2020年5月11日月曜日

独裁が国を亡ぼす

 今日は「未熟な政治家に権力を集中するのは危険だ」ということについて語ろうと思います。そりゃあそうでしょう、今回のコロナ禍で見せた安倍首相の体たらくをみれば、いや安倍さんばかりでなく2011年の東日本大震災のときの民主党の菅総理の無能ぶりを考えれば今の政治家の劣化は明らかです。そんな彼らに今以上に国民の主権を制限するような「権力集中」を行なえばロクな結果を招かないことは日本国民ならみなそう思っているのではないでしょうか。彼ら中央の国会議員に比べれば大阪の吉村知事や北海道の鈴木知事の方がどれほど適切な危機対応をみせたことか。確かに感染症対策は韓国の方が数段優れていましたから何らかの「緊急事態条項」を憲法に付け加える憲法改正は必要でしょうが今の政治家にその任を耐える能力はありません。その辺のことに踏み込む前にコロナ禍でどうしても許せないことがあります。
 ひとつは愛媛県新居浜市立の小学校が長距離トラック運転手二世帯の子供の登校を拒否した件です。このなかには新入学の一年生もいてこの子は入学式に出席できなかったことを一生ひきずって生きていくにちがいありません。心無い保護者からクレームを受けた学校が教育委員会に相談して、委員会が騒ぎに拡大するのを懼れ責任を問われることを避けるためにこの措置にはしったにちがいありません。少なくとも教育者の端くれのはずの常識あるおとなが何故このような『差別』を仕出かしたのでしょうか。まちがいないのは、事なかれ主義で『保身』をはかった役人根性剥き出しの輩であることと、自分の子供の安全しか頭にない「自己中」の親だということです。共通しているのは「子ども」のことを一切に見ていないことで、彼らの思考の優先順位には「子ども」は三番目か五番目にしかないのでしょう。
 もうひとつは大阪が新型コロナの中等症患者専門病院に指定した大阪市立十三市民病院の前のバス停からバスに乗り込もうとした病院職員に「コロナがうつるから乗るな!扉を閉めてくれ」と叫んだ乗客の件です。「感染リスクを抱えながら、命を救うためぎりぎりの状態で働いている。どうかやめてほしい」「わたしたちは行き場のない思いをこらえて、目の前のやるべきことと闘っている。あまりに苦しくて悲しい」と訴える記事を読んで胸が痛みました。どうしたらこんな言葉を口にすることができるのか、考えれば考えるほど情けなくなってきますが、「自分も感染者だという意識ですべての行動を考えほしい」という警告を彼らはまったく学習していないことだけは確かです。
 こうした「差別」を聞くとき思い浮かぶのは2011年東日本大震災のとき「福島第一原子力発電所事故」の避難者へ示された偏見や差別です。放射線による健康被害が伝染性でないことは初歩的な知識であるにもかかわらずそれさえも知らず、意味のない不安に駆られて「自己保身」の本能から発せられた偏見と差別は、個人主義と自由主義の権利意識の「はきちがえ」が原因です。
 
 こうした自己中心的な自己保身が怖いのは自分自身は無力だから「守ってくれる他者」を求めるところにあります。わずかな「差」なのにその差を守るために差別して他人を排除し、その「差」を守って欲しいと「力」を頼るのです。そこにつけ込むのが「権力者」で、巧みにすり寄って守るように装って彼らの「基本的人権」を制限し剥奪するのです。しかし奪われた本人は自分がもっていると「思い込んでいる」わずかな「差」が守られていると信じているから、自分の人権を差し出していることに気づかない(フリをする)か目をつぶるのです。かってのナチズムがそうだったように、現在進行中の世界各国のポピュリズム極右勢力の危険性はそこにあるのです。「緊急事態条項」を盛り込んで『憲法改正』を行おうとする一部勢力も同根の姦計といえるでしょう。
 
 コロナ禍で露になったように今の中央の政治家の劣化は目を覆うばかりです。なぜここまで政治家の能力が低下したかを考えると、安倍一強が長くつづいて権力が集中し官僚が政治の膝下に隷従して権力の「指示待ち」が通例化したからではないでしょうか。これは中国にも共通するもので、習近平主席に権力が集中し独裁政治になってしまったために官僚や地方の首長が習主席の強権を怖れ事実の開示に躊躇し、主席の指示待ちを前提として行政が行われています。今回のコロナ禍で武漢で新型コロナ感染の危険性が発っせられたのは2019年12月、WHO(世界保健機関)が公表したのは1月5日で習主席が「武漢封鎖」を指示したのは1月23日でした。この一ケ月の対応の遅れが世界的な蔓延を招いたのは明らかです。
 独裁政治も権力の過度の集中も官僚と行政機構の劣化を招来し国を滅ぼしてしまうということを知るべきです。
 
 コロナ禍のような場合は中央政府が対応するよりも、分権化した地方政治が担当する方が良い結果をもたらします。当然のことで一人あるいは極めて少数の中央官僚(政治家)が解決に当たるよりも、現場に通暁した地方の行政組織の総力を結集した方がより現実的で効果的な解決策を樹立できる可能性は高いのです。国の仕事は水際対策、医療資源の確保、地方に対する財源の供給など基本的かつ国家的な対応に専念すべきで、国民に対する直接的なこと、地域のことは、住民の状況を最も知る自治体の責任とするべきなのです。
 大体現在の税収の国と地方の分配比率が国6に対して地方4というあり方は不自然で支出額の合計は4:6ですから逆転して当然なのです(先進国ではヨーロッパ諸国は5:5に近い配分になっている)。税の中央と地方の配分適正化を早期に図り徴税権をもっと地方に与えるべきです。
 それにしても毎年毎年赤字国債を発行して「平時の財政」膨張を放置している現政権が、なぜ「非常時の財政」に対してこれほどに国債発行を渋るのでしょうか。東日本大震災に際して国は国債の発行だけでなく、所得税や住民税の増税、国会議員や国家公務員の給与削減まで求め、国家を挙げて復興財源の確保に努めたではありませんか(この点だけは民主党政権の方がよかったと思います)。現在の国の状況は東日本大震災時より深刻かつ甚大なことは誰の目にも明らかです。
 中央と地方の関係の修正、政治と行政の力関係の均衡を早急に行わないと日本の国力低下は予想以上に早く来てしまうかもしれません。
 
 コロナ禍が暴いたもうひとつは「市場万能主義」の悪弊と限界です。イギリスのジョンソン首相が「危機が証明したのは『社会』というものが存在するということだ」と語ったように、新自由主義の「市場万能主義」と「自助努力」を世界に蔓延させたサッチャー元首相の「『社会』なんてものは存在しない」という考え方は改められるべきです。医療や教育や交通や上下水道などは「利益第一主義」には馴染まない、社会に属する『公的』なものとして「市場化」してはいけないということを学べば、コロナ禍は日本を今よりもよくする転機に繋げることができるはずです。 
 
 災い転じて福となす、言い古された格言ですがせめてそうしなければこれほどの犠牲が報われません。
 
 
 

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