2022年12月26日月曜日

子育てという発見

  泥沼化したウクライナ戦争、それに乗じた我が国の軍事大国化、安倍前総理の暗殺、終息の見えないコロナと世界経済の不調など暗いニュースばかりあったこの一年。唯一の明るい話題はワールドカップの日本チームの活躍で2022年が暮れようとしています。 

 世間様はそんな風なのに我が家は笑いが絶えなくて申し訳無い気持ちです。四月に授かった初孫の成長がLINEで写真や動画付きで送られてきますので一緒に暮らしているような臨場感です。月に二三度いに行くとコンニチワと大袈裟に挨拶するジジとババにコックリと訳も分からずうなずいてくれる孫のかわいさは一瞬に別世界に導いてくれます。

 孫は今のところ順調に成長しています。というか標準以上の成長ぶりなのですがそれは2つの偶然のお陰なのです。40日の産後保養を我が家で過ごして高槻の自宅に帰ったのですが早速難問が控えていました。ベビーベッドを二階の寝室に置いて家事は一階のリビングで行なうと赤ちゃんに目が届かないということに気づいた若夫婦は、毎日毎日ベッドを一階に下ろすというのは面倒だし、かと言ってもう一台ベッドを買うという選択には躊躇する。そこでふたりがとった、リビングの床に直接フトンを敷くという苦肉の策が思わぬ効果をあげることになったのです。そりゃあそうでしょう、僅か80センチと1メーターそこそこの柵に囲まれた檻のような空間から広大無辺(?孫はそう感じたにちがいありません)の地に解きはなたれたのですからその解放感に彼の「野生」は喜びの雄叫びを上げたにちがいありません。4ケ月頃からが標準といわれている「寝返り」は3ヶ月早々にするようになり、お座りと首の据わりも順調、ハイハイを7ヶ月でしたときには大喜びすると同時にイヨイヨ目が離せなくなったと嬉しい心配までしました。しかし現代の機械文明はかゆいところにも手が届いていて「見守りカメラ」があるのです。赤ちゃんの行動範囲をカバーできるカメラを設置すると映像が台所で仕事をする娘の前の小モニターに映されるのです。勿論モニターを2台3台設置すればどこでも見守りできるわけで本当によくできています。「つかまり立ち」をしたのは12月5日でしたが、気配を察知した娘がスマホを構える前で立った映像をスグ様LINEで送ってくれてジジ、ババは声を上げて「スゴイ!」と歓喜の声を上げました。生後8ヶ月、この間軽い風邪の症状(ハナ水)があった他はこれといった病気もせずここまで成長してくれたことは喜び以外ありません。それもこれも「子育て教科書」には載っていない「早期のベッドからの解放」がもたらした幸運でした。

 二つ目の偶然は「赤ちゃんフェンス」です。ハイハイが上手になって行動範囲の広がった孫が気がついたら台所で炊事をしている娘の足元にいるのにビックリした夫婦はこれではイカンと赤ちゃんフェンスを設置したのは7ヶ月になる頃でした。リビングが台所で区切りとなった1.5メートルほどにフェンスで遮断された孫はヒトリボッチにされると柵の向こうに去りかけた娘の背中に向かって悲し気なシクシクを浴びせたのです。何日かしてお母さんとお父さんがいる時には泣かなくなったのですが、それが引き金になって「人見知り」するようになりました。タイミングが悪いというか婿さんのご両親が久しぶりに会いにこられた時は人見知り全開で中々泣き止まず申し訳なくて恐縮したと娘はこぼしていました。

 この現象は「8ヶ月不安」というらしく「母子分離不安」ともいいます。8ヶ月頃になると赤ちゃんの「認識」と「記憶」の脳が成長することによって、親と自分がちがう人間だということに気づき、物理的にも距離があることも分かってきます。この成長により、ママが傍にいない、遠くにいる、姿が見えないということが分かるので不安になり泣くのです。別の面から言えば「お母さんが特別な存在」だと認識するようになったことになります。お母さんと別の人、見知った人とそうでない人が区別できるようになる発達段階で「人見知り」は起こるのです。小児科の先生がこう解説していますが、今までの「母子一体」の無意識な安心感が破られると同時に「母親」という「絶対的な保護者」を獲得するのです。お母さんが離れると泣いて傍にいてと訴える、見知らない人がいると泣くことでお母さんに知らせる、それが見慣れたおばあちゃんだったりおじいちゃんだと気づくと安心する――おかあさんの次に保護してくれる存在だと認識できるのでしょう。

 「母子一体の安心感」を「赤ちゃんフェンス」が強制的に破壊したのでしょうか。遅かれ早かれこの発達段階はどんな赤ちゃんにもくるのですが孫の場合は「赤ちゃんフェンス」という障害物の設置がその時期を明確に区切ったのかもしれません。ちょうど「母子教室」に参加し始めたこともあって孫の人見知りはやや強烈なようですが賢い子ですからそのうち克服することでしょう。

 

 いつからか「子育て」が母親の専権事項と見なされるようになって世のお母さんたちは孤独な強迫観念にさらされています。頼りは「子育て教科書」で本とインターネットのテキストに「支配」されて「分単位」の「子育て記録」と教科書を突き合わせて「標準」との乖離に一喜一憂の毎日です。そうしたお母さんの窮状をサポートする行政の施策も驚くほどの充実ぶりでそれはそれでいいのですがもう少し「子育てという発見」を楽しむ余裕があってもいいのでは――娘の奮闘ぶりを見ていてそんな感想を抱かずにはいられぬ時期もありましたが「離乳食」をおいしそうに「完食」する息子の成長を喜ぶ姿に「母親馴れ」した様子がうかがえ一安心しています。

 

 八十才にして初孫を授かるという幸運に「有頂天」の一年を過ごしました。一年最後のコラムをこんな私事で終わることに恐縮の念を禁じ得ませんが「ジジの孫育ち日記」のような「発見」は私たち高齢者の周囲にも満ちています。嬉しいこともあれば若い人たちの理不尽な格差に悩む現実であるかもしれません。喜びはひっそりと、怒りは力に変えてこれからの残りの人生の「はずみ」にしていけたら充実した「晩年」になるのではないでしょうか。

 よいお年をお迎え下さい。

2022年12月19日月曜日

今年は『水平線』が推しです

  今年も読書三昧の一年でした。そして読書にとって「書斎」の重要性をつくづくと思い知らされた一年でもありました。四年前に結婚した娘の部屋を書斎に設えたのですが、他の生活空間と隔絶していて扉を閉めると読書に没頭できるのがありがたく四畳に満たない狭さも小人にはかえって程よく、友人や知人から貰ったり購った絵と時おり妻が活けてくれる生花が今はない花のない花瓶も風情となって「わたしの書斎」という統一感を保ってくれています。ミニコンポで好きな音楽を聴く時間が次への弾みとなって読書に浸ることができ、こんな環境がなければ『古今和歌集(角川ソフィア文庫)』を窪田空穂の評釈(『窪田空穂全集20、21』)を手引きに一首一首を玩味しながら半年をかけて精読することはできなかったにちがいありません。今は古今集がらみで『伊勢物語(岩波文庫ワイド版)』を同じ窪田空穂(『窪田空穂全集25』)を頼りに読んでいます。芭蕉もじっくり読むことができました。『芭蕉の風景 上・下』(小澤實著・ウェッジ社)は芭蕉が句を詠んだ場所へ行ってその句を鑑賞するという贅沢だがなんともご苦労な著述スタイルの本ですが評釈と推敲の過程も書いてあって俳句をつくっている人には実作にも役立つ内容になっています。芭蕉は何度も紀行を行なっていますが行く先々で会った俳人仲間や後援者との行き交い、連歌を巻いた有り様などを詳細に記されていて「俳句鑑賞読本」として最適の本になっています。有名な句も多くある芭蕉ですが、これまでの読み方の浅薄さを思い知らされて勉強になりました。その継続で『くずし字で「おくの細道」を楽しむ(中野三敏著・角川学芸出版)』を芭蕉の原本の写真を見ながら苦労して読んでいます。非常に癖のあるくずし方の字ですから活字文と首っ引きで読まざるをえませんが毎日見開き2頁を楽しんでいます。

 今年は漢詩も読みました。60才代はじめに「晩年の読書」を始めるに当たって漢詩は必須科目だと思って大体の漢詩人――李白、杜甫、白楽天や中国名詩選などで一通り目を通してその後もポツポツと読むことはあったのですが今回は江戸漢詩が読みたくなったのです。『江戸漢詩選 上・下(岩波文庫・揖斐高編訳)』と『頼山陽とその時代 上・下(ちくま学芸文庫・中村真一郎著)』、併せて『江戸漢詩の情景(岩波新書・揖斐高著)』も読みました。この流れは古今集を読んで日本人の背骨のようなものに接して徳川時代の基底としての俳句と漢詩を読むべきだと思ったのです。秋ごろから仏教を知りたいという意欲が起り良寛と西行、『良寛(吉本隆明・春秋社)』『良寛(水上勉自選仏教文学全集3・河出書房新社)』と『山家集(新潮日本古典集成・後藤重郎校注)』を読みながら瀬戸内寂聴の『手毬(良寛を題材にした小説)』『白道(西行の小説)』(どちらも新潮社『瀬戸内寂聴全集十七』)を補助線として読みました(山家集は来年読むつもりです)。

 

 どうして読書がこのように古典へ傾斜したかを考えてみると、齢も八十才を超えると自己のルーツに対する探求と回帰の欲望が自然と起こってくるのではないでしょうか。そしてそれはいくら能天気でも近づく「死」への無意識の怖れが作用しているにちがいありません。私は毎朝仏壇のお世話をして称名と般若心経を唱えるのを日課にしていますがそのとき息災に過ごさせていただいていることを感謝し前日に起こったこと考えたことも先祖に話しかけるのですが、そんな習慣は先祖や佛との関係が日常化していてその分ルーツへの同体化欲求が強くなっているかもしれません。丁度父の三十三回忌が年末に迫っていることも影響して父を理解するためにルーツを遡ってみたいという欲求がめばえたのでしょうか。

 こんな読書をして気づいたことは現代に近づくほど「左脳―論理的思考」機能に過剰に頼るようになって「右脳―直観的芸術的思考」機能が劣化していることです。古今集の都人の夢と現の境に揺れながら生きている様は今の我々からみるとむしろ羨望さえ感じました。

 

 さて今年の小説ですが『水平線』が第一等の推しです。上のような読書傾向が『水平線(新潮社)』という過去と現在の境界のあやふやな実験的小説を高評価したにちがいありません。滝口悠生は新たな才能で文章力も確かで過去と現在の混交を無理なく表現しています。硫黄島に出自をもつ四世代の記録を現代に生きる四世代目の兄妹と曾祖父母世代をSNSで結びつけ硫黄島の理不尽な、発見、入植、強制退去、米軍の占領期への彷徨を小説化しています。生きているはずのない――生きていれば百才近い曾祖父の友と曾祖母の娘が現代の若者――曽孫世代の兄妹に別々のルートでSNSでつながりを求めてきて伊豆諸島の一島嶼に呼び寄せるのです。日本軍の基地造成によって理不尽に強制離島させられて内地に拠点を移し、そして突然蒸発した大叔母と硫黄島の軍属となって全滅したはずの大叔父の友人とのSNSを介した接近を現実感が揺らぐ中で交流するのですが、その関係性が不自然でないかたちで表現される、はじめて経験する小説です。決して声高に反戦を訴えるのではないのですが悲惨で不幸な戦前戦中世代と平成世代の不確実性の高い生活を対比させて現代の不安を描く滝口悠生に期待大です。

 

 今年読んだ小説NO1は『水平線』ですが以下が決めづらいので羅列します。

 『天路』(リービ英雄・講談社)、『砂に埋もれる犬』(桐野夏生・新潮社)、『春のこわいもの』(川上未映子・新潮社)、『じい散歩』(藤野千夜)、『ひとりでカラカサさしてゆく』(江國香織)、『「坊ちゃん」の時代1~5』(関口夏央・谷口ジロー・双葉社)、『サウンド・ポスト』(岩城けい・筑摩書房)。

 7冊中5冊が女性ですから圧倒的に女性優位です。他にもいい小説がありますがそれも女性作家がほとんどです。一般に言えることは総じて女性作家の文章力は確かてテーマの現在性、時代的緊張感も優れています。女性の時代です。

 高齢社会ですし私自身が高齢者ですからどうしてもそのジャンルにひかれます。そんななかで旧刊でマンガでしたが『「ぼっちゃん」の時代』は明治大正の歴史的背景と文学者の相関図が詳細に描かれていて読みごたえがありました。

 

 古典と新刊の小説、社会科学系の専門書(文庫、新書を含めて)。蔵書と図書館の本。書評と読んだ本の参考図書・引用文献。こんな要素の組み合わせで本を選定して来年も読書に耽ることになるでしょう。それに耐える体力と集中力。81才、まだまだやれる。愉しみたいと願っています。

 

 

 

2022年12月12日月曜日

なりたい総理となったら総理

  正に「天の配剤」というべき日本のワールドカップでした。敗れたのは残念でしたがこれほど有意義な『敗戦』はありません。これで日本はまた一段と高い世界レベルに達することでしょう。

 外国でプレーする選手が19人もいる今回のチームが善戦するであろうことは予想出来ました。ドイツ戦がまるで勝てないような、引き分けの勝ち点1で十分だなどという「専門家」のご意見に首を傾げていました。結果はご存じの通り2勝1敗、ドイツ、スペインに勝利して1stステージを突破しベスト18へ、そして決勝ラウンド、クロアチアに敗戦して日本のワールドカップ2022は終わったのです。しかしクロアチア戦、1―1で決着がつかず延長戦も前後半30分ドローでPK戦へ。ここまでの試合展開は日本チームの実力が世界レベルに完全に到達していることを証明しています。前回準優勝チームが相手です、堂々と胸を張って言えるでしょう。しかしPK戦で両チームの歴史の違いがはっきりしました。100年の歴史(1930年開始)を誇るFIFAワールドカップですがわが国プロリーグは僅か30年(1991年設立)の歴史です。この間クロアチアはヨーロッパサッカー界で数々の試練をくぐってきたにちがいありません。歴史は「痛み」の積みかさねで重みが生まれます。PKのボールを前にしてクロアチアの選手は100年の間に繰り返されてきた多くの先輩選手たちの痛い経験の歴史が無意識のうちにあったはずです。失敗も暗黙知として備わっていたでしょう。一方のわが国の選手たちにとって決勝リーグのPK戦は初めての経験です、自分のひと蹴りが歴史の一歩を刻むのです。この彼我の差はあまりに大きすぎます。日本の選手がガチガチになって当然でした。とりわけゴールキーパーの権田選手にとっては耐え難い緊張であったことでしょう。

 貴重な敗戦です。もう世界の一線で勝負できるだけの戦力を我が日本は備えています。これからは世界レベルでの経験を積み重ねて「歴史」を紡いでいくしかないのです。2026年の日本チームはまた一歩新しいステージに上っていることはまちがいないでしょう。

 

 政治ジャーナリストの伊藤惇夫さんが「総理にはなりたい総理となったら総理の二種類がある」というのを聞いたことがあります。元総理の中曽根康弘さんの言葉だそうですが「なったら」の方は総理になったらあれをやりたい、これもやりたいという「政治家タイプ」、「なりたい」の方はとにかく総理になりたいだけの「権力者タイプ」をいうのだそうです。

 岸田さんが総理になって1年が過ぎました。就任当時「新しい資本主義」を掲げてこれぞ「なったら総理」と期待を抱かせたのですが今に至るや典型的な「なりたい総理」の馬脚があらわでガッカリです。宏池会出身ですからリベラルな政策中心主義の清新な総理の登場と思わせたのですが実際は『鵺(ぬえ)』の如き「実体不在の得体の知れない食わせ物」で、ひたすら『延命』を願うだけの「右傾保守の守旧政治政策」を総ざらえした「自民党保守系右派政策在庫一掃内閣」に堕しています。「憲法改正」「反撃能力保有の自衛隊戦力大拡大」、無原則の「原発運転の大長期化」、そして旧統一教会「解体法案」の『骨抜き』化。統一教会法の骨抜きは公明党の「反撃能力保有」受けいれとの取引による『野合』であり、これによってこれまで公明党の存在理由であった「自民党右傾化チェック機能」が消滅してしまいましたから今後の自公連立政権はひたすら右傾化の一途をたどるにちがいありません。

 

 今の政治家に「戦争」を経験した国会議員はいません。最高齢は衆議院二階俊博83才、参議院山崎正昭80才です。敗戦時二階さんで6才ですから記憶もおぼろでしょう。ということは今「反撃能力」を議論している政治家の「戦争」は映像などの2次経験と資料によって構成された「観念としての戦争」でしかないのです。だから戦争についての具体的な「詰め」が非常に甘いのです。

 たとえば反撃能力の「シビリアンコントロール」はどうなるのでしょうか。最初の一発のボタンは誰が、どのタイミングで押すのでしょうか。

 反撃能力の攻撃ポイントをどのように探知するのでしょうか。それはタイミンブ的に反撃を可能とするのでしょうか。

 原発を攻撃されたときの対応と被害状況は完全に想定されているでしょうか。

 相手国の攻撃による被害状況はどの程度、どの段階まで想定されているのでしょうか。

 死者はどの程度、どの段階まで想定されているのでしょうか。

 被害者の補償はどの範囲まで、どの程度の額まで法制化されているでしょうか。自衛隊員、軍属以外の一般国民も当然補償対象になっているのでしょうね。

 

 ちょっと考えただけでもこれだけの「準備」が必要ですがこれまでのところ国会でこれらを論議された形跡はありません。本気で戦争するのなら最低でもこの程度の具体的な準備はするべきです。被害に遇うのは一般国民です、戦場へ行くのも一般国民です。国会で紙の上で「数字合わせ」と「銭勘定」している議員さんでも官僚でもないのです。

 無責任に、自分の親や祖父さんたちがどれだけ虐げられたか、死んでしまったのかも忘れてしまって、戦争へひた走る「若い人たち(決して子どもではない立派な大人の)」を「たしなめない」でウクライナ戦争に「浮かれ」て5兆円の軍備増強にもろ手を挙げて賛成している「老人たち」よ、あの辛酸の記憶を思いだそうよ!

 

 「常備軍があるうちは平和は戦間期の休戦状態に過ぎない」といういましめを今こそ思いだすべきです。

 

 

 

 

2022年12月5日月曜日

鞘の内

  サッカーワールドカップの対コスタリカ戦の敗因を「球を持たされた」と解説した専門家が一人いました(私の見た範囲で)。ボールの支配は圧倒的に我が日本なのにジリジリと前線が押し上げられるのにズッと不安を感じていました。コート中央あたりでボールを奪って攻撃を仕掛けようとボール回ししているのですが一向にスキを見出せず右に左にボールを回して一旦ゴールキーパーにボールが戻るたびに敵方が前に攻め上がってくるのです(日本側に詰め寄ってくるのです)。ヒタッヒタッという表現がピッタリの静かな対決が何度も繰り返されてジリジリと時間だけが過ぎていきます。均衡が破れて初めてコスタリカが突破を図った一瞬のスキにゴールが決まっていました。まさに「ボールを持たされて」わが方の武器であるスピードを封じられ、ただ時間だけが経過してアセリがつのって心理的に窮地に追いつめられたイラ立ちの一瞬を突かれた我が方は混乱に陥り考えられないミスをさらしてしまったのです。静かな「守りの攻め」にしてやられた日本は悔やんでも悔やみきれない敗戦でした。

 

 「守りの攻め」と似たような言葉に剣道の「鞘の内」があります。元々は居合術の言葉で「勝ちは鞘の内にあり」などと言われいろいろな解釈があるのですが「圧倒的な技術と心を兼ね備えた達人は、そのオーラ(威圧感)だけで刀を抜く事なく相手を制圧することができる」と理解するのが一般的なようです。相手を殺めることのできる技ですが生涯使わずに人生を終えることができる刀こそ「最高の剣」だというのです。

 戦争の絶えなかった戦国時代にはそんな悠長なことは言っておられなかったでしょう。全国が平定され平和のつづいた徳川時代も百年も過ぎれば「武士道」にも変化が生じます。安泰した幕府権力は少しの反権力に対しても容赦なく、僅かな兆しを利用して「取り潰し」、領地召し上げを狙っていました。したがって隣国との訴訟沙汰は決して実力行使に至らないようにするのが藩経営の要諦となりました。刀――武力を使わずにもめ事の解決を図る、外交努力で平和的解決を図らねばたとえ勝ったところでお家安泰が保証されるとは限らない、そんな危惧を抱かざるを得なかった武士社会の影響が「剣術」に反映して「鞘の内」という哲学が生まれたのかも知れません。

 

 勝っても自国に甚大な損害が生じる上に開戦理由に国際的信認が得られなければ「戦争犯罪」にも問われ兼ねない「現代の戦争」は決して「国際紛争の解決策」にはなりません。戦力は「鞘の内」の「刀」なのです。しかしいくら圧倒的な戦力を保持しても「心」に他を制圧する「威厳」がなければ「鞘の内」ではないのです。相手国に尊敬されその国の国際政治に占める地位が「世界平和」に真摯に向き合っていると信認されて初めて「鞘の内」の国になれるのです。現在の米中関係において、米ロ関係において、互いが平和を志向した真摯な国であると尊敬しあっているとはとても言えません。ということは米中ロの三国は世界平和を実現する国際社会の主導者にはなれないのです。

 こうした認識に立つとき、我が国は世界平和の主導者として最も適格な存在になり得る可能性を持っていると言えないでしょうか。米中の二極体制への「勢力均衡」を模索する混乱を極めた現在の世界情勢において目先の戦力増強策ばかりでなく、その先の世界の「協調体制」の構築に向けた「指導体制」も見据えた「賢明」な外交力をどう発揮するか、今のわが国に求められるのはこうした「冷静な外交思考」なのだということを政治家の誰かが声にするべきです。

 

 にもかかわらず「日米共同で反撃能力発動」であるとか「韓国国会議員、在日米軍基地視察計画」などという敵対していると想定されている相手国を逆撫でするような報道がこのところひっきりなしにつづいています。「5年以内に軍事費GDP2%に増額」方針が「既定事実化」してはや「財源確保」策まで自民党では論議に上る事態に至っています。そんな時に上のような報道が飛び交うと東南アジアの緊張はいやが上にも高まるばかりです。反撃能力が日米共同発動ということになれば「集団的自衛権」行使容認は絶対的前提になりますし、韓国が在日米軍との連携をあからさまにすれば沖縄や横田基地が北朝鮮の攻撃目標にされることが現実味を帯びてきます。

 

 プーチンのウクライナ侵攻をはじめ現在の国際緊張を喜んでいるのはアメリカをはじめとした「軍需産業」であることは世界の周知するところです。最大の軍需産業国はアメリカですがイギリスもフランスもオランダもスイスもそうですからEUのウクライナ支援ではこれらの国の軍需企業も潤っていますし、中国もロシアもトルコもパキスタンも北朝鮮も兵器生産国であることは明らかです。そこへ遅ればせながら我が国も参加しようとしているのですからその愚かさに驚きを禁じえません。

 

 北朝鮮が韓国にミサイル攻撃を数発行なったとしたら米韓はすぐさま反撃するにちがいありません。圧倒的な戦力を保持していますから北朝鮮は壊滅的被害を受ける可能性は極めて高いでしょう。万が一ICBMでアメリカ本土を核攻撃すればその結末は悲劇的でしょう。ロシアと中国とアメリカは国土が広大ですから北朝鮮と同一視できませんが現代戦争においてその被害の大きさと広さは世界壊滅につながることも覚悟しなければならないでしょう。

 

 今の世界の要人には心――相手国に尊敬され国際政治に占める地位が「世界平和」に真摯に向き合っていると信認されている人はまったく存在していません。こんなことはかってなかったのではないでしょうか。キューバ危機を救ったのはケネディとフルシチョフの知性でした。最近ではメルケルがEUを指導的地位に導く存在となっていました。

 二極化した国際緊張が無極化し混沌の極みに陥る可能性をはらむ今、緊張緩和と世界平和をもたらす「協調体制」の理想を掲げる「知性」が必要です。我が国の政治家はその可能性を有していることを自覚するべきです。