2018年9月24日月曜日

今、ここ、わたし

 「『今、ここ、わたし』、動物はこれしかありません。でもチンパンジーは『数』が認識できますから自分以外の数、人間が何人チンパンジーが何人いるかが分かるのです」。これは9月17日京都大学百周年時計台記念館で行われた「KUIAS(クイアス)京都大学高等研究院」のシンポジュームでの霊長類学者松沢哲郎教授のことばである。KUIASは次世代の育成と国内外の卓越した研究者の英知集結につなげるために、京都大学の強みを生かして最先端研究を展開するために2016年に設立された機関である。特別教授には森重文(代数幾何学)、松沢哲郎(霊長類学)、本庶祐(分子免疫学)、北川進(無機化学)、金出武雄(人工知能、ロボット工学)、平岡裕章(トポロジカルデータ解析)の各分野で最高位に位置する6教授が就任しており、今回のシンポは「科学の世界を、語り合おう」をテーマに高校生(一部中学生)や一般市民を対象に科学の最先端を解り易く説くと共に生徒や一般人の素朴な疑問に答え、語り合おうという試みであった。
 
 冒頭の松沢教授の言葉は当日私が一番印象的に感じたものでこれこそ「人間と動物=獣」を分ける根本的な差ではないかと思った。獣には過去も未来もない、今しかないであろうことは容易に想像できる。今いるここ、が認識できるだけで獲物を追いかけたり巣にかえるとき、移動する「ここ」の連続として場所を知覚しているのだろう。そして最も人間と異なるのは、自分と自分でないもの――敵か味方かの認識しかないことだろう。ところが人間は時間認識があるから過去現在未来という歴史認識がある。今いるここ、あそこ、目に見えない場所の空間認識もあるから「ロヒンギャの難民」といわれればミャンマーに存在するロヒンギャという民族を認識することも可能である。結局人間と獣の差は「多様性」を重層的に認識できるところにあって、あなた、かれ、かのじょ、かれらを認識することで『寛容さ』がもてることが人間の本質になっているのではないか。それは社会生活を営むうえでどうしても身につけなければならない素養であって人類の発達の過程で必然的に身につけた能力になったにちがいない。
 しかしいま、人類は獣との根本的な差異である「寛容さ」を忘れかけている。グローバリズムで繁栄を享受してきた「先進国の特権」が減少・消滅して発展途上国の進出に脅かされている、それが「白人至上主義」の跋扈や「難民迫害」というかたちになって世界中が「不寛容」に満ち満ちている。我国の現状をみても、自分と家族にしか目がとどかず、他人との関わりを拒絶しちょっとしたことで諍(いさか)いを繰り返し、平気で「差別」し思いやりを忘れている。先人たちの苦労をしのぶこともなく、未来の子ども・孫の世代を思いやる細心さも失くしている。
 これでは人間と獣の差はどこにあるというのだろう。
 
 もうひとつ意表をつかれたのは北川教授の「二酸化炭素の資源化」という提言であった。北川教授の専門は活性炭素に代表される多孔性配位高分子という分野で、新物質の発明が目覚ましい方である。二酸化炭素は気候温暖化の元凶とみられて悪者扱いされているが炭素は炭素繊維に応用されて注目を浴びているように重要な資源のひとつであることが忘れられている。二酸化炭素の処理方法として地中埋設貯留が考えられているがコストと埋設候補地との政治折衝などを考慮すればその実現可能性には疑問符をつけざるを得ないのが現状だ。そこで発想転換して二酸化炭素の資源化を考えるべきだというのが北川教授の提案である。そうした視点で見直すと二酸化炭素は「インヴィジブル ゴールド(見えざる黄金資源)」になる。
 不勉強のせいでこうした発想がなかったがマスコミも二酸化炭素を悪者扱いするばかりで資源化についてはほとんど報道がなかったように思う。しかし我国ではすでに「二酸化炭素の資源化を通じた炭素循環社会モデル構築促進事業」を環境省が中心になって促進していて賢明な人たちはするべきことはきちんとおこなっていてくれるのだ。しかし北川教授のことばは私の地球温暖化に対する見方を180度転換してくれた。
 
 本庶祐教授は数年前から注目を集めている「ガンの免疫療法」に道を開いた研究者である。ペニシリンは感染症を不治の病から治る病気に大転換させたが本庶教授の発見した「PD-1」はオプジーボなどの免疫療法薬の開発をもたらしガンを治る病気に近づけた。ペニシリンのアレクサンダー・フレミング博士がノーベル賞を受賞したのだから本庶教授がノーベル賞の栄誉に浴する日もそう遠くないにちがいない。
 
 松沢教授はこんなことも云っていた。「先生のアイちゃん(教授の研究対象)は天才なのですか」という質問に「いえ、だれでもアイちゃんと同じことができます」と答えてさらにこんなことばを付け加えた。「失敗することは少なくありませんがそこであきらめたら終わりです。私の教え方が悪いと考えて工夫をつづけていけば必ずういい結果につながります」。 
 最近アマチュア・スポーツ界の不祥事が続発しているがそのほとんどが「パワハラ・暴力」事件だ。コーチの暴力指導が横行、それを是として受け入れる土壌が教える側にも指導される選手や保護者にも存在するのが我国の現状である。テニスの全米オープン優勝の大坂選手のサーシャコーチの指導を「大坂選手は世界レベルの実力だからサーシャコーチのような優しく諭すコーチも可能だが、初心者レベルの選手にはある程度の力の指導もやもうえない」などという言説がさも当を得たもののように云われているがその人たちはこの松沢教授とチンパンジーの関係をどう捉えるのだろうか。
 
 このシンポの準備の周到さは素晴しいものだった。教授たちの生い立ち、研究の成果、発見発明の契機について要領よく動画で示されるから前勉強をしていかなくても教授たちの話についていけるし、女性アナウンサーと共に司会役を務めたサイエンスナビゲーターの桜井進氏の適切な解説もあり科学オンチの私にも十分興味を持って参加することができた。
 
 会場前列に約150名の高校生が招待されていたがその真剣なまなざしには感動さえ覚えた。この催しが彼らの科学心に火をつける力になれば喜ばしいのだが。
 それにくらべて半数以上を占めていた高齢者(特に男性)の参加姿勢は決して褒められるものではなかった。暗転するや否や居眠りし出す輩や一部が終わった休憩時間に早々に帰路につく何十人かの年寄り連中の無礼さは恥ずかしいものだった。彼らは単なる無料の暇つぶしとしてこのシンポを考えていたのだろうか。世界一流の教授が六人も同時に揃うなど稀有な機会だというその貴重さを知らない浅墓さが情けない。
 
 若者のひたむきさが嬉しかった。
 
 
 

2018年9月17日月曜日

蕪村の「秋」を読む

 たった一夜で秋が来た、そんな急激な季節移りが台風21号の去ったあとの感じである。でもこの冷ややかさは一時のもので必ずブリ返しはある。暑さ寒さも彼岸まで、この古諺は毎年正しかったではないか。
 
 岩波文庫『蕪村俳句集(尾形仂校注)』の「秋」の句を楽しむ。
 
 舎利(しゃり)となる身の朝起(あさおき)や草の露
 秋の句でいちばん心打たれた句である。老妻に先立たれたひとり暮らしの老人なのだろう。老いのつねで早暁に目覚めて手水を使おうと井戸端へ向いながらキラリと光る草を見た。草に宿る露である。つい昨日まで暑苦しかったのにいつの間にか秋が来ていたのか…。舎利という語に老人の孤独が感じられる。
 さびしさのうれしくも有り秋の暮
 限りある命のひまや秋の暮
 秋の寂しさ。しかしそんな感懐を抱くようになったのもここ数年のこと。道端の草花の美しさ、早朝の公園で鳥の鳴き声を知ったのも停年してしばらく経ってからのこと。もう何年の命かは分からないけれどそれまでの老いの道程(みちのり)――老いることにも楽しさがある。
 
 鵯(ひえどり)のこぼし去りぬる実の赤き
 御園(みその)守()る翁が庭やとうがらし
 うつくしや野分の後のとうがらし
 秋は紅葉、という今なら定番の美的意識とは異なり蕪村の秋の句には「とうがらし」が多い。鵯の句の黒い土に真っ赤な実――とうがらしか南天か――が鮮明に映る。野分の句もそうで、嵐が去って畑の具合を確かめに出てみると薙ぎ倒された作物の草色のなかに真っ赤なとうがらしが際立っている。御園守という漢字と翁の字面が古びを表すなかでとうがらしの色があざやかに浮かんでくる。
 
 迷ひ子を呼(よべ)ばうちやむきぬた哉
 (きぬた)は洗濯したを生乾きの状態で台にのせ、棒や槌でたたいて柔らかくしたり、をのばすための道具―いわばアイロン代わりである秋の夜なべにあちこちの家からトントンと砧を叩く音がひびいてくる。突然、暗くなっても帰ってこない子どもを探す親の呼び声がひびく。サッと砧の音が止んでシーッンと一瞬静寂(しじま)が闇夜を覆い、そして子どもの名を呼ぶ声が澄明に響き渡る。秋の冷ややかさが肌に伝わる句である。
 
 蕪村の句には滑稽味有る句も少なくない。 
 猪の狸寝入やしかの恋
 戸をたゝく狸と秋をおしみけり
 猪―の句には「獣を三ッ集めて発句せよといへるに」という前書きがある。数人の仲間と戯れ句を楽しんでいる風情が実感できる句会の様子。猪と鹿は花札遊びの「いのしか蝶」にあるように昔は一緒の並びで使われることが多かったがそれに狸を加えての三匹でおかし味をかもした蕪村の手練(てだ)れがたのしい句である。戸をたたく―の方も実際はどうだったか確かではないが狸が出没するのは珍しくなかったから、戸を開こうとしてカリカリと引っ掻いたり後足で蹴破ろうとしたこともあったかもしれない。現実ではなく、秋を惜しみながら月を愛でているうちに絵にある薄(すすき)と徳利と月と狸の図柄を思い出してこんな句をつくったのかもしれない。
 
 妻も子も寺で物くふ野分かな
 打(うち)よりて後住(ごじゅう)ほしがる寺の秋
 台風21号の被害は甚大だったが被害を受けた人たちは避難所に避難している。昔も同様だったのだろう、小学校の代わりに村で一番頑丈なお寺の本堂が避難所として使われたにちがいない。吹き荒ぶ嵐の音のなかで妻子が夜の飯を食べているのだろう。
 打よりて―の方は後住(後釜の住職のこと)を誰にしようか、どこから連れてくるべきかを相談している村役たちの姿…。台風のセイか高齢かははっきりしないが先の住職の亡くなった後を補充しなければならない村の年寄り達の議論している薄暗い寺の本堂のローソクの灯りと人の暗い影がいかにも秋を思わせる侘しさである。
 
 俳句を完成した芭蕉の後継者としての位置づけで深化と熟度の達成を担った蕪村の句は、李杜と並び称される漢詩の杜甫同様に難解さを読み手に強いる。杜甫の使用した漢字が李白のそれより五百字以上多いように蕪村の句は和歌や故事、先達の俳句の引用が多く鑑賞は難しい。それでありながら現在に通じる新しさ――「俳詩」の斬新さのような一面もあり、玩味に富む豊かな作品に魅せられた一巻である。
 
 
 
 
 
 

2018年9月10日月曜日

仕事について


 経団連が2021年に卒業する学生から現在採用されている「新卒一括採用」の「就活ルール」を廃止する考えのあることを表明した。これについては今後論議が尽されるだろうがそれとは別に「仕事・就職」についての本質的な検討が一向に深まらないことに違和感を抱いている。なぜなら「仕事・就職」というものが彼らの時代になれば今とは相当異なったものになっている可能性が高いのにそうした問題意識がほとんど表面化していないことに疑問を抱いているからだ。たった3年先のことだがこの3年で起るであろう変化は可なり激しいように思えるのだが。
 
 我々の時代と比べて大きな変化は四つある。①グロバリゼーション②100才時代と少子化③AI時代④自然災害の過酷化がそれで④を除いてそれぞれが関連し合っている。
 象徴的な現象が昨年打ち出された3メガバンクの人員削減方針である。みずほ銀行の1万9千人を筆頭に3行合わせて約3万4千人をこの先10年ほどの間に削減するという。現在の在職人数は約17万人であるからおよそ2割に当る人員削減はAIを活用した業務変革によるもので、グローバリゼーションによる金融業の国際競争激化に対応するためである。業務合理化は少子化による労働者数激減から金融業に限らずあらゆる業界で早急に対応しなければならなくなっている。AIや機械化による職業の置き換わり(職業消滅)の最もショッキングな数字は2013年オックスフォード大学のマイケル・オズボーン准教授が発表した、こんご10~20年で47%の仕事が機械に取って変わられるというものだろう。今ある職業のおよそ半分が機械に置き換わるうえにグローバリゼーションは単純作業を中心に賃金の安い発展途上国に移し変えられる可能性が高いから、職業消滅の危機はさらに広範囲に及ぶと覚悟しておく必要がある。
 どんな職業が奪われるのかを週刊ダイヤモンドの特集(米国の上位15位)によると次のようになっている。1.小売販売店員、2.会計士、3.一般事務員、4.セールスマン、5.一般秘書、6.飲食カウンター接客係、7.商店レジ打ち係やキップ販売員、8.箱詰め降ろしなどの作業員、9.帳簿係などの金融取引記録保全員、10.大型トラック・ローリー車の運転手、11.コールセンター案内係、12.乗用車・タクシー・バンの運転手、13.中央官庁職員など上級公務員、14.調理人(料理人の下で働く人)、15.ビル管理人。
 アメリカと我国では職業意識が異なるからこのまま日本に当てはめることははばかられるが、会計士や上級公務員が含まれていることはこれまでの単純作業だけを対象とする考え方を改めなければならないことを教えている。
 グローバリゼーションとAI化だけでも「仕事・就職」を取り巻く環境が激変することを予見させる。
 
 100才時代は仕事(観)にどんな影響を及ぼすだろうか。我々の時代―人生60年で「教育・仕事・引退」の3ステージを生きることが当然とされた時代は大きく変わらざるを得ないだろう。今でも定年65才か70才が求められているがそこで留まらず75才80才までも引退時期が引き延ばされることは確実だ。しかもグローバリゼーションは企業と商品の消長を激しく、短期化することも明らかな傾向だから、「いい学校に入って、いい会社に勤めて」ひとつの会社で勤め終えるということは稀有なケースになるのはまちがいない。仕事のステージ(期間)が2、3のステージに分かれて会社や職種を移り変わり、しかも企業という範囲に限らずNPOであったり、短期中期の大学(院)での学び直しが入り込むこともあろう。加えて引退後の生活を充実させるための「健康」「趣味」「生涯学習」への備えもこのステージに必要な要素となると考えた方がいい。
 「新卒一括採用」で最初の勤務会社がその後の人生を決定づける、という考え方はほとんど用を成さない時代だという認識が最も重要な変化であろう。
 このことは今のように、大学は入学すれば卒業できるという固定観念を改めさせられることにもつながる。卒業が保障されているから勉強そっちのけでアルバイトや部活を主体にして3年の春からは就活にいそしんで、就職が決まれば残された期間に旅行や遊びを楽しむ、といった学生生活を根本的に見直さねければならなくなるだろう。学生時代は学業を通じて今後の人生を生き抜くための「物の見方考え方」と「技術」を身に付ける重要な時間になるであろうし、そのためには4年間はすべて学業に費やすことが当然になりさらに2年間修士課程に進む学生も増えるにちがいない。
 そうなれば3年の春から就活などというルールは意味を成さなくなるのは当たり前になってくる。
 
 最後に「自然災害の過酷化」であるが今回の台風21号の被害を見れば、そしてここ数年の台風、豪雨、地震の有り様を考えれば、一旦災害に見舞われたら被害は甚大にならざるを得ないと覚悟する必要がある。今回の関西空港の被害は関西経済への影響ばかりでなく日本経済のGDPにさえマイナス影響があるかもしれないほど甚大な被害をもたらす可能性さえある。それは企業への短期的な影響だけでなく企業消滅もあるかもしれない。自然災害とその過酷化は「めったにないこと」ではなく「いつでも・どこでも」起りうるものとして人生設計しなければならないのかもしれない。
 
 経団連の「就活ルール」廃止の一石は単に21年度卒業生への影響だけでなく、多くの若い人たち―これからの人も含めて―に「仕事・就職」に対する考え方に変更を迫るものとして捉えることが必要だ。そして最も確実なことは、大学生活が根本的に変わらざるを得なくなる、ということだろう。
 
 P・F・ドラッカーは「将来についてわかっている唯一のことは、今とは違うということだ」といい、「未来を語る前に、今の現実を知らなければならない。現実からしかスタートできないからである」ともいい「すでに起こった未来は、体系的に見つけることができる」と教えている。
 すでに起った未来を、今の現実から導き出す『賢明さ』がないとこれからの時代は生きていけない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年9月3日月曜日

老いの棲家

 常連だったFさんが亡くなった。弟さんがわざわざ報せに来てくださったのはそれだけFさんがこの喫茶店を心に留めていたからだろう。四国の老人ホームへ行ってからも月に何回か女店主に電話してきていたという、耳が極端に聞き難くなっていたFさんはこっちの云うことを無視して云いたいことだけを云って電話を切るという一方通行の電話だったらしい。
 Fさんと親しくなったのは彼が私が西陣にいた頃の隣の学区の出身だということが分かってからで、千本のあそこの蕎麦が旨かったとか映画館が十軒ほどあったとか話題が合って会話が弾んだ。「終戦後スグに、チンチン電車が堀川へ脱線したの覚えたはりますか」という問いに、「ワシ、そのとき堀川の派出所の臨時警官してたから苦労したで」とFさんが答えたのには驚かされた。チンチン電車というのは明治初頭の京都近代化事業の一つとして敷設された北野神社から京都駅までの市電北野線のことで中立売通(東西)から堀川通(南北)へ九十度転回するときに堀川の鉄橋を渡らなければならない設計になっていた。乗っていると足下で車輪と軌道がキシンで「キーキー」と悲鳴を上げるような音を上げるのが怖かったものだ。終戦直後、酔っ払った進駐軍の兵士が運転してスピードオーバーで曲がり切れずに堀川に脱線するという事件があり大騒動になった。死者も何人か出たその事故の収拾にFさんが関係していたというのだから驚いたのだが、「臨時警官」という職務に戦後の混乱がうかがえる。
 そんなFさんが三年ほど前、急に四国へ転居することになった。娘さんの嫁ぎ先が四国で、娘さん宅近くの老人ホームに彼ら夫婦で入所するという。九十才を超えてからの転居は彼の望むところではなかったが、四五年前奥さんがケガをしてから足腰が悪くなり食べることからなにやかやと面倒を見なければならなくなっていたことから不承不承娘さんの申出に同意したようだ。高齢にもかかわらず自転車で買い物も医者通いもこなし、市の敬老パスで祭りやグルメを楽しんでいたから自由を奪われるにちがいない老人ホーム暮らしは本当にイヤだったと思う。シャイで湿っぽいことの嫌いだったFさんは送別会を開く暇もないままに四国へいってしまった。
 行ってしばらく頻繁に喫茶店に電話してきたのは環境の変化に馴染めず寂しかったにちがいない。それでも人づきあいの上手なFさんは間もなくホームに馴れたがこちらに居たときのように気ままに外出することは叶わず、なじみの店もないから出歩くことがなくなり、半年足らずで車椅子のお世話になるようになった。それから二年ほどで亡くなってしまった。
 
 常連さんでもうひとり、Nさんにも親しくしてもらった。初対面のとき「お勤めは…」と訊ねられて「若い頃は広告会社にいました」と答えると「D通ですか、H堂のような会社ですか?」と重ねられて「H堂です」と答えると、ホーッというような表情で親しみを込めた様子に変わった。豪放磊落でちょっと上から目線に誤解をされるもの言いのせいで芯から馴染める相客のいなかったNさんと昵懇になったのは、ふたり共女主人のことを「Y子さん」と名前で呼ぶことも影響したかも知れない。ママさんと呼ぶには余りに水商売ズレしていない彼女にどう呼びかけていいか躊躇っていたのだが、「Y子さん」がスンナリとはまって、以来Y子さんで通してきたがNさんもY子さん派でママさんとは呼んでいなかった。
 Nさんは左京の高級住宅街でお屋敷の御曹司として生まれ京大農学部を出てI商事へ入社。中国で相当大きな事業を展開した後、行政や民間企業相手に経済コンサルタントとして活躍した。かなりやんちゃで我儘な生活ぶりだったようで家族は苦労されたようだ。彼の奥さんがH堂の中興の祖と呼ばれた社長と縁続きの方で、それもあって仲良くしていただいた面もあったのだが、晩年は民間アパートの閑居でひとり住まいのまま孤独死であった。
 
 FさんもNさんも尊敬できる先輩であったが人生の終え方は決して満足のいくものでなかったのではないか。Fさんはあのまま桂に住まって自転車で、敬老パスで好き勝ってを決め込んでいたら今でも矍鑠としていたにちがいない。兎に角好奇心旺盛でまめに動き回っていた、台所仕事も掃除洗濯も苦にするところがなかった。九十才を超えてから同様な生活ぶりが行えたかどうかは分からないが、ホームへ入って外出が思うにまかせなくなって運動不足で足腰が衰えたのは明らかだ。グルメのFさんが食の愉しみを奪われたことも生きる気力を萎えさせたかもしれない。
 Nさんは晩年家族関係が破綻して独居を余儀なくされ経済的にも恵まれなかった。アパートで転倒して骨折したとき、助けを求められ住まいの様子を窺ったが不如意なたたづまいだった。結局そのまま快癒せず逝ってしまったわけだが「老いの弱さ」をさらすのをためらったダンディズムがかえってわざわいを招いたのは皮肉としかいい様がない。
 
 齢だからといって仕事を奪ったり、住み慣れた家を移ったりすることが「老い」にとって過分な負担になることを若いうちは理解できない。叔父が晩年、広い家の六畳の部屋だけで生活し、堀コタツに座ったままで手の届く範囲に生活用品を配置していたのを思い出すと、家の景色、部屋のたたづまい、亡き人生きている人とのつながり、そんなものすべてが記憶のパッチワークのようになって老人は「生き」ているのにちがいない。最低の経済的基盤は不可欠だが「地つづき、意識つづき」の「継続した生」の断絶が老いにとって最大の危険因子なのだということを知ってほしい。
 
 コミュニティで認められること、老いても他人とのつながりが実感できること、そして大きな声でしゃべること。これが長生きの秘訣。喫茶店T・Bが常連の女性たちの命を永らえていることはまちがいない。