2020年6月8日月曜日

向こう三軒両隣

 アメリカという国はいろいろ矛盾を抱えた傲慢な国だと思いますが民主主義を護るシステムは健全に機能しています。今回の白人警官による黒人市民暴行死事件に関しても、トランプ大統領の軍隊出動発言に対してすぐさま国防長官が反対表明したり、前国防長官マティス氏が「大統領は我々を分断している」と非難するなど指導者の誤りを公然と正す報道に接しますと一種羨望を禁じ得ません。翻ってわが国でもし安倍総理が同種の発言をしたとき防衛大臣が反対表明をするだろうかと想像しますと、まちがいなく彼は総理に同調し官僚は忖度するにちがいないでしょう。こうした表立って権力者に反駁しえない体質は「日本スタイル」といえるかもしれません。
 
 いま世界を席巻しているコロナ禍への対応に関しても、他国のように国権をふるって強制的に国民を従わせる方法はとらず、「自粛要請」という個人の自助努力と相互監視に委ねる方策を取りました。にもかかわらず今のところ感染者数も死亡者数も他国と一桁以上少ない好結果を示しており、安倍総理は「日本スタイル」と誇らしげに語り国民に謝意を表しました。麻生副総理のごときは「国による強制力を用いなくてもお願いだけで〈抑制〉できたのは『民度』にのちがいであって、大いに誇れるところだ」と発言し物議を醸しています。
 
 『自粛』要請があり『巣ごもり』生活がつづくひっそりとした街のすがたがテレビに映されるたびに「向こう三軒両隣――隣組」を思いました。令和になった昨今、戦時中の隣組制度など知っている人はめったに居ないでしょうからウィキペディアをみてみますと「概ね第二次世界大戦中の官主導の銃後組織のひとつで、大政翼賛会の末端組織町内会に形成された戦争総動員体制の具体化されたもの。もともとは江戸時代、村落内・町内にあった相互扶助組織の五人組・十人組の慣習を利用したものである」とあります。実際にどんなことをやったかというと、戦争遂行への団結を高め、住民動員や物資の供出、統制物資の配給、空襲での防火活動を行った一方で思想統制や住民同士の相互監視の役目も担っていたのです。戦後この制度は禁止されたのですが町内会という形で小学校別の行政組織のもとに残っており、回覧板やPTA活動などの組織母体を担っています。テレビにもでてくることがありますが、大抵はお上のいうことを素直にきかない主人公を強制的に従わせようとする意地悪な在郷婦人会のおばさんたちのすがたです。
 今回の自粛下でも、公園で遊ぶ子どもたちを非難したりマスクをしない人をバイキン扱いしたりと、戦前のイヤな「相互監視」システムとしての機能があらわになったことで隣組を思い出したのです。
 
 こうした日本式の「自粛」について6月5日の京都新聞に興味深い記事が載っていましたので引用したいと思います。
 「個人の自助努力と相互監視に頼った日本のやり方は、そこに暮らす人には非常に息苦しい」/会食時には横並びに座り、料理に集中して、おしゃべりは控えめに―。政府の専門家会議が提案するこうした「新しい生活様式」に懸念を抱くのは、東京大の古田徹也准教授(倫理学)。「『新しい生活様式』という言葉は、今後のあるべき生活の形という意味で受け取るのが普通だろう。だが、それは本来、長い年月をかけて形作られていくもの。防疫の専門家にそこまで指図される筋合いはない。『長期的な対策』が必要なら、そのままそう言えばいい」/そもそも“古い”生活様式に根ざす居酒屋などはどうすればいいのか、指針はない。「多くの人に壊滅的な痛みをもたらす対策を『新しい生活様式』のような空虚な言葉で粉飾してはいけない」/「新しい生活様式」は逸脱の許されない「規範」に転じかねない、と古田さんは警告する。「従わない人、従えない人は抑圧される。同調圧力も強まり『自粛警察』に錦の御旗を与えてしまう。相互監視と私的制裁で社会を維持するなら、私たちは深い禍根と傷を残すだろう。仮に感染拡大防止に多少の効果があるとしても、その状況は社会として恥ずべきものだ」(「コロナ禍と文化・相互監視が残した傷」)
 私が特に注目したのは最後の「仮に感染拡大防止に多少の効果があるとしても、その状況は社会として恥ずべきものだ」というところです。安倍さんも麻生さんも「日本スタイル」と胸を張って誇ったわが国の『民度の高さ』が「恥ずべきこと」と考えるひとが居る、ということに驚きを感じたのです。
 
 私が今回の「自粛要請」を許せないのは『補償』に政府が積極的な姿勢を示さないからです。それどころかできることなら「補償なし」ですませられないかという『さもしい』考えがすけて見えるからです。十万円の「特別定額給付金」にしても本当にスピード感をもって実施す気があるなら年金受給者や生活保護受給者などにその給付システムを活用すれば1ヶ月もあればラクラク支給できたはずです。それをあえてやらなかったのは「富裕層の自主返納」を期待したり、そもそも年金は減っていないのだから支給する必要を感じなかったからにちがいありません。その底意地の悪さは申請書様式が「支給を希望しない」「辞退します」という欄を設けチェックするように設定されているところに表れており、その結果「誤記」が多く発生しその確認作業に現場が余計な時間を取られるという失態を呈しているのです。
 必要なところに『補償』を確実に行うことによって『倒産』を防ぎ『雇用』を守る、これがこうした経験したことのない未曾有の緊急事態に『国』のとるべき最低限の対応です。経済危機は「ローカルクライシス」「グローバルクライシス」「フィナンシャルクライシス」の三つの波が襲います。観光、宿泊、飲食、エンタメなどの地域密着産業からグローバル・サプライチェーンの製造業とその下請け企業、最後が金融危機で国家経済が壊滅的打撃を蒙る流れです。
 こうした事態を踏まえて本気で守るべきは「財産もなく収入もない人々の生活と人生」「システムとしての経済」のふたつです。この両立の困難な課題を解決できるのは、「限られた情報で最良の判断を下しうる能力」を有しているほんの限られた人材だけで安倍政権を構成する政治家、官僚のなかにはこうした人材は存在していないように思われます。
 危惧すべきは緊急事態の救済には権力の集中が結果的に起こるために、よほど国民が注意しないと『民主主義の危機』を招くことです。
 
 自粛で危機を回避しようという考え方には『危険性』が潜んでいることを知るべきで、そして、決して世界に誇るべきことではないこと、日本という国は「おかしな国だ」と思われていることを知るべきなのです。
この稿は『コロナショック・サバイバル』富山和彦著を参考にしました
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 

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