2023年8月28日月曜日

井上ひさしの「学校の見方」

  読書の楽しみのひとつに「予想もしなかった発見」があります。たいがいの人は読む前に何かの「目的」や「楽しみ」を期待して本を選びます。ところが読み進むうちに「目的」とは異なった、予想もしなかった「物の見方」――原理や学説、「楽しさ・美しさ」が書かれているのを発見すると嬉しいものです。最近も井上ひさしの『芝居の面白さ、教えます』を読んでそんな経験をしました。

 この本はタイトル通り、芝居の面白さ、楽しさを、真山青果、宮沢賢治、菊池寛、三島由紀夫、安倍公房を具体的なテキストとして井上ひさし流に解きほぐしてくれる体裁になっています。実に取っつきやすく分かり易いのは「講演集」だからでしょうが内容は相当深いところまで踏み込んでいます。

 予想もしなかった発見は井上さんの「教育論」です。

 

 青果のお父さんは自由民権運動の一方の旗頭になるんですね。それで、いまでいう教育長などをさんざんつるし上げ、学校というのは、お上があれを教えなさい、これを教えなさいというやり方でなくて、学校の先生たちが生徒の質や様子を見て、自分たちで教科書を選び、カリキュラムを決める、あくまでもその学校の教育の責任は教員と生徒に任せるべきだ、という運動をやる。/これは当時としてはすごく先鋭的な運動です。文部省(現・文部科学省)が教科書を決めて検定をしたりしているのは日本だけですね。ぼくがよく知っている例でいいますと、オーストラリアは各学校全部教科書が違います。みんな学校の責任で、この子どもたちにはこういう教え方をしたいというふうに先生方が自主的に教科書も時間割も決める。羨ましいのは、一クラス大体三十人くらいで、必ず先生が二人ついている。しかも、必ず男性の教師と女性の教師がペアになって三十人以下の小学生を教えている。ですから、女性の先生が黒板で教えているときに、後ろのほうで男性の先生が勉強が後れている子どもを教えている、そういうふうな教育をやっているわけです。

 

 常々今の学校制度に危機感を抱いています。学校が二つ存在していることです。ひとつは公私の別はあっても「学校法人」――国が「学校」と認めている普通の学校と呼ばれているものです。もうひとつは公式には学校でないのに、ほとんど同じ教育内容(学校の使用している教科書と同じ内容)を子どもたちに「知識技術」として教えている機関、そうです「塾」であったり「予備校」と呼ばれているものです。危機感は、保護者の教育機関としての力点が「非公式」な方に傾いていることです。公式な方は子どもたちに責任を持っているのに対して、非公式な方は最終的には「無責任体制」になっています。

 なぜこういうことになるかといえば、全国一律の「国定教科書」があって、それをいかに効率的に教えるかが学校(含む塾、予備校)の評価につながり、評価基準となっているのは「大学入学率」になっているからです。もし井上さんのいうオーストリアのように三十人学級で男女ペアの先生が教える「公教育制度」であったら、今ほど「非公式」な教育機関への「依存」や「期待」は高まらなかったでしょうに、国は「非公式」な教育機関を野放しにして「公教育」が浸潤されるに任せてきたのです。しかも今の教育制度では責任は「形式的」に「国」が負うことになっていて、先生と生徒(親・保護者)は「国に従属する」しているのです。

 真山青果の父が新しい(先鋭的)教育制度を求めた明治中頃(国定教科書ができたのは明治36年―1903年)から少しも進化していない今の日本の教育制度は完全に行き詰まっています。

 

 ここに青果は入るのですが、これまた二年生の後半ぐらいから学校に行かなくなって小説本を読み始める。これはしょうがないですね。ぼくもよくわかります。つまり、医者になるために勉強しても、同級生たちにはとうてい敵わない。でも、小説ならこいつらよりできるというのがだんだんわかってくるわけです。実は、それが学校の仕事なんですね。学校がみんな一様に勉強をよくできるようにするところだというのは大間違いで、それでは子どもたちが可哀想です。子どもたちにはいろいろな可能性があって、一人として同じ子どもはいないわけですから、集団で暮らすルールを教える以外は学校の仕事ではないのですね。/ぼくの仙台一校時代に藤川先生という地学の先生がいましたが、その先生に「君ね、一学期だけすべての勉強を必死でやりなさい」といわれて、ぼくは真に受けて必死にやりました。そしたら、一所懸命やったにもかかわらず、数学、地学は全然だめでした。数字が入ってくるとだめなんですね。漢文はまあまあで、国語がちょっと良くて。そうやって一所懸命やった結果、自分の中でよくできる科目とできない科目が出てくる。/次の二学期が始まるときに、藤川先生が、この学期は悪い点を取った科目だけを必死になってやれ、と。これまた先生のいうことを聞いて、地学や数学を必死でやったのですが、辛いだけで全然点数が上がらない。すると先生が、「井上君、わかったろう。君の未来はこっちにはないんだ。でも、君が勉強すればするほど点が上がり、勉強するのが楽しいというほうに君の未来はあるのだ」と。これは偉い先生でしたね。

 

 「学校がみんな一様に勉強をよくできるようにするところだというのは大間違い」だという井上さんの指摘は今こそ見直されるべきです。イノベーション力がなければグローバル競争に勝てない、そのためには多様性と創造性が最も尊重されるべきにもかかわらずいまだに「一様に勉強をよくできる」制度のままできているのですから、日本の大学の国際評価が低下しつづけて当然なのです。ノーベル賞受賞者数がアジアで唯一トップ10に入っていますがあと5年もしたら日本から受賞者が出るかどうかは極めて怪しい情勢です。

 最近になって「ギフテッド教育」が注目を集めていますが、これも所詮は「国」が評価基準を定めて選択した子どもたちに特別教育を施すというものですから井上さんのような人は選考から漏れてしまうことでしょう。

 そうではなくて一所懸命頑張って自分で「未来」見出す、そんな学校を作らねばならないのです。

 

 慶応高校が高校野球夏季大会で優勝しました。野球人気が落ちているらしいのですが、今の時代に「ぼうず頭」だけでも能力があっても野球を避ける子どもが多いはずで、その面からも慶応高校の優勝は新しい高校野球のあり方を示しているように感じます。学校も新しくならないと日本の子どもも、世界の子どもも「日本の学校」から逃げ出すにちがいありません。

 

2023年8月21日月曜日

想滴々(23.8)

  10月に金婚式を迎えるということで記念旅行をしようと17日新大阪の代理店へ行きました。15、16日台風のせいで新幹線が運休になった影響を考えて開店30分まえの10時に店に行きましたがさすがにまだ1人も並んでいません。それにしてももの凄い人の数です。お盆旅行最盛期の予期せぬ足止めですから当然のことでJRはどれほどの覚悟でこの措置をとったのでしょうか。

 もとより予定していた30分待ちですから用意の文庫本を読みはじめるとこれが面白くついつい引き込まれてしまって、店内の開店準備の音にフト目を上げるといつの間にか30人以上がグルッと店前を囲んでいました。勿論1番に呼び込まれて希望通りのパックが組めてやれやれと店を出ると丁度6番のひとが呼ばれたところで、11時5分になっていました。なにもかも予定通りで気持ちよく帰途につきました。

 自分で決めた30分といつになるか計算できない「不定」の何時間何分ではまったく受け取り方が異なることが実感できました。いい経験でした。

 

 それにしてもここ数年の異常気象の激甚化と頻発化は常軌を逸しています。国連事務総長が言うように今や「温暖化」ではなく「沸騰化」とよぶのがふさわしい変わりようです。こんな事態になっているのにまだ「成長」と「覇権争い」に耽っている世界の「賢人」たちの頭の中はどうなっているのでしょう。

 40度近い異常高温がつづくなか「熱中症警戒アラート」が毎日にように発出されています(いつのまにか発出になりましたが発令でなぜいけないのでしょうか?こっちの方が好きですね、わたしは)。「どうしても急ぐ用事などがある場合以外は、外出を控えましょう。戸外での運動は、原則、中止や延期をしましょう」と「備え」をマスコミが伝えるなかで「全国高等学校野球選手権大会」は粛々と『強行』されています、主催者(共催ですが)が「朝日新聞社」にもかかわらず。テレビでさかんに「熱中症の危険と恐ろしさ」を訴えている朝日新聞社はほんとうに日本の「クォリティペーパー」なのでしょうか。

 気象台発表の35度はすり鉢状の甲子園球場のグランドでは40度を超えているのはまちがいないでしょう。スタンドだって当然そうでしょうし、応援している人の中には選手の親御さんやおじいちゃんおばあちゃんもおられずはずで、若い選手よりも危険度は数段高いとみるべきです。朝日も高野連も事態の重大さをどのように捉えているのでしょうか。

 わが国はいつになっても「死者」がでるまで法、制度、施策、行事の「変革」に取り組めない『国民性』なのでしょうか。

 

 同じことはわたしのまわりでも起こっています。近くの公園の野球場の管理をもう20年近く務めています(鍵の開閉が主な仕事ですが)。利用者の中には少年野球や中学校の野球部もあります。にもかかわらず京都市はアラートが出ても「使用禁止」しません。市のスポーツ施設ははじめ「教育委員会指導部」のもとに置かれましたが、のち「文化市民局市民スポーツ振興室スポーツ企画課,スポーツ振興課」の管理に移って「京都市体育協会」が一元管理の委託を受けました。平成18年(2006年)に「指定管理者制度」が導入され一部を除いて「民営化」されて今日に至っています。にもかかわらず、市民の安全・安心をつかさどる京都市の公共施設であるにもかかわらず、子どもたちや市民に対する「安全措置」がまったく考慮されていないのです。ここでもまた「死者」が出るまでは「前例踏襲」という『悪弊』がまかり通っているのです。

 まことに嘆かわしい限りです。

 

 さてその野球場の管理人に関してですが、上記の通り最初は体育協会から依頼されてボランティアでした。お金のことなど頭にありませんでしたが「謝礼が出ますので……」と電話があって振込口座を伝えました。勿論「薄謝」でしたがそんなことは関係なく公共の役に立っているというささやかな満足感とまわりの人たちの「ご苦労様です」ということばが張り合いでした。それが「民営化」になって、「薄謝」が少しはましな金額になって、それでもまだ「ご無理をお願いしている」という気配りが担当者にもあって、丁度良い関係がつづきました。 それが10年たち15年過ぎるうちに、担当者も次々と変わって、いつのまにか「ボランティア」をお願いしているから「野球場の鍵の開け閉めのアルバイトのおっさん」に変わってきた、ひがみかも知れませんがそう感じるのです。

 お金は大事なものです、少しでも多い方がありがたい。しかし……。

 

 新渡戸稲造が『武士道(1899年刊行)』でこんなことを言っています。「あらゆる種類の仕事に対して報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行なわれなかった。金銭なく価格なくしてのみなされうる仕事のあることを、武士道は信じた。僧侶の仕事にせよ教師の仕事にせよ、霊的の勤労は金銀をもって支払わるべきでなかった。価値がないからではない。評価しえざるが故であった。この点において武士道の非算数的なる名誉の本能は近世経済学以上に真正なる教訓を教えたのである。けだし賃銀および俸給はその結果が具体的になる、把握しうべき、量定しうべき種類の仕事に対してのみ支払われうる。」

 規制改革の名の下に行われた「民営化」の『弊害』があらわれています、それも決して少なくありません。コロナは大学病院や公立病院の民営化のせいで病床不足やワクチン開発からの撤退がわが国の緊急事態対応の脆弱性を露にしました。国立大学と公立大学の独立行政法人化は基礎研究の軽視につながり結果的にわが国の国際競争力の劣化を招いています。

 

 齢をとってくると社会的なつながりがどんどん少なくなってくるので少々のお金よりも「居場所」があること、人さまに「認められる」ことの方が嬉しくなってきます。何でもかんでも「お金で評価する」のでは世の中「ギスギス」してきまませんか。

 「価値がないからではない。評価しえざるが故であった」という側面のあることを忘れないでいたいものです。

 

2023年8月14日月曜日

二十世紀について

  最近「二十世紀」についてよく考えます。それは私の成長した時代であり学んだ時代でした。そして戦争の世紀だった二十世紀の終焉であり、冷戦の終焉と科学主義と物質主義の終焉でもありました。戦争の時代の終焉は、カントの『永遠平和のために』と日本国憲法「九条」というかたちで捉え、科学主義と物質主義の終焉は中谷宇吉郎の『科学の方法』(岩波新書)のなかの一節が引き金となって「福島原子力発電所事故」というかたちで定着しました。こうした私の思索は『自由からの逃走』(エリッヒ・フロム/日高六郎訳)と『ゆたかな社会』(J・K・ガルブレイス)の二著に邂逅した学生時代の幸運に淵源があります。

 

 私たち世代の学生時代と社会人(企業)生活は幸せだったと思います。就職活動は大学4回生の夏休みから始めれば十分間に合いましたから3年半は勉学とクラブ生活を楽しむことができ、読書と先輩・友人との切磋に耽ることでその後の人生の思想的、人的関係の基礎を築くことができました。社会人となった最初の3年間、企業は養成期間と割り切って存分に「投資」してくれると共に過大な成果を期待しませんでした。企業にはその企業特有の長年の蓄積があり、それが競争力となっていましたからその修得が企業生活をはじめた新入社員の必須の過程だったのです。

 即戦力を求め早期の成果獲得を求める今の企業は他社との比較優位の「蓄積」のないことの裏返しではないでしょうか。

 

 『自由からの逃走』(1941年初版)はナチズムの考察から大衆は自由を享受して自己を実現するよりも「束縛」を求めるものであると分析しています。人類の歴史は「飢餓」と「暴力」からの解放の歴史であった、それにもかかわらず解放され「――からの自由」を享受して新たな「――への自由」を創造する道から「逃走」して再び「束縛」されることを「快感」とする、それが「大衆」であると結論づけるのです。昨今の自由主義陣営のトランプ現象や極右のポピュリズム政党の隆盛は明かに大衆の「自由からの逃走」そのものであり「与えられた自由」を持て余す大衆の醜態を表しています。

 『ゆたかな社会』(1958年刊行1960年邦訳初訳)は当時バラ色の繁栄を誇っていたアメリカ経済の「格差」にもとづく「貧困」を暴露し「貧困との戦い」が今後のアメリカ最大の課題になるだろうと問題提起しました。それは資本主義が基礎的な生活資料の生産だけでは体制維持が不可能であり、消費者に内在する必要だけでなく生産者が広告などで刺戟することで生まれる「欲望」を満たす「商品」を絶えず生産しつづけなければならない経済システムであると喝破したのです。21世紀に展開した「経済グローバリズム」のあくなき「ニューフロンティア」の追求が「成長至上主義」という資本主義の宿命を露にし、結果的に「格差の拡大」と「分断」がもたらした現在の自由主義陣営の「政治的不安定」の原因となっていることを半世紀以上も前に予言したガルブレイスの先見性は今再認識されるべきです。

 

 自由主義陣営の格差拡大と分断は政治的不安定化をもたらし、この間隙を突いた専制主義国家の揺さぶりはアメリカの退嬰も手伝って世界の「無極化」を現出しました。その結果戦勝国家連合である「国連システム」は無力化し中国とロシアの「力による現状変更」に対する防御体制の必要に迫られました。NATOの陣営拡大と米欧中心の自由主義陣営の再編成は「国際緊張」の緊迫化となってウクライナ戦争が勃発するのを防げませんでした。

 

 現在の国際的な緊張を解決するためには迂遠な理想主義の誹りを覚悟してもカントの『永遠平和のために』(1795年)の賢察に従うしかありません。

 常備軍はいずれは全廃すべきである。/常備軍が存在するということは、いつでも戦争を始めることができるように軍備を整えていくことであり、ほかの国をたえず戦争の脅威にさらしておく行為である。また常備軍が存在すると、どの国も自国の軍備を増強し、多国よりも優位に立とうとするために、かぎりのない競争がうまれる。こうした軍備拡張のために、短期の戦争よりも平和時の方が大きな負担を強いられるほどである。そしてこの負担を軽減するために、先制攻撃がしかけられる。こうして、常備軍は戦争の原因になるのである。

 現在のアメリカと中国の軍備拡張競争はまさにカントの「多国よりも優位に立とうとするために、かぎりのない競争がうまれる」という言説の通りであり、経済力の限りない縮小傾向に陥っていたロシアがウクライナに「先制攻撃」を仕掛けたのも「短期の戦争よりも平和時の方が大きな負担を強いられる」のに耐えられなくなったプーチンの決断にほかならないことが分かります。

 カントは常備軍が存在する限り「戦争状態が自然状態」であり、平和は「戦間期」の一時的な状態にすぎない、従って「永遠の世界平和」は人類が「新たに創造するもの」であると結論づけるのです。こうしたカントの冷徹な認識を受け入れるならば「核兵器の抑止力」などという考え方が『詭弁』であることが自明になってきます。

 

 中谷宇吉郎は科学をこう捉えています。

 必ずしもすべての問題が、科学で解決できるとは限らないのである。今日の科学の進歩は、いろいろな自然現象の中から、今日の科学に適した問題を抜き出して、それを解決していると考えた方が妥当である。もっとくわしくいえば、現代の科学の方法が、その実態を調べるのに非常に有利であるもの、すなわち自然現象の中のそういう特殊な面が、科学によって開発されているのである。

 自然科学は、人間が自然の中から、現在の科学の方法によって、抜き出した自然像である。自然そのものは、もっと複雑で深いものである。

 

 原子爆弾は自然現象の中から爆発力の極限を追求した結果生みだされたものですが、それが人間にどんな影響を及ぼすかは研究せずに製造し使用したのです。原子力発電は原爆を「平和利用」したのですが、使用済み燃料棒の消却法も原発の廃棄方法もメルトダウンした原子炉の冷却水の処分方法も確定しないうちに製造、利用したのです。科学の研究としてこれほど「不誠実」で「未完成」なものはありません。理性のある人間ならばただちに廃絶するにちがいありません。

 

 人類はほんとうに進歩しているのでしょうか。

 

 

 

2023年8月7日月曜日

んこさん

  毎朝ベッドで新聞を読むのが習慣になっています。新聞屋さんに無理をいって五時ころまでに配達をお願いしたらいつの間にか朝一番になって今なら四時には新聞受けに入っています。大体四時過ぎに読みはじめて五時半ころ―― 一時間から一時間半かかって読み込みます。そしてつくづく思うのですが、こんなに効率的なメディアはない、と。政治経済社会は勿論のこと文化、スポーツと余すところなく全ジャンルを網羅して硬軟、大小をメリハリ良く編集された紙面をつぶさに読み通せば、大体現在知っておくべき情報のほとんどがゲットできます。テレビは時間が限られていますから情報量もそれに比例したものにならざるを得ませんし、ニュースショーは視聴率優先ですから情報の選択に偏りがあります。今はスマホ時代ですから若い人を中心に情報源はスマホニュースやSNSになりますが、とても全ジャンルを網羅することは不可能ですし、自分好みな選択になりますから「偏り」は排除できません。

 今もっとも危惧しているのは、情報の氾濫と偏りです。確かに一見厖大な情報量が流通していますが一人ひとりが収集できる情報は新聞のせいぜい3頁か4頁分も無いでしょう。政治は見向きもしない、経済はチンプンカンプン、海外情報は興味がない、などなど。大体LINEとゲーム以外は興味がないという若者も多いのではないでしょうか。

 もうひとつ危機感を抱いているのは、バージョンアップと上書きで「最新版」ばかりがもてはやされる風潮です。真っ新ののっぺりした「最新情報」ばかりが流通する社会は浮草のようにどこか危なっかしい不安な状態なのではないでしょうか。

 新聞もテレビも見ない人たちが今以上に増えてきたら、社会としての、国としての「アイデンティティー」はどのようなものになるのでしょうか。

 

 今多くの人が不安を感じているのは止まるところのない「物価高」でしょう。それに追いつけない「給料」は将来不安、いやひょっとしたら明日さえと追い詰められている人も少なくないでしょう。昨日の円相場は142円(/ドル)を超えています。一時日銀が1兆円以上の円買い介入で135円台を回復させましたが市場の力には抗せずズルズルと円安状況に追い込まれて時には145円も何度か経験しています。不思議なことに今でも「円安、株高」が株式市場で通用しているのです。このところ株は3万2千円台を続けており完全に「バブル」です。バフェット指数(時価総額がGDPを超えれば株高とみる)で計れば昨今の時価総額は8百兆円を超えていますからGDP(約6百兆円)を2百兆円以上オーバーしている「完全なバブル」ですがそうした「警鐘」を訴えるメディアも識者もいません。円安による物価高に苦しんでいる多くの国民を犠牲にして「株高景気」を享受している一握りの富裕層がこの国には存在しているという「格差の実態」はいつ、誰が、是正してくれるのでしょうか。

 日銀総裁の植田さんは市場金利の上限を1%まで容認すると市場に声明しました。前の総裁がムチャククチャをやった「後始末」を押し付けられた植田さんは大変な責任を負わされた、その「正常化策」の第一歩がこの「金利操作」ですが、しかし発行量の5割を超えて保有する国債、今や日本最大の株式保有者(7%超)となった株式、これはいずれ市場に放出しなければならないものですがそのとき暴落する可能性の高い国債と株式市場を植田さんはどのようにコントロールするのでしょうか。前総裁はどんな責任を取るのでしょうか。

 

 万博協会(日本国際博覧会協会)が政府に、万博工事従事者の残業規制除外を申請したという記事がありました。『いのち輝く未来社会』をスローガンとしている万博が工事従事者を「過労死」に追い込もうとしているのですからブラックジョークにもなりません。大体「空飛ぶ自動車」以外にこれといった目玉のない万博なんて誰が「待ち望んでいる」のでしょう。

 ニジェールで軍事クーデターが起こったと報じられました。ウクライナ戦争は終結の見通しがたちません。2022年の難民数は6百万人を超えています。世界の国で本当に「平和」と呼べる国はどれほどあるのでしょうか。

 「生死に関わる異常高温」がもう2週間も続いています。世界の至る所で激甚化した自然災害が頻発しています。いつになったら「地球温暖化」に真剣に取り組むのでしょう。国連の事務総長は「温暖化」を「沸騰化」と言っています。ここまで事態が逼迫しているのにやっぱり「経済成長」が『国家目標』でありつづけるのですか?

 高浜原発1号機が再稼働しました。運転開始から50年の日本で最も古い原発が政府の「安全宣言」に後押しされて12年ぶりに再稼働したのですが3.11の教訓はどこへ行ったのでしょうか。まぁ「被爆国」でありながら「核の傘」に守られている「軍事同盟」を強化、拡大しようとしているのですから原発の安全性なんて「当りまえ」としないと政治はできないのでしょう。

 

 人類は進歩しているのか?などと考えながら新聞を読み終えると6時前。やおらベッドを離れて今日の「ウン試し」へ。80才を超えてから「腸力」が衰えてきて朝の排便がうまくいくかどうかが重大な健康ポイントになってきました。まずコップ半分(約70cc)ほどの水を飲む。そして便器に座って腸を目覚めさせるために10回お腹をヘコます。次に3回下腹に力をこめてから腸の最上部を力いっぱい抑え込んで腸を下に引き下げるように力の中心を肛門にずり下げ気張る。んを押し出す感覚です。これが試行錯誤の末あみだした排便法です。今のところこれで起きてスグのトイレは上々です。ただ手を洗っているときに便意がきざすことが少なくありません。ウォシュレットの水流や拭き紙が刺戟になって腸が活性化するのでしょう、便意は大事にして面倒でももう一度便座に座ります。少量でも出ればもうけもんです。一日に便意は3回ほどもようしますがその都度トイレへいくことにしています。

 自分の歯で噛んで食べて、毎日排出する、これが老人にとって最も大事な仕事です。そのためにいろいろ工夫する、軽い下剤(習慣化しない程度の)を使用するのも排除しません。だから朝排便できると「んさん、ありがとうございます」と手を合わせるのです。

 

 新聞と排便。新聞の宅配はあと5年後つづいているでしょうか。自力の排便が死ぬまでできるでしょうか。些細なことですが私にとっては大事なことなのです。