だけ友好な経済関係を結ぼうとしても相手に快く受入れられるはずもない。彼の国の歴史と文化を理解し尊敬の念を以て接しなければこちらの『下心』を見透かされて当然である。それなしの、臆面もない『金融危機以後の豹変』に対して全く批判のない言論界に『蟷螂の斧』を振りかざそうとしたのが今回のコラムである。

2010年4月12日月曜日

阪急のロマンスカーがなくなった

 淡路駅で阪急に乗り換えるとき、2ドア車か3ドア車かで乗車位置が違うため立ち位置の判断が難しかった。先頭のことが多かったので2ドアの位置で3ドア寄りに立ち列車表示板に3ドアの表示が出ると、ツイと身体を3ドア側に寄せるなどという姑息な手段を講じたりしていた。ところが気がついてみるとこの数週間、2ドア車が来ないのだ。よくみるとホームの乗車位置のマークも消えている。「えっ、2ドア車なくなったの!」。
 駅員さんに聞いてみると春のダイヤ改正(3月14日)で6300系車両の使用が終了したという。ATS(自動列車停止装置)の改良工事が完了しスピードアップが可能になったので老朽化した6300系車両は引退せざるを得なかったらしい。

 6300系車両とは阪急京都線の特急に走っていた車両で、2ドアで通路を挟んで2人掛シートが進行方向に向かって整然と並んだ車両だった。ヘッドレストに白いカバーが掛けてあり座席に高級感があって我々一般人は「ロマンスカー」と呼ぶ、いわば阪急の看板電車だった。梅田や河原町のホームで特急待ちをしている人の中にはこの車両を楽しみにしている人もあって、他の車両が来ると1台やり過ごしてわざわざこの電車に乗るというファンもいた。進行方向に向かっている座席を折り返しのターミナル駅で一斉に反対側にバッタンと方向換えするのを物珍しそうにみている地方の人もいてこちらとしてはちょっと誇らしい気持ちになったものだ。

 それにしても勿体ない事をしたものだと思う。廃車の理由として会社は表向きスピードアップに耐えられないからといっているが当面は僅か40~50秒のこと、これが本当の理由とは思えない。京都線は京阪、JRに加えて近鉄もあって競争の激しい路線である、生き残りは大変であろう。阪急はメンツも捨てて阪神と経営統合し阪急阪神ホールディングスを築き関西鉄道競争の先頭を走っている。その、次ぎの一手が『ロマンスカーの廃止』なのだが、果たして吉凶いずれに出るか。ちなみに私は最近京阪の『2階建てロマンスカー』を利用することが結構多くなっている。

2010年4月5日月曜日

アメリカという国について」

 アメリカ文化への憧れを幼年期に刷り込まれた私にとってJ・F・ケネディの大統領就任はその最も輝いた時期であった。そして皮肉にも彼が暗殺されることによってアメリカ文化の凋落が始まった。21世紀初頭の9・11は大きな転換点であり2008年の金融危機はアメリカ文化への不信を決定づけた。
アメリカという国は一体どうしたのだろうか、ここ数年考えつづけてきた。そして答えは思わぬ方向から届いた。池澤夏樹が「世界文学を読みほどく」のなかで提示している非常に示唆に富んだアメリカ観を知ることによって、年来の疑問に納得の道筋をつけることができた。
そこで以下にそのあらましを記してみたい。

 《あの国は全て白人の土地ではなく、本来インディアンの土地だったのです。それを奪った。(略)(アメリカ人のいう)マニフェスト・ディスティニー(明白な運命、或いは、神に与えられた使命)自体が、収奪、奪うことではないのか。(略)かって奪ったということ、それから黒人をアフリカから連れてきて束縛した上で、強制労働をさせた、それによって冨を作った、ということは、アメリカ人の心のどこかでずっと、一種の重い罪の意識のような形でずしんと残ってきたのではないだろうか。》
《自分たちだけで事を決めて、それを実行する。何故なら中央は遠いし、過去に先例がないから。(略)しかし、先例がない、過去を引照できない、つまり過去の事例を引用したうえで今を決められない。これが歴史がないということです。だから、ある意味でやりたい放題になる。》
 《アメリカという国にはなぜいまだにあれほど銃がたくさんあって、自分の判断、自分たちの判断で人を殺すことが抵抗なく行われるのか。それは、彼らには、法律と倫理、治安、セキュリティーを自前で賄わなければいけなかったという歴史があるからです。(略)そしてそれはその後、現在に至るまでずっと続いています。非常にドラスティックなことをいきなりしてしまうのです。》
 《アメリカは若い国である。ヨーロッパのように罪を知らない、まだ穢れていない。なぜならば、罪のない悔い改めた清らかな人たちだけが、メイフラワー号で渡ってきて造った国だから、アメリカはイノセントである、という信念が、最初にあるわけです。(略)倫理の基準が自分たちの中だけにしかない、先例が足りないということは否定できない。それでなおさら、共通の倫理観を作る前に先ず行動してしまう。ローカル・ルールで人を裁いてしまうという姿勢は、いまだに変わっていません、》
 《「パラノイア(偏執病)」というのは、今のアメリカを解読するための鍵の一つとして、大変大事な役割を持った言葉です。(略)事実は「イラクにはもうそんな力はない。彼らにそんな意図はない」ということを示していたのに、このパラノイアに乗って実際に戦争が始まってしまう。不思議な社会だと思います。》

 1776年に建国され僅か150年余りで世界の覇権を握った「若い穢れのないアメリカという国」。その覇権に蔭りが見え始めた今、アメリカはどこへ行こうとしているのだろうか。『文学者・池澤夏樹』は政治や経済の底にある『悩めるアメリカ』を鮮烈に教えてくれている。