2015年3月17日火曜日

映画「家族」の訴えるもの

 山田洋二監督の「家族」を見た。昭和45年、炭鉱を閉山した長崎の小島から北海道の酪農地に移住する一家をドキュメンタリー風に追うカメラは最初次男の就職先福山(広島県)へ行く。高度成長期真っ只中の福山は重厚長大産業集積地へ変貌する地方都市の埃っぽい無機質な姿を顕わにしている。父源蔵の余生を託そうとした風見精一だが住宅と自動車のローンで精一杯の弟に無理強いはできず父に北海道への移住を覚悟させる。北海道への汽車行の途次、万博に湧く大阪と成長一途の東京の喧騒に翻弄される精一と民子夫婦は慣れぬ長旅で具合を悪くした娘を手遅れで亡くしてしまう不幸に見舞われる。
 悲しみに耐えながら北海道へ向う車窓には東京圏から僅か数時間しか離れていないにもかかわらず成長から取り残された東北地方の農村風景が映し出される。やっと北海道に着いた精一たちを待っていたのは荒野の開拓地で厳冬の寒さは想像を超えたものだった。そんな不安な精一家族を勇気づけてくれたのは先住の人たちの開いてくれた歓迎会で、その温かさに喜びを溢れさした父源蔵は「炭坑節」を楽しげに歌う。翌朝目を覚ました精一夫婦は大往生の父を見る…。ラストシーンは一斉に花開いた開拓地ではじめて手に入れた仔牛の誕生を喜ぶ精一夫婦の姿で終る。
 
 劇中、東京の公園で豚マンを女店員から貰った孫を「ひとから施しを受けるものではない」と厳しく諭す源蔵のことばにはっとさせられた。生活困窮者を装って生活保護費を不正受給する者が後を絶たずついに過去最高の受給者数を記録したという最近の報道とこの明治人の「矜持」に時代の変遷とその間にわが国を蝕んだ「物質文化」の影響の大きさにたじろがされた。
 しかしいちばん心が痛んだのは東北の田園風景を見せられたときに感じた「地方の疲弊」が45年経った今も全く変わっていないことだった。一部が不通だったJR仙石線が震災から4年経ってようやく全線開通するというJR東日本仙台支社の発表は、もしこれが首都圏のJRであれば半年も経たないうちに復旧されたに違いないだろうし、それについては「受益者負担」であるとか「独立採算」という屁理屈をもちだして正当化するに違いないことも分かっている。
 1962年に策定された第一次全国総合開発計画以来繰り返し「地域間の均衡ある発展」や「地方の活性化」を声高に謳いあげながら結局戦後70年経った今も、アベノミクスの目玉政策が「地方創生」であることに空しさを感じずにはいられない。しかもその掛け声とは裏腹に2020年東京オリンピック・パラリンピック開催が決定しており大阪でもカジノ開発(最近はIR統合型リゾート開発と表現を曖昧にしている)が推進されようとしている。そのためには交通などのインフラ整備を含めて何兆円という資金が必要でその分「地方からの収奪」が行われるわけで「地方創生」の約1.8兆円の予算など霞んでしまうほどの大プロジェクトである。原発の設置地方も沖縄も地方は補助金や交付金漬けで、税と権限を中央官庁が握ったままでは「地方の特色ある発展」など行えるはずもなく『中央集権体制』が厳然と維持されている現状では「地方創生」は掛け声倒れの「アリバイづくり」の何物でもあるまい。
 
 長崎の小島から東北の田園風景、そして北海道の厳冬の曠野がスクリーンに映し出されるのを見ながら「一票の格差」是正を粛々と要求する「大都市の有権者原告団」の何たる『傲慢さ』かと怒りを覚えずにはいられなかった。戦後70年、復興と日本国隆盛のために自民党政権は官僚主導で『経済成長』に邁進してきた。東京が栄えれば地方にも恩恵は波及していく、大企業が成長すれば中小企業にも利益は配分される、と言い募って官僚は「中央集権体制」を推進してきた。そして、地方は、切り捨てられた。これは「官僚の失敗」であり「政治の失敗」である。「消滅可能都市」を生んだのは「官僚」と「政治」である。
 
 映画「家族」を見終わって何という「遠回り」をしたものかと慨嘆におそわれた。「成長」すれば国民が幸福になれると70年信じてきた。「成長」は幸福追求の前提である、と言い聞かされてきた。しかし70年経って日本人は幸福になったのだろうか?70年かけて元の位置に戻っただけではないのか?いや1868年まで後戻りさせられたのではないのか?
 狭い日本、幸せでないところが多すぎる。

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