2011年2月14日月曜日

古稀

 今年古稀を迎える。古稀の原典は杜甫の漢詩にある。
 「曲江 其二」「朝より回りて日々春衣を典し/毎日江頭に酔いを尽くして帰る/酒債尋常行く処に有り/人生七十古来稀なり/花を穿つの蛺蝶深深として見え/水に点ずるの蜻蜓款款として飛ぶ/伝語す風光共に流転して/暫時相賞して相違うこと莫れと」
大意はつぎの通り。「朝廷より退出すると、毎日毎日の衣服を質に入れ、そのたびに曲江のほとりで泥酔して帰る。酒の借金は普通のことで、行く先々にできている。人生七十才まで生きることが昔からめったにないから、今のうちに存分に楽しんでおきたいのだ。(略)さあ自然よ、暫くの間は私と共にこのよい季節を楽しもうではないか」。
 
漢詩にみる中国の人たちの考え方は儒教の本場であるにもかかわらず、概して「快楽主義」に徹しているように窺える。一方我国の先人たちは「生真面目」で、たとえば吉田兼好「徒然草・第七段」はこんな具合である。
 「(ものに終りがないとしたら)いかにもののあわれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ。(どんなにか深い情趣もないことであろうか。この世は不定であるからこそ、すばらしいのだ。)(人間ほど長生きするものはない。満足せずに生きているならば)千年を過ごすとも一夜の夢の心地こそせめ。(永久に生きることができないのに生き永らえていれば)みにくき姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ(見苦しくない生き方であろう)。(略)ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあわれも知らずなりゆくなん、あさまし(ただやたら俗世間のあれこれをむさぼる心ばかり深くなって、この世の情趣もわからなくなってゆくのは、まったくあさましいことである)。」

 人生僅か五十年の頃のはなしとはいえ淡白すぎないか。仏教に深く影響を受けていた兼好だから「諦観」することが『かっこいい』というところがあったかもしれない。いずれにしても日本人は外来思想を『純化』しすぎる傾向が強い。

 現在の「中国脅威論」は『強面』の下の「中華を貫かねばならない強がり」の側面を見落としている。

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