2021年9月13日月曜日

老いらくの恋

  コロナがはじまって一年半、去年の今頃はワクチンさえうてればという希望がありました。お陰様でファイザイーを二度接種できましたが生活に変化はまったくなく、むしろデルタ株の流行で感染者数は全国各地でこれまでの最高を更新しています。こんなことになるとは夢にも思っていませんでしたから二年前に免許を返納してしまい、外出するにもバスも電車も自粛する昨今では歩いて行ける範囲に限られます。友人との交流も限られつき合う人は近所の知り合いだけという生活はまるで七十年前の戦後すぐの時代にタイムスリップしたみたいです。

 空襲のなかった京都、その真ん中の西陣は織物の町で勤め人はほとんどなく住民の多くは西陣織関係の生業に従事しており自動車はまだほとんど走っていませんでしたから仕事の行き来も自転車か徒歩しか交通手段はありませんでした。買い物は歩いて十分ばかりの市場か御用聞きで間に合いました。たまの大丸か河原町へのお出掛け以外は毎日学校と近くの公園が子どもたちの生活圏でした。それで不満はなく、というよりもそれ以外の世界は想像外でしたから当たり前として受け止めていました。外食は千本でおうどんを食べるくらい、何かの寄り合いでおとなが集まる時の仕出しのお料理の御呼ばれがごっつおでした。小学校の高学年になるまで旅行した記憶はありません。

 

 八十才ちかくになって時々思い出すことがあります。ハラはんのおっさんという長寿のおじいさんのことです。健康そのもので釣りに出かける以外は毎日三時間ほどの散歩を欠かしませんでした。散歩の最後はウチの裏の路地にあるIさんのおばさんとのデートです。といっても足の悪いおばさんは二階の自分の部屋の窓から顔を出しておっさんと話すのが日常でした。下から見上げるおっさんと見下ろすおばさんの会話はほとんど毎日一時間ほどはつづくのですがどんな話題だったかは知る由もありません。昼飯前の一時間ほど絶え間なく繰り返される毎日でした。

 齢がいったらあんな付き合いができたらいいね、と妻と話し合ったことを覚えています。ハラのおっさんは朝の遅いのを不審に思った家人が起こしにいったとき、眠るように安らかな天寿を全うしていました、百才の誕生日の前日のことでした。

 

 老人と呼ばれる年齢になって予想もしなかったことは「老いと性」です。もう何年もセックスはありませんしなによりその能力を喪失しています。にもかかわらず「欲望」は残っているのです。このまま自然に衰えていくのでしょうか、どうもそんな生やさしいものではないような惧れを覚えます。ちょうどそんなとき、NHK・Eテレ「百分で名著」でシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『老い』が放送されていました。彼女の透徹した考察は馬齢を重ねる凡庸の老い耄れに衝撃を与えました。

 

 老齢(おい)が肉欲からの解放をもたらすという考えは経験が教えるところと基本的に矛盾している。/生殖機能が減退あるいは消滅した個人は、それだからといって無性化されたわけではない、ある種の毀損・欠如にもかかわらず己の性愛欲(セクシュアリテ)を実現すべき存在なのである。老人の性愛について問うことは、その性構造において生殖性が消滅した人間の、自己に対する、他者に対する、世界に対する関係がいかなるものになるかを問うことである。

 上品な哲学的表現ですが、老人の性が「業(ごう)」であると宣言しているのです。しかも単なる個人的な問題ではなく、自己との、他者との、世界との関係であるというのです。「生やさしいもの」ではないという私の惧れが誤りでないと突きつけるのです。解説の上野千鶴子さんは「性を考えることは人間の自由とか社会を考える点ではとても大事なことだと思います」と付けくわえています。

 

 男の子は彼のペニスに第二の自我を見いだす。男性は一生涯彼のペニスにおいて自己を認め、彼が危機にあると感じるのもこのペニスにおいてなのである。彼がおそれる自己愛上の損傷、それは彼の性器の衰弱なのである、すなわち、勃起に達しえないこと、この状態を持続し、相手を満足させることができないこと、である。/彼女たちがはるか以前から男性の眼に欲望の対象(デイザイヤブル)と映らなくなった後も、(自分は)欲望をもちうることの証拠である。以上のことは、女性が色情的客体(対象)であるというその境涯に最後まで制約されていることを意味する。禁欲は生理的運命によってでなく、(主体があってはじめて存在する)相対的存在という彼女の社会的地位(ステータス)によって課せられるのである。

 ここで彼女が突き付けるのは、男も女も性的能力であり色情的客体の衰えが人生途上における重大な欠陥となりうるという現実であり、中途半端な対決で済ますならその後の「生きる」意味に根本的な毀損を及ぼすにちがいことを警告しているのです。

 

 長い老年をもつ人々は、あたかも肉体の穢れから浄められた観がある(ジョセフ・ジュベール)性欲はなくなるべきだという規範(上野)タブーでがんじがらめになっているのが性(上野)

 こうした倫理観やタブーが老人の性慾を抑圧しています。

 「結婚して子供を産み育てるのが正しい性」だという「生政治」的結婚観を政治家の多くが平然と公言し「近代国家にとって人口の質と量の管理は必須」であり「生殖につながらない性」は否定され、成長志向の政治思想にとって「人口の少子高齢化」は悪以外の何ものでもないのです。

 

 コロナと(少子)超高齢社会のなかに身を置く老人はある意味未踏世界の「冒険者」と言ってもおかしくありません。老人の性の問題は新たな道を見いだすための一つの「有力なピース」なのだということをボーヴォワールは突きつけたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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