2020年5月25日月曜日

これからの教育はどうあるべきか

 寺田寅彦が「科学に志す人へ」という随筆を書いています。内容をかいつまんでまとめると次のようになっています。
 (1)学生時代の修業がどれだけどう役立つかと考えてみる。――大抵綺麗に忘れてしまったように思われる。――(けれども)講義も演習もいわば全く米の飯のようなもので、これなしに生きて行かれないことはよく知りながら、ついつい米の飯のお陰を忘れてしまって、ただ旨かった牛肉や鰻だけを食って生きてきたような気がするのであろう。(略)入用なときに本を読めば、どうにか分かるようにちゃんと頭の中へ道をあけておいてくれたものはやはり三十年前昔の講義や演習であった。云わば実践に堪える体力を養ってくれた教練のようなものであったのである。
(2)先生方や諸先輩の研究に対する熱心な態度を日常目の当たりに見ることによって知らず識らずに受けた実例の教訓が何といっても最大の影響をわれわれ学生に与えた。――(輪講会で)先生方や先輩達の、本当に学問に余念のない愉快な態度が嬉しかった。――快活で朗かな論争もその当時のコロキアムの花であった。(輪講会〈りんこうかい/コロキウム〉というのは数人から数十人のグループ論文または書籍の内容を互いに発表し合うこと
――学生のいうことでも馬鹿にしないで真面目に受け入れて、学問のためには赤子も大人も区別しない先生の態度に感激したりした。
(3)先生から与えられた仕事以外に何かしら自分勝手のいたずらをした。(略)興味の向くことなら何でも構わずに貪るように意地汚くかじり散らした。それが後年何の役に立つかということは考えなかったのであるが、そういう一見雑多な知識が実に不思議な程みんな後年の仕事に役立った。――勝って放題な色々の疑問を、――自分にこしらえては自分で追求し、――自由に次の問題に頭を突っ込んだのであったか、そういう学生時代に起こしかけてそれっきり何年も忘れていたような問題が、――三十年後の今日ようやく少し分かりかけて来たような気のすることもある
(4)問題をつかまえ、そうしてその鍵をつかむのは年の若いときの仕事である。年を取ってからはただその問題を守り立て、仕上げをかけるばかりだ。(略)それで誰でも、年の若い学生時代から――「問題の仕入れ」をしておく方がよくはないかという気がする。それにははじめからあまり一つの問題にのみ執着して他の事に盲目になるのも考えものではないかと思うのである。
 
 寅彦は1878年生まれ、東大理学部を卒業後物理学者として学究生活の傍ら、夏目漱石の薫陶を受け(熊本の五高で英語教師をしていた漱石に教えられて以来師事)俳人、随筆家として活躍、今に名をとどめています。上の学生時代の追憶にあらわれる学校はいうまでもなく東大になるわけでわれわれ一般人とは比較にならない存在ですが、学校生活の重要な側面を分かりやすく書かれているので引用しました。二十世紀初頭の帝国大学は「エリート」養成が教育目標でありましたから現在の学校(特に大学)の目標としているところとは大きな隔たりがあります。その辺のことは後段にゆずるとして、(1)に書かれている学生時代の学びの意義は今日でも同様でしょう。確かに学んだことがそのまま役立つということはめったにあるものではありませんが、仕事で必要になった本や資料を理解する必要に迫られたとき、学生時代の勉強が有用な力となることはまちがいありません。
 この随筆を引用したおおきな意味は(2)~(4)にあります。学校で学ぶのは知識だけではありません。知識――とりわけ受験のための知識の吸収なら塾や予備校で学ぶ方が近道です。学校教育が大切なのは先生や先輩、同期や後輩の友人たちとの交わりのなかで学ぶ、学問への取り組み方、協働の仕方や友情の育みです。学部や専攻の範囲を超えた学習を周囲の人たちから刺戟を受けるなかで自分の興味にしたがって自主的に行うところにこそ――塾や予備校のように与えられるだけでなく――学校の存在意義があるのです。
 
 現在の学校の学びの目標としているところはどうなっているのでしょうか。戦後教育が大きく方向転換したのは「高度成長時代」であったと思います。特に1970年前後の大学紛争の後、明確に方針転換されました。簡単にいえば「エリート不要」の「社会の歯車」に収まって効率よく組織を動かしてくれる人材の養成が学校教育の目標になったのです。戦後すぐの時代は理想であるとか、正義、平等・公正、博愛などどちらかといえばヨーロッパ的な啓蒙主義的な価値を重んじる教育が行われました。戦争に対する深い反省と民主主義という新たな価値がとても大事にされたことと「マルクス主義」が優勢な哲学としてわが国を支配していたことも影響したでしょう。それが1970年代を境に一挙に「アメリカ志向」に価値転換したのです。成長至上主義が唱えられ平等よりも「競争」が、公平な分配より「自己責任」が優先される社会になりました。社会は不平等でしたが、国の経済が1970年から80年に3.2倍に、80年から90年は1.8倍、90年~2000年は1.15倍に増え30年の間に約7倍(6.89倍)になり、1人当りのGDPは約2千ドルから9千ドル、2万4千ドル、3万6千8百ドルに増加しました。最貧国から2000年には世界第2位の「富裕国」に大躍進したのです。少々の不満はあっても国全体が豊かになるのですから我慢しよう、努力すれば明日はきっと良くなる。全国民が希望をもって国の進もうとする方向に「従った」時代でした。
 
 なぜこんな大躍進が遂げられたのか。それはアメリカというはっきりとした『目標』があったからです。わが国の官僚機構は目標が示されたら世界有数の結果を出します。国民も『お手本』があるとそれに向かって信じられないほどのスピードで上達します。1970年代の教育は『お手本』をいかに効率的に、ひとりでも多く、できれば全国民を一定のレベルに到達できるような教育が求められたのです。国定教科書を充実し、全国一律の「検定試験」で教育レベルを測定し、レベルに応じた高等教育(大学)で学ばせる。そんな教育体制が望まれたのです。
 
 安倍総理は1954年生まれですからまさに70年代教育を受けた第一期生です。彼のコロナ禍で見せた「問題解決能力」はどうだったでしょうか。世界のリーダーと比べて余りにも差のある「無能」振りではなかったでしょうか。コロナ禍のような「未曾有」の有事には70年代教育は「役立たず」なのです。
 これからは『お手本』のない時代です。全国一律ではなく子どもの能力を思いっきり伸ばす教育が必要になるのです。
 
 オンライン教育やリモート学習が脚光を浴びていますがそれは寅彦のいう(1)です。(1)には適したメソッドですが(2)~(4)はできません。そこをどのようにして補っていくかが重要なポイントになります。初等教育では「社会性の涵養」も大切な教育目標です。コロナ禍で日本国民の見せた「協調性」「思いやり」はこれからもわが国の教育の重要な目標として保ち続けてほしいものです。
 
 国のかたちを考えるとき経済封鎖解除後のキューバのまちで市民をインタビュウした番組の「生活は苦しかったけれども病院と学校が無料だったから昔の方がよかったね」という言葉が忘れられません。今のわが国の学費は高すぎます。アルバイトしなければ学校生活が送れないような大学教育のあり方はまちがっています。誰もが意欲と能力に応じて好きな教育が受けられるような日本にしなければポストコロナの時代を生きぬくことはできないのです。
 
 
 
 
 
 
 
 

2020年5月18日月曜日

競馬の勝ち方、愉しみ方

 非常事態宣言が「解除」されましたがほんとうは「緩和」なのです。それを言葉の選択を誤って解除」などというから事態は思わぬ方向に進展してしまうのです。今の政治家がいかに「言葉」に鈍感なのかがこの辺にも表れています。こんな政治家に今以上に「権力の集中」を行えば結果は火を見るよりも明らかです。
 
 では本日の本題に。
 競馬をはじめて57年目にやっと分かったことがあります。なぜそんな正確に年数を数えられるのかといえば、学校をでて社会人になったその年の四月にはじめて東京競馬場へ行ったからです。ちょうどシンザンがダービー馬になった年で第一次競馬ブームのころでした。それまでは麻雀くらいしか賭けごとをしたことはなく、競馬競輪などというものは「博打」そのものだから素人の手を出すものではないと固く思っていたのが、就職した広告会社の寮が国分寺にあって大阪採用の大卒男性約十人が研修期間中その寮に押し込められたことで競馬へのみちが開かれたのです。寮生のなかに京大出のワルがふたりいて、一浪と二浪の彼らは現役卒のウブな私にとってはおっさんそのもののオトナにみえ彼らの誘いを断ることはとてもできず、国分寺の二駅先の東京競馬場に休日の日曜日出かけました。その日は数レースして馬券は当らなかったのですが、以来57年間その魅力にはまって今日に至っているわけです。
 当時の広告会社は興隆期にさしかかっており定期採用、中途採用を問わず京大東大卒を大量採用していました。配属された人事局は局長をはじめ部長、課長、二年先輩のリーダー格までみな東大出身者で占められていました。しばらく同じ職場で仕事をして東大卒の先輩の頭の良さが尋常一様でないことを知りました。京大の頭の良さとは別次元の、異常な記憶力の良さが際立って何度驚かされたか知れません。しかしそれと、仕事ができるかどうかは別物で、中途採用でかき集められて各部署の中間管理職に据えられていた東大京大出の先輩方の評価は決して高いものではありませんでした。国家公務員や大企業の管理部門で活躍されていたにちがいない彼らですが、広告会社という時代の先端を走っていた新しい産業の新しい仕事には即さなかったようです。それが証拠に仕事の関係で付き合いのあった経済企画庁や厚生省の東大出の若い役人は素晴らしい仕事をしていましたから能力に向き不向きがあるということなのでしょう。それとは反対に立教や成蹊大(東京に行くまでは名前すら知りませんでしたが安倍首相の出身校ということで有名になったかもしれません)出身の後輩に秀れた人を見ました。立教の男は才人で成蹊の後輩は発想が実にユニークでした。そんなことがあって世間で言われているほど学校格差はない、それぞれ向き不向きがあって環境に恵まれると思わぬ才能や能力が発揮されるものだ、という「人の見方」が身に付きその後の人生にとても良い影響があったように思っています。出会った人を先入観で判断しない接し方はこの経験が元になっています。
 
 随分余談が長くなってしまいました。本題に戻りましょう。気づいたのは何かといえば、「勝馬検討」と「馬券検討」をごちゃ交ぜにしていたということです。「やっぱりアイツが来たか。そうだと思っていたのになぁ」という嘆きをよく耳にしますし私も何度も口惜しい思いをしてきました。これは勝馬検討では正しい推論――予想をしていたのに馬券を決める際にチョイスする馬を誤ったのです。何といってもお金に限りがありますし配当も気に懸かります。今でこそ3連単100点張りなど珍しいことではなくなってきましたが(それでも1点100円なら1万円ですから)枠連しかなかったころはせいぜい7点ばり8点ばりくらいに絞らざるを得なかったから、勝馬検討で6頭~8頭を選び出せてもそれを馬券に結び付けることは至難の技になるのです。そこに馬券検討の難しさがあります。
 
 馬券予想にはいくつかの方式があり評論家別に方式を選び出すと、まず「大川方式」があげられます。大川慶次郎はオーソドックスな勝馬検討で「パーフェクト予想(全レース的中)」を4度達成した「競馬の神様」と呼ばれた人で、成績、血統、騎手、調教などを総合的に分析する基本的な検討方法です。競馬ファンなら多かれ少なかれ大川方式を採用しているはずです。
 最近ではほとんどの重賞レースで各紙が特集を組む「データ分析」を最初に考案したのが赤木駿介です。1960年代後半に「赤木駿介 重賞レースの傾向と対策」として名声を馳せました。初めて彼の理論に接したときの新鮮な驚きは今も忘れません。これを習熟すればどんな重賞でも獲れそうな気になったのですから愚か者だったのです。
 競馬を文学的に楽しんだのが虫明亜呂無です。もともと競馬は菊池寛や吉屋信子など文人が馬を持ってサロンを形成していましたし、寺山修司、山口瞳などもシンザン時代のマスコミに競馬をテーマに随筆や小説を書いていました。しかし専門紙や一般スポーツ紙に毎週予想を絡ませたコラムを書いた最初の人は多分彼だったでしょう。今も「心情馬券」を買う人は多いと思いますがこの系統の馬券の買い方のひとつです。(虫明は1レース200円の複勝馬券1枚でレースを楽しんだと伝わっています)
 今年のGⅠや重賞に見られる傾向を方式として編み出したのが宮城昌康の「AB―XY方式」です。1番人気馬2番人気馬にブービー人気馬と次に人気のない馬を絡ませて馬券を決定する方式で、XYは必ずしも最低から2番人気3番人気に限る必要はなく、低人気の出走馬を1~2(3)番人気と組み合わせてもいいので、例えばNHKマイルCは1番人気と9番人気、天皇賞は1番人気と11番人気、福島牝馬Sは3番人気と13番人気の組み合わせですから、この方式を上手に使えば穴レースが多いですから5レースに1回、いや10レースに1回でも当たれば「モト」は取れます。
 少し前に亡くなった大橋巨泉の方式は季節別条件別の穴レース発見法で、例えば3才未勝利の夏直前のレースは大荒れと分析していました。3才未勝利戦は2才新馬レースがはじまるころにはレースが無くなりますから関係者は必死で勝ちにかかります、それまでのレース実績とかけ離れたレースをする馬が出てくるというわけです。最近の例では4月25日に3歳未勝利で2回、3歳1勝クラスで1回単勝万馬券が、それらを含めて3連単百万円馬券が4回も出ました。
 最後に最近は騎手で決まるレースが多いということです。NHKマイルも終わってみれば〈デムーロ→ルメール→福永〉で決まりました。外人騎手が有力馬に騎乗したらそれから外人と日本人有力騎手に――川田、武豊、福永に池添か岩田を絡ませておけばGⅠかGⅡの5レースに1回は当り馬券を手にすることができるはずです。
 
 では競馬に『必勝法』はあるのか?あると思いますよ、しかも誰にでも。
 これまで馬券を取ったレースを思い出してみてください、何か傾向はありませんか。牝馬の重賞は勝っているとか、GⅠの特定のレースでよく的中しているとか、必ず自分の得意とするレースがあるものです。ところがそれに気づかずにあれもこれも手を出すからトータル目も当てられないマイナスを出してしまうわけで、自分の得意レースを見出してそのレースを「勝負レース」にしてその他のレースはほどほどにしておけば年間に5、6回も当たれば勝つまでは無理でも負けを少なくすることは決して不可能ではありません。
 
 要するに自分の『勝馬検討法』に向いたレースを見つけるのが『必勝法』です。自分の歴史を見つめなおしておおいに競馬を「愉しんで」下さい。
 
 
 

2020年5月11日月曜日

独裁が国を亡ぼす

 今日は「未熟な政治家に権力を集中するのは危険だ」ということについて語ろうと思います。そりゃあそうでしょう、今回のコロナ禍で見せた安倍首相の体たらくをみれば、いや安倍さんばかりでなく2011年の東日本大震災のときの民主党の菅総理の無能ぶりを考えれば今の政治家の劣化は明らかです。そんな彼らに今以上に国民の主権を制限するような「権力集中」を行なえばロクな結果を招かないことは日本国民ならみなそう思っているのではないでしょうか。彼ら中央の国会議員に比べれば大阪の吉村知事や北海道の鈴木知事の方がどれほど適切な危機対応をみせたことか。確かに感染症対策は韓国の方が数段優れていましたから何らかの「緊急事態条項」を憲法に付け加える憲法改正は必要でしょうが今の政治家にその任を耐える能力はありません。その辺のことに踏み込む前にコロナ禍でどうしても許せないことがあります。
 ひとつは愛媛県新居浜市立の小学校が長距離トラック運転手二世帯の子供の登校を拒否した件です。このなかには新入学の一年生もいてこの子は入学式に出席できなかったことを一生ひきずって生きていくにちがいありません。心無い保護者からクレームを受けた学校が教育委員会に相談して、委員会が騒ぎに拡大するのを懼れ責任を問われることを避けるためにこの措置にはしったにちがいありません。少なくとも教育者の端くれのはずの常識あるおとなが何故このような『差別』を仕出かしたのでしょうか。まちがいないのは、事なかれ主義で『保身』をはかった役人根性剥き出しの輩であることと、自分の子供の安全しか頭にない「自己中」の親だということです。共通しているのは「子ども」のことを一切に見ていないことで、彼らの思考の優先順位には「子ども」は三番目か五番目にしかないのでしょう。
 もうひとつは大阪が新型コロナの中等症患者専門病院に指定した大阪市立十三市民病院の前のバス停からバスに乗り込もうとした病院職員に「コロナがうつるから乗るな!扉を閉めてくれ」と叫んだ乗客の件です。「感染リスクを抱えながら、命を救うためぎりぎりの状態で働いている。どうかやめてほしい」「わたしたちは行き場のない思いをこらえて、目の前のやるべきことと闘っている。あまりに苦しくて悲しい」と訴える記事を読んで胸が痛みました。どうしたらこんな言葉を口にすることができるのか、考えれば考えるほど情けなくなってきますが、「自分も感染者だという意識ですべての行動を考えほしい」という警告を彼らはまったく学習していないことだけは確かです。
 こうした「差別」を聞くとき思い浮かぶのは2011年東日本大震災のとき「福島第一原子力発電所事故」の避難者へ示された偏見や差別です。放射線による健康被害が伝染性でないことは初歩的な知識であるにもかかわらずそれさえも知らず、意味のない不安に駆られて「自己保身」の本能から発せられた偏見と差別は、個人主義と自由主義の権利意識の「はきちがえ」が原因です。
 
 こうした自己中心的な自己保身が怖いのは自分自身は無力だから「守ってくれる他者」を求めるところにあります。わずかな「差」なのにその差を守るために差別して他人を排除し、その「差」を守って欲しいと「力」を頼るのです。そこにつけ込むのが「権力者」で、巧みにすり寄って守るように装って彼らの「基本的人権」を制限し剥奪するのです。しかし奪われた本人は自分がもっていると「思い込んでいる」わずかな「差」が守られていると信じているから、自分の人権を差し出していることに気づかない(フリをする)か目をつぶるのです。かってのナチズムがそうだったように、現在進行中の世界各国のポピュリズム極右勢力の危険性はそこにあるのです。「緊急事態条項」を盛り込んで『憲法改正』を行おうとする一部勢力も同根の姦計といえるでしょう。
 
 コロナ禍で露になったように今の中央の政治家の劣化は目を覆うばかりです。なぜここまで政治家の能力が低下したかを考えると、安倍一強が長くつづいて権力が集中し官僚が政治の膝下に隷従して権力の「指示待ち」が通例化したからではないでしょうか。これは中国にも共通するもので、習近平主席に権力が集中し独裁政治になってしまったために官僚や地方の首長が習主席の強権を怖れ事実の開示に躊躇し、主席の指示待ちを前提として行政が行われています。今回のコロナ禍で武漢で新型コロナ感染の危険性が発っせられたのは2019年12月、WHO(世界保健機関)が公表したのは1月5日で習主席が「武漢封鎖」を指示したのは1月23日でした。この一ケ月の対応の遅れが世界的な蔓延を招いたのは明らかです。
 独裁政治も権力の過度の集中も官僚と行政機構の劣化を招来し国を滅ぼしてしまうということを知るべきです。
 
 コロナ禍のような場合は中央政府が対応するよりも、分権化した地方政治が担当する方が良い結果をもたらします。当然のことで一人あるいは極めて少数の中央官僚(政治家)が解決に当たるよりも、現場に通暁した地方の行政組織の総力を結集した方がより現実的で効果的な解決策を樹立できる可能性は高いのです。国の仕事は水際対策、医療資源の確保、地方に対する財源の供給など基本的かつ国家的な対応に専念すべきで、国民に対する直接的なこと、地域のことは、住民の状況を最も知る自治体の責任とするべきなのです。
 大体現在の税収の国と地方の分配比率が国6に対して地方4というあり方は不自然で支出額の合計は4:6ですから逆転して当然なのです(先進国ではヨーロッパ諸国は5:5に近い配分になっている)。税の中央と地方の配分適正化を早期に図り徴税権をもっと地方に与えるべきです。
 それにしても毎年毎年赤字国債を発行して「平時の財政」膨張を放置している現政権が、なぜ「非常時の財政」に対してこれほどに国債発行を渋るのでしょうか。東日本大震災に際して国は国債の発行だけでなく、所得税や住民税の増税、国会議員や国家公務員の給与削減まで求め、国家を挙げて復興財源の確保に努めたではありませんか(この点だけは民主党政権の方がよかったと思います)。現在の国の状況は東日本大震災時より深刻かつ甚大なことは誰の目にも明らかです。
 中央と地方の関係の修正、政治と行政の力関係の均衡を早急に行わないと日本の国力低下は予想以上に早く来てしまうかもしれません。
 
 コロナ禍が暴いたもうひとつは「市場万能主義」の悪弊と限界です。イギリスのジョンソン首相が「危機が証明したのは『社会』というものが存在するということだ」と語ったように、新自由主義の「市場万能主義」と「自助努力」を世界に蔓延させたサッチャー元首相の「『社会』なんてものは存在しない」という考え方は改められるべきです。医療や教育や交通や上下水道などは「利益第一主義」には馴染まない、社会に属する『公的』なものとして「市場化」してはいけないということを学べば、コロナ禍は日本を今よりもよくする転機に繋げることができるはずです。 
 
 災い転じて福となす、言い古された格言ですがせめてそうしなければこれほどの犠牲が報われません。
 
 
 

2020年5月4日月曜日

 競馬は記憶のゲームである

 
 オリンピックが延期になったりインターハイが中止になったりスポーツイベントが軒並みコロナ禍の被害を受けているなかで競馬はスケジュール通り粛々と開催されている。勿論無観客だが馬券はネットと電話で発売されていて前年比9割近い売り上げで健闘している。コロナ感染症拡大の折から不謹慎の(そし)りもあるやに思うが競馬ファンにはそれなりの言い分がある。まず感染防止に関しては、栗東と美浦のトレセンに競馬従事者が集団居住しているので来訪者の出入管理を密に行えば隔離に近い効果を期待できる。もうひとつJRA(日本中央競馬会)で走っているサラブレッドは「競争に特化して人工的に創造された品種」なので走りを止められると競走馬としての資質が損なわれてしまうのだ。今や春競馬たけなわで5月末のサラブレッドの祭典――ダービーを頂点に毎週GⅠレース(日本競馬の最高クラスのレースで春秋各13年間26レースが組まれている)が予定されていてそれぞれのレースに向かって緻密なスケジュールでベストコンディションで挑めるように調整されている。このスケジュールが期限のない延期や中止にされるとサラブレッドが「壊れて」しまう危険性がある。現在栗東と美浦に所属しているサラブレッドは8000頭を超えており世界でもトップクラスの優秀なサラブレッドを関係者が手を拱いて何もしないで開催中止に追い込まれて壊してしまうよりは、感染防止に最大限備えて開催する方が辛うじて社会的許容範囲にあるのではないか。競馬ファンの勝手な言い分と言われてしまえば一言もないが。
 こんな緊急事態の競馬開催のなかでちょっと気になる噂を聞いた。競馬の最重要プレーヤーに「馬主」がある。日本の競馬はヨーロッパからの輸入であったから最初から「公営」競馬できたが、もともとは馬主同士のステークスが発祥で、ステークスとは馬主が賞金を出し合って競争して勝ったものがその賞金を獲得するというもので、馬主中心で厩舎も騎手も馬主に付属するものだった。それが現代競馬となって――とりわけ戦後のわが国のJRAでは馬主・調教師(厩舎)・騎手の三者鼎立になった。ところが近年競走馬能力が伸長し平準化も進んで騎手の比重が大きくなり、外国人騎手の受け入れも重なって「騎手エージェント」が誕生、ここに至ってその存在感が高まっている。今回の緊急事態を受けてJRAは最少人数で開催する体制を取り馬主の競馬場入場を停止したにもかかわらず騎手エージェントは入場を許されているというのだ。もしこれが本当ならとんでもないことで一頭何千万円、なかには一億円以上という高価な投資を「趣味」でしてくれる「奇特」な馬主という存在があってはじめて競馬は成立するわけでJRAの公正な対応が望まれる。
 
 さて競馬の方だが無観客競馬の思わぬ影響が出ていてその顕著な例が先週の土曜日(4月24日)に起こった。一日に5個の「単勝万馬券」がでたのだ。単勝万馬券などというものはめったにでるものでなくて大体0.8%くらいの発生確率というデータがあるほどで1日に5個というのは前代未聞である。3連単の百万円馬券も4個あって異常といっていい。しかしこれには原因があってまず第一は「3場開催」である。3場開催とは東京地区関西地区と地方開催が重なることで馬と騎手が分散するから通常開催より実力にバラツキがでて勝ち馬検討が難しくなる。特に下級条件(未勝利、1勝クラス)にその傾向が強く24日も未勝利クラスで3個、1勝クラスで1個単勝万馬券がでた。
 さらに無観客のおかげで通常開催では大観客の歓声や騒音に怯えたり集中力を妨げられていた、臆病だったり繊細すぎる馬の弱点が取り除かれて実力が発揮できるという場合がある。今回も繊細な3才牝馬が2頭、3才牡馬が2頭万馬券を演出した。
 
 その土曜日に「福島牝馬ステークス」というGⅢ競争が組まれていた。このレースはGⅠヴィクトリアマイルという4才以上牝馬限定のマイル(1600m)戦の優先出走権を付与されるレースでここ10年で3連単が千円台で収まったのは1レースだけで十万円馬券が3年もある波乱含みのレースとなっている。今年も1番人気のエスポワールの単勝が2.8倍で10倍以下の人気馬が4頭もいて人気がばらけていた。いつも通りGレースの成績を第一検討項目に、近走8レースのステップ分析――特にGレース中心のデータを第二検討項目にして全馬をABCにランク付け、騎手、調教、レース展開で取捨を行った。こうした勝ち馬分析はここ5年ほど馬券購入をGⅠレースに限ってきた過程で案出したもので、競走馬の最終目標がGⅠレースの勝利にあるのだからそのために最適のステップを踏んで目標のレースに臨んでくる。従ってGⅠレースに出走したかどうか、そのためのGⅡ、GⅢでの成績が実力判断の重要な要素となってくる。
 以上の検討の結果、CランクにGⅠ実績だけの評価で16枠ランドネがあった。近走は目も当てられない不調が続いているが3ケ月の休養を挟んで出走してきた。ただ記憶では3才時のクラシック戦線で相当活躍していた様に覚えていてこのメンバーなら当時(2年前の3才時)は格上の存在だったはずだ。早速データを見るとオークスに出走していて紫苑S(G1秋華賞トライアル)で3着、本番の秋華賞でも6着に入っている。まちがいない、この馬の実力はこのレースのメンバーでは格上だ。調教を見てみると4F51.3、1F12.0の抜群のラップをだしている。休養を挟んで体調が一変している可能性がある。問題は騎手だ。西村敦也はまだ三年目で一般の重賞レースすら勝っていない。
 よし!このレースは「見るレース(馬券勝負でない)」だ。ランドネの単複を厚めに有力3頭への馬連を少々買ってランドネのレース振りを見てみよう。
 結果は3番人気のフェアリーポルカが勝って2着に人気薄(13人気)のリープフラウミルヒが入りランドネは3着(16頭中15人気)の大健闘を見せた。3連単228万8千円の大波乱、ランドネの複勝は2,940円の大穴となった。
 
 競馬は記憶のゲームである、とは言い古された格言であるが今でもこの格言は正しい。「2頭出しは人気薄(ランドネは1人気12着だったエスポワールと同厩の角居厩舎所属)」、「レース直前の蹄鉄打ち換え馬は好走(ランドネはレース前蹄鉄を打ち換えた)」などの格言も生きる結末だった。
 
 最後にコロナ禍下のパチンコ店開店と他地域からの大量遊興客について一言。彼らは「ギャンブル依存症」なのだということを理解すべきだ。大阪の吉村知事の彼らに対する厳しい対応は正しいが、それゆえに「大阪万博」の「カジノ解禁」には慎重に対処しなければならないことを知って欲しい。
 
 老いた昨今、記憶が怪しくなってきたが昔のことはよく覚えている。競馬は年寄りに最適のゲームかも知れない。