2021年9月27日月曜日

読書の不思議

  十年ほど前から本(と文具)は近くの「まちの本屋さん」で買うようにしています。世はあげて「ネットショッピング」の時代になって本もAmazonかe-honが主流になってきて、そのくせタレントや有名知識人は「まちの本屋さんをまもろう」などと口では言いながら実際はAmazonという風潮に抵抗しているのです。でも考えてみると本に限らずCD、ファッションや日用品などあらゆる商品がネット購入で済ます人が多くなり、ここ数年は食事もUber Eatsを利用するのがカッコいいことになっています。また外食をするときには「食べログ」が信頼のコンテンツです。

 しかしUber Eatsは普通のお店の出前とちがってどこの誰だか分からない人が自分の食べるものを触っていると思うと気味が悪いし、楽曲のダウンロードは「B面の楽しみ」がないから味気ないと利用したことがありません。呑み屋さんや食事処を探すのも若いころ、給料日に薄っぺらな月給袋を手に新しいお店を探検していたスリルが抜けていないのか自分で見つけるか友人のおすすめの店以外は信用できないでいます。中でも本だけはふらっと入った書店の書棚をあてもなく渉猟して思いがけない本を発見する楽しみ、これこそ「贅沢」と今でも月に二三回の書店めぐりが欠かせません。

 

 先日もそんな書店めぐりで「贅沢」な本に出合いました。どちらも岩波新書で『大岡信(大井浩一著)』と『死者と霊性(末木文美士編)』という本です。大岡信は蔵書の冊数の一番多い作家で、そんな風には思っていなかったのですがフト書斎の本棚を眺めていて気がついてそのうち「まとめ」的なことをしてみようと考えていたところ、この新書ははからずもそんな私の企てを上手にしてくれていたのですから儲けものの一冊でした。一方の『死者――』の方はコロナ禍で死者がドンドン蔑ろにされ、遠いものになっている昨今の風潮に苦々しい思いを抱くと同時に、意識とか言葉とか文字というものの根元的な意味がもう少しで捉えられそうで(勘違いかもしれないのですが)、あと数冊その関連の本が読みたいと思っていた、この本がちょうどそんな一冊だったのです。

 最近よくあることなのですが、何かを問題意識として執拗に思いつづけていたり、こんなものが欲しいと探していたりすると、そのうち、とんでもないところで欲しいものや考えていたことのヒントがやってくるのです。

 

 読書について最近こんなことがありました。室生犀星の『かげろう日記遺文(講談社学芸文庫)』を読んでいて、この本は図書館の「予約かご」に入れたまま何年も忘れていたものが急に読みたくなって、時期が熟していたのか読みはじめると没頭してしまって図書館の本なのに何ヶ所も赤線を引き付箋を貼ってしまっていたのです。とても消しゴムで処理できるものではなかったので本屋さんに取り寄せを頼んだのですが絶版になっていて、あわててネットの古書店でなるだけ程度の良いものを選んで図書館の弁償を済ますことができました。

 もうひとつ少々自慢めくのですが、この齢になって、八十才という老境に至ってようやく読書の仕方が身についたように感じています。友人たちは、私より数等頭脳明晰であったり社会的評価が格段に上をいっていたような友人たちが、短い小説しか読めなくなったとか、根気がなくなって三十分も読めないとか、なかには本はまったく読まなくなったなどという極端な人もいるなかで、私は苦手だった長編がスラスラ読めたり、何年も「積ン読」にしていたちょっと手強い専門書だったりが一日二時間三時間かけて読んで読破したりということが普通にできるようになっているのです。まことに結構なことで嬉しいのですが、これはある友人が数年前に「この齢になって本が読めるというのは才能だよ」と言ってくれたのが励みになって、読書に本気で取り組むようになったお陰なのです。

 

 その「積ン読」がこの夏二冊消化できました。一冊は2005年ですからもう16年もほったらかしにしておいた『神々の沈黙(ジュリアン・ジェインズ著紀伊国屋書店刊)』で、もう一冊は『歌うネアンデルタール(スティーヴン・ミズン著早川書房刊)』でこれも2006年に買っていますから同じくらい積ン読していたことになります。どちらも意識や言葉・文字・音楽というものの起源と本質にかかわる書物で600頁と400頁に及ぶ専門書です。丁度読書に真正面から取り組んでみようとスタートしたころ、まだ問題意識が熟成していなかったのですがおぼろげに「意識、言葉、文字、天皇制」などを攻めてみたいと考えていたから購入したのでしょう。それが15、6年経ってようやく時期を得て読んでみたい意欲が湧いてきて本棚のホコリを払うことになったのです。

 

 今のご時世紙の本が売れなくなって、電子書籍が手軽に手に入るようになって、教科書の電子化や大学の講義もオンライン化して、読書というもののスタイルが多様化するようになってきています。でも紙の本の質感と読書のリアリティは魅力として決して無くならないと思うのです。偶然の本との出会いや「積ン読」の恩恵などは紙の本であればこそで、少なくとも私の世代までは紙の本を通じた「読書の不思議」を受け継いでいくことになるでしょう。

 そして読書の「促進剤」として「アウトプット」は欠かせません。読みっぱなしと書くための「読む」とでは読書の楽しみと深みに驚くほどの差が出てくることを経験しました。漱石の『草枕』を三読四読していますがコラムを書くようになって面白さとスゴさをどれほど感じたことでしょうか。読書量が増えたのも書くことと無関係ではありませんでした。

 

 人生百才の時代に読書は最良の伴走者です。これからも読書に耐える体力と好奇心の保持に努めて「読書の不思議」に接していきたいと願っています。

 

 

2021年9月20日月曜日

先祖というもの

  将棋の藤井聡太九段が最年少の十九歳一ヶ月で叡王を奪取し、十代初の三冠を達成しました。偉業と言っても言葉足らずを感じるほどの「天才業」でなんとも眩しいのですが、実はこの偉業に賛辞を贈った将棋連盟の佐藤康光会長のことばがまたすばらしいのです。「白熱した内容の中、見事な結果でした。大きな勝負が続いていますが、体調にご留意され、ますますのご活躍を祈念いたします」。読み飛ばせば何の変哲もない会長挨拶に過ぎないのですが、下線部の丁寧語に込められた尊崇の念は、これが五十歳を超えた協会最高位のおとなが若干十九歳の若者に捧げたものであるということが心ふるわせるのです。同じく羽生善治九段も賛辞を寄せていますがそこでも「藤井さん」とさんづけで呼びかけています。勿論将棋界という特異な社会のことですから慣例的にそうなのでしょうが、同じころ政治家社会で行われた河野太郎氏の総裁立候補時に見せた派閥領袖への根回しを見ているだけに、彼我の余りの差――58歳にもかかわらず若輩とみなされ立候補は時期尚早と意欲を矯められるざまをさらしたのと比較すると、将棋界の潔さに象徴される「歴史」の重みへの「畏怖」を感ぜずにはいられないのです。

 

 将棋の差し手は何兆手あるか定かではありませんが、西暦1000年前後の発祥以来千年の歴史のなかで先達が経験値として差し手の選択をくりかえし「標準化」した結果が「定跡」です。時々の棋士は、それまでの定跡をベースに差し手の選択を更に積み重ねて次代へと受け継いでいくのです。従って藤井九段は彼が将棋を学び始めるまでに先達が蓄積した「将棋の歴史」を学びのスタートラインに新たな「藤井将棋」の発明を繰り返して今日の彼がある訳です。彼の実力は「将棋の歴史」抜きには存在しないのであり言葉を変えれば藤井九段の「将棋生命」は「先達」とともにあるのです。「先達」は『死者』です。現役の将棋の棋士は「今、ここ」の私――彼だけの存在ではなく先達という死者との協働によって今の彼らが存在しているのです。

 しかし考えてみれば世の中の多くのものは「歴史」のうえにあります。学問も芸術もそうです。ノーベル賞を与えられた学問的業績も各学問のそれまでの蓄積の上に「彼の独自の研究」があって顕彰されたわけで、物理学であったり医学であったりの先達の積み重ねがなければ「学問」は存在していません。芸術でもその事情は同じです。美術でも音楽でも、文学さえも歴史の積み重ねの上に「今」があるのに変わりないのです。

 

 法律も例外ではありません。いや法律こそもっとも歴史の産物と言っていいかもしれません。わけてもわが国は先の戦争に敗れて今日があります。その反省をもとに今の法律の多くが作られたのです。憲法は勿論のこと刑法も民法も無謀な戦争を引き起こした愚かさを繰り返さないような仕組みが秘められています。戦争でなくなった何百万人の死を無駄にしないという祈りが込められているといってもいいでしょう。その法律を、今の自分たちの都合にまかせて変更を加えることが許されるのでしょうか。しかも、〈国民の半分プラス一〉が〈半分マイナス一〉を無視してです。正確にいえば今の選挙システムでは国民の25%――直近2017年の衆議院選挙では自民党は得票率48%で、投票率を勘案すればすれば国民の25.7%の支持で政権党になれたのです――の多数決で法律を変更したのです。このなかには「集団的自衛権の行使容認」という先の戦争への反省――戦死者の死を無駄にしない決意ともいうべき「憲法九条」の実質的な変更も含まれていました。

 その変更を行った責任者はこんな言葉を残しているのです。「あの苛烈をきわめた先の大戦では、300万余の同胞の命が奪われました。(略)祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。(略)今、すべての御霊(みたま)の御前(おんまえ)にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。(略)今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、終戦から75年を迎えた今も、私たちは決して忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。(令和二年度全国戦没者追悼式総理大臣式辞より)」

 

 平成、令和と時代がうつるとともに、われわれの「現在志向」は高まり歴史軽視が顕著になってきたのではないでしょうか。東京2020オリ・パラはそもそも「復興五輪」だったはずです。それがいつのまにか「人類がコロナに打ち勝った証」に変わり果てていたのです。東北大震災で亡くなった方のうち、未だに死亡の確認されていない方が多数あります。その家族の方たちは埋葬することができませんから死者はまだ身近な存在のままです。渋谷暴走事故の遺族は今も死者と切実に生きているにちがいありません。国民の少なくない人たちは今も死者と共に生きることをつづけています。でも、ほとんどの日本人は死者の存在を忘れかけています。そしてコロナで自宅療養を強制された人で治療から切り捨てられたまま亡くなった人たちは誰にも気づかれずに死ぬしかなかったのです。格差が激しくなり分断され、見捨てられた人たちが増えれば増えるほど「人の死」が蔑ろにされています。死者の存在が希薄になってしまっているのです。

 

 柳田国男は戦後すぐに書いた『先祖の話』のなかでひとりの老人を紹介しています。新潟生まれの彼は東京で功成って田舎から母を呼び寄せ安らかに見送り、子どものための蓄えも築いて死を待つだけの晩年を迎えて柳田にあい「しきりに御先祖になるつもりだということをいった」。「未来の私」は、次の子孫にとっての先祖となり、家の安泰を支える重要な役割を担う。そのため、「現在の私」は先祖に対する供養と謝恩を繰り返すと同時に、死後に「先祖になること」を意識しながら生きる。「現在の私」の目標は、今を生きることにだけあるのではなく、死後に先祖となって家を守って行くことにも向けられる。

 

 こんな死に方をした『死者』に守られて「今の私」があるということを私たちはすっかり忘れてしまっているのではないでしょうか。

本稿は『死者と霊性』/末木文美士編/岩波新書―を参考にしています

 

 

 

 

 

 


 

2021年9月13日月曜日

老いらくの恋

  コロナがはじまって一年半、去年の今頃はワクチンさえうてればという希望がありました。お陰様でファイザイーを二度接種できましたが生活に変化はまったくなく、むしろデルタ株の流行で感染者数は全国各地でこれまでの最高を更新しています。こんなことになるとは夢にも思っていませんでしたから二年前に免許を返納してしまい、外出するにもバスも電車も自粛する昨今では歩いて行ける範囲に限られます。友人との交流も限られつき合う人は近所の知り合いだけという生活はまるで七十年前の戦後すぐの時代にタイムスリップしたみたいです。

 空襲のなかった京都、その真ん中の西陣は織物の町で勤め人はほとんどなく住民の多くは西陣織関係の生業に従事しており自動車はまだほとんど走っていませんでしたから仕事の行き来も自転車か徒歩しか交通手段はありませんでした。買い物は歩いて十分ばかりの市場か御用聞きで間に合いました。たまの大丸か河原町へのお出掛け以外は毎日学校と近くの公園が子どもたちの生活圏でした。それで不満はなく、というよりもそれ以外の世界は想像外でしたから当たり前として受け止めていました。外食は千本でおうどんを食べるくらい、何かの寄り合いでおとなが集まる時の仕出しのお料理の御呼ばれがごっつおでした。小学校の高学年になるまで旅行した記憶はありません。

 

 八十才ちかくになって時々思い出すことがあります。ハラはんのおっさんという長寿のおじいさんのことです。健康そのもので釣りに出かける以外は毎日三時間ほどの散歩を欠かしませんでした。散歩の最後はウチの裏の路地にあるIさんのおばさんとのデートです。といっても足の悪いおばさんは二階の自分の部屋の窓から顔を出しておっさんと話すのが日常でした。下から見上げるおっさんと見下ろすおばさんの会話はほとんど毎日一時間ほどはつづくのですがどんな話題だったかは知る由もありません。昼飯前の一時間ほど絶え間なく繰り返される毎日でした。

 齢がいったらあんな付き合いができたらいいね、と妻と話し合ったことを覚えています。ハラのおっさんは朝の遅いのを不審に思った家人が起こしにいったとき、眠るように安らかな天寿を全うしていました、百才の誕生日の前日のことでした。

 

 老人と呼ばれる年齢になって予想もしなかったことは「老いと性」です。もう何年もセックスはありませんしなによりその能力を喪失しています。にもかかわらず「欲望」は残っているのです。このまま自然に衰えていくのでしょうか、どうもそんな生やさしいものではないような惧れを覚えます。ちょうどそんなとき、NHK・Eテレ「百分で名著」でシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『老い』が放送されていました。彼女の透徹した考察は馬齢を重ねる凡庸の老い耄れに衝撃を与えました。

 

 老齢(おい)が肉欲からの解放をもたらすという考えは経験が教えるところと基本的に矛盾している。/生殖機能が減退あるいは消滅した個人は、それだからといって無性化されたわけではない、ある種の毀損・欠如にもかかわらず己の性愛欲(セクシュアリテ)を実現すべき存在なのである。老人の性愛について問うことは、その性構造において生殖性が消滅した人間の、自己に対する、他者に対する、世界に対する関係がいかなるものになるかを問うことである。

 上品な哲学的表現ですが、老人の性が「業(ごう)」であると宣言しているのです。しかも単なる個人的な問題ではなく、自己との、他者との、世界との関係であるというのです。「生やさしいもの」ではないという私の惧れが誤りでないと突きつけるのです。解説の上野千鶴子さんは「性を考えることは人間の自由とか社会を考える点ではとても大事なことだと思います」と付けくわえています。

 

 男の子は彼のペニスに第二の自我を見いだす。男性は一生涯彼のペニスにおいて自己を認め、彼が危機にあると感じるのもこのペニスにおいてなのである。彼がおそれる自己愛上の損傷、それは彼の性器の衰弱なのである、すなわち、勃起に達しえないこと、この状態を持続し、相手を満足させることができないこと、である。/彼女たちがはるか以前から男性の眼に欲望の対象(デイザイヤブル)と映らなくなった後も、(自分は)欲望をもちうることの証拠である。以上のことは、女性が色情的客体(対象)であるというその境涯に最後まで制約されていることを意味する。禁欲は生理的運命によってでなく、(主体があってはじめて存在する)相対的存在という彼女の社会的地位(ステータス)によって課せられるのである。

 ここで彼女が突き付けるのは、男も女も性的能力であり色情的客体の衰えが人生途上における重大な欠陥となりうるという現実であり、中途半端な対決で済ますならその後の「生きる」意味に根本的な毀損を及ぼすにちがいことを警告しているのです。

 

 長い老年をもつ人々は、あたかも肉体の穢れから浄められた観がある(ジョセフ・ジュベール)性欲はなくなるべきだという規範(上野)タブーでがんじがらめになっているのが性(上野)

 こうした倫理観やタブーが老人の性慾を抑圧しています。

 「結婚して子供を産み育てるのが正しい性」だという「生政治」的結婚観を政治家の多くが平然と公言し「近代国家にとって人口の質と量の管理は必須」であり「生殖につながらない性」は否定され、成長志向の政治思想にとって「人口の少子高齢化」は悪以外の何ものでもないのです。

 

 コロナと(少子)超高齢社会のなかに身を置く老人はある意味未踏世界の「冒険者」と言ってもおかしくありません。老人の性の問題は新たな道を見いだすための一つの「有力なピース」なのだということをボーヴォワールは突きつけたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年9月6日月曜日

菅首相はなぜ辞めなければならなかったか

  ズバリ「コロナ政治」です。コロナの政治は日本国民全部のための政治です、一部の人の利益のための政治ではありません。菅さんは――自民党といってもいいのですが――国民の一部、前回の衆議院選挙でいえば48%(得票率―投票率を勘案すれば25.7%の支持者)の人の利益を中心に政治運営を行うことを公言してきました。それを端的に言い表しているのが「自助・共助・公助」です。自助できる人を大切にする政治を目指してきたのです。ですからコロナ対策も自助=「自粛」を感染対策の中心に進められました。ところが感染症対策は国全体で取り組まないと効果の出ない政治課題です。だから国民全部に利益をわたらせるマクロな対策――ワクチン、PCR検査、病床の拡大、治療薬の開発投資など――が後手後手になってしまったのです。しかも感染拡大の緊急時にもかかわらず「GoToキャンペーン」や「オリ・パラ開催」など一部の利益享受者のための政策を断行したのですから国民の反発が高まるのは当然の成り行きでした。

 菅さんが首相を辞めなければならなかったのはコロナ対策という国民全員のための政治を遂行する能力が無かったからです。

 

 しかし国民の一部のための政治を行なってきたのは菅さんだけではありません。「小選挙区制」を導入した1996年(1994年制度成立)以降徐々にその傾向が進み、小泉純一郎首相の出現(2001年)で一気に加速したのです。彼の政治手法は「郵政民営化」で顕著にみられるように「賛成者対反対者」という構図を描いて争点を単純化し、「短フレーズ」で選挙民へ訴えることでさらに「対立」を際立たせて選挙民を自らの陣営に誘導するというものです。要するに自分の進めようとする政策の「敵」対者を設定し、味方か敵かという「二項対立」に問題を単純化して――結果として国民を「分断」する政治手法であり選挙手法なのです。そしてこれが「小選挙区制」という選挙制度の「勝利の方程式」として定着し、安倍さんの森友、加計学園問題、「桜を見る会」で頂点に達し菅さんに引き継がれたわけです。

 小泉さんが推し進めた政策は「新自由主義」にもとづく「規制改革=民営化」でした。竹中平蔵という知恵者を懐刀に急速に、急激に推進しました。しかしこれは世界経済の歴史的観点からすれば、戦後一貫して生産力優位を保ち世界経済の覇者として君臨してきたアメリカが、急追してきたGDP世界第二位の日本の経済力を衰退させようという経済政策でもあったのです。戦後復興という困難な課題を達成するためには「国力」を集中し「復興目標」に効率的に配分する体制が必須であったわが国において、先達が編み出した「社会主義的資本主義」と揶揄された「護送船団方式」をなんとか潰そうとわが国に圧しつけた「規制改革」に「服従」したわが国は見事に「日本沈没」してしまいました。バブルは崩壊し「失われた二十年」をへてわが国はゼロ成長に呻吟している中、アメリカは2~3%、ヨーロッパ諸国も2%近い成長を維持しておりわが国ひとりが世界の成長から取り残されている始末です。

 

 小選挙区制と内閣人事局制の弊害が露呈した安倍・菅の自民党政権は曲がり角に立っています。安倍さんから菅さんへの政権移行でみせた自民党領袖の政治感覚は今回の菅退陣で国民感情と齟齬をきたしていることが明らかになりました。ここで自民党が自浄作用を見せないとわが国の政治体制は一挙に改革の方向に展開するにちがいありません。

 その際考慮されるべきは「多様性の時代」だということです。LGBTQや#Meto、Black lives matterなど世界の潮流は多様性が先鋭化しています。これに「南北問題」―世界の貧困問題と環境問題を加えるとこれまでのように二項対立の問題単純化ではどうすることもできない複雑な状況になっています。米中対立の激化を考えると今までのような「対米従属」でアメリカ頼りの「思考停止」でしのげるような時代ではないのです。

 

 菅さんの退陣は単なる自民党内の勢力争いや国民の自民党批判に矮小化できるものではありません。そもそも菅批判の端緒は「学術会議会員任命拒否」にあることを菅さんは自覚しているでしょうか。この問題を「是非」の二者択一に単純化して学術会議存続か否かに問題化しようとした菅さんの対応に国民は違和感を感じています。学術会議というものは国民の一部の利害を超越した存在なのではないかという違和感がわれわれの心に残っているのに菅さんは気づいていませんからほったらかしなのです。身近な存在ではありませんが「国民全体」の問題として考えられるべきにもかかわらず相変わらず一部の人の利益に引き付けて対処しようとした菅さんの対応が、国民を「身構え」させた最初となって今日につづいているのです。

 「蟻の一穴」という言葉があります。思わぬところから「破綻」ははじまるのです。