2011年12月26日月曜日

年末雑感

荷風の「下谷叢話」を読んでいると「禁奢令厳にして春凄絶たりしを/近日漸く復す旧繁華」という詞があった。天保の改革の執政者水野忠邦の免職を悦ぶ江戸市民を詠じた大沼沈山の漢詩の一節である。幕府財政の建て直しを図った忠邦は奢侈禁止令を発したが反って経済が萎縮し上知令(江戸大坂周辺に幕府直轄領を集中するために周辺の大名・旗本に領地替を命じたもの)への大名・旗本の反発も手伝って改革は失敗に終わった。
 デフレの終息も未だ全く見通せない状況にあるにもかかわらず「消費税増税」を不退転の決意と声高に叫ぶ野田総理の政治姿勢に水野忠邦がダブって見える。八ッ場ダム工事凍結解除をはじめマニフェストのほとんどを未達成のまま放棄しマニフェストに無い消費税増税を説明不十分のうちに既定の事実化しようとする民主党はもはや政党の態を成していない。政権交代に国の新展開を託した国民は暗澹たる気持ちで平成23年を終えなければならない。

 閑話休題。ここ両三年、鴎外と荷風をどっぷりと親しむことができた。上の下谷叢話もそのうちの一篇だが以前の私であればとても歯の立たない難物であったろう。60歳を過ぎてから漢文と古文を攻めてきたからこそ両巨匠の文学に挑戦することができたし今年は樋口一葉の「にごりえ」や「たけくらべ」の雅俗折衷体の名調子を楽しむこともできた。
 
 コラムで何度も提案してきたように、英語の小学校からの義務教育化は時代の趨勢から当然の成り行きとして、それと併行して古文と漢文も『語学』として採用すべきである。江戸以前はいうまでもなく明治から戦前の昭和の文学や芸術作品までもが「読めない理解できない」では世界でも有数の歴史と文化をもった国のあるべき姿といえないだろう。国の一部の層から「道徳教育の復活」を提唱する動きがあるが、それよりも古文と漢文を学習すれば我国の底流となっている考え方を自然に知ることができるようになるだろうし、それに現代世界の主流になっている西欧思想を総合した「日本人としての真物のバックグラウンド」をもった若者が生まれてくれば、20年もしないうちに新しい日本に生まれ変われるに違いない。

 歴史と断絶した、根なし草のような軽い言葉で政治を語る人たちには、もう国を託しておけない。
(本年のコラムはこれが最終です。皆様良いお歳をお迎え下さい。)

2011年12月19日月曜日

無痛注射針と100円ショップ

先日0.2ミリの無痛注射針を開発した岡野工業㈱の岡野雅行さんの話を聞いた。普通はあらかじめ切られた細いパイプの先を尖らせて作るところを、1枚の平らな板を丸めながら作ることで軸径から先端の径をなだらかに先細りにして刺すときの痛みを限りなくゼロにする「針の先が世界一細いテーパー状注射針」を実現したのが岡野さんだ。世界中の大企業から中小企業まで製作不可能と辞退したテーパー状注射針の製造を東京下町の町工場岡野工業㈱の岡野さんが引き受けたのだ。岡野さんはいう、誰でも知っている技術だけではこの製品は絶対できない。私だけがもっているノウハウが必要なのだ、と。

 我国のいろいろな分野で「私だけがもっているノウハウ」がある。でもそれが無くても『似たような商品』は誰でも作れる。「ちょっとの違いが大きな違い(価値の差)」を生むのだが、違いの無いソコソコ使える商品が今の日本には溢れている。
 毎朝ゴミ拾いに使っているトングは2代目になる。先に使っていた100円ショップで買った1枚の板を成形して折り曲げただけの品物は3年で使い物にならなくなった。今のは2枚の板を別々に制作しピン留め、ばねで開閉できる式のもので収納しやすいように閉じた状態でハネ止めできるようになっている。それぞれの板には折り返しがあり掴み部はスペード形なので掴み易い。強度も使い勝手も100円ショップのものとは格段の差がある。これで210円は安い。
 正月の祝い椀は漆器だが収納に妻は苦労している。丁寧に常温で乾かして和紙で蓋とお椀を包み1客づつ箱に収めて保管している。雛人形でも同じような気遣いをしている。こうした妻の作業を身近で見ていて感じるのは「製作者と使用者の緊密な関係」である。どちらが欠けても日本の生活用品・道具の品質の高さと耐久性は今日まで保持できなかったに違いない。

 100円ショップにはあらゆる商品がある。しかしこの「ちょっとの違い」を放棄した「誰にでも作れる商品」が『追込んで廃らせた商品や商店や職人』がどれほどあることか。

 デフレ経済が長く続き生活ぶりが萎縮している今の日本。豊かさを実感するためのひとつの方法は「良いものを大事に使う」ことではないか。『職人技』をもういちど見直すことだ。『まがい物』でつくられた「仮り物の豊かさ」に騙されないことだ。そう仕向けようとしている人たちの企てに気づき「本物の豊かさ」を享受するための『賢明さ』を身につけることだ。
 停滞し続ける政治状況に苛立ちながら強くそう感じている。

2011年12月12日月曜日

オフレコ

防衛大臣問責決議の原因となった前沖縄防衛局長のオフレコ発言に対して12月6日付日経・春秋が大要以下のような発言をしている。
 「この一週間喉に骨が引っかかったような感覚が抜けない。/あの暴言を明るみに出したメディアは正しかったのか。/発言を記事にしないとの約束を前局長と記者たちが前もって交わした/琉球新報は、発言を沖縄県民に伝えることを優先した。/約束は(略)相手が市民であれ官僚、政治家であれ、守る。そういう原則を貫くことも大切ではないか。/喉の骨はそう訴えうずき続けている。」

 この発言は「記者クラブの仲間内の論理」に終始しており「メディアは終局的に国民の利益に奉仕する」という視点が完全に欠落している。そして「オフレコは当事者間の信頼関係が前提」とされるが前局長と同席した記者たちのあいだにそれが醸成されていたのかの検証がない。

 「オフレコ懇談は、報道されないことを前提に、踏み込んだ情報を提供し、政府の政策に対して理解を求める公務なのである。(略)真剣勝負の場だ。/仮に記者が約束を破り、記事にしたならば国益にどのような影響があるかを頭の片隅に置きながら(略)オフレコでの情報を提供するのである。/ほんとうの機微に触れる話しをするときに、官僚は1対1のオフレコの懇談をする。/約10社が参加するような懇談は(略)縛りの緩いオフレコ懇談だ。/メモが政治家に流出することもよくある。(略)この種の完オフ懇談を通じて、(政治家に)メッセージを流すことがある。」
 12月7日毎日新聞に掲載された元外務官僚佐藤優氏のオフレコに関する発言要旨であるが示唆に富んでいる。

 原則として、1年単位でコロコロと総理大臣が変わる今の日本に(大臣や官僚との間に)オフレコは成立しないと考えるべきだろう、信頼関係を構築する時間がないのだから。又佐藤氏が言うように、例えオフレコ破りがあったとしてもその先を計算しておく位の用心と懐の深さが欲しい。しかし本当は、国を憂い国民を深く思いやる真実の政治家や官僚であれば例えオフレコ破りがあっても顰蹙を買うような『言葉』を口にしないに違いない、という期待が国民にはあるということを彼らは知ってほしい。

 記者に政治家が鍛えられ政治家が記者を育てた時代は遠くなってしまったようだ。

2011年12月5日月曜日

小泉でノー!民主でノー!そして維新でノー!!

大阪府知事・市長のダブル選挙で大阪維新の会が圧勝した。この結果をどう考えるか。

 1990年のバブル崩壊とそれにつづくデフレの「失われた20年」、そこからの脱却を願って国民は3度の『NO!』を政治に突きつけた。最初は「自民党をぶっ潰す!」と叫んだ小泉純一郎氏を選んだ2001年、2回目は2009年の衆議院選挙で民主党政権を誕生させたとき、そして今回の大阪ダブル選挙の大阪維新の会の選択である。3回のノーで国民が求めたものは一貫して『戦後体制の改革』である。

 敗戦による壊滅的状態から日本国を再建するための最も効率的な体制であった「中央集権的官僚制度と自民党単独政権」が高度経済成長を齎し驚異的な復興を実現したがその制度的破綻がバブル崩壊であった。最早少数のエリート官僚が最適な資源配分を行えるほど社会は単純なものではなく混迷し多様な様相を呈しており、加えてエリートが手本にできる教科書は存在しなくなっている。従って政府・行政が制度的に収奪していた配分を必要最少限に減額しその分を「家計と企業」に付け替え「市場」を通じて最適解を社会的に実現する体制に変更しなければならない時代になっている。それが「大きな政府から小さな政府へ」「中央から地方へ」のパラダイムシフトであり、国民は意識的無意識的にかかわらずそれに気づいている。
 その投票行動が「3回のノー」であった。

 「中央集権的官僚制度」の『集票・集金マシーン』に成り下がっていた自民党をぶっ潰して「健全な保守政党―小さな政府」に生まれ変わることを期待した『小泉改革』。
 自民党が変革しなかったから民主党に託した『民主党政権の誕生』。
 既成政党が民主、自民から公明、共産、社民に至るまですべて「大きな政府」を標榜し、差別化は『バラマキ』以外にないことを民主党が示した結果選択肢を失い『既成政党ノー』を突きつけた今回の『維新の圧勝』。

 増税も年金・医療・介護の改革も国民は必要性を十分に理解している。それを訴える政治が「議員数と議員報酬の大幅減額」「公務員大幅削減(国家公務員地方公務員とも)・給与カット」を率先して行えば国民は間違いなく『痛み』を受入れる。しかし手順が逆になったとき『4回目のノー』が突きつけられるであろうことを、政治は覚悟すべきである。

2011年11月28日月曜日

長嶋と王と日本農業

念願の日本一に輝いた福岡ソフトバンクホークス。優勝パーティーのビール掛け会場で喜ぶ王貞治会長はいつも通りのもの静かな笑みを浮かべていた。一方の読売ジャイアンツ終身名誉監督長嶋茂雄氏は読売巨人軍内紛の会社側のコメントで「巨人軍の歴史的汚点、と始めてみせる心からの怒りを露にしていらっしゃいました」と伝えられた。対照が際立つ両雄をどう表現すれば良いのか。60年近く野球を愛し日本プロ野球を応援し楽しんできたファンとして現状の体たらくは余りにも情けない。
 オーナーでもない人物がオーナー然として絶大な権力を揮い球界を牛耳る現在の日本野球機構のあり方を根本的に改造する必要がある。コミッショナーを飾り物でなく実質的な機構の支配権者に据え、球団の所有と経営を分離し、ドラフトを完全なウェーバー制にするなど、今すぐ着手しないと野球人気の陰りは益々進むに違いない。一日も早い『ナベツネ体制』の終焉を心から願っている。

 TPPと農業を巡る報道で非常に示唆に富む記事があったので概略を以下に記す。
 2011.11.26付け日経「TPPの視点」に掲載された名古屋大大学院 生源寺真一教授の記事がそれだ。(1)成人1人の1日の必要摂取カロリーは2000㌔㌍であり、460万㌶の農地を有する日本はこれを賄う供給力を潜在的に持っている。『自給力』ともいえるこの農業資源を守り、いざとなったらフル稼働できる体制を整えておくことが大切だ。(2)生産調整のための減反や耕作放棄地の拡大など農地をフル活用しないで、生産性が低い、財政出動が必要だといっても国民の理解は得られない。(3)英国と北海道の酪農の生産性の比較を行ったら、北海道の生産費は英国の2倍だった。理由を調べると7割は畜舎の建設費や肥料、農薬など生産資材価格差が原因だった。裏を返せば、改善の余地は大きい。(4)TPP参加国でコメを作っているのは実質的に米国だけ。しかも日本人が食べている品種の生産量は20万トンで、国産米の3%にも満たない。等々。

 旧体制の巨人軍とセントラルリーグから追われるようにパ・リーグに移ってゼロからホークス球団を再建した王貞治氏。戦後一貫して『保護政策』で市場競争から隔離され劣化の極にある日本農業の潜在能力を示唆してくれている生源寺真一教授。
 
 可能性を信じたい。

2011年11月21日月曜日

既得権とTPP

1ヶ月前に「安全宣言」が出された福島県産米が大きく揺らいでいる。福島市大波地区のコメを農家が自主検査したところ国暫定基準値(1キログラム当たり500ベクレル)を超す放射性セシウムが検出されたため政府は17日同地区の今年の生産米の出荷停止を指示したのだ。県が9~10月に同地区の2ヶ所で実施した予備調査、本調査で出した「規制値を下回っている」という検査結果は一体なんだったのだろう。国民は国や地方公共団体などの「公式発表」を今や全く信頼していない。国であれ地方であっても役所というものは企業―作り手側のためにあるもので市民―買い手を向いて手助けしてくれるものではない、と改めて覚悟せざるをえない。

 開業医や小規模な病院には税金の算定に関して特別な優遇策が認められていたようだ。実際の経費に関係なく売上高(お医者さんの場合も売上高でいいのだろうか)の57~72%を「みなし経費」として税金を計算してよかったのだ。利口なお医者さんは実際の経費と「みなし経費」のどちらか有利な方を採用して税務申告していたらしく、事務負担を減らして医療に専念するためという特例の目的に沿っていないと会計検査院が見直しを求めていたものを政府税調が廃止の方向で方針を決めた、と報道されている。

 (米国経済・歴史学者キンドルバーガーは)「自由貿易がその国にとってプラスかは状況に依存する」と主張する。その根拠として彼が挙げたのが、19世紀末に域外から安価な穀物が輸入された際、欧州5カ国が異なった反応をした事実だ。/一番ポジティブな反応をしたデンマークは農業を改革し域外への輸出国に転換したのに、一番ネガティブな反応をしたイタリアでは農業が荒廃し、南部からの移民が大量発生していた。(2011.11.16日経「やさしい経済学」より)

 TPP(環太平洋パートナーシップ協定)参加の最大の抵抗勢力は農業関係者と日本医師会である。反対するのは「膨大な既得権」が侵されるからだろうということは誰にでも見当が付くが、やっぱり、と思わせる「みなし経費」だ。洗い立てればまだまだでてくるに違いない。
19世紀ヨーロッパを襲った自由貿易の嵐に真正面から取組まなかったイタリア農業の荒廃と我国農業がダブって見えるのは私だけだろうか。

2011年11月14日月曜日

EUと日本と

EUが揺れている。ギリシャのソブリンリスクをきっかけにイタリアや南欧諸国に金融不安が波及し早期に事態が終息しなければEUの屋台骨を揺るがし兼ねない危機的状況になっている。マスコミ報道も過熱気味だが日本への影響は迂回的なものとして―ギリシャ債を保有している金融機関の破綻や金融収縮による輸出への悪影響というかたちで伝えているが、本当にそれだけだろうか。

 EU加盟国は27ヶ国あるがドイツやフランスのようにGDPが大きく生産性の高い国もあればギリシャを初めとした弱小国も含まれている。ギリシャは観光業以外にはオリーブ油などの農産物や繊維製品、造船業が主たる産業で名目GDPは3054億ドルとドイツ3兆2864億ドルの10分の1以下に過ぎない。産業構造が異なるまま生産性の格差を放置して通貨を共通化すれば強大国が圧倒的に有利になるのは明らかで均衡ある域内繁栄のためには制度の再設計が必要である。
 翻って我国をみると一極集中の東京が人口の10%以上、国内総生産の18%弱を占める強大さを誇る一方で人口100万人を割り込む県が鳥取県ほか9県、生産がGDP(2008年度)の1%に満たない県が愛媛県以下21県もある(これら21県のGDPの合計は全体の15%に満たない)。このような歪な国土経営はEUと全く同じである。
 EUも日本も国別・都道府県別の生産性を同じくするような産業構造に再設計することが必要であり、生産性の格差解消と財政の共通化を棚上げにして均衡ある発展は望めない。

 日本の一部の地方では役所かJA農協へ就職するのがステータスというところが少なくない。雇用を吸収する産業が少ないからいきおいそうなってしまう。ギリシャも公務員比率が高く労働者の1/4が公務員だといわれているが同じ構図であろう。
 
 イギリスの経済誌「エコノミスト」が「世界の住みやすい都市ランキング2011年版」を発表し大阪が11位、東京が18位にランクされた。又法政大学大学院が「47都道府県幸せ度ランキング2011」を発表し福井、富山、石川と北陸3県が1、2、3位を独占した。評価尺度によってランクは異なってくるから一概にこの結果を鵜呑みにできないが価値観の多様化した今、経済合理性だけで国や地域の評価を行う愚かさを改めないと21世紀を設計できないことをこれらのランキングは物語っている。

2011年11月7日月曜日

掃葉

 永井荷風の日記「断腸亭日乗」を読んでいると度々「庭を掃く」という記事が出てくる。秋から冬にかけては「落葉焚く」がそれにつづく。荷風を真似たわけではないが秋になってから公園の東屋の落葉を掃くようにした。そもそもは子供たちのゴミの撒き散らかしが尋常でない時がありトングで一々拾っていられないので掃き集めるようにしたのがはじまりで、やってみるとこれが思いのほか気持ちが好く、ゴミがなくなった後、薄く堆積した砂に掃き目がつくと何とも清清しい気持ちになる。そのせいもあってか数日ゴミの量も少ない。
 
 昭和30年頃までは街のあちこちで落葉掃き―掃葉が行われていた。竹箒や熊手で掻き集め手箕(てみ)で掬って、焚き火もした。坊さんが作務衣で境内を掃く姿は冬の風物詩の趣があったし大きな御邸の主が落葉の頃の庭掃きだけは自らやっていたのが印象に残っている。

 落葉といえば白楽天の詩に「林間に酒を煖(あたた)めて紅葉を焼(た)き/石上に詩を題して青苔を掃う(「送王十八帰山寄題仙遊寺」より)の有名な一節があり、俳句には「木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ(加藤楸邨)降り積めば枯葉も心温もらす(鈴木真砂女)落葉掃く京の暮色をまとひつつ(清水忠彦)朴落葉落ちてひろがる山の空(森澄雄)とっぷりと後暮れゐし焚き火かな(松本たかし)」など落葉を題した俳句は枚挙に暇が無い。
 季語をみると「枯葉、落葉、柿落葉、朴落葉、銀杏落葉、冬木、寒林、枯木、枯柳、枯桑、枯蔓、冬枯、などなど」枯葉にまつわる冬の季語は20~30もあるほど我々の先祖は事の外落葉に季節を感じていた。
 かくも日本人が愛した落葉への情趣をどうして我々は蔑(ないがし)ろにしているのだろうか。道が地道からアスファルトに変わり人よりも自動車が主役になってしまったから落葉は邪魔者扱いされる存在に成り果ててしまったのだろうか。

 マンション住まいの今、落葉掃きできるほどの庭は望むべくも無いから公園を我が庭と心得て、せいぜい冬の情趣を楽しませて貰おうと思っている。

2011年10月31日月曜日

傍目八目

 今年のドラフトの注目選手、東海大菅野選手の交渉権を日ハムが獲得した。彼は巨人軍原監督の甥にあたり巨人軍単独指名になるのではないかと巷間伝えられていただけに意外な結果になった。たまたま菅野選手の指名の瞬間をテレビで見ていて抽選に清武代表が出てきたとき巨人ファンの私はイヤな気がした。悪い予感は的中したのだがどうして原監督は抽選しなかったのだろう。菅野選手も伯父の原監督がクジを抽いたのなら諦めもつくというもので結果がこうなった今監督自身も心残りだろう。後付で言うのではないが伯父甥の血縁という他の人にはない強い『援(ひ)きあう力』があるのだからその助けを借りない法はない。何かを慮って躊躇したのだろうが原辰徳一生の不覚であったというべきであろう。

 TPP参加の是非について判断が分かれている。意図的かどうか解らないがとにかく情報が少なすぎる。国家百年の計になるかも知れない重要な問題であり、国民の多くに影響が及ぶに違いないのだから透明性のある論議を進めるべきだ。
 私はひょんなことから『参加すべき』と判断した。農協と日本医師会が強力な反対姿勢を示したからだ。この二つの団体は我国最大の圧力団体であり厖大な既得権益を享受している。彼らがこれだけ執拗に反対するからにはその既得権益が相当侵される効力があるに違いない。そうだとしたらTPPは我国にパラダイムシフトを促す大きな力になる可能性が高い。

 現今我国の最大の問題は20有余年に及ぶデフレからの脱却である。デフレ=総需要の不足であるから広い意味での購買力増強が必要なのだがその為には経済が成長力を取り戻さなければならない、低成長産業から成長産業へ資本と労働力を移動させなければならない。それを邪魔しているのが既得権集団の抵抗でありその代表が農協と医師会であるのは衆目の一致するところである。規制改革や役目を終わった補助金制度の見直し・廃止を大胆に進める大手術をしなければ我国の再生はない。

 TPPは現時点では不完全で国民の百パーセントが満足するようなものでないかも知れない。しかし参加することに方向性の誤りが無いのであれば身を削ってでも参加するべきである。明治維新以来『外圧』が無ければ国の方向転換ができなかった我国の歴史は今回もまた繰り返されるのであろう。

 70年も生きてくれば理詰めばかりなくカンで判断した方が正しかったこともある。傍目八目の所以である。

2011年10月24日月曜日

涸轍(こてつ)の魚

  持ち家をもつ余裕のない貧困層に見せ掛け有利な融資条件で無理やり家を購入させ、その債権を金融工学でデリバティブ(金融派生商品)化し世界中にばらまいて甘い汁を吸い尽くし破綻した「リーマンショック」。
 統一通貨―ユーロを採用し金融政策の自由度を束縛しながら財政政策を放任し結果的に域内の強大国が弱小国を収奪することになり破綻の危機に瀕するEU(欧州連合)。
 グローバル経済の中、生き残りのために投入労働力の最小化を図り廉価で豊富な労働力を狙って新興国に生産拠点を次々に移転し続ける巨大企業。
 周回遅れで日本の後追いしているかのような中国経済は「都市による農村の収奪」によって高度成長を謳歌していたが膨張しすぎた経済はインフレによって急減速。異常な格差の拡大と相俟って成長維持が可能かどうか。
 などなど。

 李白の「擬古」という詩にこんな一節がある。『座して悲苦し、塊然として涸轍の魚のごとくなるなかれ』。車の轍にできた小さな水溜り、そんな水にすむ魚は陽が照って水が涸れればたちまち死んでしまうであろう。空しく悲苦してぽつねんとそんな浅ましい魚のような生き方を選ぶでない―と李白は詠っているのだが、上に記した世界の現状はまさに『涸轍の魚』そのものではないか。

 新興国或いは後進国を先進国の都合のいいように利用するだけ利用して、価値がなくなったらポイと捨ててしまうような『強欲』が何時まで許されるのだろうか。
 景気対策として巨額の税金を使って金融機関や大企業を救済し一応経済の建て直しはできたように上辺は見えるが、「ジョブレス・リカバリー(雇用なき回復)」で格差は拡大するばかり、こんな『強欲』が許されるのか。

 先進国新興国を問わず貧富の格差は許容範囲を超えて進行している。そればかりか1日1ドル以下で生活する飢餓人口は9億6300万人おりしかも毎年約1500万人づつ増加し4秒に1人の割合で飢餓が原因で死亡している。これらの人たちは繁栄するグローバル経済の枠外に取り残されたままである。

 グローバル化と『富者による貧者の収奪』。暴走する経済は制御不能なのだろうか。

2011年10月17日月曜日

一票の格差

 和歌山県の人口が100万人を割り込んだことを知人から聞いてショックを感じている。勿論近畿でははじめてのことであり、和歌山出身の彼は口惜しそうに、そして淋しげな表情で語っていた。
 2010年現在人口が100万人を割り込んでいる府県は少ない順に鳥取の59万人を最少に島根、高知、徳島、福井、佐賀、山梨、香川に和歌山県を加えて9県ある。一方東京は1千286.8万人で 総人口1億2751万人 の10.1%、東京圏(神奈川、千葉、埼玉、栃木、群馬、茨城)の人口は4205万人33%を超えている。世界の大都市圏の人口集中度で東京圏は群を抜いており他の国ではせいぜい20%少々で留まっているから東京及び東京圏への人口集中が異常であることは間違いない。今回の東日本大震災は東京一極集中を真剣に考え直すべき時期を向かえていることを印象付けた。

 戦後の壊滅的状況から国を再建するために工業化を全速力で図ってきた。繊維産業などの軽工業から重化学工業化まで効率的に達成するためには都市化が必要であり膨大な労働力の調達のために『都市による農村の収奪』が必然であった。しかしバブル崩壊後の我国経済は労働力の削減によって生産性の向上が齎される「グローバル経済」特有の現象が顕著に現れており、都市への人口集中の効果は最早無くなっている。
 「国土の均衡ある発展」を標榜してきた我国政府が現状のような『歪(いびつ)状態』を放置してきたのは明らかに国家経営の誤りである。ここ数年「地方分権」が大きな政治命題として論議されているがその前提となるべき『地方経済の個性ある発展』の展望は全く提示されていない。

 最近選挙の「一票の格差」が問題視されている。2011年3月に前回2009年の衆議院選挙での「一票の格差・違憲判決」が最高裁から出されて以来その是正が当然視され、その際「都道府県にまず1議席を配分する基礎配分方式(1人別枠方式)」を廃止して人口を正確に反映させる方向に論議が進んでいるが、それでいいのだろうか。

 一票の格差が違憲になるような『国家経営』をしてはいけない、憲法14条の「法の下の平等」はそのような警告を我々に発しているのではないか。選挙制度をいじる前に『国の歪な状態』を改める方が先ではないのか。

2011年10月10日月曜日

市民の司法

 小沢裁判が始まった。既にマスコミ各社の報道があるので詳細は省くが、戦後政治の「政治と金」にまつわる本流末裔の裁判だけに来年4月の結審が待たれる。

 ところで一連の報道のなかで検察の発言に看過できないものがあった。「我々の手を離れた事件。審議内容で影響を受けることは一切ない」「我々は証拠上、有罪の確信がなければ起訴しない。仮に(今回の裁判で)有罪になっても起訴すべきだったとは思わない」という東京特捜幹部や検察首脳の発言だ。
今回の裁判は、平成21年に導入された検察が不起訴としても検察審査会が2度続けて「起訴すべし」と議決すれば必ず裁判にかける制度の適用を受けて実現した裁判で、現在の検察システムからこぼれ落ちた部分をカバーするいわば制度の不備を補うものであるにもかかわらず、検察幹部にはその自覚が欠けている。
更に上記「我々は証拠上、有罪の確信がなければ起訴しない。…」という発言は、有罪率99.9%が示す「検察の越権行為」―疑わしい、社会的に断罪さるべき事案を裁判所が判断する前に検察がフルイにかけている―に対する一般市民の検察批判を全く無視している。

 我国は「罪刑法定主義」を採っている。これは法律で犯罪と定められた以外の反社会的行為は処罰できない制度である。ところが現実社会の変化は急激極まるから法律がその変化に追いついていないのが現状だ。とりわけ金融や情報の分野でその傾向が著しく犯罪行為を犯しても見過されたり「別件」で逮捕して本来受けるべき処罰よりはるかに低い刑で済まされている例が多い。こうした弊害を取り除くには疑わしい反社会的行為を司法の場で審議する機会を重ね早く法令化に導くこと望ましいのだが、「有罪率99.9%」の現在の検察のあり方がそれを妨げている。
 
 我国の司法は長いあいだ「狭い専門家集団」の専権事項であった。その為の歪みや暗部が許容範囲を超えてきたために打ち出された施策が「裁判員制度」であり「取調べの可視化」である。更に加えて裁判の場が社会の変化を迅速に反映する場になればより「市民の司法」に近づくことになろう。

 小沢裁判がその一里塚になることを願う。

2011年10月3日月曜日

妾気質

 妾気質(めかけかたぎ)という言葉がある。永井荷風はこんな風に言っている。
 「(1)この女芸者せしものには似ず正直にて深切なり。去年の秋より余つらつらその性行を視るに心より満足して余に事(つか)へむとするものの如し。(略)(2)お歌はまだ二十を二ツ三ツ越したる若き身にてありながら、年五十になりてしかも平生病み勝ちなる余をたよりになし、更に悲しむ様子もなくいつも機嫌よく笑うて日を送れり。むかしはかくの如き妾気質の女も珍しき事にてはあらざりしならむ。されど(略)(3)かくの如きむかし風なる女のなほ残存せるは実に意想外の事なり。(略)(4)かかる女は生来気心弱く意気地張り少なく、人中に出でてさまざまなる辛き目を見むよりは生涯日かげの身にてよければ情深き人をたよりて唯安らかに穏やかなる日を送らんことを望むなり。生まれながらにして進取の精神なく奮闘の意気なく自然に忍辱(にんにく)の悟りを開きゐるなり。これ文化の爛熟せる国ならでは見られぬものなり。」(「断腸亭日乗」より、カッコ内数字は筆者添付)
 
 長々と引用したのは昨今世上に増殖しつつあるといわれている『草食系男子』と一脈通じるところを感じたからである。草食系男子は、苦労を嫌い未知の世界に飛び込むことを敬遠する「内向き志向」の若者だといわれている。上記(4)を読めばほとんどそのまま「草食系」を思わせるではないか。今やお妾さんは絶滅危惧種となってしまったが、世紀末を経た文化爛熟の平成に妾気質が男性のうえに復活しようとは。

 この風潮は何も若者に限ったことではない。2022年までに原発廃止をきめたドイツでは、電力会社は人員削減などの合理化を推進すると同時に再生可能エネルギー関連へ直ちに事業シフトする一方で、製造業などの大口需要家は敷地内に風力発電所を設置したりして再生可能エネルギーの活用を急速に拡大している。これに反して我国では未だに原子力発電の透明性ある十分な検証も行われず国民への説明責任も果たされないまま再稼動前提のエネルギー政策がとられ、産業界はエネルギーコスト高騰等を恐れて国内空洞化已む無しを当然としている。これを「生来気心弱く意気地張り少なく、進取の精神なく奮闘の意気なく」と言わずしてなんとしようか。

 「元始、女性は太陽であった」。いよいよ平成は女性の時代になりそうだ。

2011年9月26日月曜日

野田総理へ贈る書

 フリードリッヒ・ニーチェはものをきちんと読み取る能力の価値を説いてやまなかった。彼は「遅読」の教師を名乗り、これはスピードにとりつかれた時代の本性に刃向かうことだと考えていた。ニーチェにとって、精読は近代性に対する批判なのだ。言葉そのものの感触や形に注意を払うことは、言葉をただの道具として扱うのを拒むこと、ひいては、言語が商業と官僚主義のせいで、薄っぺらな紙のように磨り減った時代を拒むことだ。
 古代ギリシャ・ローマ時代の「レトリック(弁論術)」は(略)テクスト的な意味と政治的な意味、(略)すなわち文彩(言葉のあや)や比喩の研究と説得的な弁論の技術の両方をもっていた。(略)弁論術はどんな言語の様式であれ、それを使ってコミュニケーションを成功させるための手続きを明らかにする、一種のメタ談話だった。文体上のさまざまな戦略を研究するのは、政治的な目的のためであり、各個人が弁論を実践するとき、それらの戦略をいかに効果的に活用するかを学ぶためなのだ。優雅な話し方と賢明な考え方とは、密接に連動するものと思われていた。美的な誤りは、政治的な誤算につながりかねない。

 これは「詩をどう読むか(テリー・イーグルトン著・川本皓嗣訳/岩波書店)」からの抜粋である。
 思うに、政治的情熱を思索で熟成させ「ひらめき」や思いつきとして芽吹いたものを推敲するとき、政治理念や政策に醸成される過程と表現する「ことば」が凝縮する過程は表裏一体のものとして存在するのであろう。ところがひらめきや思いつきを官僚に成文させると、言葉が薄っぺらな単なる道具として使用されるために『官僚作文』になり下がってしまうのだ。

 最近の日本国総理や政治家の『言葉の軽さ』は、政治的過程と言葉は別物であり言葉は単なる表現手段であると考えていたに違いない、その結果理念や政策も『生煮え』の未熟なまま世論の揺らぎとともに容易く変形する代物でしかなかったのだ。

 演説は辻立ちで鍛えた上手な人といわれている野田総理だが、所信表明も国連演説もその評価に値するものとはなっていない。彼が本物の演説の名手となり日本国を国難から救う名宰相となることを願って「詩をどう読むか」を贈りたい。

2011年9月19日月曜日

上沼恵美子の見識

 「断腸亭日乗」(永井荷風の日記)にこんな記述がある。「(大正十二年)十月三日(9月1日に関東大震災があった)。(略)午後丸の内三菱銀行に赴かむとて日比谷公園を過ぐ。林間に仮小屋建ち連り、糞尿の臭気堪ふべからず。(略)帝都荒廃の光景哀れといふも愚かなり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、いはゆる山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。(略)この度の災禍は実に天罰なりといふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ国帑また空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即かくの如し。自業自得天罰覿面といふのみ。」

 何とも激烈な慨嘆ではあるが、東日本大震災から半年を過ぎて未だに「百年の計」が提案されず復旧復興の端緒にもつけずにいる国民の心情を代弁して余りあるといえないか。東電が原発事故の本補償の手続きを開始したが補償金請求書の煩雑さは被災者無視も甚だしく、悲しく空しい。補償作業がこのまま東電ペースで続くのならこの国はもう「国民の生命と財産を守る」という国家の態を成していない。
被災者の立場に立った「百年の計」は一体何時になったら提示されるのだろうか。

 閑話休題。上沼恵美子が「上沼・高田のクギズケ」という番組でキレまくる場面を見た。この番組は芸能ネタを中心としたテーマを5、6人のパネラーが解説し、にぎやかしに配された2、3組のお笑いタレントが番組を盛り上げていくという構成になっている。先日松尾某というタレントが出演した時「アンタは一体何もんナンヤ!」と上沼がキレたのだ。番組的には「にぎやかしのお笑いタレント」として配された彼は、これまで何度か出演しているがパネラーを差し置いて知識や薀蓄を語ったことが度々ありその都度上沼は注意していたのだが、とうとう堪忍袋の緒が切れ、たまらず叱責の声を荒げたのだ。

 ひと月に150冊の本を読むと豪語する宮崎某というタレントがいるが、彼は「1日に5冊も読めるような本」しか読んでいないことを白状していることに気づいていない。松尾某や宮崎某など専門分野を持たない物知り「かしこタレント」が幅を利かすのはテレビスタッフのレベル低下の裏返しに他ならない。

 市民も放送局も相当な出費でデジタル化したのだから放送内容の良質化を是非実現して欲しい。

2011年9月12日月曜日

電力問題を考えるために

 3.11東日本大震災から半年になる。一日も早い復旧復興を願って止まないがその基本となる電力問題、エネルギー問題への国としての構想が一向に定まらない。そこで論点整理を行ってみたい。

 先ず第1は世界一高いといわれる「我国電力料金の妥当性」の検討である。「総括原価方式」という算定方式が採用されており施設を持っていれば持っているほど利益が上がるという仕組みになっている。従って火力発電より原子力発電の方が設備が高いから原子力発電推進へひた走ってきたのではないかという勘繰りもある。とりわけ「使用済み核燃料棒」が再生すれば再利用可能という観点で資産計上されているなど根本的な問題もあり国民視点からの妥当性検討は必須の課題である。

 第2に「原子力発電所の施設詳細」の公表はどうしても省けないステップである。前首相の「原発依存からの脱却」発言以降原発存続に対する賛否が一種のイデオロギー的問題かのように論じられているが停止中の原発再稼動も含めて現状認識を科学的資料に基づいて丁寧に行う必要がある。54基ある原発の製造会社、製造年、性能と安全性に関する客観的資料、故障や事故の履歴など全面的にオープンにされた上で、個別の存続や再稼動の論議が進められるべきである。福島原発は相当古い機種で劣化も著しく稼動させていたこと自体が問題視されている施設であり、このランクの施設は早期運転停止から廃棄の処置が講じられるべきであろうが、性能の良い最新の機種であれば安全性への確実な取組みを前提として国のエネルギー政策の次段階への移行まで存続されても妥当なのではないか。
 
 最後に「大規模集中型から分散型地産地消発電」への移行を前提として「市場機能」が働く環境を整備することである。論議の過程で明らかになったのは電力市場がいかに現在の9電力独占体制に阻害されていたかということである。新規参入は完全に排除されイノベーション(技術革新)は電力会社の支配下でその芽さえ摘み取られてきた。しかし市場機能が回復すれば、そして次のリーディング産業が世界的に電力・エネルギー分野であることが明らかになった今、技術進歩は想像を超えた速度で進展するであろう。そのためには「電力全量買取制度」にみられるような買取対象を政府や官僚の裁量にまかされるような有り方は絶対に避けねばならない。発送電の分離なども含めて小資本の参加が可能な市場設計―例えば定年世代が地域蓄電や発電事業に参加できるような―も是非講じてもらいたい。

 「まだ最悪ではない、/『これは最悪だ』と言えているうちは」(シェークスピア『リア王』より)

2011年9月5日月曜日

円高異見

 円高がつづいている。このまま円高を放置しておけば輸出産業を直撃し国内空洞化が加速するのは必定である、とメディアは報じる。しかし世界に目を転じてみれば物価高騰が弱者を痛めつけ世上不安を増幅している。9月2日の日経の記事によれば「タイの消費者物価指数は4.3%、韓国は5.3%上昇」、8月末の報道では「インドで9%ベトナムでは20%の上昇に高止まりしている」と伝えている。2010年のインフレ率を見れば「ベネズエラ27.18%ギニア20.8%イラン、パキスタン、ベトナムが10%以上」という高率国をはじめとして、日本その他2、3の国を除くすべての国で物価高が進行している。
 内容を見ると(7月現在の2010年平均との比較で)、日経国際商品指数など代表的な3指数の平均は28%上昇、NY原油22%シカゴ・トーモロコシ60%大豆30%小麦15%コーヒー54%綿花20%と軒並み高騰している。
 記憶に新しいロンドンの若者の暴動騒ぎは職に就けない若年層の不満の爆発であり、年初来の「アラブの春」は永年の独裁による格差拡大が貧困層を増加させそこへ食料品の高騰が直撃したことが引き金となった。EU圏内の財政危機も格差拡大と弱者への物価高騰が底流にある。

 円高が輸出産業に与える悪影響は事実であるがその側面ばかりを強調する報道のあり方は不公平である。GDPに占める輸出の割合は1割であり消費は7割を占める。もし今、円が100円であったり115円であったら世界的な物価高は国内消費に重大な影響を与えているに違いない。若年層の失業率が20%近くあり年金生活者が5人に1人を占める我国で物価高は想像以上の生活苦につながる。
 世界的な潮流からすればむしろこうした側面からの円高評価が報じられて当然ではないのか。

 円高の原因が『デフレ』にあることは明らかであるにもかかわらず「円高対策」といえば「市場介入や金融緩和」が前面に出てくるのは何故だろうか。
 デフレ脱却には総需要の増大が必要であり、結果的に雇用と投資の増大が輸出以上に必要になる。『国内産業の空洞化』は雇用の海外流出であるからデフレを更に進めてしまう。200兆円以上に積み上った内部留保を雇用拡大にも投資にも活用できない企業にこそデフレ脱却の責任があることは疑いない。   

 円高のたびに「政府・日銀の円高対策」を声高に叫ぶマスコミと企業に根本的な転換を求める。

2011年8月29日月曜日

入門書のこと

 三月十一日(あのひ)より/棄民の自覚/八月末(大船渡・桃心地、23.8.21日経俳壇より)

 六十の手習いで漢文を攻めようと思ったとき先ず手にとったのはやはり「新唐詩選・岩波新書」であった。この書は40数年前に一度挫折している、にもかかわらず漢文といえばこの本から始めなければと思い込んでいたのは入門書の定番として確固たる地位を保持しているからであろう。奥付をみれば「初版1952年8月10日第90刷2008年2月5日」となっている。
 今回も歯が立たなかったが、それは入門書の体裁をとっていながら内容が相当ハイレベルでとりわけ三好達治担当の後篇は冒頭に長詩3篇を配しておよそ初心者にやさしく漢詩を教え導こうという気配など微塵もないからだ。それどころかいい加減な気持ちなら漢詩など読もうと思うな、と戒めているようにすら感じられる書き振りになっている。

 あれから4年、久し振りに手にとって見て吉川幸次郎、三好達治両師の鑑賞力に感嘆させられた。読み下しは少々上達していても理解に必要な中国の歴史や漢詩・漢文の常識となっている故事を知らないから詩を感じる域にまで至らない。両師の解説に込められている豊富な知識学識を読むことによって理解が進み詩としての文学性を深く感じることができた。
 
 良い入門書とは分かり易く読み解いて理解させるだけではなく、難しいことを敢えて解らないままに放って置いてそれでもその学問を学んでみようという意欲を起こさせるものだと思う。研鑽を積んで再度その入門書を読んだ時、自分の進み具合が判定できるようなものが良い入門書というのだろう。

 「解り易く」するために大切な部分を犠牲にすることが少なくない。理解するためには学習が必要なのだがその努力をしない風潮が強い。「知識は必要ない、知恵が大事なのだ」と嘯くお笑いタレントが重宝がられる現在の日本では「結局良いの、悪いの」と結論だけを求めてしまいがちだ。その究極が原子力発電で「結局安全なの?」と安全のための多層なステップを検証する退屈で複雑な過程をはしょったために『安全神話』を安易に受入れてしまった。
 「フクシマの教訓」をどう生かすか。

 「生涯鏡中に在り」(新唐詩選P197より)。恐いことばである。

2011年8月22日月曜日

私が公園のゴミ拾いをするわけ

 公園は「牛ケ瀬公園」といい桂離宮の南約1kmの桂川西岸にある。昭和57年に開設され南北170米東西90米約15㌶の大きな公園である。北側に公式の軟式野球場(有料)があり南側はフリースペースになっている。フリースペースの中央は壁打ちの壁のあるグラウンドで西側がテニス用東側がソフトボールやサッカーに適した設計になっている。その北側丁度公園の中央に東屋があって畳大のベンチが2基、日除け屋根がある。グランドの南は植栽を挟んでブランコ砂場鉄棒にベンチがある小さな子の遊技場になっている。その西側には中央のよりやや小ぶりの休憩所がありこちらは屋根が藤棚になっている。グランドの西側フェンスを挟んで登り棒平行棒腹筋用に設えられたベンチが2基ある野外の簡単なジムのようなスペースがあり、更に通路を挟んだその西側の植栽のなかに自然木のテーブル2基と長いすがあって木陰で憩えるスペースになっている。グランドの東側には水飲み場があり半径10米位のレンガ造りの縁石が配してあり丁度欅の大木の木陰で休める仕掛けになっている。楠、欅、椎、ハナミズキなどの植栽が公園中に施されており30年を経過して木々は立派に成長し野球場横の東西の通路などはさながら緑の回廊の様を呈し紅葉の頃ともなれば地域の人たちの目を楽しませてくれる。

 見事なものだ。これほどの構想力で建造された公園は他にないであろうしバブル期でこそ許された贅沢である。今後このような公園はつくれない、いわば高度成長の記念碑的なモニュメントといえる。我々は後世代にこうした公的資産を劣化させることなく受け継いでいく責務がある。では公園という資産の劣化とはどういうことか。来園者が減少すること、立派な施設が利用できなくなることである。劣化させないためには『維持管理』ではなく『ファシリティマネージメント』という視点が必要なのだが行政は相変わらず維持管理で十分と考え、年に数回の維持作業や月に何回かの巡回で十分と考えている。「破れ窓理論」を持ち出すまでもなく、日々のゴミの散乱や不法投棄の蓄積で僅かな間に来園者の足を遠ざけ荒んだ心にしてしまうことに行政は気づいていない。
 
 私が公園のゴミ拾いする理由のひとつは公園の劣化を防ぐためである、オーバーだがそう考えている。

 ところで公園は鬱屈した子供や閉塞感に押し潰されそうになっている子供のはけ口にもなっている。飲み食いしゴミやタバコの吸殻を撒き散らしてうっぷんを晴らしている。彼らが更に悪い道に行くのを踏み止まらせるには「誰かに見守られている」という安堵感が必要だ。学校で切り捨てられ親にも見離されたと追込まれている彼らに、捨て散らかしたゴミがチャンと拾われている、ただそれだけのことでそんな効果を与えられないか。
 ゴミ拾いをするもうひとつの理由である。

 早起きして公園へ行く、毎朝が清々しい。
 間違いなくこれがいちばんの理由だ。

2011年8月15日月曜日

小さな異変

 夏休み、公園のごみ拾いは大忙しだ。中学生が一晩中屯してゴミを撒き散らすのだ。畳大の2基のベンチに10人前後が集まって夕方から明け方まで与太話をしながら飲み食いし、タバコを吸ったり中には酒を飲んだりするのもいる。その場のゴミ拾いだけで20分以上かかることもある。
 ところが今年は少々事情が変わってきた。小さい子供の遊戯場にあるベンチで小学生5、6人が悪さするのだ。こちらの方は菓子の包装紙が主だがタバコの吸殻も少しは混ざっている。小学生はまだ2回しか見ていないが又あるかもしれない。
 公園ではないが夏休み前のある日9時頃に中学校の裏門の近くを通ったとき女子生徒が帰っていくのに出くわしたことがあった。授業が始まったばかりなのにどうしたのだろうと不審に思った。

 これは憶測だが学校の教科書の内容が大幅に増量されたことと関係がないだろうか。「脱ゆとり」を図って、国語25%算数33%社会16%理科36%(いずれも小学校の場合)ページ数が増えている。中学校も同様の改定が行われた。これに応じて授業時間も増えているが適切であるかどうかはまだ判断できる段階でない。
 
「ゆとり教育」はそれまでの「詰め込み教育」の反省から生まれた。そして「ゆとり教育」で子供の学力が著しく低下したという社会的な抗議に対応した形で今回の「脱ゆとり」に転換したということになっている。しかし本当に教科書の内容が少なかったから教育レベルが落ちたのかどうか。もしそうなら少し前マスコミが騒いだ『灘高校伝説の国語教師』の存在はどう評価すればいいのか。中勘助の「銀の匙」という1冊の文庫本だけを教科書にして3年間教えたという教授法は彼の個人的な資質と能力にのみ起因した成功譚なのだろうか。

 「落ちこぼれ」という形で『見離され切り捨てられる』子供は絶対に出してはいけない。今英国で起こっている暴動も結局「効率」という尺度で「見捨てられた」若者がそのはけ口を求めて起こした暴力的破壊行為だといわれているではないか。このまま「落ちこぼれ」を放置しておけば「対岸の火」ではすまなくなる。

 私の憶測が杞憂で終わることを願っている。
 (8月15日を休刊日にする新聞人に社会の木鐸たる矜持はあるのだろうか。)

2011年8月8日月曜日

盂蘭盆会

 今週はお盆の入り、来週は五山の送り火である。
 お盆は盂蘭盆会といい父母や祖霊を供養する行事で日本では推古天皇6年(606)から行われている。「盂蘭盆経」の説話に起源についてこう書いてある。釈尊の高弟・目犍連が餓鬼道に墜ちて苦しんでいる母親を救いたいと釈尊に教えを乞うと、自恣(じし:安居《あんご》の修行の明ける)の7月15日に僧衆を供養するように、といわれ教えの通りにすると母が救われたという。

 ところでお盆にお寺参りするのは当然のことのように思っているが実はそんなに昔からあった風習ではない。江戸時代初期(慶長年間1613年頃)キリシタン禁制を貫徹させるために定められた「寺檀(じだん)制度」によって寺院と檀家の関係を固定化させ寺請(てらうけ)制度(檀家の人がキリシタンで無いことを証明し宗旨人別帳を作成することが義務付けられた)が実施された。その後世俗権力(幕府の権力)だけでは完全に行えない民衆支配を宗教の力を借りて徹底しようと寺檀制度が拡大される。「宗門檀那請合之掟(しゅうもんだんなうけあいのおきて)」に「祖師忌、仏忌、盆、彼岸、先祖命日に絶えて参詣仕らざる者は判形(はんぎょう)をひき、宗旨役所へ断り、きっと吟味を遂ぐべき事」「死後死体に剃刀を与え、戒名を授け申すべき事、(略)邪宗にて之なき段、慥(たしか)に受合の上にて引導すべき也。能々吟味を遂ぐべき事」などと、葬式や檀家の義務を規定している。
 即ち、お寺参りをお盆、お彼岸、先祖の命日等にキチンとやらない檀家は罰せられる、戒名を必ず授けること、などが義務化されたのである。権力側はお寺の力で民衆を管理する見返りに、寺側は権威と経済的基盤を磐石に保証されたのである。

 明治維新になって寺檀制度は廃止され、戦後になって家制度は無くなったが檀那寺と檀家の関係は未だに継続している。高齢化もあって「葬式仏教」は益々健在であるように見える。しかし人間の生死の問題を高額な戒名料に置き換えて云々するなど仏教の有り様が問われる側面も浮彫りになっている。格差が拡大し閉塞感が濃く漂っている今、宗教について神仏共に、一般人も含めて再考する時期に来ているのではなかろうか。

 五山の送り火が晴れの日になりますように。

2011年8月1日月曜日

苛政は虎よりも猛なり

 中国・浙江省で起きた高速鉄道事故の一連の報道に接して、礼記にある孔子の「苛政は虎よりも猛なり」という言葉を思い浮かべた。泰山の近くを孔子が通りかかった時墓の前で慟哭する婦人がいた。どうしたのかと声を掛けると婦人は答えた。「私は舅と夫を虎に殺されました。ところが今度は息子までも虎に殺されてしまったのです」「どうしてこの土地から引っ越さないのか」「苛政がないからです」。
 虎に殺される恐怖よりも苛酷な政治が行われていた孔子の時代、それから2500年経った今も彼の国は変わっていないのだろうか。

 中国は特異な国である。人類は長い歴史の過程で政治と宗教は分立させた方がいいということを学び並立する体制を中世の頃に築いている。日本では京都(天皇制)と鎌倉幕府(政治権力)、ヨーロパではローマ法王と各国の国王の関係である。ところが中国では民間宗教や迷信はあっても政治権力に対抗できるような宗教的権威は成立することがなかった。政治が暴走してもカウンターパワーが機能しないから反対勢力が勃興し暴力的決着がつくまで政治的安定がないのが中国の歴史である。
 共産党独裁がつづいて60有余年、積年の矛盾がマグマ化している。

 堕落し穢れた旧世界(ヨーロッパ)から無垢な人たち―悔い改めた清らかな人たちだけがメイフラワー号で渡ってきて造った国、アメリカ。しかし新世界ゆえに過去の事例を引用し今を決められない、即ち歴史がないから法律と倫理、治安、セキュリティーを自前で賄わなければいけなかった国、アメリカ。倫理の基準が自分たちの中だけにしかない、アメリカという国。
 ドルが基軸通貨となって60年余。ニクソンショックで「金という枷」を外して刷りまくったドルが、「物」の裏付けのない「デリバティブ=金融商品」がアメリカの主力商品とならざるをえなくなり通貨の暴走を防げなくなってしまった―それが『アメリカ国債のデフォルト』の実体である。

 21世紀は間違いなくこの両国が世界を主導していく。
 世界政治のガバナンスシステムは今のままでいいのだろうか。

2011年7月25日月曜日

原発事故とブレヒト

 「英雄のいない国は不幸だ!」「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸なんだ。」このセリフで有名なB.ブレヒトの「ガリレイの生涯」は1939年に第1稿(デンマーク版)が完成したが原爆投下を知ったブレヒトは作品の大幅な書き直しを決意する。ガリレイの学説撤回は科学の原罪として断罪されなければならないと考えたからである。
 戯曲「ガリレイの生涯」はこうした経緯もあってかフクシマ原発事故に関わる警句に満ちている。(テキストは「ブレヒト戯曲全集第4巻・岩淵達治訳」未来社版を使用)

 君たちは科学の光を慎重に管理し/それを利用し、決して悪用するな。/いつの日かそれが火の玉となって降り注ぎ、/われわれを抹殺することのないように、/そうだ、根こそぎにしないように。(第15場)

 (宗教裁判で自らの地動説を撤回したガリレイと決別した愛弟子アンドレアがオランダへ科学の研究に旅立つ前に幽閉地フィレンツェの別荘にガリレイを訪れる。番兵と娘のヴィルジーニアが席をはずし二人きりになるのをまっていたかのようにガリレイが苦渋の胸の内を吐露する第14場でドラマはクライマックスを迎える。)
 私は自分の職業を裏切ったのだ。私のしたようなことをしでかす人間は、科学者の席を汚すことはできないのだ。
 私は、自分の知識を権力者に引き渡して、彼らがそれを全く自分の都合で使ったり使わなかったり、悪用したりできるようにしてしまった。
 科学は知識を扱う、知識は疑うことによって得られる、すべての人のために、すべてのことについて知識を作り出しながら、科学はすべての人を疑いをもつ人にしようとする。
 科学の唯一の目的は、人間の生存条件の辛さを軽くすることにあると思うんだ。もし科学者が我欲の強い権力者に脅迫されて臆病になり、知識のために知識を積み重ねることだけで満足するようになったら、科学は片輪にされ、君たちの作る新しい機械もただ新たな苦しみを生み出すことにしかならないかもしれない。
 私が抵抗していたら、自然科学者は、医者たちの間のヒポクラテスの誓いのようなものを行うようなことになったかもしれない。自分たちの知識を人類の福祉のため以外は用いないというあの誓いだ!
 しかしわれわれ科学者は、大衆に背を向けてもなお科学者でいられるだろうか?

 人類はブレヒトを必要としない時代を迎えることができるだろうか。

2011年7月18日月曜日

愛国心

 「『社長100人アンケート』で、約4割の経営者が円高の是正や税制の見直しが進まなければ3年以内に海外に生産拠点等を移さざるを得ないと回答した。(略)電力不足問題が長期化する懸念から、国内生産が維持できなくなるとの危機感が広がっている。(7.15日経より)」
「大阪商工会議所の佐藤茂雄会頭は15日の定例記者会見で、政府が原子力発電所のストレステストを実施する方針を示したことについて、『(海江田万里)経産相や自治体の原発再稼動への努力を無にするもの。再稼動が遅れると経済活動、市民生活に壊滅的な打撃を与える』と強く非難。政府に早期再稼動にむけた努力を求めた。(7.16日経より)」

 3月11日の東日本大震災と福島第1原発事故から4ヶ月経った今、電力会社を初めとして経済界、政治家や関連官僚組織の恫喝にも似た原発再稼動への動きが加速している。被災地の復旧復興が未だほとんど手付かずな状況にあり、毎日のように原発事故の被害が拡大しているにもかかわらず、である。そして上記の社長アンケートだ。企業のレゾンデートル(存在理由)が「雇用」にあることは論を俟たない。アメリカも同様であるが金融危機からの脱却のために政府の莫大な財政支援を得て企業経営は回復、軌道に乗ってきているが雇用は一向に改善せず失業率は高止まりしたままである。これでは国民の血税を使った意味がない。
加えて、よりにもよって国内空洞化を平然と公言する大企業経営者に『経営哲学』はあるのだろうか。安倍内閣当時『愛国心』論義が盛んに行われ政治家の多くと共に財界首脳もその必要性を声高に叫んでいたが、彼らの『愛国心』とは何と底の浅い信念の不確かなものなのか。彼らが好んでつかう『国難』の今こそ、あらゆる試練を乗り越えて国家国民のために日本国の再設計を成し遂げる気概が求められているのではないのか。それこそ本物の『愛国心』ではないのか。

 閑話休題。孔子に「後世、畏るべし」という辞がある(『論語』子罕)。若者は先生(大人)を超える可能性を持っているから畏敬の目で見るべきだ、という意味だが、こんな大人と子供(若者)の社会であって欲しい。
 「母さん知らぬ/草の子を、/なん千万の/草の子を、/土はひとりで/育てます。∥草があおあお/茂ったら、/土はかくれて/しまふのに。(金子みすヾ「土と草」)」

2011年7月11日月曜日

即非の論理

 松本龍(前復興担当相)という人を始めて見たとき「この人は古いタイプの人だな」と思った。その後何度かテレビに映し出されると「この人は古いタイプの大物政治家を気取っている」と感じるようになった。例えば田中角栄のように『ヨッシャ、ヨッシャ』と親分肌で陳情を処理していった1980年代までの政治家を演じている風がにじみでていた。しかし当時と今では根本的に政治状況が変化している。財政資金が有り余っていた当時と異なり現在は財政再建が喫緊の課題となり復興財源の捻出にも四苦八苦している有様であり、加えて国が推進してきた原子力政策の是非が問われる福島第一原発問題の処理が最大の課題であるから、政府と地方の首長は微妙な関係にある。そうした状況を考慮する繊細さが微塵もなかった彼が即刻辞任するのは当然であった。

 菅直人首相も「後世に名宰相と評価される」総理であろうと懸命に演じている。消費税増税にはじまって平成の開国、再生可能エネルギー、原発廃止など評価の対象を漁って延命を模索しつづけている。

 鈴木大拙に「即非の論理」という教えがある。これは仏教の「色即是空(この世で形あるもの《色》はみな、とらえどころがない《空》。とらえどころがないからこそ、形あるものになれる。)」をまとめ直した考え方で、「AはAではないからこそAと呼ばれる」という論理で逆に言えば「このBは、まるっきりBそのものだ。だからBではない」ということでもある。例えば料理写真を考えてみると、素人が実物そのままを撮ったにもかかわらずあまり美味しそうに写らない。プロの写真家は、刺身にワックスを塗ったり焼き肉を絵の具で着色したりして、強力なライトを当てて撮影するから美味しそうに写る。AはAでないからこそA(美味しそうな料理)に見えるのだ(加藤徹著「漢文力」より)。

 菅首相も松本前復興相もさも「名宰相」たらん「大物政治家」たらんと振舞い過ぎたために反って『みすぼらしい本性』を曝け出してしまった、と後世は評価するかも知れない。

2011年7月4日月曜日

仏つくって

 国難を前にして政治が機能不全に陥っている。政権交代が結果として政治制度の欠陥を浮き彫りにした形となりマスコミは政治制度改革の必要性を訴えている。強すぎる参院権限見直し、参院否決後の衆院再可決ルールの緩和、小選挙区制度の見直しなど答えはほぼ出尽くした感がある。衆参の議決が異なった場合に開く両院協議会の改革など今すぐ手を付けられるものから早急に対処すべきであろう。

 しかしいくら制度を改めても中味―政治を形成する政党が今の構成では本質的な政治状況の改善にはつながらない。6月13日付けの本コラムにも記したように現在の我国の政党は右から左までほとんどが「大きな政府」を根本的な政治信条としている。戦後55年体制が長く続き、その間マスコミは「保守と革新の激突」などの表現を繰り返してきたが―そしてそれはレトリックとしては致し方ない側面もあるのだが―実際は「保守主義政党」は存在していなかった。従って政権奪取を目指す民主党とすれば政府に集めた国民の所得の再配分先と分配方法をこれまでの自民党方式と改める以外に差異化の術はなかった。それが「子ども手当」であり「農家への個別補償制度」などの直接支給方式につながることになったのであり『民主の自民化』など自明の結果である。

 では「保守主義」とはなにか。6月13日のコラムから引用すれば「私権の制限を最小限にすることを価値判断の基準とする考え方」であり「自分の属している社会構造から他の社会構造への移行を、人間的価値の損失を最低限にとどめながら引き起こすこと」であるから結果的に「小さな政府」を標榜することになる。「金持ちの政党」であったり「古いものを大切にする政党」が保守主義政党ではない。

 ただ『政治とは、(略)要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である(M.ヴェーバー著「職業としての政治」より)』と考えると、保守主義は『分け前』にあずかる分野を今より大幅に削る必要に迫られるから既存の政治家には不人気であろう。そうした意味では勢力拡大に苦労するかも知れないが、今国民が求めているのは「信念を持った志の高い」政治であり政治家であるから刻苦勉励して貰いたい。

 制度改革と政党の成熟が伴って日本の政治の安定が齎される。

2011年6月27日月曜日

拝啓 市長様

 私は毎朝近くのU公園のゴミ拾いをしていますが2ケ月ほど前、大変なごみ捨てがありました。公園中央の休憩所にペットボトルや空き缶、即席うどんのカップやお菓子の食べかす、それにタバコの吸殻と空箱が大量に散乱していたのです。捨てられたゴミの状態で捨てた人間の心が感じられることがあります。このゴミを見たとき非常に不愉快になりました。それだけでなく異常さと不気味さもありました。捨てた人間の心の荒(すさ)び方が尋常でないと思いました。
 夕方野球場のカギを施錠に行くと休憩場に10人以上の中学生(?)がタムロしているのが見えました。その後朝のゴミ拾いのときに何度か聞えてきた声高な彼らの話の断片を繋ぎ合わすと、そのうちの一人が退学になり学校や周囲の何もかもにムカついていて仲間を誘って一晩中与太話をしてうさを晴らしている、ザッとこのような事情がうかがえました。
 ある朝ベンチの合板の上板が30センチ四方ほどの広さに炭化していました。少しオイルでもかけると一挙に燃え上がる危険性があると感じてスグHみどり管理事務所に修理を依頼しました。すると驚くべきことに翌朝修理ができていたのです。余りの対応の早さに驚いたのでしょう、その日ゴミはほとんど散らかっていませんでした。でもその翌日にはゴミは又捨てられました。
 
 ここ数日ゴミ捨てがありません、彼らの気持ちが治まったのならいいのですが。「破れ窓の理論」を持ち出すまでもなく犯罪の目は早期につみとることが大切です。彼らのゴミ捨てを犯罪と呼ぶには違和感もありますが、もしゴミが散らかったまま放置されていたら彼らの荒びは更に増したに違いありません。ベンチに火をつけようとした時、役所の対応があんなに素早くなかったら彼らのイタズラが一段悪い段階に進んでいたのは間違いないでしょう。誰かが見ているという感覚とこの公園は役所が大切にしているものなのだと思わされたから、徐々に荒びを和らげたのだと思います、いや思いたいのです。

 子供は「切り捨てられてはいけない存在」だと思います。しかし大人は簡単にレッテルを貼ってしまいがちです。私は根気よく子供たちと付き合っていこうとゴミ拾いを続けています。連日のように発生する違法投棄や施設の不具合についての私の通報に適切に対処される役所の姿勢に感謝しています。うるさいおっさんですがこれからも辛抱強くお付き合い下さい。
 
 公園は「地域のシンボルマーク」です。子供たちが楽しく遊べるキレイな公園にしておきたいと願っています。
 市政の益々の発展をお祈りしています。                          草々

2011年6月20日月曜日

想 滴滴

 「自ら笑う/狂夫 老いて更に狂するを―杜甫(狂夫より)」(もともと勝手気儘な自分が、年をとってますます気ままになってきたと、我ながらおかしく思う)。

 杜甫のこの漢詩に接したとき、男というものは古今を問わず晩年に差し掛かると同じような感懐を抱くものなのだと、彼我の隔絶する才に忸怩としながらも内心の苦笑を禁じえなかった。しかしよくよく考えてみると「勝手気まま」に生きるということはなかなか難しい。自分では気ままな積りでもどこかで他人の真似をしていることが多いし、往々にしてお金に縛られている。そこへいくと友人K君などは定年になってから、これまでの人生でやりたかったことや定年を期してやりたいこと100以上をこれからの人生でやり遂げようとしている立派な「勝手気まま人」である。独創性や創造性は自由な身になってからこそ大切な素質かも知れない。

 「難波人/葦火(あしび)焚(た)く屋の煤(す)してあれど/己が妻こそ常(とこ)めづらしき―万葉集・作者不詳」。難波の人が葦火を焚くので家が煤(すす)けるが、おれの妻もそのように古びている。けれどおれの妻はいつまで経っても見飽きない。おれの妻はやはりいつまでも一番いい、と詠っている。若い者の恋愛とちがって落ち着いたうちに無限の愛情をたたえている(読解と概説は斉藤茂吉による)。
 茂吉のいうように確かに年配の夫婦にしかないしみじみとした愛情の感じられる歌にちがいないが、「万葉人でも奥さんにお上手を言っていたんだ!」という諧謔を感じさせる新鮮な一面もある。それにしても「常めづらしき」という表現はいい。「めづらし」という古語には「見慣れないので、新鮮に感じられて心をひかれる」という意味があるがそれに「常(とこ)」を接けることで、長い人生を共にしてきた夫婦こその愛情がにじみでてくる。

 今年の年賀状に「興の趣くままに但し則を越えずに、が古稀の意味だそうです。その通りの人生で敬服致します」と書いてくれた先輩がおられた。このコラムを評価していただいたようで嬉しかった。励みにしてこれからも永くつづけていきたい。

2011年6月13日月曜日

保守主義について

 保守主義とは「私権の制限を最小限にすることを価値判断の基準とする考え方」ととらえている。これに「自分の属している社会構造から他の社会構造への移行を、人間的価値の損失を最低限にとどめながら引き起こすこと」というシュンペーターの考え方を付け加えると今の政治状況を的確に判断できる。

 東日本大震災の被災者の立場に立てば、自分の家や土地、生活権や営業権の制限はできるだけ免れたいと願うのは当然のことである。しかしどうしても妥協しなければならない状況に追込まれた時には、自分の誇りや人間的価値のバックボーンになっている地方特有の歴史や文化を可能な限り守りたいと思うに違いない。こうした視点から今までに打ち出されている「復旧・復興策」を点検してみると被災者の感情を逆なでしているものが少なくない。政治家や官僚・行政マンは所詮『他所者』であり被災者の心の奥底―今回のような想像を絶する災害に遭遇したとき人は究極の「保守主義」に落ち入らざるを得ないという心情―まで考えていない、机上論で処理しているからである。

 我国の政治状況を考えるとき、本当の意味での「保守主義政党」が育っていないことが根本的な弱点になっている。戦後復興という国難を乗り越えるためには「私権を制限して中央政府に権限を集中させ再配分を効率的に行う」必要があり、そうした体制が自民党政治崩壊まで続いてきた。ところが国民のほとんどは「自民党政治=保守政治」として疑ってこなかったから「反自民=革新政治」という図式で民主党を選んでしまった。ところが実際は両党とも「大きな政府」を標榜する政党であるから「政権の変更=政治の変化」とはならなかった。民主党になっても何にも変わらない、のは当然なのだ。
 
 菅首相が交代しても次ぎの総選挙まで今の体制が続くなら政治の混迷はつづく。大連立が収拾策でないことは明らかだ。本物の保守主義政党が出現するかどうか、そこが根本的な問題である。

2011年6月6日月曜日

Let's try again

 「 Let‘s try again」を聴いた(視た)。これは歌手の桑田桂祐が東日本大震災の犠牲者の鎮魂と被災者の支援のために作詞作曲し所属する事務所アミューズのタレントを総動員して制作したもので、CDとDVD1セットで1300円、利益のすべてが義捐金になる。
製作現場をドキュメントした映像がDVDになっていてこれを視ると桑田桂祐という歌手がいかに優れたプロデューサーでありディレクターであるかということが分かる。それと同時に出演している歌手とタレントがそれぞれ一定以上の水準をキープしているから短時日で制作されたにもかかわらず素晴らしい作品になっている。

 桑田桂祐は30年近く日本軽音楽界のリーダーとして存在し、音楽事務所アミューズはそんな彼に心酔した歌手が参集してできている。そうした背景があるからこの作品の実際の製作日数は僅か3日であるにもかかわらず30数組60人近い歌手・タレントがそれぞれの才能、もしくは持ち味以上のものをだし、桑田のメインテーマに各歌手のメガヒット曲を重ね合わせた軽快で楽しい作品になっている。「Let’s try again」は間違いなく聞く者の心に『湧き上がる力』を植えつけてくれる。

 桑田桂祐がカリスマ的な歌手であり制作者であるから福山雅治やBEGIN、ポルノグラフィティといった錚々たるメンバーが違和感なく融合している。優れた制作者の創った楽曲を絶対的なプロデューサーがメンバーを組織しカリスマ・ディレクターが演出すれば、メンバーの持てる力以上の最高を引き出して素晴らしい作品を仕上げることができるのだ。

 翻って我国の政治状況は目を覆うばかりの惨状で絶望感に襲われてしまう。ここまで劣化した政治がつづいてしまうと現在の政治システムは機能できていないと断定しても間違いあるまい。
そこで提案だがマスコミ総動員して「現在の衆参両院の議員で、選びうる限りのベストメンバーの震災復興挙国一致内閣」を組閣して欲しい。そしてそれを一斉に国民に提示して欲しい。党派やキャリアを超越して「社会の木鐸」としての矜持をもって選んで欲しい。そして世論を喚起しこの国難を乗り越えるために政治を望ましい方向に善導してほしい。

 もう、永田町と霞ヶ関だけに日本の政治を任せておけない!

2011年5月30日月曜日

フクシマ原発を考える

 ある人が自分の理想とする考えのために最初にすることは、嘘をつくことである。―ヨーゼフ・シュンペーター―

 日本の原発の安全神話を喧伝してきた人たち―所轄官庁の官僚、政治家、電力業界、地方自治体有力者そしてメーカーと原子力関係研究者―は、彼らに理想があったかどうか別にして、何と多くの嘘をついてきたことであろうか。なかで最悪は「メルトダウンしていない」という嘘だ。人類が経験したメルトダウンはチェルノブイリ等4件あるがそのいずれもメルトダウンの諸相を異にするものでありその経験をもとに設備の改良が積み重ねられてきた。それでも科学的知見で予見できる想定を超えることが起こり得るのが原子力発電であり「フクシマ」は世界の叡智を結集して取組めば貴重な「人類の知恵」となり得たはずである。もしも『理想』として原発推進を願うのであれば「フクシマの悲劇」を「より完成型に近い原発」の開発につなげることができたのだが、残念なことに今回の事故の責任者や関係者は『理想』よりも「既得権維持」を望む人たちで固められていたようである。

 「トイレのないマンション」といわれるように日本の原子力発電関連事業は極めて不完全なものである。前工程のウラン濃縮を担う日本原燃六ヶ所ウラン濃縮工場には1系統の遠心分離機しか稼動しておらず、100万Kw/H級原発1基分の濃縮ウラン製造能力しかない。遠心分離機の寿命は10年であるから遠からず全面操業停止になってしまう。
 もっと危ういのは後工程の高レベル放射性廃棄物最終処分事業と高速増殖炉である。日本原燃六ヶ所再処理工場は1993年着工2000年操業開始を予定していたが廃液ガラス溶融炉の不具合を繰返しており2012年10月の稼動も危ぶまれている。
 また福井県敦賀市の原子力機構の高速増殖炉「もんじゅ」でもナトリウム漏洩火災事故で一度頓挫し又その後発生した炉内中継装置落下事故は未だに復旧に見通しがつかず2013年の本格運転開始は大きく遅れる可能性が高い。
 高レベル放射性廃棄物最終処分に関しては概要調査地区の候補地すら決まっていない状況にある。
 このような事情があって長期間の中間貯蔵が必要になっていた処分遅れの使用済核燃料が今回の事故拡大の原因のひとつになったことは記憶に生々しい。

 原子力発電の推進は電力の供給安定性を高めるという論点から促進されてきた。しかし戦後電力供給危機が広域的に長期間にわたり生じたことはなかったが、原子力分野では東京電力検査・点検偽装事件(2002年)と柏崎刈羽原子力発電所地震災害(2007年)により二度も生じている。
 環境保全効果の観点から原子力発電が推進されてきた側面もある。エネルギー1単位を生み出す際の有害化学物質排出量及び温室効果ガス排出量は火力発電よりも格段に少ない。その一方で原子力発電は、事故による放射能・放射線の環境への大量放出の危険を内包し、又各種の放射性廃棄物を生み出す。このような正負の環境特性を正当に評価する必要があり、原子力に対してのみ優遇措置が講じられている現状はアンフェアといわねばならない。
 こうした諸条件を適正に判定して採用する発電源の同等の選択肢の一つとして原子力が位置づけられることが今最も望まれているのではないか。

 日本の原子力政策は国家安全保障のための側面(これを「国家安全保障のための原子力」の公理と呼ぶ)も強くあった。核武装は差し控えるが、核武装のための技術的・産業的な潜在力を保持することによってアメリカとの軍事的同盟の安定性が担保されてきたことは隠されてきた事実である。

 脱原発は一筋縄にはいかないが、電力自由化と発・送電分離を行い分散型発電と全量買取制を実現することで市場競争が機能できる環境を築く以外に方途はない。

2011年5月23日月曜日

消えた子供店長

 東日本大震災の犠牲者が大幅に減っている。最大時3万人近かった犠牲者が今では2万5千人より下った。変なことを言っているとお思いかもしれないので詳しく述べる。3月11日の震災発生から増え続けた犠牲者(死者と安否不明者)は4月1日には29,886名に達した。連日の新聞を見て心を痛めた方も多かったに違いない。ところが4月初旬を過ぎる頃から減少に転じ5月20日現在では24,029名までになった。これは死者11,739名、安否不明者18,152名であった安否不明者が8,881名までに減じたことによる。死者が15,148名に増えたことは残念であり痛ましい事実であるが9,271名の安否が明らかになり5,857名の生存が確認されたことを誠に喜ばしく感じる。この間の自衛隊を初め警察、消防、地元行政の方々やボランティアの方のご努力は大変なものであったろう。海外の支援も大きな力になったに違いない。まだまだ作業は維持・継続されなければならないからご苦労は大変だと思うが、避難されている被災者の方々共々ご健康を心からお祈り申上げる。
 一方で政治の体たらくは目を覆うばかりであるが今日は触れないことにする。

 丁度震災がテレビの番組改変期に相当したこともあるのだろうが、自粛が解けて広告が流れ始めるとあれほど画面を賑わしていた『子供店長』がパッタリ姿を見せなくなっていた。事情は分からないが結果として又「タレントの使い捨て」かと、頑是無い子供店長に憐れを感じる。考えてみればここ10年近い間に何人のテレビタレントが「使い捨て」られていることか。一般人も少しはテレビ界のことをしるようになっているから「あぁ、このタレントは今年限りだな」と分かる。大人タレントなら「随分と稼いでいるからまぁいいか」と突き放すこともできるが子供はそうはいかない。親や所属しているタレント事務所はさておいて当人たる「子供店長」の行く末を考えると暗澹たる気持ちに襲われる。願わくば彼の健全な成長を願って止まない。

 「TV局⇒広告会社⇒タレント事務所」とテレビを作る中心勢力は変遷してきたがそれとともにテレビは面白くなくなってきた。大金をかけ―国民にも大変な負担を強いたデジタル化は生かせるのだろうか。

2011年5月16日月曜日

21世紀の日本

 有限であるはずのエネルギーと資源―原材料を無尽蔵に費消して大量生産大量消費を実現した20世紀文明がこれまで順調に成長してきたのは世界のほんの一握りの国々がエネルギーと資源を独占できたからに他ならない。世界190ヶ国の内の25カ国の先進国が人口では世界の僅か15%に過ぎないのに、残りの85%と比べて約6倍の所得を享受しているという現実がそれを如実に物語っている。
 しかし市場を勝ち抜くために不断の供給力優位を追及しなければならなかった企業は市場の拡大と投入労働力確保のために「グローバル経済」に突入せざるをえなくなった。このことは市場でのプレーヤーの増大を意味し、エネルギーと資源の独占的利用を困難にする。原油と国際商品市況の恒常的高騰傾向は今後益々強まるに違いない。このため先進国の停滞を尻目に世界経済を牽引しているBRICs諸国の高成長もエネルギーと資源の制約から遠からず(中国の場合2020年頃から)成長に翳りがでるであろう。

 21世紀になって早11年目になるにもかかわらず安穏と20世紀の延長線上に居座っていた我々は3.11東日本大震災によって『強制終了』され20世紀文明との決別に追込まれた。原子力発電への依存を強制的に低下させなければならない必要から「大量生産大量消費型文明」を乗り越え『新しい文明の形』を創造しなければならなくなってしまった。

 唯一の被爆国である我国は原子力の暴力的利用と共に平和的利用に関しても人類の叡智を結集した高度な管理技術と管理体制を築く責任を負わされた。同時に21世紀型の新しいエネルギーシステムを現実化しなければならない。
 輸出依存から脱却し内需を拡大しなければならない経済状況は製造業と太平洋側偏重の産業構造の根本的見直しが必要であり、その為には既得権に結びついている各種の「規制改革」を大胆にすすめなければならない。
 人類の夢であった「不老不死」―超高齢社会を、構成する国民の各層が満足するような理想型にする責任はもう待ったなしの状況になっている。

 こうして考えて来ると我が日本は『21世紀型文明の実験室』であることがはっきりと分かる。これからの数年間―21世紀初頭期に世界のお手本となるような『国づくり』をすることが震災で亡くなった方々への我々の責務であると強く思う。

2011年5月9日月曜日

280円のユッケと59円の食器

 焼き肉チェーン「焼肉酒家えびす」のユッケによる死亡事件の報道に接して生食用牛肉の流通管理のズサンサにあ然としたがそれ以上にチェーン店のユッケが1人前280円であることを知って驚きより憤りを感じた。

 私が韓国料理を最初に食べたのはもう50年近く前になる。その頃まだ珍しかった韓国料理店が銀座に1軒あったのを友人に紹介されすっかり病み付きになってしまった。「焼肉」というものを知らなかったからその旨さに驚いた。ビビンバも美味だったが「ユッケ」は格別だった。生肉を食うという習慣がなかったから最初は戸惑ったが一度口にしてしまってからはその味を忘れることができなくなった。だからといってその頃の韓国料理は高級だったからめったに食べられるものではなかったので、麻雀や競馬でたまに大勝ちするとその店に飛んで行ったことを懐かしく思い出す。

 国連の『人間開発白書』によると世界人口の約半分にあたる30億人は1日2ドル未満で暮らしていると報告している。このような状況にある国々においては、食物は飢えを満たすものであり食器は食べ物を盛り付ける機能さえ満たしておれば満足しなければならないであろう。それに比して我国は中国に抜かれたとはいえGDP(国内総生産)は世界3位であるし1人当りGDPも4万3千ドル(2010年度US弗)近い水準にある。1日67ドルを超える高所得国であり文化国家であるはずの我国において59円の食器や280円のユッケがマスコミの広告で喧伝されている風潮は奇異に映る。
 
 東日本大震災の影響で電力の使用に制限をかけられた我国は「20世紀型文明」の見直しの止む無しに追込まれている。大量生産大量消費で機能の充足を満たした、つぎの段階に踏み出さざるをえない状況を強いられたことになる。ということは、機能以上の文化的価値を個人個人が『物に見出したり創造したりする作業』が求められる段階に差し掛かっているということだ。59円の食器や280円のユッケの『誤った豊かさ』に決別する文明の段階にいる、という自覚が必要なのではないか

2011年5月2日月曜日

強制終了

 朝気づかなかったハナミズキが夕方公園に行ってみると一斉に花を開いていた。日中に降った雨の恵みだ。そういえば木々の緑も或る朝とつぜん枝々に茂ることを最近になって知った。今までもそうだったに違いないのだがここ数年そうした自然の営みに驚き、敏感に反応している自分がいる。さだまさしの「人生の贈り物」にこんな歌詞がある。「季節の花がこんなに美しいことに/歳を取るまで少しも気づかなかった/私の人生の花が 散ってしまう頃/やっと花は私の心に咲いた」。

 それにしても今年の新緑の勢いは激しすぎないか。桜の花も随分と豊富であったように思うし、段々に亜熱帯的気候に近づいているのでは、と少し怖い。
 以前はもう少し穏やかに季節が移ろっていたのは間違いないから地球温暖化の影響が徐々に加速しているのではないか。お米は昔近江米や富山米が上等とされていたのに最近は「秋田コマチ」や「北海道きらら」が美味しいとされているのはそのひとつの例であるかもしれない。また鳩山前首相が国連気候変動サミットで温室効果ガスの排出量を2020年までに1990年比で25%削減すると明言したのは彼の数少ない功績に違いない。

 この25%の削減目標に対して「日本は早くにエネルギー削減に取組んできたからもうほとんど削減余地は残されていない」という論調が支配的で国際的公約を反古にしようという勢力がほとんどであった。
ところがこのような『趨勢的思考』に『強制終了』がかけられた。今回の東日本大震災による「節電目標」だ。海江田万里経済産業相は28日、東京電力と東北電力管内での今夏の最大使用電力の削減目標を、企業、家庭とも前年比15%減とすると正式に発表した。目標達成のために企業は生産時間短縮は当然だし家庭でもこれまでの生活習慣を根本的に改める取り組みをしなければならない。
大体料理は炎で、洗濯物は太陽で乾かす、風通しをよくして扇風機の風を送ればそれだけで随分涼しく感じられるものだ。電気が無限にあるように勘違いしてなんでもかんでも「オール電化」したのが間違いだったのだ。

 東日本大震災によって『20世紀型文明』を『強制終了』されたということを我々は肝に銘ずるべきだ。

2011年4月25日月曜日

日本は本当に安全か

 文部科学省は19日、福島県内の13の小中学校・幼保育園に対して、屋外活動を1日1時間程度に制限するように同県教育委員会に通知した。
 政府は20日、東京電力福島第1原子力発電所の事故後避難指示が出ている半径20キロ圏内を22日警戒区域に変更し、立ち入りを原則禁じる方針を固めた。

 日本人には広島・長崎に投下された原子爆弾、その放射線に汚染された「黒い雨」の脅威を描いた井伏鱒二の同名小説、米国の水爆実験による理不尽な被爆によって死亡した久保山愛吉さんの第5福竜丸事件など、壊滅的で悲惨なイメージが『原子力・被爆』について刷り込まれている。
 それらと今回の原発事故と、どのように関連付けていいのか未だに確信できないでいる。それは政府、保安院、東電の情報開示に『権威』がないからだ。上記2つの措置を被災者が素直に受入れることができないのも信頼するに足る『権威』が感じられないからに他ならない。

 3.11の大震災から1ヶ月経って観光業の被害が甚大になっている。とりわけ外国人観光客の減少が著しく想定以上の風評被害が全国的に広がっている。それに対して被災地以外―日光や大阪城、ハウステンボス等は震災の影響が全くないということを国の内外にはっきりアピールするべきだ、特に海外に対して外務省は有効な手段を講じるべきだ、という批判がある。

 日本は、太平洋の西のはずれ、ユーラシア大陸の極東に浮かぶ小さな島国である。地震の多い国でおまけに54基の原子力発電所が稼動している。M9.0の大地震と最大規模の津波に襲われたばかりで福島第1原発が被災して制御不能の事故を起こしている。震度5前後の余震が頻発しM7以上の直下型の東南海・南海地震がいつ起こってもおかしくないと予想されている。全国に配置された原発は津波の規模が2Mから15M、地震の規模もM5~M7とバラバラの基準で設置されている。東日本大震災の被災地以外でもいつ地震が起こるかわからず、それによって原発が甚大な被害を被る可能性を排除することは極めて難しい。今起こっている原発事故終息の確かな見通しは全く立っていない。

 こんなイメージで日本を見ている海外の人たちに「日本は安全です」と自信をもって発信できる人がいるだろうか。

2011年4月18日月曜日

未必の故意

 「放射線がうつる」と学校ではやし立てられた東日本大震災の被災児童が転校先から別の土地に移されていたという報道は痛ましい。大人の心ない会話が子供たちの発言につながっていたとしたら悲しい。しかし我々国民は福島第一原発事故に関して、まだ誰からも真実を語られていない。国の内外に飛び交う風評は政府その他要職にある人達の責任だ。

 もし福島第一原発が『個人の所有』だとしたら『未必の故意』として重罪に処せられる事は間違いない。『想定外』と言い訳しようと状況次第では殺人罪にも相当する重大事故であるにもかかわらず政府の東電に対する姿勢は極めて甘い。厳しい責任追及もないうちに国有化や損害賠償の支援策が論じられるのは一体どうしてか。東電は企業廃絶(=企業の死)、そこからのスタートが当然とするのが市民感覚だがそうなっていないのは何故か。(首都圏の電気事業会社が東電である必要はない。)

 現在の法律では法人という組織に対して刑法上の罪を問うことはきわめて困難な体系になっており、犯罪を犯した企業の経営者に法的および道義的責任を問う以外に方法がない。加えて原子力に関わる事故に関しては別に「原子力損害賠償法」があってそこに「その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りでない(損害を賠償する責めを負わなくてもよい)」と定めてある。又賠償額については、加入が義務付けられている原子力損害賠償責任保険の補償額―1工場・事業所当り1200億円を賠償に当てることができるという規定がある。

 東電の経営者は当然こうした法律を熟知している。今回の地震と津波は上にある『異常に巨大な天災地変』に相当すると認識しているに違いない。被害者への損害賠償に関しても法の定めにある『1200億円』を前提としているように感じる。そうでなければ東電社長がお詫び会見でみせた開き直りとも見えるふてぶてしい態度は理解できない。

 企業の犯す犯罪がこれほど甚大で広範に及ぶという考えは今ある法体系の底流にはない。損害が何兆円にも上るという事態にも考え及んでいない。東電の犯した犯罪は現法体系とは別次元にあると、国民は認識している。

2011年4月11日月曜日

大相撲八百長問題の本質

 世界の国々から届けられる東日本大震災へのエールに心打たれる。はるか遠くの名も知らない、多分我国より貧しいに違いない国の子供たちのメッセージや乏しい中からの救援物資提供には胸がジンとくる。しかし視点を変えればそのような応援や支援を引き出すような報道がされているという事に他ならない。
 政府は原発事故の正確な情報を開示するべきだ。今のようなあいまいなこま切れの情報提供では反って疑心暗鬼を増幅する。更に震災復興のための赤字国債発行による財政破綻懸念を払拭し、国債増発無しに復興資金のファイナンスが可能である事を国内外に明言することが急務である。明確な方向性を何一つ打ち出さないで情報隠匿を続ける政府の対応は国の根幹に悪影響を及ぼす見方を世界に植えつけてしまっている。
 
 大相撲八百長事件に相撲協会が一応の解決策を打ち出した。しかし以前書いたように「資本と経営の分離」を厳格に行わない限り根本的な解決にはならない。具体的にいえば「巨大な既得権益」を解消する組織改革を行い『健全な競技団体』へ脱却する事無しに八百長問題の根本的解決はありえない。

 大相撲は700名超の力士と105名の年寄り(親方)で構成された組織である。これを収入面から見ると力士の年収総額約18億円に対して年寄りの年収も約17億円と殆んど差がない。しかも力士が十分な収入を支給されるのが十両から幕内の短い期間であるのに対して年寄りは65歳の定年まで保証されている。実際の競技者の報酬に比して管理者層である年寄りがここまで優遇された歪な報酬体系が温存された組織は余りに異常である。いってみれば700名の若い競技者に105名の年寄りが寄生しているのが現在の「(財)日本相撲協会」という組織なのである。このあり様の根本的な改革こそ八百長問題解決の本質なのである。(以下に資料を記載する)

▼年寄りの総数105名、年寄りの平均年収約1600万円▼力士総数721名(平成22年9月場所)①横綱の年収4550万円(2名として算定、以下同じ)②大関3700万円(4名)③三役2600万円(6名)④平幕2000万円(28名)⑤十両1600万円(28名)⑥幕下90万円(120名)⑦三段目60万円(200名)⑧序二段48万円(256名)⑨序ノ口42万円(77名)(ウィキペディアより)

2011年4月4日月曜日

神話の崩壊

 風邪を罹いてしまった。定番の予兆である膝の悪寒と後頭部の間歇的な痛みが今回もあった。いつもなら体が温まる頃には治まるのに今回は一日中続いた。特に後頭部の痛みが夜中も止まなかったので病院へ行くことにした。肩こりではないかという妻の意見を入れて整形外科へいくと触診で右下後頭部の部位を特定した医師の指示でレントゲン写真を6枚撮影された。「脊椎に痛みの伴うような歪みが見られませんので原因が分かりません。MRIを撮ってみましょう。予約をして帰ってください」。エッ!?と思った。待ってくれよ、頭が痛くて夜も寝られなかった患者が貴方を頼ってここにきているのですよ。それなのに痛みを解消する応急処置も施さずに帰すんですか!
 結局こちらからの申し出でで温湿布薬を処方して貰うことができた。そしていつもの通り風邪の症状が治まると共に後頭部の痛みも消えていた。

 東北関東大震災の原発事故に終息の見通しが立たない。官房長官等による広報の『あやふやさ』が農産物の風評被害を甚大にしてしまった。出荷停止、摂取制限などと基準を不明確にしたまま地域を包括的に決定して発表したために農民の被害は想像以上の長さと深さになることは間違いない。何故こんなことになってしまったかの原因は『明確』である。発表に伴う「保証」を発表する側―政府であったり東電であったりペーパーを作成する官僚であったり―が認識しないままに「ことば」がひとり歩きしたからである。すべて『政府買取り』にすべきであった。役人は価格設定が困難だなどと屁理屈をいうに違いない。民主党のバラマキの最悪である「農家戸別補償」に比べればどんな暫定価格でもいいではないか。8割方の保証を発表時点で行い最終調整はずっと後でいい。とにかく即時補償することで「国がわれわれを護ってくれている」という安堵感を被災者に与えることが早期の時点で最も肝要事である。これまでの政府の対応のすべてに補償の裏づけがみられないことが被害を大きく深くしている。

 サルコジ大統領の緊急来日は原発事故に対する我国の対応が世界基準に照らして「不適切且つ不適時」であるという世界世論の表れであろう。我国原子力産業への信頼は地に落ちてしまった。

 「ものづくり世界一」という神話は今回またも傷つけられてしまった。

2011年3月28日月曜日

何故「大連立」なのか

 何故「大連立」なのか、どうして今「挙国一致内閣」にならないのか。
 連立には保身と党利党略しかない。今必要なのは国難に遭遇した国のあるべき形であり「挙国一致」以外にない。リーダーには真摯な人間性が問われるが、「生かされている命に感謝し、全身全霊、正々堂々とプレーすることを誓います」と宣誓したセンバツの創志学園野山慎介主将以上の『純正・清廉』を備え、成熟した市民社会にふさわしい新しい社会システムを構築する『構想力』とそこへ導く『哲学』が求められる。

 我国の災害復興はこれまで『補完性』と『原形復旧(現物支給)』など多くの規制に縛られてきた。復旧復興の第一責任者は被災市町村でありその自治体の資源の限界を超える範囲毎に上位の自治体・国が補完していく、というシステムは今回の災害では機能しないし現物支給の原形復旧は無意味且つ不可能である。加えて今回の『壊滅的破壊』を復旧・復興するのに「土地の私有財産権」をこれまでのように「個別具体的な資産」として認めたままで解決できるのかという根源的な問題にも踏み込まなければならないことを政治家は自覚しているだろうか。

 東京一極集中と地方の過疎化が益々加速しないかという危惧、とりわけこれを契機として「過疎化」を既成事実として受容し「地方切り捨て」が広範囲に行われないかという惧れを強く抱く。港湾、農地、道路等のインフラを復旧する費用は公的負担とすることは可能でも、船舶、漁網、農機具や住居などは「私有財産の自己管理責任」の原則に拘泥し公的支援の対象外になってしまわないか。津波に襲われた自己所有の土地に従前通りの家屋を復旧する『愚かさ』を役人は押し付けないか。
 政治家や官僚(役人)による『官製の審議会構想』で地方の過疎化を解決しようとするのではなく、この災厄を契機に他府県に移住していた若者も取り込んで復興が設計できるような『条件整備』―例えば「壊滅した市町村の土地を私有財産制を保ちながら公共財化する」「現物支給から金融支援への転換」などを『挙国一致内閣』で早期に実現するべきである。

 3月13~19日の海外投資家による日本株への投資は週単位としては過去最高の8910億円の買い越しだった。海外の人たちの我国復興への期待は絶大である。菅直人はこの期待に応えられるか。

2011年3月21日月曜日

原発事故について

 読売テレビの「たかじんのそこまで言って委員会」に加藤登紀子さんがゲスト出演した時野放図な原発推進に警鐘を鳴らしたことがあった。マスコミから原発批判がすっかり消えてしまったこの時期に、批判するべきはキチンと批判する彼女の姿勢に『緩んでしまった我日常』を愧じた。
 
 大阪府庁と府警の間にあった「水素ステーション」が昨年末で「事業仕分け」された。こんな一等地に1日数人の参観者しかない、トヨタ製の1億円する水素ガス式電気自動車を1千万円の年間使用料を払って啓蒙する意義に疑問を感じていたから当然の措置だが、その技術説明員さんが一通り説明を終えたあとこんなことを言った。「そんなことより、原発原発と騒いでいますが本当に大丈夫なんでしょうか。私の個人的な意見ですが怖いですね」。
 
 日本の原発の稼働率が65%と低い現状を米韓並みに85%前後に高めるべきだという論調が年々高まっていた。しかしそこにこそ『被爆国』としての『良心』があると誇りを感じていた。だからこそ世界一の品質という評価が得られているのだと信じていた。ところが今回の事故の経過を見ていると原子力安全・保安院と電力会社の関係は『馴れ合い』ではなかったのかという疑問を強く抱いた。たとえ不備があったとしても施設と住民の安全を最優先に手順が踏まれ「安全の担保」が厳密に整序されていたとは思いにくい。

 結局「原子力安全・保安院」が経済産業省の一機関である限り、推進派の力が強い中で安全最優先の行政を進めることは不可能である。内閣府に設置されている「原子力安全委員会」を原子力を安全に利用するための国による管理・規制を担当する「独立した機関」に格上げするか、或いは行政とは全く独立した「安全確保の絶対的な機関」を設立するかのどちらかにしなければ安全の確保は不可能である。
 同時に「電力の自由化」を強力に進めて「地区別の寡占状態」を打破し電力事業を競争に曝すことで、東電にみるような『思い上がった殿様商売のブラックボックス事業』から脱却させる必要がある。

 現在の不安定で危険な状況からいつ解放されるか予断を許さないが、犠牲を無駄にしない、将来展望に結びつく国民の納得の得られる結果が導かれることを祈念して止まない。

2011年3月14日月曜日

政治資金規正法について

 ローマ大学ルイージ・グイソ教授がいうように文化を「民族的、宗教的、社会的な集団がほぼ変化させない形で異世代に伝達する習慣的な信条と価値」と定義するならば、戦後65年たった我国は文化の変節点を迎えているのかもしれない。ひとつの例証として明治大正世代と昭和一桁世代の2010年での人口比率を見ると明治大正世代は2.92%、昭和一桁世代を加えても10%に過ぎずその社会的影響力は相当弱くなっている。この世代が『戦前の儒教的教育世代』であることを考えると戦前から続いている或いは戦後すぐにつくられた制度や法律はそろそろ根本的に再検討する必要がありそうだ。

 政治資金規正法は昭和23年に施行された。その目的や基本理念は「政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もって民主政治の健全な発達に寄与する」「政治資金が民主政治の健全な発達を希求して拠出される浄財であることをかんがみ(略)いやしくも政治資金の拠出に関する国民の自発的意思を抑制することのないように、適切に運用されなければならない」「何人も、外国人、外国法人又はその主たる構成員が外国人若しくは外国法人である団体その他の組織から、政治活動に関する寄附を受けてはならない」などとしている。
 当時を考えると、東西冷戦のせめぎ合いが熾烈な時期にあり共産主義の浸透を極度に恐れていたが赤化勢力の攻勢は生易しいものではなかった。又仮想敵国による国土侵犯も現実的な脅威でありこうした脅威のひとつの形として「朝鮮総連や民団」もあった。
 しかし現在では冷戦は終結する一方、グローバル化と少子化の中で外国人は労働力として必要なばかりでなく在日朝鮮人他日本社会の成員として無視できない存在となっている外国人も多数に上り今後この傾向は益々高まっていくと思われる。
 
 政治資金の趨勢は、企業や組合からの献金の制限は更に厳しくなるであろうし政党助成金もこのまま存続する可能性は少なく、個人献金の比重が加速度的に高まることが予想される。

 今でも一部の地方では外国人の存在は無視できないが近い将来確実に多くの地域でこの傾向が定着するだろう。そのときの政治資金授受のあり方を考えると「外国人からの寄付禁止条項」には大幅な修正が加えられること必定である。

2011年3月7日月曜日

旅の絵本

 「ドミニク・ヴィス/武満徹を歌う」の流れる中で「大岡信の現代詩」を読む。疲れてくると安野光雅の「旅の絵本」を開く、ちょっと上等のウィスキーを嘗めながら。不思議な安らぎの安野ワールド。

 その安野光雅のことば。「絵を見るとき、題名を先に見て、絵の意図を読み取ろうとする人がある。題名を変えても絵の価値が変るということはない。/文字は説明的な意味を持っているが、絵は説明ではない。詩もちがう気がする。言葉で書くほかないが、その言葉の説明的な意味から逃れようとしているように見える。」(日経・私の履歴書から)

 武満徹と大江健三郎は「オペラをつくる」で次のように語り合っている。
絵画をみる場合は受身で見るけれども、音楽を聴く場合は、能動的に聴くというのも、本当にそうなのだと思います。(略)音楽を人間が生み出したのは、耳があるからではなく、喉があるからだという。(略)耳があるからということで人間が音楽をつくり出したのなら、自然の音を模倣するような音楽になっただろう、『田園交響曲』のような標題音楽からはじまっていったんだろう、という。ところが、人間が喉を使って歌をつくることから音楽が生じているという。
 文字言語の言葉というものでは言い表せない感情、言葉をいくら補っても言葉では補えないものを音楽、歌にしようというふうに考えています。/言葉の起源は歌なので、歌うということを検証したときに言葉が出てくる。言葉の後に歌がくるのではなく、歌というものは常にあって、それがいろいろな歌のかたちとして、言葉として顕れてくる。それは小説であったり、また、詩や戯曲であったりする。
 ヴェルディは音楽の力によってシェークスピアよりも少ない言葉で同じことを達成していると思います。逆にいうと、シェークスピアが達成したようなものを小説家が達成しようと思ったら、シェークスピアの10倍の言葉が必要だと思います。

 三人が言っているのは『音楽や絵画、詩の優越性』と『言葉の不完全性』である。だから我々は言葉を注意深く使わなければならないし、言葉の重みを知らなければならない。
 「満目(まんもく) 生事を悲しむ」、今の政治状況は余りにも悲しい。

2011年2月28日月曜日

パンダ狂想曲

 上野動物園にパンダが帰ってくる、とNHKをはじめテレビ各局がトップ扱いの大騒ぎをしている。こうした東京キー局の東京圏偏向に苦々しく、時には腹立たしくさえ感じる。雪害や鳥インフル、火山爆発の被害を被っている地方はパンダどころではないであろうし、政治の目を覆うばかりの体たらくのこの時期、メディア感覚を疑う。

 九州新幹線開通を控えて華々しいイベントが繰り広げられている一方で北近畿タンゴ鉄道が累積赤字で廃線の危機に瀕しているという報道もある。これまで新幹線の開通の裏で在来線の廃線や三セク化で「地方切捨て」が行われ過疎化が容赦なく加速してきた。21日国交省国土審議会長期展望委員会は「2050年の日本の国土の姿」について、過疎化や少子高齢化の傾向が継続した場合、05年に人の住んでいた国土の約20%で住民がいなくなってしまうという中間報告をまとめている。

 チュニジアに端を発しエジプトを巻き込んだ中東の政変ドミノはリビアに飛び火し原油高が急速に進んでいる。こうした地政学的要素とは別に経済のグローバル化に伴う新興国の経済発展は加速度的にエネルギー需要を高める。化石燃料は中長期的に高価格化することが自明のなかEV(電気自動車)などの技術革新が進められているが、それよりも移動・輸送の将来展望として『個的移動・輸送から集団的移動・輸送へ』のパラダイムシフトを真剣に検討する時期にさしかかっているのではないか。自動車による移動・輸送を当然のこととして鉄道を廃線にしているが、そんなに遠くない将来又鉄道が必要になる時代が来ることはないのか(少なくとも国土の狭い我国ではその方が格段に効率的である)。そのときになって切り捨てた地方の鉄道を再生することは可能なのか。そんな心配は杞憂に終わるのだろうか。
 
 東京一極集中にシビレを切らした「地方の反乱」は『地域限定』とタカを括っているうちに『うねり』となって既成政党政治に『ノー』を突きつけることになりかねない勢いである。そうなったとき、「高速道路無料化」と「鉄道の在来線存続」のどちらがその時代の『最適の選択』になるのか。
政治の真価が問われている。

2011年2月21日月曜日

キュアとケアの前に

 「税と社会保障の一体改革」が推し進められようとしているなかで「年金支給開始年齢の早期引き上げ」について考えてみたい。
 政府案以外にもいろいろな改革案が提案されているが大まかにいって「65歳の支給開始年齢を70歳に引上げる」というところが中期的な収斂値となっており、その際「健康で体力があっても仕事を離れるという生活様式を改めて、年齢相応の仕事と貢献度に応じた報酬体系」を準備する必要を条件にしている。ここで問題にしたいのは『健康で体力がある』ということについて、それぞれの提案者がどれほど理解しているかということである。65歳と70歳でどんな違いがあるか分かっているかということを問うてみたい。

 成熟した社会では高齢者の罹患する疾病は生活習慣病が主になっている。そして治療の主役は医師や看護師ではなく患者自身であり、医療機関による治療以外に規則正しい生活、適正な食生活、適度な運動が求められる、当然のことながら喫煙は論外である。このうち規則正しい生活と適正な食生活は医療機関などで指導を受けることができるが「適度の運動」については「しっとりと汗が出る位の有酸素運動を30分~90分、週に2、3回」という目安が教えられる程度で具体的なメニューを提示されることは全くない。
 ジョギング、ウォーキング、自転車、水泳、ジムトレーニングなど自分なりに取組んではいるがそれがどの程度の効果を上げているかはほとんど計測不能である。ウォーキングを毎朝3、4時間やって膝を傷めてしまった友人もいる。ひとは簡単に「軽い運動を」というがこれほど難しいこともない。メタボリックシンドロームについて特定健診制度が設けられ判定基準や特定保健指導が義務付けられるようになったのは成人病予防にとって一大進歩であると思う(詳細についての是非は別にして)が、これと同程度の「肉体健康度の判定と対応運動メニュー」をスポーツ医学を併設している医療機関で指導を受けられるようにできないものか。

 65歳から70歳までの経年は肉体的にみて『本格的な老い』への過渡期にありこの時期の対応次第で以後の健康に重大な影響がでてくる。支給開始年齢の引上げを単なる財政再建のための数合わせでなく『キュアとケアの前のサポート期間』と捉える視点をもって取組んでほしい。

2011年2月14日月曜日

古稀

 今年古稀を迎える。古稀の原典は杜甫の漢詩にある。
 「曲江 其二」「朝より回りて日々春衣を典し/毎日江頭に酔いを尽くして帰る/酒債尋常行く処に有り/人生七十古来稀なり/花を穿つの蛺蝶深深として見え/水に点ずるの蜻蜓款款として飛ぶ/伝語す風光共に流転して/暫時相賞して相違うこと莫れと」
大意はつぎの通り。「朝廷より退出すると、毎日毎日の衣服を質に入れ、そのたびに曲江のほとりで泥酔して帰る。酒の借金は普通のことで、行く先々にできている。人生七十才まで生きることが昔からめったにないから、今のうちに存分に楽しんでおきたいのだ。(略)さあ自然よ、暫くの間は私と共にこのよい季節を楽しもうではないか」。
 
漢詩にみる中国の人たちの考え方は儒教の本場であるにもかかわらず、概して「快楽主義」に徹しているように窺える。一方我国の先人たちは「生真面目」で、たとえば吉田兼好「徒然草・第七段」はこんな具合である。
 「(ものに終りがないとしたら)いかにもののあわれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ。(どんなにか深い情趣もないことであろうか。この世は不定であるからこそ、すばらしいのだ。)(人間ほど長生きするものはない。満足せずに生きているならば)千年を過ごすとも一夜の夢の心地こそせめ。(永久に生きることができないのに生き永らえていれば)みにくき姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ(見苦しくない生き方であろう)。(略)ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあわれも知らずなりゆくなん、あさまし(ただやたら俗世間のあれこれをむさぼる心ばかり深くなって、この世の情趣もわからなくなってゆくのは、まったくあさましいことである)。」

 人生僅か五十年の頃のはなしとはいえ淡白すぎないか。仏教に深く影響を受けていた兼好だから「諦観」することが『かっこいい』というところがあったかもしれない。いずれにしても日本人は外来思想を『純化』しすぎる傾向が強い。

 現在の「中国脅威論」は『強面』の下の「中華を貫かねばならない強がり」の側面を見落としている。

2011年2月7日月曜日

資本と経営の分離

 大相撲の八百長事件が騒動となって喧しい。しかしそれらの批判や議論は『大相撲が現在の興行形態で格闘技として成立している』ことを前提として語られている。本当にそうだろうか。世界一過酷な格闘技・相撲が、一場所に15日間連続して試合(取組み)が行われ年間6場所も興行が組まれている過密なスケジュールで『真実の格闘技』が実現できるのか。格闘球技ラグビーは1試合で消耗される体力の問題を理由としてオリンピック種目から除外されているではないか。

 現在の年6場所一場所15日連続興行が始まったのは意外に新しく1958年(昭和33年)である。江戸時代は晴天十日間興行であったが1909年(明治42年)に両国国技館が開館され晴雨不問の10日間連続興行が可能になる。1923年11日興行に変更され1949年(昭和24年)から15日興行が始まった。
 場所数は東京と大阪に分離していた協会が1927年(昭和2年)大日本相撲協会に統合され年4場所制になる。1933年の脱退事件、終戦直後の混乱などで変則興行が続いた後1950年(昭和25年)ようやく15日連続興行で3場所開催が行える環境が整う。栃若時代の到来は相撲人気を高めテレビの普及と相俟って1957年5場所に、1958年には現在の6場所制に増加して定着した。
 屋根付き国技館、相撲協会の統一、テレビの出現など相撲人気を盛り上げる種々の要因があって現在に至っているが、競技条件の変更に伴う競技者(力士)の身体能力に関する科学的検査が行われたということは寡聞にして知らない。現在でも幕下以下の取組みが一場所7日間であるのは体力的に15日連続競技に耐えられないことも原因のひとつではないのか。

 大相撲の屋台骨を揺るがす由々しき事態に至った今、興行形態の根本から検討する必要がある。例えば10日興行で前後半の間に3日間の休養期間を設けるなど、真の格闘技・相撲にふさわしい日程を模索することは大相撲改革の出発点であろう。
 「年寄り(親方)」が大相撲の『資本と経営』を独占する現体制から「経営」を第三者に分離することは、相撲協会再生の絶対条件である。
 
 朝青龍を「横綱の品格に劣る」と悪しざまに言い募った識者たちはどんな気持ちでこの体たらくを見ているのだろう。

2011年1月31日月曜日

荻須高徳展

 荻須高徳展へ行ってきた。2年前難波に開業したホテルモントレグラスミアの22階にある山王美術館はひっそりとして落ち着いた雰囲気だった。それもそのはずで入場者は私ひとり、小じんまりした空間に27点の作品があった。
 1927年パリに渡った荻須は石造りの街並みに魅かれ独特のタッチで古い建物や裏通りを描き続け、当時の市長ジャック・シラク(後のフランス大統領)に「最もパリ的な日本人」と言われた存在だった。そんな彼の作品は対象となっているパリのどの風物にもいとおし気な眼差しがある。以前からどこか佐伯祐三に似たタッチを感じていたが入口の作者概要に佐伯が彼の師匠、とあったのは今更ながらの収穫であった。
 近づき過ぎない距離で一つ一つの作品を鑑賞、数歩下がって4、5枚をためつすがめつ、又接近して絵の具の盛り上がり具合などを確認したりと、全作品を心行くまで堪能した『贅沢な鑑賞』タイムであった。入場後しばらくして受付にいた学芸員らしき男性が入ってきたのは私が怪しい振舞いに及んでいないかを監視にきたのかもしれないが、解説してくれたり最近の美術界の動向を話すなど打ち解けたもてなしをうけ、満ち足りた気分で美術館を後にした。

 最近の美術展ブームには時代背景があると思うが、「企画展」が主流になっている現状は専門家の選別した『権威』に寄り掛った鑑賞姿勢といえないことも無い。偶には混雑していない「常設展」で自分の目で『好みの選別』をしてはどうか。又有名作品の複製画よりも素人の本物の方が迫力があるから、街の画廊でやっている素人の展覧会などにも足を運び、気に入った作品があれば購入するのもよろしいのではないか。

 少し前漱石の「明暗」と川端康成の「眠れる美女」を読んだが、独断と偏見を恐れずに述べれば「明暗」は明治末期の風俗小説に過ぎないし「眠れる美女」は失敗作ではないかと思った。語彙の選択と文体に乱れが目立つ乱雑なものだし、それ以上に、老人の性に対する悪意ある偏向に作者の病的な苛立ちを感じた。(想像するに精神に異常を来たしていたのではなかろうか。)

 美術展ブームの先に時代の要請に応えた「新しい心の時代」が展けるのではないかと期待している。

2011年1月24日月曜日

いのち

 寛平ちゃんが帰ってきた。マラソンとヨットで約4万1000キロを「アースマラソン」した彼は世界で一番『地べたと話をしたひと』かもしれない。兎に角凄いの一語である。皆がそう思っているのだろう、だから21日の夜大阪城ホールで寛平さんを迎えた吉本若手タレントを写したスポーツニッポンの写真は素晴らしかった。損も得も無く唯々称賛と尊敬と愛情に満ちた眼差しで彼を見つめる若手の無垢な表情は心を柔らかく温かくしてくれた。

 TVディレクターの和田勉さんが亡くなった。食道上皮ガンと診断されたが手術や延命治療を拒否し病院や老人福祉施設で闘病生活を送っていたが14日80歳で亡くなった。

 2008年の我国の平均寿命は女性が86.05歳で世界一、男性も79.29歳で過去最高を記録した。これはいろいろな条件が整備された結果だが最も大きく貢献しているのが医療の進歩であることは論を待たない。2010年7月改正臓器移植法が施行され年齢制限の撤廃で家族の同意があれば臓器提供が可能になった影響で今後脳死判定での生体臓器移植が増加することは十分予想される。

 「寿命が延びる」という場合の寿命は今のところ「生理的生命」を言っている。しかしそれは「いのち」のほんの一面に過ぎない。生活する人としての生命もあれば社会人としての生命もある。「いのち」はそうした多面的な総合体であるはずだ。ところが今までのところ医学の進歩の齎した「生理的生命」が『暴走』している。そのための『歪み』がもう制御できないところまで来ている。超高齢社会のただ中にある我国で『不老長寿』の『完(ま)ったき享受のあり方』を合意することはこれからの世界的な高齢社会のグローバルスタンダードの先鞭となって世界の尊敬を集める「成熟社会日本」の第一歩を踏み出すことになるのは間違いない。

 昨年問題になった「年金不正受給」に象徴される高齢社会の暗部を解決して人類の究極の念願であった『不老長寿』を前向きに評価できる、成長神話を超えた「成熟社会」を実現したいと切に願う。

2011年1月17日月曜日

美術館へ行こう

 最近の美術展ブームは凄い。昨年暮れの上村松園展は行くのを控えたほどの混雑振りであったし、一昨年の阿修羅像展、昨年の「ボストン美術館展」などその盛況振りは枚挙に暇が無い。英アート情報誌「The Art Newspaper」が発表した2009年世界各地の美術館で開かれた特別展1日当たり来場者数調査によると日本の展示会が1位から4位を独占している。1位は東京国立博物館の「国宝 阿修羅展」で1日当たりの来場者数は1万5960人、2位奈良国立博物館「正倉院展」で同14965人、3位同9473人東京国立博物館「皇室の名宝―日本美の華」、4位は同9267人で国立西洋美術館の「ルーヴル美術館展17世紀ヨーロッパ絵画」となっている。
 こうした現象を高齢化による『年寄りの暇つぶし』と決めつけておけないことに気づかしてくれる『啓蒙の書』にであった。

 「オペラをつくる」(岩波新書、武満 徹・大江健三郎共著)のなかで武満徹がこういっている。「今の芸術家の役割は(略)前よりももっと重要になってきている。(略)いま人間がやっと感じはじめたある重要なものを(略)どれだけ次の時代に受け継がせることができるか(略)いちばん純粋な形で人間の想像力とか思想のタネをどういうふうに次の人間社会のなかに植えていくことができるか。そいう役割を芸術家が自覚しなければいけないのでないかと思うのです。」

 我国が大変革期を迎えていることは皆感じている。その期待の現われが「政権交代」であったのだが無惨にも裏切られてしまった。政治の劣化は時代の趨勢に大きく取り残されている。我々が今求めているベクトルは、戦後の驚異的な経済復興達成のあとの虚脱感からどう脱出するかということであり、経済成長だけでは埋めることのできない多様な価値観の実現である。理由のある「格差」や「増税」を受入れる覚悟すら我々にはある。それに応えてくれない政治への諦めと苛立ちが『芸術(美術)』に振り向けられているのではなかろうか。豊穣な芸術には先達の時代に先駆けた『純粋な形で人間の想像力とか思想のタネ』が埋め込まれているのだから。

 美術展の群集は芸術と対峙することで『諦めと苛立ち』の深層の確認作業をしているのかも知れない。

2011年1月11日火曜日

異議あり

 2010年度JRA賞年度代表馬にブエナビスタ号が選ばれた。異議あり?!

 JRA賞年度代表馬とはJRAが「競馬と馬に関する特に優れた業績に対してその栄誉をたたえ感謝の意をあらわす」ために設けられたもので「競馬と馬をファンやマスコミや競馬関係者の方々はもとより一般社会へも広くアピールし競馬の市民性やステータスの向上と馬事の普及を図ることを大きな目的」としたものである。なかでも年度代表馬は最高位の栄誉に叙せられるもので文字通りその年度を代表する競走馬に与えられる。こうした視点から10年は「該当馬なし」が妥当と思っていたが意外にもブエナビスタが他馬を圧倒して(該当馬なし票は僅か2人)選出された。大いに違和感を覚える。

 JRAの競争体系から言えば、「ダービー、春天皇賞、有馬記念」が最高位に位置づけられるレースであり次いで「秋天皇賞、ジャパンカップ(JC)」があり、「皐月賞、菊花賞のクラシックレース」「桜花賞、オークス、秋華賞の牝馬クラシック」を次の位置におき、「エリザベス女王杯、宝塚記念」等のG1レースがそれぞれの競争能力を発現するものとして体系化されている。
 ブエナビスタは今年上記のレースでは「秋天皇賞」の優勝以外ない。全成績をみると今年の宝塚記念と昨年の秋天皇賞、桜花賞、オークスには優勝しているが、有馬記念は昨年今年共に2着に終わっている。今年のジャパンカップは競争妨害で繰り下げの2着になったが、実力的に勝っていたと言う向きもあるが、あくまでも推論であり競馬は結果が全てである。

 これまでの年度代表馬はウォッカやディープインパクトをはじめレース実績はすべてブエナビスタを上回っており、07年度のアドマイヤムーンもJC優勝以外に海外G1(ドバイ・デューティ・フリー、このレースでは次年度ウォッカが敗れている)を優勝しており何らヒケをとるものでない。参考までにJPNサラブレッドランキング(11月9日現在での能力指数)ではナカヤマフェスタの127に対してブエナビスタは121が付けられている。

 ブエナビスタを年度代表馬に選出する「軽薄さ」が有馬記念における外国人騎手による上位独占に批判の声を上げない「競馬ジャーナルの無責任さ」に繋がっている。

2011年1月4日火曜日

今を考える

 明治維新以後我国は先進国に追いつけ追い越せの「キャッチアップ」を推進力にしてきた。お手本があるから、お手本を理解してそれへの実現可能な最適解を導ける少数の人間と効率的な実行部隊が必須であった。中央集権的な官僚組織が有効であった必然性がある。多くない国富を中央政府に集約して殖産興業や富国強兵を成し遂げる必要があった。「戦後の奇跡の復興」にも中央集権的官僚機構は有効に機能したが「世界第二位のGDP」を実現した時、追い越すべき目標が消滅すると共に「大きな政府」は存在価値を喪失した。『政権交代』にはそういう意味があったのだが民主党はそれを理解していないから『ブレ』まくることになる。これからは政府ではなく国民と企業が主役の時代である。

 冷戦時代の終結は「グローバル経済」の幕開けでもあった。先進国の低成長を尻目に発展途上国の高度成長が世界経済を牽引する構図が当たり前になってきた。その入れ替わりの劇的な調整がリーマンショックを引き金とした「金融危機」であり、先進国経済を引っ張ってきた米国の過剰消費の消滅による需要不足を緊急避難的に解消する試みが「貿易拡大策と自国通貨安政策」に他ならない。先進国では格差問題が喫緊の課題になっているがやがては高成長を続けている途上国にも伝播することになり、それは世界に貧困がある限り終わることはない。人件費の安い国を求めて生産拠点を移していく今の生産方法が変わらない限りこれは自明であろう。貧困国救済を真剣に考えることが国内の格差問題解決の近道であることを知るべきである。

 経済のパイが大きくなっていないのに「携帯電話」関連産業が存在感を増している現状は旧産業の一部が停滞していることに他ならず不況の真因はここにある。携帯電話産業を含む情報通信産業は平成20年度で全産業の9.6%の比率を占めるまでに成長している。旧産業は規制と補助金に保護されて新陳代謝が妨げられている現状を大手術しなければならない。痛みを伴うこの作業を国民に受入れさせるためには国会議員の定数削減や議員報酬の減額など、選ばれるものが先ず身を切らなければならないことは明らかである。

 混乱の時代を終息するためには透徹した時代認識と政策を展開するための哲学を先ず提示すべきである。