2020年6月29日月曜日

歴史の美化

 NHKのドラマ『坂の上の雲』に対してわが国の歴史学者をはじめアジアの諸国からも強い批判のあることを知っている人はどれほどいるのでしょうか。いうまでもなくこのドラマは司馬遼太郎の同名の小説をドラマ化したもですが生前作者は「この作品はなるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品でもあります。うかつに翻訳されると、ミリタリズムを鼓吹しているように誤解されたりする恐れがありますからね」と述べ、各方面から寄せられた原作の映像化の申し出を断り通したことはよく知られています。にもかかわらずNHKはドラマ化を強行したのです。著作権承継者である遺族の了解を得たから問題はないというのがNHKの公式見解ですが同書は発表当初から、歴史観や日清・日露戦争の記述の仕方に多くの問題点が指摘されていました。
 私の周囲にも司馬さんの熱烈なファンが多くいます。しかし残念なことに彼ら(彼女ら)の多くは司馬さんに対して無批判で、むしろ司馬さんの「小説」から歴史を学ぶという読者がほとんどです。しかし司馬さんはジャーナリストであり小説家であって決して「歴史学者」ではないのです。司馬さんは自らの著作の中では独断的に言い切りますが、『日本の朝鮮文化(中公文庫)』という歴史の専門家との対談集では非常に謙虚に語っています、やはり歴史学者の前では言葉を選んでいたのだと思います。
 明治維新はわずか150年前のことですが軍国主義にかじを切った1930年代から第二次世界大戦にかけての異常な教育改変によって歴史的事実が軍部に都合よく歪められました、その当時の「歴史」の多くが今だに「本当らしく」信じられているように思います。いわば「美化された明治維新と日本の歴史」がわれわれ日本人に「受け入れやすい」歴史として通用しているのです。NHKの大河ドラマはその最たるものといっていいでしょう。
 昨年の大河は『いだてん』でした。「東京オリンピック噺」と題して「日本マラソンの父」金栗四三が描かれていましたが、1936年ベルリンオリンピックで日本マラソン初代金メダリストとなった孫禎基についてはまったく触れられていませんでした。孫さんは日本統治時代の朝鮮人でしたから「日本チーム」の一員として出場した日本選手の金メダリストとして我々世代は教えられましたがいつのまにか彼の名はめったに語られなくなりました。NHKもこの件に関しては「頬っ被り」を通したのでしょうがこれも紛れのない「歴史の美化」に他なりません。
 
 子供時分のことでいえば「富岡製糸場」は「女工哀史」とか『あゝ野麦峠』というかたちで教えられたものでした。明治期の紡績業――特に養蚕業と絹製糸業は殖産興業の主要産業としてその多くは国策会社としてスタートしました。明治5年創業の富岡製糸場は世界最大の事業規模で近辺各地の士族や戸長、農工商の娘さんたちが集められ「富岡乙女」と呼ばれる工女として働いていました。労働条件も過酷な一般企業とは異なり「理想的」な工場経営のモデルという採算度外視の実験工場として発足したのです。しかしこうした経営が長つづきするはずもなく経営は低迷、明治26年に民営化されます。これ以後シビアな利潤を追求する前期資本主義的な過酷な労働条件の私企業に変貌、就業する工女も貧困農村層の出身者に置き替わり文字通り「女工哀史」に様変わりするのですが、この状況は大正5年の工場法施行まで変わらなかったのです。
 この富岡製糸場が2014年富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として世界遺産になるのですが、問題はその紹介のパンフレットなのです。そこに書かれているのは創業当時の実験工場であったころの「理想的」な「富岡乙女」に象徴される先進的な労働条件の姿だけが記されているのです。これは紛れもない「歴史の美化」です。前期資本主義の劣悪で不潔な労働者の姿は世界各国どこでも同じで、イギリスでもフランスでもそのあからさまな様子が多くの文学――チャールズ・ディケンズの作品などに描かれています。資本主義の発展過程としてどうしても経なければならなかった「人類の恥ずべき時代」なのです。二度とあのような人権を無視した、資本の論理だけが暴走した時代に逆戻りしないための教訓として、真実を明らかにしてこそ「世界遺産」の価値があるのではないでしょうか。
 
 「歴史の美化」の風潮は最近目に余るものがあります。「奈良監獄」で知られる旧奈良少年刑務所が星野リゾートによって「監獄ホテル」として生まれ変わる計画が進められています。明治41年竣工の奈良監獄は山下啓次郎設計の由緒ある建築物が現存しており重要文化財に指定された秀麗な明治期のレンガ造りの建築美は保存に値するものであることに異論はないでしょう。しかしその歴史を考えるとき、山下の設計に込められた先進的な「更生」思想とは裏腹に治安維持法下の劣悪・過酷な思想犯の収監と取り調べの不条理さは決して忘れられてはならないものです。昨今の厳罰化の傾向は奈良監獄で行われた不条理な拷問が歴史として保存されることによって行き過ぎが矯正されると思うのですが、監獄がホテルに美しく生まれ変わればその記憶が消滅するのではないかとおそれています。
 
 更に「軍艦島」を中心とした「明治日本の産業革命遺産」があります。これについては「戦時中、朝鮮半島出身者が強制的に働かされた」などの異議申し立てとユネスコ登録に反対する韓国の動静がマスコミに取り沙汰されていますが、それ以前に日本国民としても考えてみる必要があるのではないでしょうか。軍艦島が「廃墟ブーム」として脚光を浴びたのはもう二十年以上前だったと思います。1810年ころ端島炭鉱が発見されその良質な石炭を求めて1890年三菱が炭鉱経営に乗り出してから採掘が本格化、最盛期の1960年には5,267人の住む完全な都市として機能していました。石炭産業の斜陽化とともに業績も悪化、1974年閉山、4月には全島民が離島、以後無人島となって今日に至っています。島内には病院・学校は勿論のこと居酒屋や映画館などの歓楽施設、神社・寺院・派出所もあって島の施設だけで全生活が完結する都市でした。
 もし私が廃墟美を求めて軍艦島へ行ったとしたらこんな感懐を抱くにちがいありません。長崎から1時間(今の高速艇で約40分)の孤島に石炭採掘のために送り込まれて三交代で過酷な労働を強いられ、ほとんど本土へ行くこともなく生涯をこの島で終えた人がどれほどいたことだろうか、と。炭鉱といえば強烈に記憶しているのが1959年~1960年の三井三池争議ですが、真っ黒に炭鉱の灰燼に汚れた顔の底からギラギラと浮かび出ている憎悪の眼であり筑豊炭田のドキュメントのタイトルが「緑の地獄」だったことです。朝鮮半島の出身者にどんな過酷な仕打ちがあったかではなく、同胞の日本人労働者に対する「幽閉」にも似た「軍艦島」への閉じ込めと過酷な労働は決して忘れられてはならない現実であったことを知るべきなのです。
 
 コロナ禍で浮き彫りになってきた「格差」。資本の論理の暴走は、後代それを「観光資源」化してきれい事に粉飾できるほど生易しいものでないことを学ぶべきだと思うのです。  
 
 

 
 

2020年6月22日月曜日

2020春GⅠを振り返る

 2020年春のGⅠ競馬もあと宝塚記念を残すばかりとなりました。競馬を始めて57年、高松宮記念から安田記念を終わった時点でプラスを保っていることなどはじめてのことなので驚いています。そのせいもあってか今年ほど競馬を愉しんだこともありませんでした。そこで何がこれまでとちがったのかを振り返ってみようと思います。
 
 馬券の話に入る前に全般的な傾向について記してみましょう。
 (1)短距離志向、(2)高速化、(3)騎手偏重、そして今年だけの特殊事情として(4)無観客競馬、この四っつを強く感じました。短距離志向の最たる象徴はアーモンドアイの安田記念敗退でしょう。中二週の出走間隔(加えて短期放牧無し)とか稍重と出遅れなどが敗因として挙げられていますが最大の原因は「マイル」の安田記念にあったと思います。ア-モンドが負けるならここだと思っていましたからグランアレグリアの単勝もばっちりゲットしました。短距離志向は今に始まったことでなくもう何年も前から、いやずっと前からつづいていますし、わが国だけでなく世界的な傾向でもあります。欧州だけがこうした趨勢に抵抗して重厚な競馬を保っていますから世界の「凱旋門賞」だけは欧州馬が他国馬につけ入る隙を与えないのです。反対に日本馬が香港の短距離GⅠレースを席巻できないのは世界中の短距離自慢がここに集結するからで、そうした傾向のわが国競馬界の意欲の表れが「マイル重賞」重視の姿勢です。JRAでは年間安田記念とマイルチャンピオンSの2レースを古馬混合のマイルGⅠレースとして組んでいますが70回の歴史を誇る安田記念を重んじてか今年は10頭のGⅠ馬が参集しました。マイルのスペッシャリストが出走したこのレースはアーモンド何するもの、というライバル意識剥き出しの厩舎、騎手の気迫がみなぎっていましたからアーモンドといえども決して盤石ではなかったのです。 
 
 高速化はトレセンの整備と馬場の改良、種牡馬の質的向上が相乗効果となって驚くべき進化を遂げています。私が競馬を始めたころのマイルは1分36秒台、2千米なら2分0秒近いタイムがでれば速いといわれていましたが今やマイルは1分30秒台、2千米は1分56秒台になっているのですから大変な進歩です。こうした高速化の最大の原因はトレセンの整備でしょう。中央競馬は長い間東高西低の時代が続きました。ところが昭和44(1969)年栗東トレセンができてから一挙に関西馬優勢の時代に移りこの傾向は今でも続いています。坂路、スイミングプールなどの効果が競走馬の能力向上に絶大な貢献を果たし、育成牧場の登場によって競走馬の馴致・育成システムが完成したといってもいいでしょう。種牡馬の改良と競馬場の高速化が並行して行われることによって日本競馬は「高速化」し、それは必然的に「短距離志向」に向かったのです。見逃してならないのは種牡馬の質的向上と育成技術の改良は競走馬全体の能力を底上げしたことで、今や日本馬の能力は世界レベルに達しています。そうなると馬の能力を余すことなく発揮させることのできる騎手の手腕が問われることになり、上位騎手への騎乗依頼が集中する結果を招いています。現在JRAには約160人の騎手(障害騎手含む)が所属していますが上位10位の騎手の勝利数が約30%、上位20位までで約50%を占めています(年間レース数は約3400レース)。こうした騎手の偏重傾向は「騎手エージェント」の出現によってますます拍車がかかりそうですが日本競馬界の発展に悪影響を及ぼさないことを祈るばかりです。
 
 今年の特殊事情としてコロナ禍による「無観客競馬」という異常事態が起こりました。幸い馬券売り上げは10%以下の売上げ減で止まっていますからご同慶の至りですが、ダービーの勝利馬が広大な競馬場の無音の中、ポツリポツリと歩む姿と勝利の福永騎手が無言で静かにヘルメットをはずして頭を下げ感謝の意を表する姿に限りない寂しさを覚えました。
 しかしマイナス面ばかりではありません。この春三歳クラシックは無敗の二冠馬(コントレイル、デアリングタクト)が牡牝で誕生しましたがこれは1952年のクリノハナ、スウヰイスー以来のことで、そしてコントレイルの勝利は無観客の好結果ではないかという人が多いのです。少し気難しいところがあり大歓声や騒音に苛立つ可能性が懸念されるコントレイルにとって無観客は幸いしたに違いありません。歓声と騒音のないことの影響は特に未勝利や下級条件の競走馬に好結果をもたらしたようで、通常開催で能力を殺がれていた馬が突然能力を発揮したことで大穴をあけ、4月25日には3場で単勝万馬券が5レース、3連単百万円馬券が4レースも出るという珍事を演出しました。調教師のなかにはこのまま無観客がつづけば、というひともいるかもしれませんね。
 
 そろそろ馬券について語りましょう。57年の馬券生活を経て遅ればせながら悟ったことは馬券が獲れるのは4、5回に1回もあれば上出来だということです。競馬場へ行った時なら1日に2レースも獲れることはめったになく、もっぱら場外(リモート馬券)を利用して月に4、5回しか馬券を買わない人なら月1回当たれば幸運ということです。ということはトータルで勝つことを願うなら「理由のある穴馬券」を狙うのが必勝法になります。かといってダービーのようにどうみてもコントレイルとサリオスで鉄板というレースは、獲って損でもいくらかは抑えておくことも必要でわずかでもマイナスを少なくすることで次のレースの資金を確保することが競馬を楽しむためには必要なことなのです。ダービーの馬連、皐月賞のコントレイルの単勝は今までなら手を出さない馬券です。
 
 長年競馬をやっておれば「自分流の馬券術」が身についているはずでその「自分流の馬券術に適したレース」をこれまでの勝ちレースを思い出して見い出すことが必勝法につながるということに気づきました。それを確定して年に何回かあるであろうそんなレースで確実に勝つことが競馬を愉しむ道につながるのではないかと思うのです。しかしどうしても勝てないレースもあるものでそんなレースは遊ぶ程度に控えることが負けを最小限に止める意味で大事なことになります。私はNHKマイルCとの相性が極めて悪くこれまで一度も馬券を的中させた記憶がありません。反対に天皇賞春は滅法強く今年も馬連5,770円とスティッフェリオの複勝830円はきっちりゲットしました。
 注意すべきは「勝馬検討法」と「馬券術」は異なるということです。GⅠレースの勝馬検討でこの春から重要視したのは「過去の全GⅠ~Ⅲ実績」と「近走8、9走のGⅠ~Ⅲレースの実績」でこの二つの要素でまずA~Cにランクづけします。GⅠレースは長年の積み重ねでステップが確定していますからGⅡ、GⅢのステップとしての評価を間違わないこと、GⅡはGⅢより評価が上ということ、GⅠの出走経験はそれだけでも大事だということがポイントです。勝馬候補が決まったら次は馬券にどう絞り込むかの段階に進むわけですが、当該GⅠレースの過去10年で関連性の高いステップレースでの成績を第一のフィルターとして「絞り込み」、さらに当該レースを得意としている騎手、種牡馬などを第二のフィルターとして最終決定します。
 今年春のGⅠレースが上首尾なのは固くても確実な単勝を獲ったこととランクの割に人気の低い馬の複勝馬券が意外に高配当を生んだことにあります。さらに上位ランクの馬連ボックスとAランク馬とBCにランクしたにもかかわらず低評価の馬(10番人気以下)の馬連――AB×XY方式とよんでいます――が2レース引っかかって高配当をゲットしたのも効いています。
 
 結論すると「自分流の馬券術」に合うレースの傾向を発見してそれに合致するレースで勝負する、他のレースは遊ぶレースとして投資を手控える。これが競馬を愉しむ近道だということを気づかせてくれた2020春GⅠロードでした。
 自分流で宝塚記念を大いに愉しみましょう。
 

2020年6月15日月曜日

中国脅威論を疑う

(横田滋さんが亡くなりました。安倍総理は「拉致問題解決は私の内閣の一丁目一番地の仕事です」と公言して憚りませんでした。にもかかわらず終始アメリカのトランプ大統領の威光を借りるばかりで身を賭して北朝鮮の金正恩氏と向き合うことはありませんでした。これほどの裏切りはないと思います。拉致家族の皆さんは腸の煮えくり返る思いでしょう。コロナ禍を百年に一度の「国難」と呼ばわりながら、まだまったく解決の端緒も開けていない現状で「国会閉幕」するというのは国民に対する裏切り以外の何ものでもないでしょう。今のわが国の政治家は一体何をするために政治家でいるのでしょうか。)
 
 時折無性に漢詩を読みたくなることがあります。先日も夜中に目が覚めて枕元に置いてある本を読もうと思ったのですがどうも食指が動かない。のこのこ起きだして書架を漁っていると陶淵明詩選(石川忠久編・NHK出版』が目につきました。ベッドに戻ってパラパラとページを開いていると「歳月人を待たず」という雑詩に目が留まりました。
 「(人の命などというものは風に舞う塵のように頼りない。歓楽の機会があればおおいにたのしむべきだ)盛年(せいねん) 重ねては来たらず/一日 再び晨(あした)なり難し/時に及んで当(まさ)に勉励すべし/歳月 人を待たず」。訳をみると「若い時は二度とは来ない。一日に朝が二度くることはない。時を逃さず、十分歓楽を尽くさなくてはいけない。年月は人を待ってくれないのだから」とあって「チャンスを逃さずおおいに遊べ」という意味の詩であると書いてある。わが国では「若い時は二度とないのだから勉強に励みなさい」という意味でこの詩を用いるが間違いである、こうした文章の局解を「断章取義」というと注書きしてありました。ちなみに断章取義(だんしょうしゅぎ)とは、詩や文章の一部を引用して別の意味に使うことです。
 
 中国は儒教の国という思い込みがあって礼儀正しい固い人生を送っていると誤解していますが、実は快楽主義が彼の国の人たちの生活信条とみたほうが真の姿が理解できるようです。インバウンドで大勢の中国の人たちがわが国を訪れるようになってその余りのマナーの悪さに閉口していますが、「旅の恥は掻き捨て」という快楽主義が彼らの生き方と思えば容易に理解できる行儀作法になるわけです。
 こうした生活態度は中国の歴史を少しでも知っておればさもありなんと合点がいくはずで、三千年の歴史は本土中国人と辺境の異民族の絶えざる皇帝の交代の歴史であったのです。夷狄は武器や武具の優勢を誇って侵略と暴威をふるいたやすく『支配』するのですが、治世が長きに及ぶと中国の快楽文化に染まって堕落し、追放されてしまいます。しかし中国人の統治も長つづきせずまた侵略をうける、そんな繰り返しが中国という国なのです。支配層が本国、異民族と移り替わっても一般人民の過酷な搾取に苦しめられる現実はいつの時代も変わらないのです。ならば一時の安寧であってもそれを楽しまない法はない、そんな刹那主義の快楽主義に陥るのも当然の成り行きです。そんな歴史を三千年も甘受してきたのですから今われわれの国を訪れている彼らの振る舞いにも理解が及ぶのではないでしょうか。
 
 こうした中国の歴史は「易姓(えきせい)革命」という歴史観を生み出しました。天は己に代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命〈天命を革(あらた)める〉が起きるという考え方です。王朝が変わって当初は新しい理念をもってまつりごとを行う皇帝も年を経るに従って国民性が快楽主義ですから奢侈を好み賂(まいない)が横行するようになり搾取が過酷になり苛政が人民を苦しめる。異民族の政治も同様でどんなに中国式の文化に染まらないように厳しく行政を律してもいつの間にか快楽に身を委ねて堕落してしまう。こうした支配層の緩みをみて一般人民は長い歴史の教訓からそろそろ王朝が崩壊するぞと身を竦ませていると、遠からず政権交代が起こる。
 
 三千年の歴史を遺伝子に組み込まれている中国人民には「易姓革命」も快楽主義同様彼らの深層心理に埋め込まれた歴史観として現在も息づいていることはまちがいありません。
 
 1949年中華人民共和国が建国され今年で71年、この間中国は驚異的な発展を成し遂げました。最貧国からスタートした国力は今や世界第二位の強国に成長し1人当りのGDPも1万ドルに達しようとしています。年率10%を超える高度成長は沿海部から始まった豊かさを内陸部にまで及ぼそうとしています。しかし14億近い国民にあまねく豊かさを及ぼすためには最低でも6%の成長が必要でそのためには膨大な食糧と原材料の確保が必須の条件です。そのためには国土の維持・拡張が必要であり国富を活用して食糧と原材料を有しているアジア、アフリカなど諸国を「一帯一路」網に取り込む必要がある。物資の輸送には海路が望ましいので「ゴリ押し」で「海の支配」を強行しようとするのです。
 こうした中国支配層の外交戦略をみて多くの人たちは「中国脅威論」を唱えます。しかしこの脅威論は中国共産党と中国人民を混同する誤りを犯しています。
 
 中国共産党員は9千万人といわれています、人口の約6%です。6%の共産党員というエリートが14億人の中国人民を支配するという体制は相当無理があります。それを何とか今日まで維持しつづけてこられたのは高度成長で人民への配分が彼らを満足させていたからです。しかしここにきて富の最適配分の最低限度の6%の成長を維持するのが難しくなってきました。人民への富の配分が減少するのは明らかで1万ドルの1人当りGDPを世界第二位の国力にふさわしい富裕国レベルの2万ドルに高めるのは決して容易い目標ではありません。一方で支配層は国際的地位を誇示するために膨大な軍事力と世界経済支配のため外への富の配分を拡大せざるを得ません。人民の所得は1万ドルの中所得国のレベルで停滞しているにもかかわらず――沿海部と内陸部の格差が放置されたままで国富が国内配分よりも国外への援助支出が増えつづくならば人民の不満は高まるでしょう。数年前まで公表されていた反体制運動は2万件を超えたあたりから公表されなくなりました。今や人民の体制への不満は相当なレベルに達していることが想像できます。
 
 富の配分が国内に十分行なわれている間は少々の格差は抑えられていましたが配分が低下し格差が臨界点を超えたとき、「易姓革命」への期待が高まるのは中国三千年の歴史の必然です。支配層が世界制覇を強行しようとしても人民はそれを許さないでしょう。中国共産党の野望は中国人民が許さないのです。習近平『皇帝』への中国人民の不満の臨界点はもうすぐ沸点に達するに違いありません。それを知っているから支配層は「香港国家安全法」を強権的に成立させたり台湾独立の動きへの武力行使へ傾斜するのです。
 
 中国政府の覇権構想と中国人民の快楽主義にもとづく豊かさの追求はかならず衝突するときが来るはずです。それがいつになるか?そう遠くないのではないか。それが私の見立てです。
 
 

2020年6月8日月曜日

向こう三軒両隣

 アメリカという国はいろいろ矛盾を抱えた傲慢な国だと思いますが民主主義を護るシステムは健全に機能しています。今回の白人警官による黒人市民暴行死事件に関しても、トランプ大統領の軍隊出動発言に対してすぐさま国防長官が反対表明したり、前国防長官マティス氏が「大統領は我々を分断している」と非難するなど指導者の誤りを公然と正す報道に接しますと一種羨望を禁じ得ません。翻ってわが国でもし安倍総理が同種の発言をしたとき防衛大臣が反対表明をするだろうかと想像しますと、まちがいなく彼は総理に同調し官僚は忖度するにちがいないでしょう。こうした表立って権力者に反駁しえない体質は「日本スタイル」といえるかもしれません。
 
 いま世界を席巻しているコロナ禍への対応に関しても、他国のように国権をふるって強制的に国民を従わせる方法はとらず、「自粛要請」という個人の自助努力と相互監視に委ねる方策を取りました。にもかかわらず今のところ感染者数も死亡者数も他国と一桁以上少ない好結果を示しており、安倍総理は「日本スタイル」と誇らしげに語り国民に謝意を表しました。麻生副総理のごときは「国による強制力を用いなくてもお願いだけで〈抑制〉できたのは『民度』にのちがいであって、大いに誇れるところだ」と発言し物議を醸しています。
 
 『自粛』要請があり『巣ごもり』生活がつづくひっそりとした街のすがたがテレビに映されるたびに「向こう三軒両隣――隣組」を思いました。令和になった昨今、戦時中の隣組制度など知っている人はめったに居ないでしょうからウィキペディアをみてみますと「概ね第二次世界大戦中の官主導の銃後組織のひとつで、大政翼賛会の末端組織町内会に形成された戦争総動員体制の具体化されたもの。もともとは江戸時代、村落内・町内にあった相互扶助組織の五人組・十人組の慣習を利用したものである」とあります。実際にどんなことをやったかというと、戦争遂行への団結を高め、住民動員や物資の供出、統制物資の配給、空襲での防火活動を行った一方で思想統制や住民同士の相互監視の役目も担っていたのです。戦後この制度は禁止されたのですが町内会という形で小学校別の行政組織のもとに残っており、回覧板やPTA活動などの組織母体を担っています。テレビにもでてくることがありますが、大抵はお上のいうことを素直にきかない主人公を強制的に従わせようとする意地悪な在郷婦人会のおばさんたちのすがたです。
 今回の自粛下でも、公園で遊ぶ子どもたちを非難したりマスクをしない人をバイキン扱いしたりと、戦前のイヤな「相互監視」システムとしての機能があらわになったことで隣組を思い出したのです。
 
 こうした日本式の「自粛」について6月5日の京都新聞に興味深い記事が載っていましたので引用したいと思います。
 「個人の自助努力と相互監視に頼った日本のやり方は、そこに暮らす人には非常に息苦しい」/会食時には横並びに座り、料理に集中して、おしゃべりは控えめに―。政府の専門家会議が提案するこうした「新しい生活様式」に懸念を抱くのは、東京大の古田徹也准教授(倫理学)。「『新しい生活様式』という言葉は、今後のあるべき生活の形という意味で受け取るのが普通だろう。だが、それは本来、長い年月をかけて形作られていくもの。防疫の専門家にそこまで指図される筋合いはない。『長期的な対策』が必要なら、そのままそう言えばいい」/そもそも“古い”生活様式に根ざす居酒屋などはどうすればいいのか、指針はない。「多くの人に壊滅的な痛みをもたらす対策を『新しい生活様式』のような空虚な言葉で粉飾してはいけない」/「新しい生活様式」は逸脱の許されない「規範」に転じかねない、と古田さんは警告する。「従わない人、従えない人は抑圧される。同調圧力も強まり『自粛警察』に錦の御旗を与えてしまう。相互監視と私的制裁で社会を維持するなら、私たちは深い禍根と傷を残すだろう。仮に感染拡大防止に多少の効果があるとしても、その状況は社会として恥ずべきものだ」(「コロナ禍と文化・相互監視が残した傷」)
 私が特に注目したのは最後の「仮に感染拡大防止に多少の効果があるとしても、その状況は社会として恥ずべきものだ」というところです。安倍さんも麻生さんも「日本スタイル」と胸を張って誇ったわが国の『民度の高さ』が「恥ずべきこと」と考えるひとが居る、ということに驚きを感じたのです。
 
 私が今回の「自粛要請」を許せないのは『補償』に政府が積極的な姿勢を示さないからです。それどころかできることなら「補償なし」ですませられないかという『さもしい』考えがすけて見えるからです。十万円の「特別定額給付金」にしても本当にスピード感をもって実施す気があるなら年金受給者や生活保護受給者などにその給付システムを活用すれば1ヶ月もあればラクラク支給できたはずです。それをあえてやらなかったのは「富裕層の自主返納」を期待したり、そもそも年金は減っていないのだから支給する必要を感じなかったからにちがいありません。その底意地の悪さは申請書様式が「支給を希望しない」「辞退します」という欄を設けチェックするように設定されているところに表れており、その結果「誤記」が多く発生しその確認作業に現場が余計な時間を取られるという失態を呈しているのです。
 必要なところに『補償』を確実に行うことによって『倒産』を防ぎ『雇用』を守る、これがこうした経験したことのない未曾有の緊急事態に『国』のとるべき最低限の対応です。経済危機は「ローカルクライシス」「グローバルクライシス」「フィナンシャルクライシス」の三つの波が襲います。観光、宿泊、飲食、エンタメなどの地域密着産業からグローバル・サプライチェーンの製造業とその下請け企業、最後が金融危機で国家経済が壊滅的打撃を蒙る流れです。
 こうした事態を踏まえて本気で守るべきは「財産もなく収入もない人々の生活と人生」「システムとしての経済」のふたつです。この両立の困難な課題を解決できるのは、「限られた情報で最良の判断を下しうる能力」を有しているほんの限られた人材だけで安倍政権を構成する政治家、官僚のなかにはこうした人材は存在していないように思われます。
 危惧すべきは緊急事態の救済には権力の集中が結果的に起こるために、よほど国民が注意しないと『民主主義の危機』を招くことです。
 
 自粛で危機を回避しようという考え方には『危険性』が潜んでいることを知るべきで、そして、決して世界に誇るべきことではないこと、日本という国は「おかしな国だ」と思われていることを知るべきなのです。
この稿は『コロナショック・サバイバル』富山和彦著を参考にしました
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 

2020年6月1日月曜日

滑稽な人たち

 5月26日の朝刊を見て笑ってしまいました、そして悲しくなりました。「コロナ緊急事態 全国解除」「経済 8月にも全面再開」とあるのですが、それはこちらの勝手であってあちら(コロナ)の事情は一切お構いなしではありませんか。今のところコロナ(新型コロナ感染症)のことはなにも分かっていません。「肺炎」なのか「血栓」が感染症の決定的(重症化)な症状なのかについて明解なこたえは出ていませんし、そもそも感染者の総数すらもいまだに確定されていません。感染者の数が「人口10万人当り0.5人以下」という解除の判断基準となっている感染率も、非常に少ないPCR検査の実行者の感染者が対象ですから検査数が増えれば感染者数がどれほど増えるか判断がつきません。検査数が少なすぎますから「無症状率」がどれほどかも把握されていませんから現在の感染者数が正しい数字かどうか判断できないまま今日まで来ています。
 一番確からしいのは、「昨年の死亡者数と今年の死亡者数」を比較して有意の差が認められればその数がコロナ感染症で亡くなった人数であると類推できることで、加えて「肺炎で亡くなった人の昨年と今年の比較」をすればより確かなコロナ感染死亡者数が確定できるのです。死亡者数の確定は毎年調査されているものですから確実に実行できるはずで速報値でいいから一日も早くこの数字を出すべきなのです。1~5月の数字なら6月末にも速報値は出せるはずで、この「もっとも確からしいデータ」に基づいてわが国での新型コロナ感染死亡者数が把握できない限り「コロナの実態」はだれにも判断できないはずです。にもかかわらず「全国解除」だの「経済 8月にも全面再開」などと国の偉い人たちが真面目な顔で「宣言をのたまう」から笑ってしまう以外に反応しようがないし、まったく無能なわが国の為政者の体たらくを知れば知るほど情けなくて悲しくなってしまうわけです。
 
 経済全面再開、と大見えをきっていますがそうなれば「人の移動」は必須で国外の移動に「非感染証明」はどの国も要求するに違いありません。今のわが国の体制でそれに応えられるでしょうか。1日の検査数2万件と安倍さんは公言していますがいまだに6千件とか8千件しかやれていません。経済全面再開ともなれば5万件前後の検査が必要になるでしょうがその体制があと2ヶ月で整うとは思えません。なにをもって「経済全面再開」などと号令できるのでしょうか。
 第2波第3波の流行が必至といわれていますがマスク、防護服、フェイスシールドなどの医療資源の調達は可能なのですか。検査機器と試薬は十分に確保できるのですか。ワクチンと治療薬の開発体制と予算は十分の備えがされているのでしょうか。
 なにひとつ「現状把握」も「備え」もできていないのにどうして国民に責任をもって「解除宣言」できるのか、おかしくてやがてかなしいという以外に言葉がないではありませんか。
 
 そもそも「ポストコロナの新しい生活様式」を声高に国民に圧しつけながらどうして「新橋」や「淀屋橋」の出勤の混雑はあんなに酷いままなのでしょうか。あのあたりは官公庁か大企業がほとんどのはずで彼らが率先垂範して「お手本」を示さなくてどうして一般庶民に従えと強制するのですか。新しい生活様式でテレワークやオンライン授業が推進されそうですがIT環境はそれに耐える体制になっているのでしょうか。相当な情報量が流通するようになりますが5G対応も含めてハードの整備は十分に整っているのでしょうか。企業活動が日常的にオンラインで行われるようになればハッキングの危険性はこれまでとは比較にならないほど高まりますがわが国の体制はそれに耐えられるほど高度化されているとは思えません。
 
 安倍総理は「わずか1ヶ月半で流行をほぼ収束させることができた」と誇りましたが彼はいったい何をやったのでしょうか。宣言下での出来事については「まだ検証する段階ではない」と語りましたが、検証なしにどうして次のステップに移れるのでしょうか。「医療と雇用は絶対に守ります」と公言してはばかりませんが補償には消極的で倒産、特に中小企業の倒産は年内相当数に上る可能性が高いはずです。統計上現れてくる倒産以外に自主廃業、清算が小企業で、特に地方で多いのではないかと危惧しています。
 職業政治家の二世やぬくぬくと育った私企業の二代目の多い現在の政治家には到底想像もできないでしょうが「起業」の大変さは並み大抵のことではありません。血の汗を流してようよう立ち上げた商売を、自分の不始末ではないのに――銀行や大企業には厚い補助があるのに――十分な補償のないままに倒産の憂き目にあう口惜しさは想像に難くありません。一旦つぶした会社をもう一度立ち上げるなどということは余程精神力と周りの応援がなければ絶対不可能で、そうでなくても地方の衰退が心配されていたところにこの仕打ちではますます地方が疲弊してしまうのは確実です。
 雇用は守りますと高言してはばからない安倍総理ですが、中小企業の倒産をなす術もなく見捨てておいてどうしてそれを保障することができるのでしょうか。そもそもわが国の企業総数に占める大企業の割合は0.3%にすぎません、ほとんどが中小企業で85%近くが小企業です。特に地方はその比率が高く中小企業をどう守るかがわが国の雇用維持の要諦といっても過言ではありません。日本の経営者はアメリカやヨーロッパの企業ほどドラスティックに「首切り」をしませんから3千万人とか4千万人という失業規模には達しませんが、昨今の非正規雇用の多い雇用情勢では表に出ない失業で社会が疲弊してしまわないか心配です。
 
 そもそもわが国の新型コロナ禍は『人災』なのではないでしょうか。WHO(世界保健機関)は今年1月初めには新型コロナ感染症を把握していましたから連絡はあったはずです。中国が海外への団体旅行を禁止したのは1月末でした。どうしてこのとき、中国からの渡航を全面禁止しなかったのでしょうか。五輪の延期決定は3月24日で緊急事態宣言が発令されたのは4月7日でした。
 中国からの渡航禁止を早期に実施できなかったのは4月に予定されていた習近平主席の来日を考量してのことでしょう。緊急事態宣言の発令を躊躇したのはコロナ禍を甘く見て五輪開催を優先したからということは容易に想像できます(この点では安倍さんも小池さんも同罪です)。
 もし1月末に中国との交流を断絶し緊急事態宣言を早期に発令していたら、今ほどの犠牲を出さずにコロナとの戦いを終息できた可能性が高かったと想像できます。
 どう考えてもわが国のコロナ禍は『人災』です。
 
 安倍総理は『責任』ということばを度々口にします。しかし言葉だけで「身を切る」責任の取り方を示したことを知りません。3月初めに学校の一斉休校はじまって急落した株価は3月19日16,358円で底を打つと僅か1週間で1万9千円台を回復、5月15日に2万円台に乗せた後順調に上昇基調を保って2万2千円台に届こうかという勢いです。経済が百年に一度の戦後最悪の状態を呈しているのに何故株価だけはこんなに高いのでしょうか。第2波がくるまでにこれまでの経過を検証しなければならないのに、専門家会議の議事録が作成されていなかったことが明らかになりました。
 言葉は空疎、数字はデタラメ、記録は不完全。これがあるべき国のかたちとはとても思えません。
 
 やっぱり「知識偏重」で「理想」を教えなかった『70年代教育』がまちがっていたのでしょうか。