2015年3月29日日曜日

大学で何を学ぶか

 初対面の人との話の糸口で最も一般的なものは年齢であろう。年齢をとっかかりにして「戦前・戦中・戦後」という大雑把のものから高度成長期の前後など年代の括りでその人の価値観を判断する指標としているのだろう。最近はデフレの前後とか「ゆとり世代」か否かという見方もある。学歴も価値観を判断する有力な情報源になっている。中・高・大という最終学歴とともに「学部」もその人の考え方を知る上で便利なことが多い。文系か理系かではっきり差が出るし同じ文系でも文学部と経済学部では考え方に大きな特徴が出ることがある。
 
 政府の教育再生実行会議が、職業に結びつく知識や技能を高める実践的なプログラムを大学に設けるとの提言を提出した。アカデミックな教育課程に偏りがちな大学を改革し、産業界が求める「即戦力」となる人材を育てる狙いで、社会人の学び直しを後押しして「生涯学習を推進する」ことをテーマにしている。
 この提言には二つの疑問がある。産業界に大きな変化が起こっているのにこの提言はその変化前の産業界の要望を満たそうとしている「時代遅れ」のものである、というのがひとつ。もうひとつは、現在のわが国の閉塞感は政界、産業界、教育界の「哲学」不足に起因しているにもかかわらず、職業実践力という更に哲学から遠ざかる方向に大学という『高等教育』を導こうとしている現状分析の誤りである。
 
 少し前までわが国は深刻なデフレ状況にあり価格競争に重点を置いた企業経営をとらざるを得なかった。なかでも低賃金を求めた工場の海外移転と正規から非正規へのシフトで賃金コストの抑制を図る手法は多くの企業で行われた。こうした雇用政策は技術の継承や社員の社内教育にシワ寄せが及び生産性の低下につながった。しかし今や雇用環境は「人手不足時代」に変化しておりこの傾向は少子高齢化を踏まえて今後趨勢的に継続していくであろうことが予想される。こうした変化を踏まえたときわが国は資源小国として生き残るために優秀な労働力をベースとした高付加価値の製品・サービスを創出する経営への転換を余儀なくされる。企業は収益力の向上のために合理化・省力化投資、老朽設備の更新投資、更にイノベーションを生み出す無形資産や人的資産への積極投資が求められる。一部の企業では既に社員の囲い込みが本格化しており、非正規社員の正規化や女性社員の積極的活用、高齢社員の継続雇用など雇用が多様化している。加えて社員教育の充実も技術の継承と社員の能力アップによる生産性向上に欠かせない状況に至っている。
 社員に要求される能力は基礎的で横断的な能力とその企業独特の特殊なものがある。IT技術や簿記、英会話、MBAなどは前者に属するもので「技術継承」といわれているものは企業独自の能力といえる。大学でできるものは前者に属するものがほとんどであってこれは今までも実施する大学は多くあった。今回の提言のいう「即戦力」的知識・技術がどのようなものか具体的な内容を判断できないが、企業独自の知識・技術は大学では教育研修できないから、結局今までと同じような内容の焼き直しになる可能性が強い。企業が本格的に社員教育に取り組もうとしている現在、大学の実践的プログラムは期待薄である。
 
 グローバル時代に相応しい「国際人」養成は大学が企業に提供できる実践的プログラムの大きなひとつの柱であろうがこれも具体性に乏しい。英会話が達者なことが国際人の必須能力かといえばそうとも言えない。明治以来学者や企業人、政治家が外国人と交わって今日の日本を築いてきたのだが彼らの英会話力は外交官など一部の人たちを除いて今の若い人たちより相当劣っていたに違いない。それでも外国人に伍して世界で太刀打ちできたのは交渉(交際)相手に劣らない専門知識や広い教養を身につけていたからだ。たとえば外国人が日本を知るための基本的な「日本学」書籍―「武士道(新渡戸稲造)」「代表的日本人(内村鑑三)」「茶の本(岡倉天心)」「菊と刀(ベネディクト)」など―は当然彼らとの会話に上ってくるであろうしギリシャ哲学やシェークスピアなどの文学、ベートーベンやブラームスの音楽、絵画など西洋文化の基本的素養。外国人が興味を抱いている日本文化―禅、茶の湯と生け花、浮世絵など―それに日本と世界の歴史など、彼らは世界にまたがる広い教養を有していたから発音は不正確でも外国人と対等に渡り合っていけたのだ。
 翻って今、企業の求めに応じて大学が養成しようとしている「グローバル人材―国際人」は、明治以来第一線に立ってわが国を牽引してきた「日本人」とは余りに「異形」のものであるように感じる。「『国際心』とは『愛国心を拡大したもの』」という新渡戸稲造の言葉(森上優子著「新渡戸稲造」より)さえあることを考えれば国際人の定義をもう一度考え直す必要があるのではないか。今のままでは会議の後のレセプションでギリシャ神話について話しかけられてしどろもどろする姿や禅について滔々と述べる外国人に圧倒されている若き日本企業人しか思い浮かばない。
 そもそも大学で身につけるべきものは「問題解決能力」ではないのか。学生であるうちは親なり教師なりが導いてくれたからそれに従っておれば間違いなかったが、社会に出れば問題と解答を自分自身で引き出さなければならない。そのための「専門的な視点」を大学で、学部で学ぶのだ。ミケランジェロのように無限の能力が具わっておれば全能的な学問で多様な専門性を獲得できるであろうが、我々凡人は専門性ひとつでさえ学問するのは容易でないから何とか一分野の専門領域を修めて大学を卒業し社会人になる。専門的視点があれば問題を発見するにも問題解決にも効果的に取り組める。大学はそうした専門性と幅広い教養を習得する場でなければならない。先の提言はこうした大学の有り方から益々遠ざかっていくように思う。
 
 広い教養と専門性をもった社会人が真剣に取り組むとき、政治も経営も教育も、「哲学」に裏づけされ地に足の付いた揺るぎないものになる、ということに今いちど思いを致すべきである。

2015年3月23日月曜日

認知症について

認知症について
歳をとって
身内に認知症になるひとがでてくるようになって
妻を 認知症になられて 苦労する友人が増えるようになって
 
認知症とは
正常に発達した 大人の脳機能が低下して 生活に差し障りが でてくる
物忘れや 仕事の段取りが悪くなってくる
着替えや意思疎通も難しくなり
徘徊が目立つこともある
 
手にいくつも荷物を持って ドアに鍵を掛けようとして 荷物を落とすことが多くなる
座を立って さて何をしようとしたのか 思い出せない
 
敬老乗車証をもらって あてどもなく 疲れるまで歩きつづけて バスに乗って帰ってくる
歩くことだけが 勝手に足が動いて 頭の中は カラッポ
空気に溶け込んでしまった 『夢中』感
 
早朝 3時か4時ころ
突然 音が絶えて 目覚まし時計の音さえ消えてしまう
鼓動だけが 闇のなかで 息づいている 『無中』感
 
歳をとって
仕事がなくなって
生活の全部が 自分の勝手になって
身の置き処が あやふやに
 
認知症のひとが ひとを殺した という
ニュースを 聞いたことがない
 
貧乏がすべてのはじまりだった
戦争が終って みんなが 貧乏だった
あれから70年
高度成長期を知っている 年寄りは 若い人たちが可哀想だという
でもあれは 異常だった と  
 
毎年給料が上がって 我慢すれば 一戸建ちがもてるようになる ことはもうないかもしれない
みんなが高校へ行って 半分以上が大学へ進む ことはもうないかもしれない
年寄りが年金で20万円以上の収入があって
離婚した母子家庭の母親の収入が 15万円というのは もうなくさなければ
 
みんなが貧乏だったから 貧しさに負けなかった
貧乏だから 分かることが 人生のスタートになる
はじめから 差のある生き方は
どちらも 不幸だ

2015年3月17日火曜日

映画「家族」の訴えるもの

 山田洋二監督の「家族」を見た。昭和45年、炭鉱を閉山した長崎の小島から北海道の酪農地に移住する一家をドキュメンタリー風に追うカメラは最初次男の就職先福山(広島県)へ行く。高度成長期真っ只中の福山は重厚長大産業集積地へ変貌する地方都市の埃っぽい無機質な姿を顕わにしている。父源蔵の余生を託そうとした風見精一だが住宅と自動車のローンで精一杯の弟に無理強いはできず父に北海道への移住を覚悟させる。北海道への汽車行の途次、万博に湧く大阪と成長一途の東京の喧騒に翻弄される精一と民子夫婦は慣れぬ長旅で具合を悪くした娘を手遅れで亡くしてしまう不幸に見舞われる。
 悲しみに耐えながら北海道へ向う車窓には東京圏から僅か数時間しか離れていないにもかかわらず成長から取り残された東北地方の農村風景が映し出される。やっと北海道に着いた精一たちを待っていたのは荒野の開拓地で厳冬の寒さは想像を超えたものだった。そんな不安な精一家族を勇気づけてくれたのは先住の人たちの開いてくれた歓迎会で、その温かさに喜びを溢れさした父源蔵は「炭坑節」を楽しげに歌う。翌朝目を覚ました精一夫婦は大往生の父を見る…。ラストシーンは一斉に花開いた開拓地ではじめて手に入れた仔牛の誕生を喜ぶ精一夫婦の姿で終る。
 
 劇中、東京の公園で豚マンを女店員から貰った孫を「ひとから施しを受けるものではない」と厳しく諭す源蔵のことばにはっとさせられた。生活困窮者を装って生活保護費を不正受給する者が後を絶たずついに過去最高の受給者数を記録したという最近の報道とこの明治人の「矜持」に時代の変遷とその間にわが国を蝕んだ「物質文化」の影響の大きさにたじろがされた。
 しかしいちばん心が痛んだのは東北の田園風景を見せられたときに感じた「地方の疲弊」が45年経った今も全く変わっていないことだった。一部が不通だったJR仙石線が震災から4年経ってようやく全線開通するというJR東日本仙台支社の発表は、もしこれが首都圏のJRであれば半年も経たないうちに復旧されたに違いないだろうし、それについては「受益者負担」であるとか「独立採算」という屁理屈をもちだして正当化するに違いないことも分かっている。
 1962年に策定された第一次全国総合開発計画以来繰り返し「地域間の均衡ある発展」や「地方の活性化」を声高に謳いあげながら結局戦後70年経った今も、アベノミクスの目玉政策が「地方創生」であることに空しさを感じずにはいられない。しかもその掛け声とは裏腹に2020年東京オリンピック・パラリンピック開催が決定しており大阪でもカジノ開発(最近はIR統合型リゾート開発と表現を曖昧にしている)が推進されようとしている。そのためには交通などのインフラ整備を含めて何兆円という資金が必要でその分「地方からの収奪」が行われるわけで「地方創生」の約1.8兆円の予算など霞んでしまうほどの大プロジェクトである。原発の設置地方も沖縄も地方は補助金や交付金漬けで、税と権限を中央官庁が握ったままでは「地方の特色ある発展」など行えるはずもなく『中央集権体制』が厳然と維持されている現状では「地方創生」は掛け声倒れの「アリバイづくり」の何物でもあるまい。
 
 長崎の小島から東北の田園風景、そして北海道の厳冬の曠野がスクリーンに映し出されるのを見ながら「一票の格差」是正を粛々と要求する「大都市の有権者原告団」の何たる『傲慢さ』かと怒りを覚えずにはいられなかった。戦後70年、復興と日本国隆盛のために自民党政権は官僚主導で『経済成長』に邁進してきた。東京が栄えれば地方にも恩恵は波及していく、大企業が成長すれば中小企業にも利益は配分される、と言い募って官僚は「中央集権体制」を推進してきた。そして、地方は、切り捨てられた。これは「官僚の失敗」であり「政治の失敗」である。「消滅可能都市」を生んだのは「官僚」と「政治」である。
 
 映画「家族」を見終わって何という「遠回り」をしたものかと慨嘆におそわれた。「成長」すれば国民が幸福になれると70年信じてきた。「成長」は幸福追求の前提である、と言い聞かされてきた。しかし70年経って日本人は幸福になったのだろうか?70年かけて元の位置に戻っただけではないのか?いや1868年まで後戻りさせられたのではないのか?
 狭い日本、幸せでないところが多すぎる。

2015年3月9日月曜日

老いについての断章

 最近気に入りの章句がある。
 君に庭と書斎があるならもう何もいらない―キケロ
 数年前からの習慣で、父は元日にちょっと私に礼を云う。その時もやった。「だんだん齢をとっていよいよもうろくになって、おまえたちに面倒をかけることもますます多くなった。去年はことに世話になった。今年もまたおまえたちの世話になって。」ここまで云って息を切り、絶句したかたちになった。私は眺めた。血色のいい顔がにこにこしてまっすぐを見ている。だんだんに笑が深くなって、しまいに、はははと屈託無く笑いだし、「や、めでたい、いや、めでたい」と云ってなおも笑った。わたしもつれて笑った(幸田文著『父』―「正月記」より)。
 
 キケロの辞は「じゅうぶん豊かで、貧しい社会(R&Eスキデルスキー共著村井章子訳)」からの引用でこの書のエピグラフ(文書の巻頭に置かれる引用)には「ほんの少しで十分だと思っている人でも、もう十分と思うことはないものだ―エピクロス」という言葉もある。私の現状は庭も、そこそこの書斎も無い生活だがこの齢になると『欲心』が薄れてくる。いやそう言い切ってしまうと嘘になる、毎日でなくていいから旨い酒は飲みたいし美味なものも偶には食したい。しかし別にそれがなくとも不満は起こらない。本を読める視力が保てて疲れたとき気を休め目を愉しませてくれる草花や樹木があればいい。庭は無いが幸い歩けばスグの処に植栽豊かな公園がある、散歩がてらに赴けば運よく小禽(ことり)の囀りを耳にすることもあり気候のよい頃には頬を撫でる微風が心地よく、隣の小学校が授業中なら人影も無く公園は独り占めで我が庭のようなものだ。
 ほんの少し前まで「もっともっと」と我欲に身を苛まれていた。他人(ひと)を謗(そし)ったり足を引っ張ったりして胸がザラついていた。賭事―競馬の刹那の陶酔に身を任せていたこともある。世間は賭事―博打を『悪』だと一言で切り捨ててしまうが事はそれほど単純ではない。その歴史は古代にも遡れるもので呪術的であり祭祀的でさえある。長年の社会生活の便宜主義宗教の力添えもあってタブーとなっているけれど博打をしたいと思う気持ちは本能に根ざして人間の心の奥底に眠っているから「満たされた豊かな社会」になればいつこれが覚醒されるか予断がつかない。今しも「カジノ」解禁が喧伝されているけれども先ず十分な文明論的検討が加えられるべきであって拙速で近視眼的な産業論や地域振興の視点で判断を下せばのちに禍根を残すことになるだろう。
 エピクロスの言は深い。ほんの少しでも『慾』があればその残滓は「もっともっと」を呼び覚ます。余程の覚悟と思い切りをもって慾を手懐(てなず)け宥めながら慾を遠ざけなければキケロの境地には到れまい。
 
 幸田文の章句は父―露伴が晩年に正月の度に娘に漏らした言葉を書き止めたものである。家父長制の時代であり、まして文豪の名をほしいままにし周囲からも相当な尊崇と讃美の礼をもって遇せられていた厳父・露伴がある歳を境にこのような労いと感謝の辞を述べ始めたのだから文には随分戸惑いがあったに違いない。何年経ってもその感が拭えないから「わたしもつれて笑った」になるのだろう。
 それにしても偉い人は軽々と真情が吐露できるものだと感心する。人間七十歳も超えるとどんな男でも、たとえ僅かでも妻や子に負い目があるものだ。しかしそれを云うと贖罪になって自分だけが身軽になれて卑怯ではなかろうかなどと余計なことを考えてついつい口にできないでズルズルと正月を迎えてしまっている。今度の正月にもし妻を労えたら、娘に苦労を償えたらどんなに楽だろうと思うけれど多分今年もそうはなるまい。「小人閑居して不全をなす」はこんな時に使う成句ではないが『小人』という語だけはこのような男に相応しいのであろう。
 
 戦後七十年、まっしぐらに「核家族」に突き進んできた。今更大家族の復活でもあるまいが失ったものの大きさと今の「空々しさ」を秤にかければ、正月に老いたおとこが妻と子に感謝と労いの言葉を交わすような家族の姿に思いをめぐらし「慾」からの解脱が図れれば随分身軽に生きられるようになるかもしれない。
 
 最後にもう一度。「私には庭と書斎があるからもう何もいらない」。

2015年3月1日日曜日

テレビドラマ、ヒットの法則

 大層なタイトルだが要は私の好きなドラマについて書いてみたいと思っただけのことである。今放映中のものでは「DOCTORS 3―最強の名医」と「限界集落株式会社」のふたつを毎週見ている。前者はテレビ朝日木曜9時放送で沢村一樹扮するゴッドハンドの名医が地方の総合病院を舞台にお家騒動がらみの混乱から病院を救う筋立て。もう片方はNHK土曜ドラマで「農業もの」である。
 「ドクターズ」は地方の私立総合病院で、跡取りと目されている院長の甥が手のつけられない「ぼんぼん息子」の我侭放題で病院の勤務医を子分にし難度の高い手術を避けるような風潮に走らせてしまった結果病院の評判を極端に悪くしてしまうのだが、沢村名医が策略をめぐらして医師を改心させ病院を立ち直らせる―まだそこまで話は進展していないが多分そうなるであろう―というストーリーである。
 「限界――」は限界集落に陥った農村をいかにすれば「儲かる農業」に変身させられるかを敏腕コンサルタントと有機農業に打ち込む農家のふたりが主人公になって、老齢化した農民の頑迷な農業経営に意識改革を起こさせ有望な地域特産品の産出へ導く姿を短大を卒業したばかりの娘を舞台回しに達者な脇役を使いドラマ展開していく。
 
 ふたつのドラマの共通点は病院(医療)と農業という「岩盤規制」のある産業を侵食している『腐敗』と『停滞』に焦点を当て、それをいかにすれば改革できるかを若い力やゴッドハンドを引き金として解決に導いていくというスタイルで、これが最近のヒットドラマの『定石』となっている。
 岩盤規制のひとつである「教育もの」の最近の作品には余り興乗りしないが「医者もの」なら同じテレ朝系の「ドクターX]が昨年米倉涼子主演で大ヒットしたしTBS日曜劇場「半沢直樹」は金融界の腐敗を暴いてこれも大ヒットであった。NHK土曜ドラマで斉藤工主演の「ダークスーツ」は経営危機の家電メーカーを従来の垂直型の「ものづくり」経営から「ライセンスビジネス」という新たな分野への進出に導くことで停滞から脱出させようとする家電業界へ「問題提起」したドラマで見応えがあった。
 法曹界のドラマでは木村拓哉主演の「ヒーロー」が検察を舞台にヒットを繰返している。権力に深く根ざした法曹界はキナ臭い不正が幅を利かす業界としてその「停滞」と「腐敗」がドラマに映画に何度も取り上げられ数多くのヒット作を生み出している「定番ジャンル」である。「ヒーロー」は不良少年だった主人公が「高卒認定」を経て司法試験に合格し検事になる。彼の仕事振りは警察からの「調書」にもとづいてデスクワークで案件を処理していく一般の検事のルーティンワーク(多分多くの検事がそうであろう)とは異なり少しの疑問でもあれば現場検証を独自に実施して審理を尽くし調書に潜む「誤認」を明らかにし「正義」を貫くというものでキムタクの颯爽とした演技は壮快でテレビに釘づけになっている。
 
 わが国には「水戸黄門」という「不正暴露ドラマ」の定番がある。黄門様が地方藩に巣食う不正を糺そうとするが多勢をかって悪代官が返り討ちしようとする。そこで最後の手段「葵のご紋の印籠」をかざすとそれまでの騒乱の場が一瞬にして平定され悪代官が縛に付くというマンネリそのものの筋立てであるが、古くは幕末に講談師が「水戸黄門漫遊記」として民衆の人気を博して以来今日まで連綿とつづく大衆ドラマの典型となっている。月形龍之介主演の東映映画が一世を風靡したが映画の最初は有名な尾上松之助が主演しておりテレビドラマでは東野英治郎が長く黄門様を演じていた。
 
 何故このようなドラマがヒットするのか?デフレが長くつづいて閉塞感が横溢する現状は既得権を欲しいままにする既存の組織を徹底的に破壊し組織に巣食う「停滞」であり「腐敗」を打破する以外に『出口』は無いからであろう。そしてデフレ経済の象徴である停滞と腐敗に挑戦する庶民の正義や基盤技術に根ざした地道な技術開発が「現在の御印籠」として設定され「権力側」に敢然と挑む「弱い庶民」や「一匹狼の超能力者」の姿に視聴者は鬱憤を晴らし「快感」を覚えているがそれが一時の「現状逃避」に過ぎないことは彼らが一番よく知っている。
 
 庶民は映像という「仮想空間」ではなくデフレを「転換」し少しでも明るい未来が見通せる社会の実現を政治に期待している。