2023年9月25日月曜日

金婚式はめでたいが

  12月に金婚式を迎える記念に旅行をしようと少し早めの9月中旬横浜に行ってきました。姉娘がマンションを構えたのでその結構を拝見がてら時間を見つけて60年前社会人第一歩を踏み出した広告会社の寮のあった国分寺の変貌ぶりも見てみたいという目論見もあったのですが、たまたま妹娘の婿さんが同じ時期趣味のスキューバダイビングにでかけるというので1才5ヶ月の息子(私の初孫)とふたりだけの初旅行をしたいので同行したいといいだし、結果として孫の付き添いのようなかたちで一緒に出かけることになりました。孫をおいてひとり国分寺まで出かける根性もなく結局孫中心のスケジュールになったのは当然の成りゆきでそれはそれなりに楽しかったのですが、その詳細は後日としてとにかくショックを受けたことがらについて書きたいと思います。

 いくつかあったコンビニの店員さんやホテルのフロントのほとんどが「外国人」だったのです。報道で人手不足が深刻で外国人労働者の必要性が緊迫感をもって伝えられていますがこれほどとは想像していませんでした。レストランや飲食店も同様で町中の行き交う人の三分の一は外人のような印象をうけました。勿論横浜という土地柄もあるのでしょうが、京都にいたのでは「労働需給のひっ迫」がここまで進行しているとは思いも及びませんでした。

 

 折りしも18日は「敬老の日」。100才以上が9万人を超えたというデータが発表され、47都道府県に平均2000人、小学校が全国に約2万校ありますから各学区に4、5人の100才超の老人がいることになりますからこれは大変なことです(そのほとんどがご婦人というのもすごいですね)。それと同時に80才以上人口が1259万人になり総人口の約1割を超えたという報道もありました。高齢化率(65才以上)は29.1%と30%に近づいています。高齢化がここまで亢進してこの先さらに高まっていくのですから少子化が同時進行するわが国の人口減少――労働人口の急減は『確かな事実』として受け入れざるをえません。にもかかわらず移民政策に正面から取り組まない「政治」。事実婚、同性婚、シングルマザー・ファザーなどの多様な「婚姻制度」を受け入れない「政治」。ジェンダーやダイバーシティということばは多用しても真剣に政策に反映しようとしない「政治」。

 『劣化する政治』はあらゆる国際指標で先進国中、いや世界中で最低ランクに位置しているのですからこの改革はもう待ったなしです。こうした政治の惨状が集中的に現れているのが『地方の疲弊』です。

 

 19日発表になった国交省の2023年度基準地価はインバウンドを反映して全般的に上昇基調を示していますが、調査対象約2万地点のうちその52%がコロナ禍前を下回っています。3大都市圏と地方主要都市(札幌、仙台、広島、福岡)以外の地方都市も生活様式の多様化(在宅ワークの普及など)や住民にメリットのある大型商業施設があって割安感のある地域は上昇していますが、高齢化と人口減の著しい地域では長期低落傾向を止めることができないでいます。たとえば北海道歌志内市は廃坑のために人口はピーク時(1948年)の9割減の2700人に減少、香川県は県内17市町が地場産業の担い手不足で経済活動の維持が困難になっています。

 こうした地方の「二極化」がすすんだ結果、全国896の地方自治体(総数約1700のうち)が「消滅する可能性がある」という試算を民間の団体が2014年に発表しました。そして10年経った今年共同通信が行った全国の自治体首長を対象のアンケートで84%の自治体首長が「消滅」への危機感を抱いていると回答したのです。農林水産業や医療介護分野の深刻な人材不足を背景に地域の労働力や活性化の担い手として外国人材の受け入れ推進の必要性を86%の首長が主張しています。

 

 今度横浜に行ってツクズヅク感じたのは「東京(横浜)は日本ではない」ということです。程度の差はあっても大阪も、名古屋も、福岡もそうなのだと思います、主要ターミナルでは次々と大型商業施設やマンションの建設がつづいているのです。それにともなって飲食、ファッションなどのにぎわいも増し、ますます人が集まってくる、当然お金も物量も集中してくるわけで、人も資材も不足する現状では「地方」は「おきざり」になってしまう悪循環が「地方疲弊」を加速してしまうのです。たまに地方都市へ行って、その静かで落ち着いたたたずまいに歴史と伝統を感じますが、ということは変化に追いついていないということの裏返しでもあるのです。(それでいい、という価値観はあってもいいのですが)

 

 今あるわが国土は徳川時代の、200以上に分割された地方分権の農業国家としての国土経営がそのまま残っています。ところが「ポスト工業化・グローバル情報社会の中央集権国家」が現状の国家運営体制ですから、そこからはみ出してしまう地方が出てくのは当然なのです。この事実を受け入れて、そこから現状に即した国土経営を立てていかざるを得ないのですが、政治はそれを表だって明かにしようとしません。「デジタル田園都市国家構想」などというイカサマで国民をダマクラカシて「消滅する自治体」の存在をひた隠しにしたまま「選挙に勝てる政治」を、無能な「二代目職業政治家」たちが政治を「専横」しているのです。

 

 わが国の歴史は古代以来「地方分権と中央集権」を繰り返してきました。ですから今は「地方」と呼ばれている地域は必要性の低い地域ですがいつまた「全国」を活用しないと「日本国」が維持できなくなるかもしれません。ですから全国国土の「維持と防災」は国家経営の要諦です。それをいかに行うか、そして「ポスト工業化・グローバル情報社会」をいかに効率良く『福祉的』に実現するか。それが政治家の仕事なのです。

 

 「選挙に勝つだけの政治」。こんな劣化した政治を一日も早く正常化する必要性を国民が共有しなければならないのです。

 

 

 

2023年9月18日月曜日

ヘリテージ・アラート

  神宮外苑再開発に関してユネスコのイコモスがヘリテージ・アラートを出したことで事業の進捗が新たな段階に入ったことは間違いありません。小池知事は反論しましたが説得力に欠けますから反対する人たちの勢いを弱める効果はほとんどないでしょう。

 

 2001年3月アフガニスタンでタリバンによってバーミヤン遺跡が破壊されました。6世紀後半から7世紀前半のあいだに建立されたとみられるバーミヤン大仏は東大寺の大仏を遥かにしのぐ大きさの仏教石窟でそれがタリバンの暴虐によって破壊されたことは当時世界中から非難を浴びました。 

 しかしそのこととウクライナ戦争で「歴史都市―キーウ(旧キエフ)」が暴力的に破壊されていることとどこがちがうのでしょうか。キーウは京都市と姉妹都市提携しています。ともに1200年以上の歴史を誇る都市ですから当然の結びつきですが、もし京都が砲撃を受けて「歴史資産」が次々と破壊されたら日本人はどれほど怒りと悲しみを感じることでしょうか。しかしアメリカは「原子爆弾」の投下都市の候補地として京都も上げていたのですから今京都が残されているのは偶然の所産に過ぎません。現代人の価値観が「戦争容認」である限り次世代への歴史の継承の多くは「偶然」に委ねられているといっても過言ではないのです。

 

 8月に起こったハワイの山火事で失われた古都ラハイナの歴史的遺産の被害も甚大でした。8月8日からハワイのマウイ島で発生した大規模な山火事は多数の死者と負傷者を出し2000棟以上の建物が損壊したアメリカで起きた過去100年で最悪の山火事でした。この火事のもう一つの重大な被害はハワイ王国のかっての首都ラハイナの文化遺産――22万平方メートルの土地にあった60ヶ所以上の史跡を焼き尽くしたことです。「われわれの知る限り通りを歩くだけで時の流れを遡れるような場所は、ハワイにはもうありません。」とラハイナ史跡修復財団の関係者は悲痛な声をあげています。

 

 こうした文化遺産とは趣を異にしますが、今わが国で進行している「限界集落」や中山間地の過疎問題も次世代への継承という点では同じ意味あいをもっています。過疎地域の人口は全国の8.2%に過ぎませんが、市町村では半数近く、面積では国土の約6割を占めています。この問題をおろそかにしておくと日本という国のかたちが完全に壊れてしまうのです。そうであるにもかかわらず今のところこれといった根本的な解決策は講じられないままずるずると今日に至っています。

 この問題の根本は、地方分権の農業国家であった徳川時代の国家経営と21世紀のポスト工業化社会――グローバル情報社会をいかに整合させるかということです。国土を200以上に分割して農業生産性(主としてコメ生産の)の最大化を図った徳川時代の土地制度をそのまま引きずってきている現在の国土経営を今のグローバル情報社会にどう転換するかということです。ポツンと一軒家が全国に散在するのは新田開発に血まなこになった幕藩領主たちの苦心の結果です。しかし農業従事者が全人口の3%、農業生産がGDPの10%を割り込んだ今、全国の農地を今のまま維持することは不可能ですし不合理です。にもかかわらず国は農地の集約化による農業生産性の向上によって若者世代を農業に引き入れて農業再生を試みるといった時代錯誤の政策を繰り返しています。

 そうではなくて、食糧自給率を何パーセントにするか、国内生産の品目は何にするか、といった国全体の持続可能な「農業政策大綱」を確定してそのための農地の選択を行い、必要な労働力を算定し、併せて工業化を進め生産性を向上させ他の産業と同程度の収入が保証できる体制を整える。余剰農地は国有化して国土の保全と災害対策に特化し、国家公務員の「国土保全隊(注1)」を派遣する。というような根本的な「国土経営戦略」を立てなければわが国の農業・農村問題は解決しないのです。勿論私有財産制や土地の個人所有などの問題をクリアしなければ野放図な外国人所有を認めてしまうことになりますからそうした法的整備は困難を極めるでしょうが国土の継承という意味ではどうしても解決しなければならない問題なのです。

 

 そもそもヘリテージ・アラートとは、文化的資産の保全・継承を促進し、文化的資産が直面している危機に対して、学術的観点から問題を指摘し、未来世代に向けた保全と継承の解決策を促進するために、イコモス(ICOMOS)の専門家および公的ネットワークの活用を推進するために発する声明です。歴史ある国土をいかに過去・現在・未来世代が公平に継承していくかという問題意識なのです。ところが経済優先の戦後約80年は、現役世代の近視眼的な経済主義が横暴を振るい、先輩世代から「受け継いだ」資産であるという意識が希薄化し、次世代への「傷みの少ない継承」という責任感が欠如して今日に至っているのです。

 加えて政治家に明治神宮の森創建時の大隈重信のように本多静六ら専門家を尊敬する謙虚さが消え、とにかく目先の利益優先の浅慮な専横が政治家・官僚・経済人の行動規範になってしまっているのです。 

 

 小池さんがやろうとしている神宮外苑再開発事業は、世界的に見ればタリバンとプーチンが犯した世界遺産破壊と同じ次元の『蛮行』とみなされているのだということを彼女は認識していないのです、「ヘリテージ・アラート」は再開発の国際評価はそんなものだということを突き付けているのですが彼女は気づいていないのです。そもそも文明国日本の首都・東京の都知事にイコモスからアラートを出されることの屈辱と恥辱を彼女はまったく感じていないのです。

 

 タモリさんが「新しい戦前」と今を表しましたが、明治の先人たちが日本改革のために「国家百年の大計」を模索したように『大構想』をぶち上げる政治家が今出て欲しいのです。そうすれば若者の「国家公務員離れ」も収まるにちがいありません。

(注1)「国土保全隊」は、農地、里山、山林などを国有化し保全と継承を目的として国の機関として設立します。職員は国家公務員とします。余剰農地だけでなく山林や沼沢地なども含めて美観保全、災害防止を行ない、国土の外国人保有を禁止します。全国の農地の適正化と食糧自給率向上による食料安全保障を実現します。

 

 

 

 

 

 

2023年9月11日月曜日

一粒の米

  幼いころご飯をこぼすと「ちゃんと拾ろうて食べなさい、お米粗末にしたら目つぶれるえ」と叱られたものです。「お米はお百姓さんが八十八のお仕事を苦労して作らはったんよ、大事に大事にお百姓さんが作らはったから7つの神さんまで入ったはるんよ」とも教えられました。今なら落ちたものを食べようものなら、不衛生と反対に叱られるにちがいありません。もうひとつ、食べものをおもちゃにしてはいけませんとも教えられました。白米の炊き立てご飯は「銀シャリ」と呼ばれておいしいものの第一等でした。

 最近そのお米の価値が大幅に低下しています。というか食料全体の相対的価値がいちじるしく低下しているのです。びっくりしたのは「かき氷」が1200円も1500円もしていることです、いや2500円というのさえあります。私のうちの「コシヒカリ」は5kgで2300円くらいですから年寄り2人の約2週間分の主食費が「かき氷」1杯と等しいというのですからこれは問題です、ものの価値が混乱しているのです。

 

 ひとつ言えることは昔とは比較にならないほど「商品」が増えたことです。極端にいえば鍋釜と当座の着るものさえあれば裏路地の長屋住まいなら可能だったのに比べて、今はテレビ冷蔵庫電子レンジは最低必要ですしスマホは必需品になりました。昔は食費の家計費に占める割合は最大65%(明治から1910年ころまで)の時期もありましたし戦前でも50%近く占めていました。終戦直後の食糧難時代は一時65%を超えることもありましたが2000年以降は平均22%台で推移しています。コロナの影響を受けた2020年は25%を超えましたが。

 スマホは5万円でも若い人の望む機種ではなくもっと高額な10万円以上が主力のようですし、情報通信費は12万円を超え消費に占める割合は4%以上になっています(2019年)。ドラム式洗濯機は1台12万円から30万円が相場のようです。

 生活に必要な商品構成が昔に比べて多様化し相対的に食費の割合が低下せざるを得なかった側面があります。そしてそれぞれの商品の値段(価格)は「市場」で決まるようになっており、そうした「あり方」を我々は当然のこととして受け入れています。「市場の見えざる手」によってそれぞれがふさわしい価格に収まるようになっていると無意識に信じています。

 ほんとうにそうでしょうか。

 

 ここ50年にわたって私たちは、スーパーマーケットや大企業がその糸を操ることを許してしまった。やがて多くのファーマーは低価格商品の生産者に成り代わり、交渉力をほとんどもたなくなった。私たちはいま、史上最も安価な食糧を生産しつつ、それが引き起こした生態系の大惨事に対処することに四苦八苦している。現在の食糧システムでは、市民、農場、生態系の健全さを一顧だにしない大企業に、ほぼすべての権力と利益が吸い取られている。政治家たちはこのシステムの構造的問題に対応する代わりに、規模が小さくて不十分な補助金(エンバイロメント・ペイメント)を提供し、最悪の影響にだけ継ぎ当てして現状のシステムを保とうとする。(『羊飼いの想い』ジェイムズ・リーバンクス著濱野大道訳早川書房

 農産物の価格決定権が生産者(農家)にないのです。市場の自由な競争で決まっているのではなく巨大資本のスーパーマーケットや大企業が価格を決めてその価格で仕方なく生産者は農産物を市場に提供せざるを得ないのが現状の「農産物市場」なのです。

 こうした「不合理」な市場は国内に限りません、世界市場も「強いもの勝ち」になっています。今は不合理に虐げられている人たちの数が世界人口の10%程度(注1)で収まっていますから格差は我慢できる限界に収まっていますが(世界規模の叛乱が起こっていないという意味で)、世界人口が100億人を超える2050年にはこの比率が、世界情勢の安定性からみて危険水域を超える可能性は決して少なくないのです。2050年になっても現在の「市場の自由競争で価格が決まる」制度――「強いもの勝ち」のままだったら、国際的な「国家間の格差」が今のままだったら、世界の分断は危険水域を超えて「世界戦争」を覚悟しなければならないほど緊迫化するにちがいありません。

(注1)国際貧困ラインの1日1.90ドル以下で生活している人口は2015年7億3600万人存在しています。2015年の世界人口は73億人ですから比率は約10%になります。

 

 今年の最低賃金は全国平均ではじめて1000円(時給)を超えました。しかしこれによって生産性の低い小企業や飲食店、コンビニなど非正規雇用で成り立っている企業は苦境に立たされるという論議があります。こうした論調を聞くたびに「最低賃金」という考え方に疑問を感じるのです。

 現在の労働環境からひとりの月間労働時間は大体160時間です(月平均労働日数20日、1日労働時間8時間として)。これに最低賃金の1000円を乗じると16万円(1ヶ月)です。これではとても生活できないのではないでしょうか。それにもかかわらず審議会の委員さんたちはさも「大事」を成し遂げたかのように胸を張っているのです。

 

 これも「市場の自由な競争」で経済が動いている弊害です。「強いものが勝つ」市場では弱いものは、生産性の低い、大企業から強いられる「安い価格」で仕事を請け負わなければならないからです。縦の関係は自動車産業なら世界企業の製造会社が価格決定権を握っていますが下請け企業――1次下請けから最低層の零細企業まで何段階もの格差層が形成されていて強者支配の構図が出来上がっています。横の関係は最先端の情報産業から農業漁業産業までの生産性の格差構造が市場の強弱を反映して強いものが弱いものを支配する構造ができているのです。

 世界視点でながめれば資本・資金力の強い国からやっと農業国レベルに達した国が競争するのですから「市場の自由な競争」システムのもとでは弱者の勝てる可能性はまったくありません。100億人時代の世界経済が今のままだったら「限りある」食糧は――100億人に行き渡るだけの農産物を生産することは多分不可能ですから――強い国が買い占めて弱い国の人たちは飢餓に追い込まれているにちがいありません。

 

 「市場の自由な競争」を許している限り気候変動の「沸騰化」を防ぐことも、資源配分の不平等による「国家間の格差拡大」も防ぐことは不可能です。強いもの勝ちがまかり通っている限り100億人の世界平和は実現不可能です。

 一粒の米の価値が不当に評価されている限り「格差」は限りなく拡大していくのです。

 

 

 

2023年9月4日月曜日

ことばの重み

  最近になってはじめて知ったのですが「画竜点睛(がりょうてんせい)を欠く」のセイは「晴」でなかったのです、目ヘンだったのです。「晴」が竜の目であるはずもなく「睛」、すなわち「目玉、くろ目」が当然なのです。まったく粗忽なことで恥ずかしい限りです。この誤りは漱石の漢詩を読んでいて気づいたのですが漢詩つながりでいうと頼山陽の「天草洋に泊す」のなかにある「青 一髪」という句が好きです。「雲か山か呉か越か 水天彷彿(すいてんほうふつ)青一髪(せいいっぱつ)(以下略)」、「雲であろうか山であろうか、それとも中国の呉の地であろうか越であろうか。海と空とが接する辺り、一本の髪のようにかすかに青く見えているのは。」長途の船旅は毎日毎日海と空が無辺につづきます。陸への渇望が日増しに狂気に近づく、そんな折遥か水平線のかなたに薄っすらと緑の線がぼやけて見える。そのときの「ときめき」が見事に表現されている言葉ではありませんか。

 ちょっとおもむきは異なりますが今再放送されている「あまちゃん」の主人公たちの「夏子、春子、アキ」という名前が春夏秋冬から微妙にそれぞれの年代にあった選択をしているように感じます。冬は厳しさのある字ですから今どきのドラマの登場人物にはふさわしくないですし、もし冬子としたら夏子の母・祖母世代が似つかわしいでしょう。夏子は最年長――戦後スグ世代らしいですし、春子は昭和後半に感じます。アキはカタカナを使用することも手伝って最も若い主人公にふさわしい名前になっているのではないでしょうか。

 字の不思議さです。

 

 晩年の読書をはじめて二十年近くなって、漢詩と古典和歌(万葉集、古今和歌集など)を読みつづけてきて、座右に置いた冨山房「詳解漢和大字典」と岩波書店「古語辞典」を日に何度か引いています。その繰り返しが言葉に対する「感覚」を鋭敏にする効果があって、最近のマスコミが報道する「言葉」の「薄っぺらさ」「嘘っぽさ」がヤケに耳(目)ざわりになってきました。こうした状況をさらに増幅しているのが「ネット空間」です。ちょっと前話題になった本で『ネット右翼になった父』というのがありました。どちからといえば穏健な常識人であった父がしばらく会わないうちに、ヘイトスラングを口にしテレビの報道番組に毒づきつづけるネット右翼に変貌させたのは右傾化したYouTubeチャンネルだったのです。コミュニケーション不全に陥った父子の相克を描いたこの本は現在の情報化時代の陥穽を浮き彫りにした問題作でした。

 マスメディアの情報の空虚さ以上にネット空間は「偏向と虚偽」に満ち溢れており、その結果何が真実かを判断するのが困難な状態になっています。とくに「政府発表の(公的な)情報」に対する『不信感』が抜き差しならない状況に至っています。

 

 最近のマスコミで取り沙汰された報道の真偽を検証してみます。 

 関東大震災100年の今年特番も多く放送されましたが松野長官の、震災時の朝鮮人虐殺について「政府内において事実関係を把握する記録は見当たらない」という発言が物議を醸しています。これは完全な「ウソ」です。虐殺の事実を示す文書は数多くあり、政府の中央防災会議の専門調査会が2009年に公表した報告書は「朝鮮人が毒薬を井戸に投じた」などの流言をきっかけに虐殺が起きたと認めています。加害者が起訴されたケースを当時の司法省がまとめた報告書も虐殺を報告していますし、当時の内務省警保局長は各地方長官に宛て「爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり」と朝鮮人の取り締まり強化を指示する電文を送っています。

 なぜ松野長官はこんな見え透いた嘘を発言するのでしょうか。小池都知事は虐殺犠牲者の慰霊式典への追悼文を今年も送りませんでした。

 

 ロシアのプリゴジン暗殺は極めて事実らしいけれどもまだ生存説も完全に否定できない報道ではないでしょうか。その間の本当らしい情報は盛んに専門家が述べていますが、プライベートジェットの搭乗者名簿などいくらでも細工できるのではないかという疑問をどうしても消すことができません。プーチンと彼の関係や叛乱後のプーチンのプリゴジン処遇を見ていると生存可能性の憶測を抑えることができないのです。死亡後に生存をうかがわせる動画がアップされたり彼の死亡を決定づけるにはもう少し時間がかかりそうです。

 

 福島原発の処理水放水に関しては、まだ分からないことに頬かむりして分かった範囲で「安心」を主張するところに危険性を感じます。これは「原発安全神話」と同じ構図です。しかも放水2回目(8月31日)の取水でトリチウムが1㍑10ベクレル検出されたという発表もあり放水前保証したほどの安全性はALPSにないのかもしれないと思わせられました。

 汚染水に含まれている放射性物質は「通常運転」時のものは確定されているかもしれませんが、メルトダウンした原子炉から発生するものにどんなものがあるかはまだ未確定部分も残されています。それは原爆が爆発力以外に放射能が人体に与える影響が分からないうちに投下された状況と同じ危険性を感じます。もしALPSの除去物質以外に有害物質があったとしたらそれは除去されずに放水されるのですから危険性は排除できません。中国人民の過剰とも思える反応はひょっとしたらその辺にあるのかもしれません。

 

 以上に述べたように情報には①ウソ②不確実なもの③分からないことがあるのを分かっている範囲で判断したものが一見本当らしい装いで流通しています。これを見抜く力が情報化時代に求められるリテラシーですが、危険なのは嘘や不確かな情報を好んで選択する傾向が強いことです。トランプ現象やネット右翼はそのひとつです。

 

 政府や公共の発表を信じることができない現在の状況は政治家や役人の言葉に重みがないことのもたらした悲しい現実です。