2016年9月5日月曜日

なぜ国語きらいになるのか

 ㈱バンダイの行った「小中学生の勉強に関する意識調査」によると小学生中学生共に国語が苦手な教科の2位になっている。1位は算数/数学なのだが不思議なことに好きな教科の1位も算数/数学が占めている(このことについてはここでは触れない)。国語がなぜ子どもたちは苦手なのか。苦手ということは嫌いでもあるだろうから、なぜ嫌いになるのかを考えてみたい。
 実は何年か前身内の集まりがあってなかに大学受験に合格した子どもが居り、聞くとなかなかできのいい子なのに国語が嫌いだというのを知って少々奇異な感を抱いた。同じ年頃の2、3人に聞いても皆国語嫌いというのにショックを受けた。そしてこの調査だ。これは大問題ではないか、と危機感を抱いた次第である。
 
 国語はいうまでもなく母国語―日本語を学習する。日本語の「話す、聞く」「読む」「書く」という能力を養成するのを目的とする教科である。
 「話す、聞く」は、コミュニケーション能力、学校で養成する能力は「表現力」「発表力」「説得力」という「話す」能力が主体になりがちだが、実際の生活やビジネスで役立つのはむしろ「聞く」能力の方だ。いわゆる「聞き上手」な人が世の中では評価が高い。学習の評点を付けるには「話す」能力の方が表し易いからそうならざるを得ないのだが、教科としては『不完全』になる。最近の傾向として「ディベート」という説得力を競い合う話し方がビジネス能力として評価されるようになってなおさら「話す」能力が重要視されているが一考の余地がある。価値が多様化し多国籍の人たちが共同してビジネスや仕事・作業をやり遂げることが多い現在、「言い負かす」能力よりまとめ上げる能力として「聞き取る」「調整する」能力の方が大事である。
 表現力がまだ未熟な小学校―とくに低学年で、一部の早熟な話し上手な子だけが評価されるようなことがあれば、そうでない子は「国語きらい」になる可能性は十分ある。
 
 読み書きの対象になる文章を便宜上①文学②論文③ビジネスレター(企業のもの、官庁のもの)④メール、手紙に分類して考えてみる。学校で学ぶべきはどれがふさわしいか。
 「書く」側面からは、文学や論文の比重は低くてもいいのではないか。特殊な能力と才能が求められる文章だから普通の小中学生には不向きでもある。すると学校で教えるべき「書く」能力は③ビジネスレターと④メール・手紙の文章ということになるが教える側(文科省、学校・先生、教科書会社)はその辺の『絞り込み』をしているだろうか。一般人に必要な実用的な文章のほとんどはこれらだからこれに『絞り込んで』教えるべきだというのである。この二つ文章に共通する特徴は「伝えたいことを明瞭に、分かりやすく、簡素に」書くということだ。この基礎ができておれば文学や論文は必要になった時『修』をすればそれなりの物は書けるようになる
 中途半端に文学や論文まがいの文章を書かせていないか。子どもが国語嫌いになる原因の一端はこの辺りにもあるように思う。
 
 「読む」能力については文学や論文の文章も加えるべきかもしれないが、そして古典、漢文なども加えるべきだが、あえて『評価』の対象にはできるだけ含まない方がいいと考える。私がこれまでに何度も読み返した小説夏目漱石著『草枕』があるが、読むたびに感ずるところ(感動するところ)が異なるし、巧いと感心する箇所も違う。文学というものはそんなものだし、また個人個人で異なって当然なのだ。それを一定方向の読み方感じ取り方を強制すると、面白くないと感じる子どもが「国語」から離れてしまう。
 いつかテレビに「伝説の国語教師」が紹介されていた。元灘校の国語教師で橋本武という方だが彼は中勘助著『銀の匙』という掌編小説を教科書として国語教育を行ったことで知られている。岩波文庫でわずか200頁少々のこの小説は、伯母さんとの思い出の詰まった銀の匙にまつわる少年時代の思い出を綴ったものだが夏目漱石が絶賛したことでも知られている。この小編をどんなに読み込んでも普通の能力では数通りの読み方しかできないが、彼は一年の授業をこれだけで構成したのだ。
 文学を読むという事はそれほど奥深いものなのだ。広ものを一定の『限り』方向づけするのはある意味で誤りでもある。「読む」ことは大事だし読むことで「語彙力」も増す。国語教育で最も重要な能力は「語彙力」かも知れない。そうした側面の評価はすべきだが、今学校で行われている「読解力」の授業は再考の余地あり、である。
 
 国語を「試験(受験)」の側面から考えてみると他の教科―特に算数・数学や理科に比べて評価の難しい教科といえる。点数の付けにくい教科を他の教科と同じように試験するところに無理がある。結局「入試問題(特に大学の)」を『解く』という観点から国語教育が構成されているのが現状だろう。点数の付け易い側面から重点的に教科が編成されているといってもいい。しかしそれが結果として、世界でも類を見ない「日本語」という「豊かな」言語を、大事な部分が削ぎ落とされた「貧しい」ものにしてしまっているのではないか。そしてそれが子どもたちを「国語きらい」にしている最大の問題点なのではないだろうか。
 
 スマホやパソコンがここまで普及した一方で新聞を購読する家庭がどんどん減り子どもたちの周囲から「本」がすっかり姿を消してしまった。更に親子でさえスマホの「LINE」で会話を済ましてしまう風潮が強くなりつつある状況では、「従来型」の国語教育を根本的に見直さなければ、子どもたちはますます『国語きらい』になってしまうに違いない。
 
 そんな折に英語教育の早期化が決まった。『国語』を子どもたちの苦手な教科『2位』に放置したままそっちへいっていいのだろうか。

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