2016年9月26日月曜日

壊れた男

 「ドライバーで妻を刺す、殺人未遂の疑いで86歳夫を逮捕」というニュースがあった。74歳の妻をマイナスドライバーで刺すなどした夫は「妻を殺そうとしたことに間違いありません」と容疑を認めているという。事件前ふたりは口喧嘩していたということも伝えられている。
 最近この種の事件が多い。高齢の夫、男が、妻や家族に暴力をふるったり殺したりしている。家族も当然そこそこいい歳をした息子や娘の場合が多いが、分別盛りの大人同士がどうしてこんな状況に陥ってしまうのだろうか。
 「壊れた男」が多すぎる。
 
 男を壊すのは難しくない。ただ相手が疲れてるときを見計らって、休みなしに愚痴り、丸め込み、叱り、小言を言い、悩ませ、涙を流せばいいのだ。やがて男は二つに一つしか選べなくなる。出ていくか、とどまって壊れるかだ。そういう環境にとどまっているのは、青ざめた男の抜け殻か、くすぶり続ける怒りの塊だ。怒りの塊となった男は、常に歯を食いしばり、口を開いて一からけんかを始めるよりは、目をそらしているほうを選ぶ。
 これはグレアム・ジョイス著人生の真実(田泉訳・創元海外SF叢書)」からの引用だが核心を突いている。定年退職をして「家庭」に『主たる居所』を定めようとした男にとって「家」は居心地の良い場所とは言い難いことが多い。そりゃあそうだろう、これまで会社や遊びにうつつを抜かして家はそのための「体力再生基地」であったし、ましてや家を取り巻く「地域社会」とは没交渉だったのだから、突然居場所を求めてもそこにあろうはずがない。「既得権者」たる妻や地域の実力者との確執があって当然だろう。それなりのキャリアを誇っていた男が何者でもないタダの高齢の男として放り出され、そこからそれなりの「存在価値」をもったオトコとして『認知』されるためにはなりの努力が求められるがそれは並大抵のものではない。その気力と体力もなく「工夫」もないとなれば、畢竟「青ざめた男の抜け殻」か「くすぶり続ける怒りの塊」にならざるを得ない。「怒りの塊」となった『壊れた男』が「目をそらす」のに耐え切れなくなったとき、刺してしまう。
 
 「空気のような存在」という表現で歳経た夫婦を表現することがあるが、そしてそれは「肯定的」である場合が多いがそれは間違っていると思う。結婚して、子供をもうけ育てて自立させ、幸いに孫も授かったのちの夫婦に、残された「ミッション」は何なのだろうか。その時、互いが空気のように意識することなく気づかいもなく、タダの同居人になってしまえば「ギブ・アンド・テイク」の関係になってしまうだろう、金銭と仕事(家事や身の回りのあれやこれや)の。そうなったとき、金銭負担の多少や仕事ぶりの良し悪しが相互評価の大きなポイントになってくる。たとえ夫婦でも金銭はトラブルのもとになりかねないし、歳を取れば身体能力が低下するから家事などの丁寧さにも影響してくるから不満も募る。そんなとき、気づかいが相手に伝わらなければ爆発するのは当然である。夫婦であっても家族であろうとこの理屈に変わりはない
 ふたりのこれからのミッション―生きがいを作り認め合って、衰えを気づかい労わりあう(夫婦であれ家族であれ)関係を築く努力は、意識して行わなければ『壊れた男』に成り果てるであろう。
 
 さてそのミッションだが健康志向でジョギングやジム・トレに精出したり趣味の絵画や陶芸に打ち込むタイプもいれば「終活」とやらで「死後」までも「マネイジメント」する年寄りも多い。しかしいずれも『自分』にかかずらわっているだけで社会との接点がどこにもない。
 日本人の65歳以上の高齢者割合が25%を超え(26.7%3384万人)、男性は1462万人(男性人口の23.7%)、女性は1921万人(女性人口の29.5%になった現在、それだけの人間が「生産社会」とも「生活維持―行政社会」とも没交渉で、ひたすら「扶養階層(賦課式年金の支給対象)」として「消費階層」としてのみ存在する社会は『異常』だ。古代ギリシャ・ローマ時代の「市民階層」以来といってもいいかもしれない。しかし彼ら市民は「奴隷」の労働成果を搾取して生活を維持する一方でポリスを経営し文化創造に携わっていた。
 
 人口減少時代に突入し労働人口が不足するこれからは70才停年も視野に入っているし、体力が続く限り企業社会に留まることも可能になるに違いない。そうした仕組みは真剣に考えられるべきだが、それでも体力が衰えて企業社会から退却せざるを得なくなって後の『社会参加』のあり方模索されなければならない。それは社会的に必要である以上に個人にとって重要である。
 
 人間が社会的存在であることは自明であるが、それにもかかわらず、これまで年金生活者―企業社会からリタイアして後の高齢者の社会との『没交渉』は放置されてきた。その結果高齢者のほとんどは『狭い、閉鎖された』世界での恵まれた生活をヌクヌクと享受してきた。その歪みが個人的にも社会的にも累積して限界に達しつつあ老人の『暴発』や『世代間格差』への若者の不満となって表面化してきている。
 
 長命を喜び、慶ばれる社会になる努力がこれから必要になってくる
 

2016年9月19日月曜日

なぜ国語きらいになるのか(二)

 九月日のコラムで小学校中学校の子どもたちが国語を苦手な教科の二位にしている現状を憂えて、なぜ国語きらいになるのかを私なりに考えてみた。同じ問題を作家の丸谷才一が「国語教科書批判」というかたちで昭和49年に書いている(新潮文庫『完本 日本語のために』)。40年以上前の論考だが非常に示唆に富んでいるので以下に彼の考えを記してみたい。
 
 まず、彼が現代の日本語をどのように見ているかをみてみよう。
 「現代日本文明にとってさしあたり大事なのは、明確精細にものごとを伝達する散文を社会一般のものにすることなのだが、この能力の下地になるのは、意外なことに、古文と漢文の素養にほかならない。そのへんの事情をうんと大がかりにすれば、夏目漱石と森鴎外はなぜあのやうな口語文を書けたかといふ話になるだろう。」
 「口をついて出るおしゃべりをそのまま書き写せば口語体になると、世間では漠然と考へてゐるらしいが、それはまったく間違ってゐる。口語体とは口語の文体の意である。それは常に文体としての形と整いを要求されるし、その形と整いの規範は、実質的にも歴史的にも文語体にあるのだ。すなはち、口語文とはあくまでも文語体のくずれ、ないし変容にほかならないのである。(略)つまり口語文には、文語文といふ骨格が一本とほってゐる。とすれば、子供に文語文を読ませることの重要性は至って明らかな話にならう。それが日本語の文体をすこやかにし、美しく保つための、基本的な手段なのである。」
 「日本語にとって漢字と漢語は欠くべからざるものである。奈良町以前から、それによりかかり、それを利用し、それを吸収して、国語は出来あがったのだ。そして中国文の翻訳の技術―漢文によって日本語の文体の重要な部分が形づくられたことは、改めて確認するまでもあるまい。とすれば、小学生にはともかく中学生には漢文の初歩を一通り手ほどきすることがどうしても必要なはずなのに、小学四年生にローマ字を教へたがるほど国語教育の幅をひろげることに熱心な文部省が中学の漢文に至って冷淡なのは、けだし天下の奇観と称すべきであろうか。(略)日本文化は漢文によって培われた。この、大人なら誰でも知ってゐる当り前のことを認める以上、義務教育における漢文の教材はもっとふやさなければなるまいし、殊に簡黙雄勁な論説文を読ませることによって、現代日本人のともすればふやけがちな文体感覚を鍛えることはむしろ急を要すると見受けられる。」
 
 このように日本語の特色を強調する丸谷は国語教科書の質の悪さを「口語体の未成熟さ」を理解していないとして教科書編者に批判を向ける。
 「文語体は文体として確立してゐたのである。ところが、口語体は文体として確立してゐない。(略)では、口語体は文体としてなぜ確立されなかったのか?(略)本来、「口語体」とは、「文語体」が文章語による文体という意味であるのに対して、口語語による文体といふ気持ちで名づけられたものであったろう。つまり、それはあくまでも文体の一種であったのだ。(略)「言文一致」といふスローガンはあまりにも勇ましくあまりにも粗雑であった。」
 そして子どもたちを国語きらいにする教科書の根本的な弱点をこう分析する。
 「教科書は規範である。(略)それゆゑ国語教科書は名文を収めなければならず、決して駄文を含んではならない。(略)手に負えないのはいはゆる別記著作者(編者)たちの書いた無署名のもので、しかも教科書はたいてい彼らの文章で成立ってゐるから始末が悪い。(略)こんなことならいっそ、編者たちは純粋に編集にたずさはることにして、自分では何も書かないほうがよいのではないか。」
 更に編者の無能ぶりをこうも批判する。
 「子供に詩を作らせるな/第一の理由は、詩は書くのがむずかしいからである。(略)詩作のためには豊かな詩情ときびしい言葉の修練が必要である。その二つを持ち合せてゐる大人だって滅多にゐないのに、小学生が全員、詩を書けるはずがない。/第二の理由は、現代日本では詩とは何かといふことが明らかでないからである。文語文から口語文へ移ってから、日本の詩は韻律と別れ、自由詩が標準的な形となった。このせいで、単なる散文を行分けしたものと、詩とは、素人目には見分けがつかなくなった。意地悪な言ひ方をすれば、玄人にだって区別がつかないのじゃないか。本職の詩人をも含めて社会全体が、詩とは何かがわからずにゐるとき、小学生に詩を書けと要求するのは乱暴な話だろう。(略)子供には詩を書かせないで、しかしいい詩を読ませよう。(略)言葉がどんなに精妙で力強いものかといふことを感じ取らせるためには、ぜひとも子供に詩を読ませ、朗読させ、さらに暗誦させなければならない。(略)大事なのはこの、言葉の力、それによって養われる言葉への関心である。」「何もみんなをいわゆる名文家に仕立てようと骨を折ることはない。誤字脱字がなくて、語法の正しい、達意の文章が書ければ、それでいちおう上出来なのだ。」
 
 丸谷が最も問題視しているのは「話し方、聞き方」教育についてである。
 「国語教科書を読んでわたしが最も不満に思ったのは、話し方と聞き方を教えようとしないことだった。この二つは今の日本語の重要課題であるはずなのに、編纂者たちはいっこうに気にしてゐないらしい。」しかも少ない話し方、聞き方の教科の内容が「インタビューの仕方」だとか「会議の進め方」などという見当はずれなものが中心を占めている。「わたしの求めるのはもっと普通の関係での話し方、聞き方である。」と意見した上で、話し方については、まず声の出し方(狂言師が手本になる)から指導すべきであり、言葉の選び方、論理の筋をきちんと通しながらしかし優しく語ることが基本であろうと進めていく。聞き方についてはこう言っている。「聞き方で大切なのは、相手が一言いふたびに口をはさまずに、(略)部分的に問題があってもそれへの反対は軽く触れるだけにし、大局で判断して、大筋のところで賛成なら賛成、反対なら反対するのである。これでゆけば議論はゲームに近いものになって、その分だけ中身が濃くなるし、わだかまりが残る可能性もすくなくなるだろう。そして子供のときからこんな話し方と聞き方を習ってゐれば、おのずから話し上手、聞き上手の大人がふえて、今の日本で横行してゐるやうな、まくし立て、こけおどかし、揚げ足取り、言いのがれ、言ひ抜け、言いがかり、水かけ論、空念仏、生返事、空理空論、すれ違ひははやらなくなる…見込みがかなりある。」
 
 入試については稿を改めて(昭和61年『桜もさよならも日本語』)「慶応法学部は試験をやり直せ」などと校名をあげて主たる大学の国語入試問題を批判しそのあまりのひどさを嘆いている。つまるところ学校を取り巻く文部官僚、学校と教員、教科書会社のレベルの低さが現在の国語教育の『混沌』を生んでいると結論づけている。
 
 丸谷才一の国語教育についての結語はこうなっている。
 「都市化その他のせいで、日本語の文化は全く新しい段階にはいった。そのことは今の話し方、聞き方の問題でも、また、たとえば電話のかけ方の問題でもよくわかるだろう。」「国語教科書は一方ではそのやうな現代社会の要求にこたへなければならないし、他方では、日本語の伝統を正しく踏まへてゐなければならない。しかしさういふ態度で作られてゐるとは、わたしには思えないのである。」
 
 
 

2016年9月12日月曜日

幸福の風土性

 「ヨーロッパ人の『幸福』の観念をもって他の国土の住民の幸福を量ってはならない。ヨーロッパ人は幸福という点において決して最も進歩しているもの、あるいは模範となるべきものではない。ただヨーロッパ特有の一つの類型を示しているに過ぎないのである。世界の各地方には、人道の見地から見て決してヨーロッパに劣らない幸福が、それぞれの土地の姿において存している。すなわち幸福は風土的なのである。」
 これはドイツの哲学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744~1803)が歴史風土学から「幸福」について書いた一節である。グローバル化が一巡して当初のバラ色の「故無き楽観論」が停滞と混沌という『後退期』に行き当たりここ数年は後進国経済の低成長が世界経済の不安定要因のひとつになっている。しかしそれは維新以後の日本の順調かつ驚異的な成長を「後進国発展のモデルケース」として当然視し後進国の市場化は何の障害もなく実現し世界経済にプラスの効果のみをもたらすという誤解が原因している。我国は江戸期までの長い歴史の過程で高い「識字率」などの文化的蓄積があり、生産性の高い農業技術、商業や金融の高度な発達を遂げていたうえに明治政府以来のインフラ整備と民族性に起因した「貯蓄率」の高さによる資本の蓄積など産業発展の基盤整備を終えた後に「近代化」を迎えた。しかし20世紀後半のグローバル化で世界経済に組み込まれた『後進国』の多くは我国のような蓄積の無い国々がほとんどである。識字率や教育レベルの低さ、インフラ蓄積の過少、そしてなにより貯蓄率の低さに起因する過小資本というネックがグローバル化のスムースな成熟の大きな阻害要因となっている。
 
 問題は先進国がグローバル化を経済的側面からのみ捉えて、その国の国民の「幸福」達成を後進国進出の根本目標に据えていなかったことにある。たとえあったとしてもそれはヘルダーのいう『ヨーロッパ(先進国)的幸福』の押しつけであった。そこに先進国の傲慢さがありヘルダーはそれをこんな風に戒めている。
 「静かな喜びをもって妻子を慈しみ、己の部族に対しても己の生に対してもただ控え目に働く、――そういう野蛮人の方が人類愛に興奮する人々よりも一層真実な人間だと思う。」
 
 更に考えるべきは現在の工業製品はすべて「機械生産」であるから「人件費」が安ければどの国であろうと構わないという粗雑な進出姿勢だ。アジア、アフリカ、中東、南米など発展途上国は世界各地に散在しているが各国の気候・風土は著しい差異を有しており歴史、宗教、部族、言語など歴史的・社会的背景も多様であるということに十分配慮した緻密な「グローバル戦略」が必要だということを知るべきである。
 
 折りしも北朝鮮のミサイル発射実験や核実験が頻発しているが、ヘルダーはそんな事態も予測したかのように次のような「幸福観」を記している。
 「大きい国家において一人の王冠をつけたばか者が栄えるために多数の者が餓え、圧抑され、殺されるというごとき状態より、国家なくしてすべての人が静かな生を楽しむ小さな団体の方が、はるかに人道に合する。」
 隣国の「若き独裁者」は『未熟さ』を剥き出しにして『専横』を繰り返している。疑心暗鬼が精神を蝕んで『粛清』という『残虐行為』を重ねている。かといって「制裁」は彼の心を頑なにするだけだということはこれまでの経験で先進国の統治者たちは学習しているはずだが今回もまたその愚を繰り返すのだろうか。
 
 グローバル化の過程で先進国は西欧型の「幸福」を押しつけてきた。昨日まで「部族的社会」に暮らしてきた人たちに「国民国家」でこそ機能する国内統一の『選挙』を行わせて『国民的合意』を形成させようとした。しかし彼らはまだ『部族』意識に止まっているのだから『国民』的意識は持てようはずもない。まやかしの『国民的合意』は『部族的矛盾』を超越することはできなかった。
 識字率などの教育的レベルの向上、インフラ整備と貯蓄量の拡大、部族的意識の国民意識への統合。こうした各種各段階の『段取り』をすっ飛ばして性急にグローバル化を図ろうとした『ひずみ』が『世界的経済停滞』というかたちに世界を追い込んでいる。しかしそれは世界が本当に『グローバル化』するための少し長めの『調整』に過ぎないということに気づくべきなのだ。
 
 心すべきは、幸福は風土的なものである、ということである。
この稿は和辻哲郎著『風土』を参考にしています

2016年9月5日月曜日

なぜ国語きらいになるのか

 ㈱バンダイの行った「小中学生の勉強に関する意識調査」によると小学生中学生共に国語が苦手な教科の2位になっている。1位は算数/数学なのだが不思議なことに好きな教科の1位も算数/数学が占めている(このことについてはここでは触れない)。国語がなぜ子どもたちは苦手なのか。苦手ということは嫌いでもあるだろうから、なぜ嫌いになるのかを考えてみたい。
 実は何年か前身内の集まりがあってなかに大学受験に合格した子どもが居り、聞くとなかなかできのいい子なのに国語が嫌いだというのを知って少々奇異な感を抱いた。同じ年頃の2、3人に聞いても皆国語嫌いというのにショックを受けた。そしてこの調査だ。これは大問題ではないか、と危機感を抱いた次第である。
 
 国語はいうまでもなく母国語―日本語を学習する。日本語の「話す、聞く」「読む」「書く」という能力を養成するのを目的とする教科である。
 「話す、聞く」は、コミュニケーション能力、学校で養成する能力は「表現力」「発表力」「説得力」という「話す」能力が主体になりがちだが、実際の生活やビジネスで役立つのはむしろ「聞く」能力の方だ。いわゆる「聞き上手」な人が世の中では評価が高い。学習の評点を付けるには「話す」能力の方が表し易いからそうならざるを得ないのだが、教科としては『不完全』になる。最近の傾向として「ディベート」という説得力を競い合う話し方がビジネス能力として評価されるようになってなおさら「話す」能力が重要視されているが一考の余地がある。価値が多様化し多国籍の人たちが共同してビジネスや仕事・作業をやり遂げることが多い現在、「言い負かす」能力よりまとめ上げる能力として「聞き取る」「調整する」能力の方が大事である。
 表現力がまだ未熟な小学校―とくに低学年で、一部の早熟な話し上手な子だけが評価されるようなことがあれば、そうでない子は「国語きらい」になる可能性は十分ある。
 
 読み書きの対象になる文章を便宜上①文学②論文③ビジネスレター(企業のもの、官庁のもの)④メール、手紙に分類して考えてみる。学校で学ぶべきはどれがふさわしいか。
 「書く」側面からは、文学や論文の比重は低くてもいいのではないか。特殊な能力と才能が求められる文章だから普通の小中学生には不向きでもある。すると学校で教えるべき「書く」能力は③ビジネスレターと④メール・手紙の文章ということになるが教える側(文科省、学校・先生、教科書会社)はその辺の『絞り込み』をしているだろうか。一般人に必要な実用的な文章のほとんどはこれらだからこれに『絞り込んで』教えるべきだというのである。この二つ文章に共通する特徴は「伝えたいことを明瞭に、分かりやすく、簡素に」書くということだ。この基礎ができておれば文学や論文は必要になった時『修』をすればそれなりの物は書けるようになる
 中途半端に文学や論文まがいの文章を書かせていないか。子どもが国語嫌いになる原因の一端はこの辺りにもあるように思う。
 
 「読む」能力については文学や論文の文章も加えるべきかもしれないが、そして古典、漢文なども加えるべきだが、あえて『評価』の対象にはできるだけ含まない方がいいと考える。私がこれまでに何度も読み返した小説夏目漱石著『草枕』があるが、読むたびに感ずるところ(感動するところ)が異なるし、巧いと感心する箇所も違う。文学というものはそんなものだし、また個人個人で異なって当然なのだ。それを一定方向の読み方感じ取り方を強制すると、面白くないと感じる子どもが「国語」から離れてしまう。
 いつかテレビに「伝説の国語教師」が紹介されていた。元灘校の国語教師で橋本武という方だが彼は中勘助著『銀の匙』という掌編小説を教科書として国語教育を行ったことで知られている。岩波文庫でわずか200頁少々のこの小説は、伯母さんとの思い出の詰まった銀の匙にまつわる少年時代の思い出を綴ったものだが夏目漱石が絶賛したことでも知られている。この小編をどんなに読み込んでも普通の能力では数通りの読み方しかできないが、彼は一年の授業をこれだけで構成したのだ。
 文学を読むという事はそれほど奥深いものなのだ。広ものを一定の『限り』方向づけするのはある意味で誤りでもある。「読む」ことは大事だし読むことで「語彙力」も増す。国語教育で最も重要な能力は「語彙力」かも知れない。そうした側面の評価はすべきだが、今学校で行われている「読解力」の授業は再考の余地あり、である。
 
 国語を「試験(受験)」の側面から考えてみると他の教科―特に算数・数学や理科に比べて評価の難しい教科といえる。点数の付けにくい教科を他の教科と同じように試験するところに無理がある。結局「入試問題(特に大学の)」を『解く』という観点から国語教育が構成されているのが現状だろう。点数の付け易い側面から重点的に教科が編成されているといってもいい。しかしそれが結果として、世界でも類を見ない「日本語」という「豊かな」言語を、大事な部分が削ぎ落とされた「貧しい」ものにしてしまっているのではないか。そしてそれが子どもたちを「国語きらい」にしている最大の問題点なのではないだろうか。
 
 スマホやパソコンがここまで普及した一方で新聞を購読する家庭がどんどん減り子どもたちの周囲から「本」がすっかり姿を消してしまった。更に親子でさえスマホの「LINE」で会話を済ましてしまう風潮が強くなりつつある状況では、「従来型」の国語教育を根本的に見直さなければ、子どもたちはますます『国語きらい』になってしまうに違いない。
 
 そんな折に英語教育の早期化が決まった。『国語』を子どもたちの苦手な教科『2位』に放置したままそっちへいっていいのだろうか。