2011年9月26日月曜日

野田総理へ贈る書

 フリードリッヒ・ニーチェはものをきちんと読み取る能力の価値を説いてやまなかった。彼は「遅読」の教師を名乗り、これはスピードにとりつかれた時代の本性に刃向かうことだと考えていた。ニーチェにとって、精読は近代性に対する批判なのだ。言葉そのものの感触や形に注意を払うことは、言葉をただの道具として扱うのを拒むこと、ひいては、言語が商業と官僚主義のせいで、薄っぺらな紙のように磨り減った時代を拒むことだ。
 古代ギリシャ・ローマ時代の「レトリック(弁論術)」は(略)テクスト的な意味と政治的な意味、(略)すなわち文彩(言葉のあや)や比喩の研究と説得的な弁論の技術の両方をもっていた。(略)弁論術はどんな言語の様式であれ、それを使ってコミュニケーションを成功させるための手続きを明らかにする、一種のメタ談話だった。文体上のさまざまな戦略を研究するのは、政治的な目的のためであり、各個人が弁論を実践するとき、それらの戦略をいかに効果的に活用するかを学ぶためなのだ。優雅な話し方と賢明な考え方とは、密接に連動するものと思われていた。美的な誤りは、政治的な誤算につながりかねない。

 これは「詩をどう読むか(テリー・イーグルトン著・川本皓嗣訳/岩波書店)」からの抜粋である。
 思うに、政治的情熱を思索で熟成させ「ひらめき」や思いつきとして芽吹いたものを推敲するとき、政治理念や政策に醸成される過程と表現する「ことば」が凝縮する過程は表裏一体のものとして存在するのであろう。ところがひらめきや思いつきを官僚に成文させると、言葉が薄っぺらな単なる道具として使用されるために『官僚作文』になり下がってしまうのだ。

 最近の日本国総理や政治家の『言葉の軽さ』は、政治的過程と言葉は別物であり言葉は単なる表現手段であると考えていたに違いない、その結果理念や政策も『生煮え』の未熟なまま世論の揺らぎとともに容易く変形する代物でしかなかったのだ。

 演説は辻立ちで鍛えた上手な人といわれている野田総理だが、所信表明も国連演説もその評価に値するものとはなっていない。彼が本物の演説の名手となり日本国を国難から救う名宰相となることを願って「詩をどう読むか」を贈りたい。

2011年9月19日月曜日

上沼恵美子の見識

 「断腸亭日乗」(永井荷風の日記)にこんな記述がある。「(大正十二年)十月三日(9月1日に関東大震災があった)。(略)午後丸の内三菱銀行に赴かむとて日比谷公園を過ぐ。林間に仮小屋建ち連り、糞尿の臭気堪ふべからず。(略)帝都荒廃の光景哀れといふも愚かなり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、いはゆる山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。(略)この度の災禍は実に天罰なりといふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ国帑また空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即かくの如し。自業自得天罰覿面といふのみ。」

 何とも激烈な慨嘆ではあるが、東日本大震災から半年を過ぎて未だに「百年の計」が提案されず復旧復興の端緒にもつけずにいる国民の心情を代弁して余りあるといえないか。東電が原発事故の本補償の手続きを開始したが補償金請求書の煩雑さは被災者無視も甚だしく、悲しく空しい。補償作業がこのまま東電ペースで続くのならこの国はもう「国民の生命と財産を守る」という国家の態を成していない。
被災者の立場に立った「百年の計」は一体何時になったら提示されるのだろうか。

 閑話休題。上沼恵美子が「上沼・高田のクギズケ」という番組でキレまくる場面を見た。この番組は芸能ネタを中心としたテーマを5、6人のパネラーが解説し、にぎやかしに配された2、3組のお笑いタレントが番組を盛り上げていくという構成になっている。先日松尾某というタレントが出演した時「アンタは一体何もんナンヤ!」と上沼がキレたのだ。番組的には「にぎやかしのお笑いタレント」として配された彼は、これまで何度か出演しているがパネラーを差し置いて知識や薀蓄を語ったことが度々ありその都度上沼は注意していたのだが、とうとう堪忍袋の緒が切れ、たまらず叱責の声を荒げたのだ。

 ひと月に150冊の本を読むと豪語する宮崎某というタレントがいるが、彼は「1日に5冊も読めるような本」しか読んでいないことを白状していることに気づいていない。松尾某や宮崎某など専門分野を持たない物知り「かしこタレント」が幅を利かすのはテレビスタッフのレベル低下の裏返しに他ならない。

 市民も放送局も相当な出費でデジタル化したのだから放送内容の良質化を是非実現して欲しい。

2011年9月12日月曜日

電力問題を考えるために

 3.11東日本大震災から半年になる。一日も早い復旧復興を願って止まないがその基本となる電力問題、エネルギー問題への国としての構想が一向に定まらない。そこで論点整理を行ってみたい。

 先ず第1は世界一高いといわれる「我国電力料金の妥当性」の検討である。「総括原価方式」という算定方式が採用されており施設を持っていれば持っているほど利益が上がるという仕組みになっている。従って火力発電より原子力発電の方が設備が高いから原子力発電推進へひた走ってきたのではないかという勘繰りもある。とりわけ「使用済み核燃料棒」が再生すれば再利用可能という観点で資産計上されているなど根本的な問題もあり国民視点からの妥当性検討は必須の課題である。

 第2に「原子力発電所の施設詳細」の公表はどうしても省けないステップである。前首相の「原発依存からの脱却」発言以降原発存続に対する賛否が一種のイデオロギー的問題かのように論じられているが停止中の原発再稼動も含めて現状認識を科学的資料に基づいて丁寧に行う必要がある。54基ある原発の製造会社、製造年、性能と安全性に関する客観的資料、故障や事故の履歴など全面的にオープンにされた上で、個別の存続や再稼動の論議が進められるべきである。福島原発は相当古い機種で劣化も著しく稼動させていたこと自体が問題視されている施設であり、このランクの施設は早期運転停止から廃棄の処置が講じられるべきであろうが、性能の良い最新の機種であれば安全性への確実な取組みを前提として国のエネルギー政策の次段階への移行まで存続されても妥当なのではないか。
 
 最後に「大規模集中型から分散型地産地消発電」への移行を前提として「市場機能」が働く環境を整備することである。論議の過程で明らかになったのは電力市場がいかに現在の9電力独占体制に阻害されていたかということである。新規参入は完全に排除されイノベーション(技術革新)は電力会社の支配下でその芽さえ摘み取られてきた。しかし市場機能が回復すれば、そして次のリーディング産業が世界的に電力・エネルギー分野であることが明らかになった今、技術進歩は想像を超えた速度で進展するであろう。そのためには「電力全量買取制度」にみられるような買取対象を政府や官僚の裁量にまかされるような有り方は絶対に避けねばならない。発送電の分離なども含めて小資本の参加が可能な市場設計―例えば定年世代が地域蓄電や発電事業に参加できるような―も是非講じてもらいたい。

 「まだ最悪ではない、/『これは最悪だ』と言えているうちは」(シェークスピア『リア王』より)

2011年9月5日月曜日

円高異見

 円高がつづいている。このまま円高を放置しておけば輸出産業を直撃し国内空洞化が加速するのは必定である、とメディアは報じる。しかし世界に目を転じてみれば物価高騰が弱者を痛めつけ世上不安を増幅している。9月2日の日経の記事によれば「タイの消費者物価指数は4.3%、韓国は5.3%上昇」、8月末の報道では「インドで9%ベトナムでは20%の上昇に高止まりしている」と伝えている。2010年のインフレ率を見れば「ベネズエラ27.18%ギニア20.8%イラン、パキスタン、ベトナムが10%以上」という高率国をはじめとして、日本その他2、3の国を除くすべての国で物価高が進行している。
 内容を見ると(7月現在の2010年平均との比較で)、日経国際商品指数など代表的な3指数の平均は28%上昇、NY原油22%シカゴ・トーモロコシ60%大豆30%小麦15%コーヒー54%綿花20%と軒並み高騰している。
 記憶に新しいロンドンの若者の暴動騒ぎは職に就けない若年層の不満の爆発であり、年初来の「アラブの春」は永年の独裁による格差拡大が貧困層を増加させそこへ食料品の高騰が直撃したことが引き金となった。EU圏内の財政危機も格差拡大と弱者への物価高騰が底流にある。

 円高が輸出産業に与える悪影響は事実であるがその側面ばかりを強調する報道のあり方は不公平である。GDPに占める輸出の割合は1割であり消費は7割を占める。もし今、円が100円であったり115円であったら世界的な物価高は国内消費に重大な影響を与えているに違いない。若年層の失業率が20%近くあり年金生活者が5人に1人を占める我国で物価高は想像以上の生活苦につながる。
 世界的な潮流からすればむしろこうした側面からの円高評価が報じられて当然ではないのか。

 円高の原因が『デフレ』にあることは明らかであるにもかかわらず「円高対策」といえば「市場介入や金融緩和」が前面に出てくるのは何故だろうか。
 デフレ脱却には総需要の増大が必要であり、結果的に雇用と投資の増大が輸出以上に必要になる。『国内産業の空洞化』は雇用の海外流出であるからデフレを更に進めてしまう。200兆円以上に積み上った内部留保を雇用拡大にも投資にも活用できない企業にこそデフレ脱却の責任があることは疑いない。   

 円高のたびに「政府・日銀の円高対策」を声高に叫ぶマスコミと企業に根本的な転換を求める。