2018年12月24日月曜日

小説の読み方

 保坂和志は不思議な小説を書く。猫のことばかし書いている。その猫をいつ、どのようないきさつで飼いはじめたか、とか、病気がちで病歴がこうで、どんな治療をした、とか、この猫はあの猫のこどものこどもで兄弟はだれそれに譲った、とかを綿々と書きつづり、その他に何を書くかといえばありきたりの日常茶飯のこまごまとしたことで、普通の小説のようにヤマ場も無ければとりたててこれといったテーマらしきものもない、そんななのについつい読まされてしまって、読み終わってどんな内容だったか思い出そうとしてもボンヤリとしてはっきりしない。それにとにかく句読点の読点「、」が多くてダラダラと文章が続く(これまでの文章はちょっとそれを真似てみました)。
 こんな読み方でいいのだろうかと不安になるが、考えてみればこれまで面白い小説はたいていそんなふうで夢中に読んであとに何も残らないことが多かったように思う。
 そんな保坂が最新刊の短篇集『ハレルヤ』でこんなことを書いていた。
 小説というのは小学校からみんな読書感想文を書かされた経験があったりしたために、読んでいる時間に没頭しないで、「これをどいう風に感想文にすればいいか?」ということを考えながら読むようになってしまっている。小説は野球やサッカーの中継に没頭するように、これをどういう風に感想文にすればいいか?を考えず、ただ読めばいい。読んで人に言える感想がないのはバカっぽく見えるが、そのバカっぽさは知の先にある境地だ。
 これが「公式」な小説の正しい読み方なのかどうかは別として、れっきとした小説家がそうおっしゃっているのだからこれからも、これまで通りのやり方で小説を楽しもう。
 
 この『ハレルヤ』は彼の小説にしてはめずらしくいいことを書いているのでいくつかを引用してみよう。
 
 だいたい生きるというのはそんなにいいことなのだろうかと私は思った。それは無条件でいいと断定できるのだろうか(p146『生きる歓び』)。そうなのだ、この齢になるとしみじみそう思うようになる。いいとか悪いとかとは「別次元」のものが「人生」なのではないか。だいたい九十歳も珍しくなくなってセンテナリアン(百才以上の人のこと)という言葉が一般化して、100才以上人口がいつのまにか七万人に近くなって、そうなるともう「生きる(健康に)」ということ自体が才能のようなものになってきて…。
 
 六十才を超えて、さすがに保坂も齢を意識したか、こんな述懐を書いている。
 いまこうして他に選びようもなくなった人生とまったく別の、あの時点で人生は可能性の放射のように開け、死はその可能性を閉じさせられない………私はあの時点の感触に何度書き直しても届かないからもう何度も何度もこのページを書き直してきた、今の私、死んだ尾崎、あのときの私、暴走族の気配を引きずっていた尾崎、これらの関係は書いても書いても固定する言葉がない、それは言葉の次元ではない(p118『こことよそ』)。六十才やそこらで「いまこうして他に選びようもなくなった人生」などというのはおこがましいが、確かに今から思えば、「可能性の放射のように開け、死はその可能性を閉じさせられない」と感じていた、そんな時期は誰にでもあったはずだ。しかしその可能性を確実にものにできるのはバカみたいな『継続』という『才能』をもった人に限られる。
 長くつづけるというのは始まったばっかりの時期とは違う苦労といえば苦労があるもので、作品個々のオリジナル性に向う情熱みたいなことに若い頃と同じようにこだわる必要はない、という音楽観・作品観の変化をボブ・ディランに私は感じる(p168『あとがき』)。画家や音楽家、小説家でも晩年の作に『枯れた』佳品があるのはそういった『達観』のような境地に達しているからなのだろう。
 
 六十才を少し超えた保坂は「死」についてこんなふうに考えている。
 私はもともと、/「自分が死んだらこの世界なんかあってもなくても同じことだ」とか、/「自分が死んでもこの世界がつづいていくことに耐えがたい恐怖を感じる」/という風にはたぶん全然考えていなかった、/「自分が死んでも世界はある」/と、ごくふつうに考えている――と言っても、世界や人生に対する感触というのは自分が生きている一番深いところにある体感のようなもので、私はもしかすると二十年くらい前は三つ目でなく、はじめの一つ目か二つ目のように考えていたのかも知れないが、そうだったとしても一番深いところにある体感だからそこが変わってしまうと変わる前があったことも、変わる前にはどう感じていたかも、最初からなかったかのように消えてしまう、だから私は自分の死について考えるようになったはじめから、/「自分が死んでも世界はある」/と考えていたかどうかはわからない(そこがわかってもあんまりしょうがない)。
 私は一つ目と二つ目をアタマによる世界観で三つ目はもっと漠然とした世界観と感じる、だから逆に一番説明しにくい、それを私は書こうとして小説を書いて考えているように感じる。
 それでも少しだけ言葉を足すというか別な風に言うと、/世界があれば生きていた命は死んでも生きつづける。/世界があるからこそ命は無になることはない。
 「どういうこと?」と訊かれてもこれ以上に答えられない、言葉や文は精確であろうとすると元々の直観や感触を弱めてしまうことが多いのだ。/「この感じ!」/と思ったとき、それをすぐに自分以外の人と共有できる言葉にしたいという欲求が誰にでもあるが、言葉へのその無邪気な信頼や依存によって言葉が実感を裏切る(p170『あとがき』)。
 アタマで考える、というのはまだ「死」が実感できないからそうなのであって、「世界や人生に対する感触というのは自分が生きている一番深いところにある体感のようなもの」だからそれに気づくのは「死」が実感に近づいたとき――生きている一番深いところ、を覗けるようになったから『体感』できるわけで…。それを自分に納得できるように表現することは至難の業だろうし、他人にそれを伝えることは一生のうちにできるかどうかもあやしいことかもしれない。
 
 ここまで書いてきて読み返してみると、引用した文章の印象が小説を読んでいたときに感じた「響き」ほど共感を与えられないことに驚く。それだけ保坂の小説は読むときの流れが大事なのかも知れない。そのための「ダラダラ」だとしたら彼は凄い作家だということになる。今まで保坂の小説は「箸休め」のように読んできたが――専門書や硬い小説に読み疲れたときに緊張を解きほぐすために読んでいたが、そんな扱いは失礼だったのかも知れない。いや、ひょっとしたらそれこそ彼の望んでいることなのかも……。
 
 この回で今年のコラムは最終回とします。一年間おつきあいいただきましてありがとうございました。来年はもう七十八才です。いつまで頭がハッキリしているかあやしいものですができるところまで続けたいと思っています。
 来年もよろしくおねがいします。
 どうか善いお歳をお迎え下さい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年12月17日月曜日

『幸福感の統計分析』読書ノート(続)

 人はどういうときに「しあわせ」を感じるだろうか。人それぞれだし年齢によっても幸福感は異なる。この齢になれば、他人(ひと)に大切にされると嬉しいしわずかでも尊敬されていると感じると幸せ感は高まる。若いころは他人のことなど眼中になかった、ひたすら自己の向上を目指していた、所得も地位も知力も。
 これほど個人差のある「幸福感」を取り上げてそれを「統計分析」するということは、抽出されたデータの信頼性に『幅』があることを十分に知った上で結果を判断することが肝要になる。例えば若者ほど経済状況が悪化しているにもかかわらず、生活満足度が高い(古市憲寿)」という分析結果は「ある程度豊かになって成熟した社会(p93)」――現在の日本でなければ受け入れ難い。従って本書で取り扱われる「統計」は現代日本のデータに基づいていることを前提として読む必要がある。
 
2.統計分析から見える日本人の幸福感分析の基となるデータ及び分析手法の解説などは省略する
 先ず分析されるのは「物質的な豊かさ」についてだ。個人の所得が多くなること、そのための前提としての国全体の経済成長が個人の幸福感にどのような影響があるかを分析対象としている。後進国といわれている国で高度成長している状況にあればほとんどの国民はこの設問に「イエス」と答えるにちがいない。ではわが国ではどうなったのだろう。
 第2章 経済成長は幸福感を高めるか、第3章 お金があるほど幸せか
 「生産物の成長率が正でもなければ負でもない、というゼロ成長率を意味する「定常状態」(p44)」/「資源・環境の視点から定常経済が主張されたと同時に、倫理的な側面からも成長経済が批判されるようになった。これを「脱成長経済」と命名して、経済中心主義、生産中心主義、消費中心主義で代表される経済のあり方に批判を重ねたのが、フランスやイタリアなどのラテン系経済学者(セルジュ・ラトゥージュ、アルノー・ベルツゥー、ルイギーノ・ブルーニら)である。(p55)」
  「イースタリンの『幸福のパラドックス』…国の所得水準が上昇しても必ずしも人々の平均的な幸福感は上がらない(p56)」「『準拠集団の理論』…自分が豊かかどうかは、絶対的な豊かさだけではなく、周囲の人や目標とする人との比較による相対的な豊かさからも判断している、という考え方。ここでいう「準拠集団」とは自分が置かれた状況を比較するときに、比較の対象となる集団や人をさす(p56)」「昇進率の高いアメリカの航空隊では昇進できるという気持ちが強く現状に満足していないのに対して、昇進率の低い憲兵隊でははじめから昇進すると思っておらず現状に満足している(p57)」。
 予想されたとおりここ30年近く低成長がつづいてきた我国においては、その状態が「通常」の経済状況なのだとしているデータが大部分であったようだ。最近の無差別殺人の犯人がよく口にする「誰でも良かった、ムシャクシャしてやってしまった」などという心情は、他者との比較に圧倒されて、ステロタイプの幸福路線から落ちこぼれた「脱落感」「閉塞感」に支配された結果に他ならない。
 成熟社会に達したわが国においては「多様な価値観」を認め、それが実現できる環境を整備することが望まれているのではなかろうか。アメリカの航空隊と憲兵隊の幸福感の条は示唆に富んでいる。
 
 次の分析対象は「仕事」「余暇」「性別役割分担」である。現在では所得を得なければ生活ができないから「働かざるもの食うべからず」が当然とされ、仕事を苦痛と感じる人が多いから「余暇」の重要さが増し共働きが普通になってくれば「家事労働の役割分担」が幸せ感に影響を与えるようになっている。 
 
 第4章 働くことのよろこび、第5章 仕事のやりがいと満足度
 第6章 余暇から幸福を考える、第7章 性別役割分担と生活満足度
 「人が仕事の満足度を評価するときには、遊びやユーモアが求められて趣味との境界があいまいな仕事、そしてなによりも新しいことを先駆けて行うことが求められる仕事に従事するときにもっとも高い満足を感じるのである。/仕事をすることによって、他人が喜びを感じている姿に接して、自分も喜びないし満足を感じる/仕事の満足度は女性の方が高い、人生に前向きである、楽観的である(p97)
 「『やりがいの搾取』とは、企業が巧みな労働管理を行い、仕事を労働者にとって楽しくやりがいのあるものにして、低い賃金で満足させること(p103)労働者はその職務にふさわしいとされる感情を身につけさせられる。それにより、接客が楽しいこと、仕事にやりがいがあることが労働の一部になっていく。いわば、労働の場に自分の感情を持ち込むように求められている(p105)労働とプライベートを融合する労働管理/対人労働そのものではなく、趣味性、ゲーム性、奉仕性、サークル性、・カルト性という仕事の特徴が「やりがいの搾取」と関連する(p106)
 日本人の余暇活動の大半(6~7割)は遊興施設での楽しみに費やされている/経済の価値で評価すると、スポーツ活動よりも文化活動のほうが貢献している/趣味やスポーツに熱中しているときに充実を感じている人の比率が急速に高まっている(家族団らんの時がトップ―50%近い)/読書は日本人にとって親しみやすい余暇活動である一方で、ギャンブルやカラオケはごく少数の人しか楽しんでいない(p133)
 「既婚女性が家事と仕事の二重の役割を被っており、それが多大の負担になっている/下の世代は両立を目指すよりも専業主婦になりたいと願うようになった(p147)結婚によって生活満足度や幸福感が上昇することは多くの国で確認されている/結婚した時をピークとして、結婚後は生活満足度が低下していることを明らかにしている/女性の家計負担率が上り就労が増えるほど生活満足度が下る/配偶者の所得が高く、自分の家系負担が少なく、配偶者との情緒的関係が良好なほど、既婚女性の結婚満足度が高い(p150)」 
 本書で最も衝撃的な指摘は『やりがいの搾取』という概念である。サービス産業が増え、接客業務が仕事の主たる部分になる傾向が強いなかで、労務管理がここまで『侵食』しているという事態に空恐ろしさを覚えた。
 
 「幸福感」が個人的なものであるのだから「性格・パーソナリティ」の分析は欠かせない。
 第8章 幸せを感じるパーソナリティとは
 「ゴールドバーグはパーソナリティを「ビッグ・ファイブ」として①誠実性―仕事における勤勉さ、真面目さ②開放性―知的関心の高さ③調和性―対人関係における協調性④外交性―対人関係における積極性⑤神経症的傾向―不安の感じやすさ、を析出する(p167)対人関係においては、積極的であること(外交性)、また、物事のとらえ方に不安が少ないこと(自尊心、楽観性、神経症傾向)は、幸福感が高いことと関連がある(p169)所得がパーソナリティを規定し、パーソナリティが幸福感を規定している(p170)パーソナリティは、所得とは独立して、幸福感に重要な影響を持つことが示された。お金があろうと無かろうと幸せを感じることができる性格を人はもつことができる(p179)」
 
 以上が本書の概要である。
 国民がどのような「幸福感」を抱いているかを分析することは必要なことだろう。しかし『やりがいの搾取』でみたように、あらゆる分野でデータをある種の政治的目的や企業活動に援用されている現状は決して「善い状況」とはいえない。監視カメラが夥しい数になっている社会、情報が氾濫する社会、こんななかで「確固とした自分」をもって「自分なりの」幸福を見つけ出すことの難しさをしみじみと思いしらされた一冊であった。
 

2018年12月10日月曜日

『幸福感の統計分析』読書ノート

※ 橘木俊詔・高松里江共著/岩波書店刊2018926第1刷発行
 
 本書の冒頭に著者は古今の幸福論を要領よくまとめているのでまずそれを読んでみよう。
 
1. 幸福の哲学
 古来幸福についての哲学は数多あるが結論的にはカントの次の言に行きつくのではなかろうか。
 「幸福は理性による理念ではなく、想像のみによって形成される理想にすぎないのである。極言すれば、幸福ということをひとつの定義で完成することは困難なことであり、万人を納得させることのできる幸福は存在しない(p15)」
 
 ギリシャ哲学の泰斗、アリストテレスはこんな幸福論を述べている。
 「アリストテレスは『修辞学』の中で、幸福な個人が持つ性質とか獲得した功績を善のリストして提案している。例えば、生まれのよさ、十分な友人、富、十分な子ども、健康、容姿、権力、運動能力、名声、徳などである。(略)アリストテレスに関して強調するべきことは、よく知られていることでもあるが、「中庸」ということを重視したことである。(略)極端を排し、節度とバランスのとれた判断をすることが肝要、というのがアリストテレスの有名な思想なのである。(p8)」
 
 世に言う三大幸福論は、「ヒルティ『幸福論』、アラン『幸福についてのプロポ(幸福論)』、ラッセル『幸福の獲得』(p12)」だが、このうちのどれかを青春時代に読んだ人は多いだろう。
 
 近代の幸福論はベンサムの「最大多数の最大幸福」という社会の効用の総和を最大化する考え方に代表されるが、これに対して、アメリカの哲学者ロールズはこう批判を加えた。
 「社会を構成する個人の効用の総和ということは、それらの個人一人ひとりを同等に評価するということを意味するが、現実の世の中では、恵まれた人もいれば恵まれない人もいるし、高所得者もいれば低所得者もいるというわけで、それらの人々の効用を同等に評価して社会の効用の総合計を考えるよりも、恵まれない人や低所得者の効用により大きなウェイトを付けるべきではないか(p18)」ロールズの考えを踏まえて著者はこう結論づける。「幸福は「義務」である、と考えた方が良い理由として、人によってどの程度の幸福を求めるかということも、千差万別ということがある。高い幸福を求める人と、そこそこの幸福でよいとする人が存在する中で、社会がそれらの人々の双方を幸福にするには、政策の種類や規模が異なってくるので、「権利」としての幸福においてすべての人に対処することは困難である。幸福を個人の「義務」として、その成就の方法を個人の裁量に任せた方が自然と考えられる。(p31)」
 
 以上に見た幸福の哲学からわれわれが学ぶべきは、グローバル化が進展し格差が拡大する中で、財源がますます枯渇するすることが確実に予想されるこれからは、ロールズが述べる「高所得者もいれば低所得者もいるというわけで、それらの人々の効用を同等に評価して社会の効用の総合計を考えるよりも、恵まれない人や低所得者の効用により大きなウェイトを付けるべきではないか」という考え方を重視する以外に社会全体として効率的に「幸福」を高める道はないと思うのだが、今の政治はむしろまったく逆の方向に進んでいる。こうした政治的閉塞感が幸福感に大きな影響を与えているにもかかわらず本書はそれには触れていない。そこに物足りなさを感じる。
 
2. 統計分析から見える日本人の幸福感
 2.の詳細については次週とする。
 

2018年12月3日月曜日

AIと「論理国語」

 「不便益」という言葉を知った。京都大学の川上浩司教授が提案している概念で「不便がもたらす益」を物づくりに生かそうという取組みだ。たとえば「右折れ禁止」というルールで散歩をすると今までとはちがった景色が見えてくる。いつものルートで右折する交差点を右折しないで行こうとすると一本先の道を左折してさらに左折を二回繰り返すと元のルートに戻れる。毎朝通っている道でも一本先の道や裏道は意外と知らないもので右折禁止というルールのお蔭ではじめて踏み込んでみて、一度も見たこともない場所を発見するという経験は新鮮だろう。
 古民家を使った認知症の人のグループホームがある。階段が急で誰が見ても危ない。そうすると認知症の人も頭を使うようになって徘徊のような認知症の周辺症状が段々出なくなったという。危ないのは不便だが、身体の衰えを緩やかにしてくれる。バリアフリーでないデイケアセンターでは段差を超えることでお年寄りの身体能力低下が緩和されたという例もある。(以上は2018.12.1京都新聞による
 「不便益」のような発想は過去の大量のデータ処理を基礎とするAIの苦手とする分野だろうが、これからの社会はAIのできない能力が求められる。
 
 そのAI時代に生きる子供たちを導く新しい学習指導要領(高等学校)の国語の中に「論理国語」という目新しい科目が導入されている。「論理国語」というのは「論理的な文章や実用的な文章を読んで自分の意見や考えを論述する活動」「 読み手が必要とする情報に応じて手順書や紹介文などを書いたり書式を踏まえて案内文や通知文などを書いたりする活動」「調べたことを整理して,報告書や説明資料などにまとめる活動」である。
 問題はここでいう「論理的な文章や実用的な文章」にある。「ここでの論理的な文章とは現代の社会生活に必要とされる説明文論説文や解説文評論文意見文や批評文などのことである。一方実用的な文章とは一般的には実社会において具体的な何かの目的やねらいを達するために書かれた文章のことであり新聞や広報誌など報道や広報の文章案内紹介連絡依頼などの文章や手紙のほか会議や裁判などの記録報告書説明書企画書提案書などの実務的な文章法令文キャッチフレーズ宣伝の文章などがある。またインターネット上の様々な文章や電子メールの多くも実務的な文章の一種と考えることができる。論理的な文章も実用的な文章も事実に基づき虚構性を排したノンフィクション(小説物語短歌俳句などの文学作品を除いたいわゆる非文学)の文章である(文科省/高等学校学習指導要領解説・国語編
 
 折りしも11月30日、経団連が企業の求める人材育成について大学に伝えるため、定期的に協議する場の設置を呼びかける提言を取りまとめたことが分かった。経済界が大学側と教育のあり方に関して、公式の場で協議する体制をつくるのは初めてであるが、「論理国語」はまさに企業が求める「即戦力」の、「会議や裁判などの記録報告書説明書企画書提案書などの実務的な文章法令文キャッチフレーズ宣伝の文章など」を作成できる人材育成を目的としている科目である。
 しかしこれらの文章が「論理に裏打ちされた文章」なのだろうか。役人や企業人の好きな「国際人」として、「幅広い教養をちりばめた整然とした論理」を展開する欧米諸国の第一線で活躍する人たちと伍していける人材を育成できるであろうか、はなはだ疑問である。
 さらに視点を転じてここでいう論理的な文章や実用的な文章とAIの関係を見てみると「具体的な何かの目的やねらいを達するために書かれた文章」というのはAIのもっとも得意とする分野と思われる。案内紹介連絡依頼などの文章会議や裁判などの記録報告書説明書企画書提案書などの実務的な文章法令文はそんなに遠くない時期にAIに取って代わられる可能性が高く、こうした文書作成を主たる仕事とする公務員――交渉や調整を伴わない業務は早晩AI化されるにちがいない。
 
 2020年からはじまる新しい学校教育の主眼は「主体性や思考力の重視」である。社会の大変化を控えて主体的に対応できる能力を育成しようという目論見である。授業は今後、対話や議論を取り入れた課題解決型・探求型の学習スタイルが主流になるとされている。国際化への対応のため、英語の早期教科化がはかられ、小学5、6年で正式教科となり、大学入試では民間検定試験が導入される。
 問題は主体性や思考力といった数値化しづらい力を評価する危うさだ。たとえば「話すのが苦手」な生徒を安易に「学力が育っていない」と評価しては子どもの「生きにくさ」につながりかねない。
 教育の要は教員だ。人手不足がますます深刻化するなか教員の質をどのようにして確保するかにすべてがかかっている。(以上は2018.11.14京都新聞/取材ノート・山田修裕より
 
 最近つくづく思うのだが「自分の意見」をほんとうに持っている人が如何に少ないかということだ。ほとんどが本の知識や他人の意見の受け売りに過ぎない。それも「自分の結論」としてそれらを用いるのではなく、評論家的に「こんな見方もある」「こんなことを言っている人がある」と知識を並べ立てるばかりで結論の無い人が余りに多い。
 要するに「批判精神」が欠如しているのだ。本の知識、他人の意見を自分の価値観で評価して体系づける能力がないのだ。それは知識や意見を「自分の外」において記憶する段階で置かれたままになっていて、自分の感覚や直観と対峙させていないのだ。しかし「論理力」はそうした過程を通じてしか磨かれることはない。 
 
 「論理国語」という呼称(ネーミング)を採用した『文部官僚』は子供たちをどこに導こうとしているのだろうか。
 
 
 
 
 

2018年11月26日月曜日

日本には働きたい人がこんなにいる

 本題に入る前に大谷選手の新人王についてひとこと。
 今年の大リーグ、ア・リーグの新人王に大谷選手(24)が選ばれたことで大騒ぎしているが「ちょっと待てよ!」と云いたい。イチロー以来17年ぶりということもあるのだろうが、日本の超一流選手が大リーグとはいえ「新人王」になることがそんなに名誉なことなのだろうか。これまで新人王に選ばれた日本選手は野茂(27才)、佐々木(32)、イチロー(28)と三人いるがいずれの時も当然過ぎて、むしろ「日本の超一流選手を新人扱いするなど失礼な…」と冷淡且つ批判的だったように覚えている。年齢的なことはあるかもしれないし大谷がこれまでの三人と比べて完成された選手でないことも、発展途上の可能性に満ちた選手であることも三人とは異なっているうえにルックスもいいからアイドル的に若い人たちが騒ぐのは仕方ないとは思うものの何か違和感を覚える。この二十年で日本のプロ野球のレベルが低下したというのなら話は別だが事実はむしろ逆だと思っているだけにもう少し冷静なおとなの意見があってもいいのではなかろうか、せめて張本さんくらいは…。
 天邪鬼の年寄りの僻()がこととお笑いください。
 
 今日問題にするのは「入管難民法改正案」についてである。外国人入国・在留に関する許可要件や手続を緩和して5年間で最大約34万人の外国人を受け入れ「人手不足」解消を図ろうという主旨の改正案が国会で審議されているが根本的に論議が的を外れている。
 直近(2018年9月)の失業率と有効求人倍率は2.3%と1.64になっている。失業率は長期低下傾向にあり、逆に求人倍率は増加傾向にあることが如実に「人手不足」を表しているように思える。有効求人倍率というのは有効求職者数に対する有効求人数の比率のことで、簡単にいえば0.5より1.0のほうが就職しやすいわけで1.64ということは1人に1つ以上の求職先があることになる。この有効求人倍率が5年前には1.0近辺にあったことを考えるとこの5年の人手不足が急激であったことが分かる(ちなみに失業率は5年前3.7から3.8だった)。この数字だけを見ると「人手不足」が深刻化しているように見える。
 しかし視点を変えると160万人(2.3%の失業率に表れている失業者)の完全失業者がいることも厳然たる事実である。「完全失業者」とは「働きたい(求職活動をしている)けれども仕事がない人」のことで統計の都合上ハローワーク(公共職業安定所)以外で職探しをしている人は含まれていない。160万人のうちには高望み(高額の給料や能力に見合わない仕事を探している、など)をしている人やミスマッチ(望む仕事とある仕事がつり合っていない)な人も含まれているだろうが保育所不足による待機児童をかかえているママさん(パパさん)も計上されている。いろいろな事情を抱えた人たちではあるが160万人という数字は無視するには大きすぎる。拙速な審議でゴリ押しして法案を通して5年間で34万人の外国人労働者を受け入れるよりも身近な『日本人』が仕事が無くて困っているのだから彼らが仕事につきやすい環境を整える方が『政治』というものなのではなかろうか。
 
 しかし問題はこれだけに終わらない、もっと巨視的な検討が要る。
 一体わが国にはどれほどの「労働力人口」があるのだろうか。統計上の厳密な意味の「労働力人口」とは異なるが仕事が可能な人を算定してみよう。平成28年度の総人口は1億2639万3千人、14才以下人口は1578万人(総人口に対して12.5%)、65才以上人口は3459万1千人(27.4%)であるから15~64才人口7602万2千人(60.1%)である。70才以上人口は2437万人(19.3%)であるから15~69才人口8624万3千人になる。これから15~17才人口357万8千人と大学在学者数(287万4千人)を差し引くと65才以下約6900万人70才以下では約7900万人労働可能人口がいると云える。実際の就業者数は6440万人であるから最大460万人~1460万人の人が就業可能でありながら何らかの理由で仕事に就かないでいることになる。
 一方で統計的な非労働力人口(15才以上人口-就業者-完全失業者)のうち就業希望者は2013年平均で428万人であり、内訳を見ると女性が約315万人とおよそ4分の3を占めており、その女性の理由として最多のなのは「出産・育児のため」が105万人、次いで「適当な仕事がありそうにない(97万人)」、「健康上の理由(38万人)」、「介護・看護のため(16万人)」となっている。また「近くに仕事がありそうにない」は男女計で29万人になっており、多くの国民がこれらの理由で働きたくても働けない状況にある。これはいわゆる「M字カーブ(20~30才代女性の労働力人口比率の窪み)」と呼ばれている女性の就業率特性を表す傾向と合致している。
 
 ところで政府はどんな職種に外国人を就労させようとしているのだろうか。上記法案の「外国人労働者の業種別受け入れ見込み人数」でみてみると、最大人数で①介護業6万人②外食業5.3万人③建設業4万人④ビル清掃業3.7万人⑤農業3.65万人⑥飲食料品製造業3.4万人⑦宿泊業2.2万人⑧素形材産業2.15万人⑨漁業9千人などとなっている。業種の特徴に目を向けるといわゆる3K(危険、キツイ、キタナイ)業種と生産性の低い業種が主なようにうつる。これは「技能実習生の失踪事情」と符合している。2017年には7000人を超える実習生が失踪しているがその多くが想像を遥かに超える「低賃金」で働かされていた実態が明らかになっており、暴力を受けたり劣悪な寄宿生活を強いられたりと外国人労働者の受け入れ状態は余りにも酷い状況にあるようだ。こうした現状を詳細に把握し受け入れ条件を整えないまま外国人労働者を安易に受け入れたりすれば「国際問題」に発展しかねない可能性さえある。今の抜け穴だらけの政府案を拙速に通過させることは避けるのが賢明である。
 
 更に今の審議で見過ごされているのは「AIおよびロボット」による「人の労働への侵食」についてである。これについては先の「働き方改革に伴う裁量労働制の拡充」についての審議の際に検討されたばかりであるが、2040年頃には今ある仕事の内最大で半分はAIやロボットに置き換わっているという見通しさえあるのだがこのことが今の審議にはすっかり抜け落ちている。三大メガバンクが今後5年で3万人以上の人員削減策を打ち出しているほかに、最近では東西のNTTグループが今後7年の自然減で2割人員を減らすと表明している。またオムロンの子会社が駅での案内・警備ロボットの実証実験を開始するというような報道もあるようにAIとロボットによる仕事の合理化と仕事の置き換わりは着々と進行しており2040年問題は決して絵空事ではないのだ。
 
 400万人から1400万人の「労働力化可能人員」を現実の労働力にするためには保育施設の充実、低賃金(保育、介護など)の解消、生産性の向上などお金も時間も工夫も要るけれども、それが人手不足時代を乗り越えるための本道であり根本策である。それをないがしろにして取り敢えず「AI・ロボット化」が実現するまでの間安価で安易に導入できる「外国人受け入れ策」で時間稼ぎしようなどという魂胆は決して許されてはならない。
 
 最近の政治のあり方を見ていると、資本とアメリカの言いなりになっているような感じを強く受ける。明治維新百五十年を盛んに賞讃する安倍首相だがそれなら明治の人たちが何事によらず長期を見通した「100年の計」を構想した姿勢を学ぶべきではなかろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年11月19日月曜日

エコー・チャンバー

 毎年一度は会っている友人がいる。別に一度と決めているわけではないのにこのところ一度になっている。高校からのつき合いで彼のおかあさんには随分世話になった。年前に孫娘を寄宿させるようになりその面倒を彼がしてやるようになって(細君は百才近いお父上のお世話に忙しくてあまり家にいることができなかった)、少し老い込んでいたのが急に元気が復活して喜んでいる。彼は本当の意味で「常識人」で批判精神旺盛な幅広い知識を有している人で、民主党の分裂と破綻を早い時期から見抜いていた。
 今年ももう一人加えたいつもの三人で食事をした。酒も大分進んだ終わりかけに「最近の安倍さんは嘘が多くて言葉が空しいと思わないか?」と問いかけると「特定の政治的な話は止めようや」と少々気色ばんで彼が言った。「ほかではめったにこんな話はしないんやけどこのメンバーなら気がおけないから、いいかなと思ったんやけど…」とその場を濁して話を打ち切った。
 驚きを禁じ得なかった。先にも書いたように批判精神が鋭く柔軟性に富んだ常識人と思っていたから、最近の安倍総理を初めとした政治家の言葉の軽さ、空虚さに同意してくれるだろうという思い込みを裏切られた思いだった。
 
 ここ数年の傾向だが学生時代、口角泡を飛ばして批判的な政治論議を交わしていた友人たちがおしなべて「保守化」している――逆に私は「左傾化」していると見られているのだろう。そういう事情を汲んでできるだけ呑み会の場では政治の話をしないように努めている。しかしこのメンバーならそんな気遣いは要らないだろうと気を緩めたのがうかつだった。
 彼は我々世代の中では比較的ITリテラシーのレベルが高く、毎日一、二時間はインターネットで情報を閲覧している。現役時代は経済専門紙を読んでいたが十年ほど前からは「政府寄り」の全国紙に変えている。そんな事情も考え合わせて彼の「情報環境」を推量してみると『エコ-チャンバー現象』というIT用語が思い浮かぶ。
 エコーチャンバー現象とは、自分と同じ意見があらゆる方向から返ってくるような閉じたコミュニティで、同じ意見の人々とのコミュニケーションを繰り返すことによって、自分の意見が増幅・強化される現象のことで、ここで使われている「エコーチャンバー」というのは閉じられた空間で音が残響を生じるように設計・整備された音楽録音用の残響室のことである。日常一般に使われている「グーグルGoogle」などの検索エンジンは個人の検索傾向を読み取ってその人好みの情報を集約的に提供する。これによって「バナー広告」の閲覧回数がアップしてグーグルの広告収入が増大することになる。
 エコーチャンバー現象によって自己の「思考や嗜好」がある傾向に偏った方向に収斂されていくことを防ぐのは容易ではない。よほど「身構え」て、「批判精神」を強固にして、ネットに接しないと流されてしまう。その点新聞は興味のない情報であってもヘッドラインくらいは目に入るからそうした傾向は弱まるしテレビもどちらかといえば新聞に近い。
 
 常々心配しているのは検索エンジンがアメリカの数社の巨大企業に独占されていることによって「情報操作」が安易に行われるのではないかということである。近い例ではこの前のアメリカ大統領選挙でトランプ陣営が民主党候補に不利になるような情報操作を行っていたのではないかといわれており、さらにロシアが協力していたのではないかという疑惑もある。
 またトランプ氏も重用しているツイッターなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・システム)が使用文字数が極めて少なく制限されていることも問題だ(ツイッターで140字)。短文形式だから「常套句や決まり文句」を多用するようになり、その結果ステレオタイプ(類型的)の文章が流通することにならないかという懼れである。
 さらに気になるのがSNSの「いいね!」だ。自分の投稿に送られてくる「いいね!」の数の多いことが嬉しくて誇りでもあるようで、そのために「受け易い」投稿を狙う傾向がないこともないようだ。
 この「いいね!」についてはナルシシズムとの関係も注意する必要がある。ナルシシズムの危険性は単に自己への陶酔と執着に止まらず「他者を排除する」思考パターンに至ることだ。たとえばトランプ氏のツイッターでの言動は、自己の思想や価値判断に対する共感が加速度的に上昇することに陶酔するのみならず、反対意見や批判的な言動を拒絶し排除することで「岩盤人気」を保持している。これはナルシシズムの典型であり、保守傾向を増長し内向きの国粋主義やファシズムに結びつく危険性をはらんでいる。トランプ氏に止まらず世界的傾向として「トランプ的」リーダーが各国のトップを占めつつあるのは看過できない趨勢である。
 
 SNSに代表されるインターネットを通じた「言説の交通」に対する根本的な危険性は『言葉の不完全性』に対する『畏れ』がほとんど省みられていないことだ。自分の感情を表そうとして適当な言葉を思いつかない経験をしたことは誰にでもあると思う。卑近な例を持ち出すと日本人の男性は「愛してる」と恋人や伴侶に囁かないといわれていることがある。少なくともわれわれ世代の男にとって女性との関係において――特に性的関係を含む結びつきにおいて『愛する』という言葉はまったくそぐわないと感じてきた。
 日本語の言葉の中で「感情」にまつわるものに現代人がぴったりこないものが多いように思う。それは『やまと言葉』――古い日本語の言葉――が絶えてしまったことが影響しているからではないか。漢字が日本に入ってきたとき、われわれの先祖は厳密な概念を表現する言葉として『漢字・漢語』を選んで日本語化しなかった。そのかわりに感情を表現することばとして『やまと言葉』を残した。ところが『感情』は時代とともに変化する、世代的に変化が激しいから「今の若い奴は…」という慨嘆がいつの時代も繰り返されてきた、外国との接触で新しい感情(語)が移入されることも少なくなかった。
 死ね!とかキモイ!ばばぁ!、とかいう言葉は、彼や彼女が自分の感情を表現しようとしてぴったりくる言葉が無いからとりあえず「できあい」の言葉で間に合わせているのではなかろうか。
 
 もうひとつどうしても言っておきたいのが言葉の『誤用』である。SNSだけでなくマスコミも不用意に使用した言葉が独り歩きしてそれがそのまま流通しているという例が少なくない。たとえば「遺憾」という語がいい例だろう。広辞苑でひいてみると「のこりおしいこと。残念。気の毒(第二版による)」「思い通りでなく残念なこと(ネット字典)」としか書いてない。ところがテレビで報じられる政治家などの謝罪会見では「大変遺憾に思っております」だけでお詫びも謝罪(怒り)もないことがほとんどだ。彼らは「遺憾」という言葉に「私の思っていた通りの内容が伝わらずに相手に不快な思いを抱かせたことに対して、残念に思うと同時にお詫びいたします」という意味を持たせている積もりだろうがそうはなっていないことに気づいていない。言葉の誤用は意外と多い。
 
 インターネットがPC(パソコン)やスマホを介して一般化しているが、実は『不完全な文字言葉』を通じた会話であり、しかも情報プラットフォームの巨大管理会社(GAFA―グーグル、アマゾンドットコム、フェイスブック、アップル)に自分の思考・嗜好を操作されていることを知る必要がある。
 
 言葉をささえるものが論理ではなく、イメージをささえるものが思想ではなく、いずれも感性的な気分的なものである。そこに私は絶望的な日本人を感じる。(開高健)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年11月12日月曜日

ある日の京都新聞(続)

 22面の「災害時 旗で『無事です』」は心をザラつかせる記事だ。伏見・日野学区防災会が、災害時の住民の安否確認に役立てるために全戸に「無事の旗」を配布、災害時に掲示して役立てるという。問題なのは『全戸』が学区内の自治会に加入する全世帯、というところにある。自治会の組織率がどれほどであるか記事にはないが昨今の情勢からは地域住民の何割かは未加入であることが想像できる。災害時の安否は自治会員である、なしに関係なく確認されなければならないし、救助は皆同一にされるもので京都市の防災機関も伏見区の防災組織も、日野地区の防災担当も自治会員だけを救助する訳にはいかない。そうであるなら、自治会員のあるなしに関わらず全世帯に旗を配布して、全世帯が災害時に安否
を呈示できる体制をとっておかなければ救助活動が混乱するのは必至である。
 人命に自治会の加入者非加入者で違いがあるはずがない。日野地区に限らず京都市全域で同様の状態が起っている。京都市は補助金を支給しているにちがいないのだから、この「差別」は早急に解消するべきだ。
 
 この日最大の記事は一面トップの「元徴用工へ賠償確定/韓国最高裁初判断 請求権消滅認めず」だろう。1965年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決されたことを確認する」と明記。2005年にも改めて検証され、韓国政府も同じ認識を示していたから、「ありえない判断だ」という首相の反発も当然だし国民も同じ思いだろう。しかし、「国際法に照らしてありえない判断だ。日本政府として毅然と対応していく」と言っているだけではこの問題が解決しないのが悩ましいところでもある。何故なら、国際法というものには『拘束力』がないからだ。ロシアのクリミア併合にしても中国の南沙諸島海域の人工島建設――要塞化にしても、「国際法違反」は明らかなことで、にもかかわらず大国のゴリ押しに国際世論は無力さをさらしつづけているではないか。
 ではどうすればよいか?それは、日韓請求権協定が日本にとって植民地時代への痛切な反省と謝罪に基づいた誠実かつ最大限の賠償であったということを、日本国民が認識し、韓国国民に納得してもらい、国際世論にも訴えるしかない。
 一般にマスコミが訴えるのは「5億ドル――日本円にして1800億円は当時の韓国の国家予算3.5億ドルの1.5倍に相当する。個人補償も選択肢にあったが韓国政府が国の再建と個人への補償の両方を達成したいという意向を示したからわが国も同意した」というところまでだ。これでは1965年当時の日韓両国の事情を実感して、双方が心底納得感を共有できるとは思えない。
 5億ドル1800億円という数字は当時のわが国の国家予算(8兆2千億円)の約2.2%に相当し、1965年のわが国GDP32兆7千億円の約0.5%に達する額になる。これだけでも当時の日本政府が相当な誠意を示そうとしたことがうかがわれる。さらに 徴用工は22万人と言われているから1800億円を1人当たりに割り振ると82万円弱に相当する。1965年のわが国勤労者の平均年収は45万円弱であるから約2倍の金額だ。わが国と韓国の年収の差は現在大体1.5倍(日本450万円、韓国300万円として)になっているが、1965年当時日本はすでに高度経済成長の只中にあったのに比べて韓国は第二次世界大戦とその後の朝鮮戦争(1953年休戦)の復興途上にあったからこの差は数倍あったことが想像できる。加えて円とウォンの交換比率が現在約10倍であることをも考慮すると1人当り82万円という賠償額は、1965年当時のわが国の国民感情としては精一杯の賠償額であり韓国国民にとっても十分「誠意」の伝わるものであったはずである。
 
 徴用工問題に対してわが国国民は、先人たちが植民地時代への痛切な反省と誠実な対処を示してくれたことに感謝し、韓国国民に対して誠意をもって理解と納得を求めるべく説得に当たるべきだ。
 今最も必要なことは『理性』と『寛容』であることを世界中の人たちに訴える丁度いい機会だと思う。

2018年11月5日月曜日

 ある日の京都新聞

 毎朝4時半には新聞が届けられる。有り難いことだ。老人の常で寝覚めが早く起床前の新聞は心身の覚醒にとって最良のツールとなって一日の始まりを快調に開いてくれている。
 
 この日(2018.10.31)の紙面で一番目を引いたのは8面の「退位まで半年/両陛下精力的に活動」という記事だった。記事の中身ではなく春の園遊会を両陛下と皇太子・秋篠宮のご一家が写っている写真に目を惹かれた。にこやかに歩まれる美しいカラー写真の両陛下の穏やかに寛がれた姿からは、譲位が決まった安堵感がほのかに伝わってくる。そしてその横に堂々と寄り添っておられる皇太子は、これまでとは比較にならない自信と落ち着きを漂わせておられて一変のご様子である。58歳という一般社会であればそろそろ停年になろうかというこの時期まで、次期天皇という不確かな位に留まっておられた皇太子にはっきりと先行きが開け、まさに確たる一歩を踏み出そうとされている「溌溂さ」が手にとるように伝わってくる。天皇家がそろって新たな歴史を拓こうとされている素敵なショットにこちらまで心豊かにされるようで嬉しく感じた。ただ危惧するのは、これまで真摯に、ご誠実に公務に邁進されてこられた天皇が気をゆるめられて、いちどにお疲れが出て病に伏せられないかということである。国民の多くはそれを最も懼れているに違いない。のんびりとご健康に美智子皇后と余生をお楽しみされることを願うばかりである。
 
 29面の「東電原発公判 謝罪も過失否定」はなんとも腹立たしい。当時の会長と原発担当の二人の副社長は直接の責任は現場にあるとして三人共責任を認めなかった。14メートルの津波を予測した事前情報は「懐疑的」で重要視しなかった、という論理がもし通用するなら被害にあわれた人たちはどこにその怒りの矛先を向ければいいのか。企業不祥事の頻発する現在、法人としての企業責任を「人的」に問えるような「法体系」を一日も早く整えなければ「倫理」崩壊を来たしている経営者の無責任体制は改まらないだろう。

 1面と3面に組まれた特集〈学びアップデート 加熱する「人材」教育〉は大転換期を迎えようとしている教育現場の現状を深ぼりしようとする試みだ。これは地元の有力企業、モーターメーカーの日本電産社長永守氏が私財を投じて京都学園大学を改革して「京都先端科学大学」に来春改組するということも影響して、地元紙京都新聞として取り組まなければという事情もあったに違いない。永守氏の持論は「京大や東大の出身者が必ずしもいい仕事をしていない。人材育成の面で、大学と企業の間でミスマッチが大きくなっている」というもので、「実学重視」という昨今の世情と軌を一にした考え方だ。
 こうした永守氏らの対極にあるのがほんの半月前にノーベル賞を受けられた本庶佑さんの「基礎研究にお金を…」という志向だろう。受賞後の首相らへの挨拶やメディアのインタビューのたびに同様の意見―お願いを口にされていた。それだけ本庶さんたちの現場での危機感が強い表れわれだろう。受賞の一週間前に本庶さんをはじめとしたトップクラスの学者6人の講演を聞く機会(KUIAS京都大学高等研究院シンポジューム)があったが彼らは等しく、失敗の繰り返しの中から今日の成果が生まれた、と繰り返していた。こうした発言は短期の成果を期待した「実学重視」の高等教育からは「イノベーション」をもたらすような画期的な発見や発明は決して生まれないことを示唆している。そして今――AI時代を迎えた大転換期に人間に求められているのはAIやロボットでは及び得ない「イノベーションを生み出す創造性」である。
 「実学重視」に偏った「教育改革」は「時代逆行」ではないのか。社員教育の代行を求めるようなミミッチイ精神で大学教育が行われないことを祈るばかりである。
(つづく)