2016年9月19日月曜日

なぜ国語きらいになるのか(二)

 九月日のコラムで小学校中学校の子どもたちが国語を苦手な教科の二位にしている現状を憂えて、なぜ国語きらいになるのかを私なりに考えてみた。同じ問題を作家の丸谷才一が「国語教科書批判」というかたちで昭和49年に書いている(新潮文庫『完本 日本語のために』)。40年以上前の論考だが非常に示唆に富んでいるので以下に彼の考えを記してみたい。
 
 まず、彼が現代の日本語をどのように見ているかをみてみよう。
 「現代日本文明にとってさしあたり大事なのは、明確精細にものごとを伝達する散文を社会一般のものにすることなのだが、この能力の下地になるのは、意外なことに、古文と漢文の素養にほかならない。そのへんの事情をうんと大がかりにすれば、夏目漱石と森鴎外はなぜあのやうな口語文を書けたかといふ話になるだろう。」
 「口をついて出るおしゃべりをそのまま書き写せば口語体になると、世間では漠然と考へてゐるらしいが、それはまったく間違ってゐる。口語体とは口語の文体の意である。それは常に文体としての形と整いを要求されるし、その形と整いの規範は、実質的にも歴史的にも文語体にあるのだ。すなはち、口語文とはあくまでも文語体のくずれ、ないし変容にほかならないのである。(略)つまり口語文には、文語文といふ骨格が一本とほってゐる。とすれば、子供に文語文を読ませることの重要性は至って明らかな話にならう。それが日本語の文体をすこやかにし、美しく保つための、基本的な手段なのである。」
 「日本語にとって漢字と漢語は欠くべからざるものである。奈良町以前から、それによりかかり、それを利用し、それを吸収して、国語は出来あがったのだ。そして中国文の翻訳の技術―漢文によって日本語の文体の重要な部分が形づくられたことは、改めて確認するまでもあるまい。とすれば、小学生にはともかく中学生には漢文の初歩を一通り手ほどきすることがどうしても必要なはずなのに、小学四年生にローマ字を教へたがるほど国語教育の幅をひろげることに熱心な文部省が中学の漢文に至って冷淡なのは、けだし天下の奇観と称すべきであろうか。(略)日本文化は漢文によって培われた。この、大人なら誰でも知ってゐる当り前のことを認める以上、義務教育における漢文の教材はもっとふやさなければなるまいし、殊に簡黙雄勁な論説文を読ませることによって、現代日本人のともすればふやけがちな文体感覚を鍛えることはむしろ急を要すると見受けられる。」
 
 このように日本語の特色を強調する丸谷は国語教科書の質の悪さを「口語体の未成熟さ」を理解していないとして教科書編者に批判を向ける。
 「文語体は文体として確立してゐたのである。ところが、口語体は文体として確立してゐない。(略)では、口語体は文体としてなぜ確立されなかったのか?(略)本来、「口語体」とは、「文語体」が文章語による文体という意味であるのに対して、口語語による文体といふ気持ちで名づけられたものであったろう。つまり、それはあくまでも文体の一種であったのだ。(略)「言文一致」といふスローガンはあまりにも勇ましくあまりにも粗雑であった。」
 そして子どもたちを国語きらいにする教科書の根本的な弱点をこう分析する。
 「教科書は規範である。(略)それゆゑ国語教科書は名文を収めなければならず、決して駄文を含んではならない。(略)手に負えないのはいはゆる別記著作者(編者)たちの書いた無署名のもので、しかも教科書はたいてい彼らの文章で成立ってゐるから始末が悪い。(略)こんなことならいっそ、編者たちは純粋に編集にたずさはることにして、自分では何も書かないほうがよいのではないか。」
 更に編者の無能ぶりをこうも批判する。
 「子供に詩を作らせるな/第一の理由は、詩は書くのがむずかしいからである。(略)詩作のためには豊かな詩情ときびしい言葉の修練が必要である。その二つを持ち合せてゐる大人だって滅多にゐないのに、小学生が全員、詩を書けるはずがない。/第二の理由は、現代日本では詩とは何かといふことが明らかでないからである。文語文から口語文へ移ってから、日本の詩は韻律と別れ、自由詩が標準的な形となった。このせいで、単なる散文を行分けしたものと、詩とは、素人目には見分けがつかなくなった。意地悪な言ひ方をすれば、玄人にだって区別がつかないのじゃないか。本職の詩人をも含めて社会全体が、詩とは何かがわからずにゐるとき、小学生に詩を書けと要求するのは乱暴な話だろう。(略)子供には詩を書かせないで、しかしいい詩を読ませよう。(略)言葉がどんなに精妙で力強いものかといふことを感じ取らせるためには、ぜひとも子供に詩を読ませ、朗読させ、さらに暗誦させなければならない。(略)大事なのはこの、言葉の力、それによって養われる言葉への関心である。」「何もみんなをいわゆる名文家に仕立てようと骨を折ることはない。誤字脱字がなくて、語法の正しい、達意の文章が書ければ、それでいちおう上出来なのだ。」
 
 丸谷が最も問題視しているのは「話し方、聞き方」教育についてである。
 「国語教科書を読んでわたしが最も不満に思ったのは、話し方と聞き方を教えようとしないことだった。この二つは今の日本語の重要課題であるはずなのに、編纂者たちはいっこうに気にしてゐないらしい。」しかも少ない話し方、聞き方の教科の内容が「インタビューの仕方」だとか「会議の進め方」などという見当はずれなものが中心を占めている。「わたしの求めるのはもっと普通の関係での話し方、聞き方である。」と意見した上で、話し方については、まず声の出し方(狂言師が手本になる)から指導すべきであり、言葉の選び方、論理の筋をきちんと通しながらしかし優しく語ることが基本であろうと進めていく。聞き方についてはこう言っている。「聞き方で大切なのは、相手が一言いふたびに口をはさまずに、(略)部分的に問題があってもそれへの反対は軽く触れるだけにし、大局で判断して、大筋のところで賛成なら賛成、反対なら反対するのである。これでゆけば議論はゲームに近いものになって、その分だけ中身が濃くなるし、わだかまりが残る可能性もすくなくなるだろう。そして子供のときからこんな話し方と聞き方を習ってゐれば、おのずから話し上手、聞き上手の大人がふえて、今の日本で横行してゐるやうな、まくし立て、こけおどかし、揚げ足取り、言いのがれ、言ひ抜け、言いがかり、水かけ論、空念仏、生返事、空理空論、すれ違ひははやらなくなる…見込みがかなりある。」
 
 入試については稿を改めて(昭和61年『桜もさよならも日本語』)「慶応法学部は試験をやり直せ」などと校名をあげて主たる大学の国語入試問題を批判しそのあまりのひどさを嘆いている。つまるところ学校を取り巻く文部官僚、学校と教員、教科書会社のレベルの低さが現在の国語教育の『混沌』を生んでいると結論づけている。
 
 丸谷才一の国語教育についての結語はこうなっている。
 「都市化その他のせいで、日本語の文化は全く新しい段階にはいった。そのことは今の話し方、聞き方の問題でも、また、たとえば電話のかけ方の問題でもよくわかるだろう。」「国語教科書は一方ではそのやうな現代社会の要求にこたへなければならないし、他方では、日本語の伝統を正しく踏まへてゐなければならない。しかしさういふ態度で作られてゐるとは、わたしには思えないのである。」
 
 
 

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