2009年11月18日水曜日

残虐への郷愁

  久し振りに横浜に行ったついでに港の見える岡公園の中にある「神奈川近代文学館」へ行ってみた。これが思わぬ儲けもので興味深い資料の数々に出会った。なかでも夏目漱石の墨絵二幅には驚かされた。とても素人の手遊(てすさ)びとは思えない見事なもので、改めて昔の文人の教養の深さに感服させられた。

特別展示で「大乱歩展」が行われていたが、そのうちの月岡芳年『無残絵』コーナーのタイトルに用いられていた「残虐への郷愁」という彼のエッセーが気になって、帰ってから早速乱歩全集を開いてみた。「神は残虐である。人間の生存そのものが残虐である。そして又、本来の人類が如何に残虐を愛したか。神や王侯の祝祭には、いつも虐殺と犠牲とがつきものであった。社会生活の便宜主義が宗教の力添えによって、残虐への嫌悪と羞恥を生み出してから何千年、残虐はもうゆるぎのないタブーとなっているけれど、戦争と芸術だけが、それぞれ全く違ったやり方で、あからさまに残虐への郷愁を満たすのである」。短いエッセーの結語にこうあった。

最近残忍な犯行が際立って多くなった。今マスコミを騒がしている「島根女子大生殺人事件」をはじめとしてここ数年の間に両手に余る事件が発生している。そこで展開される事件の分析や解決策のなかに乱歩のいう『本来の人間が有していた残虐』に根ざした論が全く無かったことに違和感を覚えていた。

幼い子が蟻を圧し殺そうとすると「アリさんが可哀そうでしょう。止めようね」とやさしく諭すことがほとんどであろう。ミミズを足で踏みつぶそうとしたら「気持ち悪い。やめなさい」と親の感情を押し付けてしまうのではないか。しかし人間の心の奥底には今でも『本源的な残虐さ』が潜んでいるのは間違いない。自我の目覚める前に小さな生き物や植物を殺したり傷めることでかすかな満足を得ながら、社会生活の便宜主義という『道徳』や『日常的な宗教の力添え』を通過する中で「残虐を飼い慣らす」技術を身につけるのではないだろうか。最初の『小さな満足』をえないで一足飛びに大人になってしまった子どもたちが多すぎる気がしてならない。

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