2009年11月23日月曜日

詐欺女事件

 お金持ちと普通の家が今よりもっとはっきりとしていた頃、「ええ氏(お金持ちで育ちのいい家の人のことを関西ではこう云っていた)」の旦那さんが『御妾さん』をもつことは割合と普通のことであった(勿論全てがそうではなかったが)。正妻さんは器量もそこそこで頭もよくキチンとしていて何より育ちのいい家から嫁いできているから品が良い、いわゆる『良妻賢母』型で文句のつけようがなくご近所の評判も悪くない。ところが妾になった女性というのが教養が乏しくだらしの無いところもあって、何より器量が正妻さんより相当劣る場合が少なくなかった(と聞いている)。あの正妻さんのどこに不満があってあんな女と、といわれるようなタイプが類型的な『御妾さん』であったようだ。

 最近マスコミを騒がしている「34歳女詐欺事件」であるとか「鳥取35歳詐欺女事件」で当該の女性が「肥満型で余り美人でない」ということで話題になっているのを知って『お妾さん』の話を思い出した(事件の彼女たちがどれほど上等かどうかはしらないが)。男性が女性に求めるものが一様でないことを知っていれば別に不思議でないのだが、世間ではマスコミも含めて不審がっているのがおかしい。多分大量に同種の情報が一方通行にタレ流されているので『男が見るいい女』がステロタイプ化されてしまっているのだろう。未熟な若い人ならそれも仕方ないが、いい年をした年配の男性までもが「若いピチピチした女」の尻を追いかけているのは余りミットモいいものではない。

 人為的につくられた流行に押し流されるように女性や男性の良し悪しまでも自分の価値基準で判らず借り物の尺度で判定している現状を嘆いても仕方ないのだろろうが、相手に真正面からぶつかってみて欲しいと思う。

 先のお妾さんの話は、家では表の顔で通さなければならないから形式ばって息が抜けない反動で気楽な場所を求めてそうした状況に合う女性を選んだ、ということらしい。決して褒められたことではないが、そんな余裕のあった時代が僅か50年ほど前だったことに驚く。

2009年11月18日水曜日

残虐への郷愁

  久し振りに横浜に行ったついでに港の見える岡公園の中にある「神奈川近代文学館」へ行ってみた。これが思わぬ儲けもので興味深い資料の数々に出会った。なかでも夏目漱石の墨絵二幅には驚かされた。とても素人の手遊(てすさ)びとは思えない見事なもので、改めて昔の文人の教養の深さに感服させられた。

特別展示で「大乱歩展」が行われていたが、そのうちの月岡芳年『無残絵』コーナーのタイトルに用いられていた「残虐への郷愁」という彼のエッセーが気になって、帰ってから早速乱歩全集を開いてみた。「神は残虐である。人間の生存そのものが残虐である。そして又、本来の人類が如何に残虐を愛したか。神や王侯の祝祭には、いつも虐殺と犠牲とがつきものであった。社会生活の便宜主義が宗教の力添えによって、残虐への嫌悪と羞恥を生み出してから何千年、残虐はもうゆるぎのないタブーとなっているけれど、戦争と芸術だけが、それぞれ全く違ったやり方で、あからさまに残虐への郷愁を満たすのである」。短いエッセーの結語にこうあった。

最近残忍な犯行が際立って多くなった。今マスコミを騒がしている「島根女子大生殺人事件」をはじめとしてここ数年の間に両手に余る事件が発生している。そこで展開される事件の分析や解決策のなかに乱歩のいう『本来の人間が有していた残虐』に根ざした論が全く無かったことに違和感を覚えていた。

幼い子が蟻を圧し殺そうとすると「アリさんが可哀そうでしょう。止めようね」とやさしく諭すことがほとんどであろう。ミミズを足で踏みつぶそうとしたら「気持ち悪い。やめなさい」と親の感情を押し付けてしまうのではないか。しかし人間の心の奥底には今でも『本源的な残虐さ』が潜んでいるのは間違いない。自我の目覚める前に小さな生き物や植物を殺したり傷めることでかすかな満足を得ながら、社会生活の便宜主義という『道徳』や『日常的な宗教の力添え』を通過する中で「残虐を飼い慣らす」技術を身につけるのではないだろうか。最初の『小さな満足』をえないで一足飛びに大人になってしまった子どもたちが多すぎる気がしてならない。

2009年11月1日日曜日

表現の自由

 秋競馬真っ盛りである。菊花賞、天皇賞秋から暮の有馬記念へとつづくこの数ヶ月は競馬ファンにとって堪らない。馬券が的中すればもっと良いのだがほとんどの人は多分マイナスに違いない。そんなファンが頼りにする『競馬新聞』だが的中率は意外と低い。昔大川慶次郎という競馬評論家が1日の全レース的中という偉業を成し遂げたことがあったが、このような僥倖は空前絶後のことだ。

 シンザンがダービーに勝った年に競馬を始めた私の競馬暦はそろそろ半世紀になるがまったくの『馬券下手』で勝った記憶があまり無い。血統から動物学的アプローチまで相当深く『競馬道』を極めた積りだが結論的に必勝法が「騎手で買う」では、莫大な投資は全く生かされていないに等しい。しかし競馬を構成している多種多様な要素の中で公表されている最も確率の高い情報は「騎手の勝率」だからそのランク上位騎手を中心に推理を組み立てることはあながち間違いとはいえない。その証拠に人気上位の馬に勝率の低い騎手が騎乗しているレースでベテラン騎手の騎乗馬を絡ませて高配ゲットというケースは決して少なくない。

 いずれにしても競馬の予想は当てにならないのが常識だが経済評論家の『景気見通し』が同様の評価しかないのは困ったことだ。これについては予想する側に言い訳があるに違いない。そもそも経済は多様な要素が影響しあって結果に繋がるものだからその前提を抜きにして「来年の景気は?」と問われても答えに100%責任は持てないという言い分には同情の余地がある。まぁ競馬の予想も景気の見通しにも全幅の信頼を置いている人は余り居ないから詮索はこれ位で止めておこう。

 冗談で済まないのは格付け会社の「格付け」だ。今回の金融危機は複雑な金融工学を駆使して作られた金融商品の破綻が原因になったが、投資家は「格付け」を頼りに商品を購入していた。その投資家の損害賠償請求に対して「表現の自由」を盾に格付け会社が責任回避しているというのだから呆れてしまう。投資後進国の我国が「貯蓄から投資へ」を実現するにはまだまだ未整備な分野が多い。