2018年2月26日月曜日

「裁量労働制」の見方

 社会人としての第一歩を広告会社という当時としては新しい業種で踏み出せたことは幸運だった。東京の大手という条件も重なって仕事仲間に優秀な人が多かったし硬軟、左右、破格から平凡まで多様な人たちに囲まれたことに感謝している。
 デザイナーとかコピーライターという創造的な仕事をする人が多かったせいか「時間感覚」が普通でなかった。出勤時間は厳格でなく(一応定刻は定められていたが出勤前取材で遅出や直帰が認められていた)勤務中も地下の喫茶ルームや会社近くの喫茶店での打ち合わせは普通だった。こうした気風は彼ら「創造業務」だけでなく全社的に行き渡っていたから本社業務部門(総務、人事、経理など)にも自由な空気があった。原因のひとつは「代休制度」が十分に機能していたことで、残業時間は「代休」として容易に消化でき、半日休暇や2時間遅い出勤と体調に合わせて自由に出退勤できた。
 広告業界の発展期だったから残業は相当キツく深夜残業は当たり前、二日、三日の徹夜も珍しくない職場だった。私は人事部だったがちょうど「業務の機械化」に取り組んでいたので、仕事のコンピューターへの移し換え作業で一週間会社に泊まりこんで仕事をしたこともあった。
 会社の業績が年率10%以上成長する拡張時期で全社に活力が満ちていたし、仕事好きな人たちが多かった。「呑みにケーション」や「麻雀・囲碁・将棋」も盛んで「オフの付き合い」も緊密だった。しかし何よりも仕事の「達成感」が『共有』できる「仕事仲間」に囲まれていたことが幸せだった。十年足らずで退社したにもかかわらずいまだに交友がつづいているのはそのせいだろう。
 
 長々と昔話をつづけたのは現在国会で審議中の「働き方改革」が一向に本格化しないのを憂えているからだ。「裁量労働制の拡大」をめぐる「データ捏造」が問題化されるばかりで我国の逼迫した労働事情をいかにすれば根本的に解決できるかという全体図が見えてこないことに苛立ちを覚える。
 
 我国の労働法制は戦後スグの昭和22年に定められているから今の社会とは全く異なった社会環境の中で構想された。農業と自営業が非常に多かった時代で法制の対象となった勤労者はほとんど「工場生産」の会社に勤めていた。従って工場勤務の勤労者とお役所勤めのお役人が主たる対象者として法律が作られたに違いない。マルクス主義的な労働運動が盛んで「階級意識」が強い社会だったから「資本家の搾取」から「労働者を守る」という建て前が強かった。最も基本的なこととして「労働」はキツイもの、苦しいものという考え方があったと思う。 
 こうした傾向は「労働基準法」の総則をみればはっきりと窺える。「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」、これが総則の第1条であるから相当厳しい条件で勤労者が働かされていたことがわかる。「労働条件は、労働者と使用者が、対等の立場において決定すべきものである」、「(中間搾取の排除)何人も、法律に基いて許される場合の外、業として他人の就業に介入して利益を得てはならない」が第2条と第6条にに定められているということは資本家と労働者の対立を反映しているし、第4条「使用者は、労働者が女性であることを理由として、賃金について、男性と差別的取扱いをしてはならない」とあることで女性差別が激しかったことが分かる。
 当時の社会情勢が色濃く反映されていることが総則で明らかなように、条文の一々も「工場生産」制が基準となっている。ところが今や製造業の全産業に占める比率は15%に過ぎなくなっているうえオートメーション化も大幅に取り入れられるているから労働法制全体が現状に合わなくなっている。加えてビッグデータやロボット化、AI化が現実化しつつあり更に労働力余剰から生産人口減少とまったく労働環境が逆転した時代に至っている。こうした大変革の時代に合致した「法改正」を行うのが今国会の『努め』であるはずなのに根本的な論議が足踏みしている現状はもどかしい。
 
 ところで問題となっている「裁量労働制」とはどんなものなのだろうか。
 上に見たように労働基準法は工場労働者が構想の中心になっているから「労働時間」の計算方法は厳密に規定されている。ということは「営業マン」のように「工場=事業所」外が主たる仕事場所で労働時間の把握が困難な業務はこの法律にはなじまない。そこで設定されたのが「みなし労働時間制」で「実際の労働時間とは関係なく、労使であらかじめ定めた時間働いたものとみなされる」、すなわち一定の残業時間(たとえば月間40時間)を前提として、その時間の残業代を組み込んだ定額給与が支払われる制度である。(但し誤解があって、休日労働や深夜業に対する割増賃金を支払わないことは労働基準法違反となることを理解していない使用者が結構多い)。
 仕事が多様化して営業マン以外にも「業務遂行の手段や方法、時間配分等を大幅に労働者の裁量にゆだねる必要がある業務」が増えてきた状況を踏まえて構想されたのが「裁量労働制」である。スグに思い浮かぶのは「デザイナー」「コピーライター」「プログラマー」「新聞記者」「マスコミ関係のディレクターや編集者」などであろう。こうした専門性の高い職種をA.専門業務型裁量労働とし、それとは別に大企業の本社などで企画、立案、調査及び分析を行う業務を.企画業務型裁量労働として設定されたのが『裁量労働制』で、専門業務型には先に挙げた仕事以外に公認会計士、弁護士、建築士、不動産鑑定士、弁理士、税理士など全部で19業務が対象となっている。
 
 裁量労働制の対象を拡大しようという政府の目論見(企業サイドからの要請、圧力があると野党側はみている)だが、「過労死」が問題視されていることを考慮すれば「時間外労働の上限規制」と「勤務間インターバル制度(前の仕事終わりから次の仕事始まりの間に一定以上の―たとえば6時間以上の間隔を設ける)」がセットにならないと労働者の健康は保障されない。ところが上限規制には「例外」が認められて骨ぬきになりそうだし「インターバル制度」は先送りになる可能性が高い。このような政府の姿勢では野党側の「ゴリ押し」が勢いづくのも当然で、「企業より」との政府批判に終始して肝腎の時代に即応した労働法制の「改善」が一向にすすまない原因となっている。
 
 総則にあるように「人たるに値する生活を営むための必要を充たす」賃金であり、さらに「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法の精神を満たすような労働環境を実現するという基本的な考え方が政府野党、労使と官に『共有』されなければ、国民を幸せにする労働法体系ができないことは明らかだ。
 
 仕事が好きで職場が楽しい――私の20歳代のころ(1970年代)のような労働環境が若い人たちに与えられることを願わずにはいられない。

2018年2月19日月曜日

アルマーニ騒動の意味する危機

 銀座にある泰明小学校がこの4月から一式9万円もする標準服を採用するということで物議をかもしている。和田利次校長は「銀座にある学校らしさも生まれるのではないかと考えた」と弁解しているが、標準服の発注過程が不明朗だという疑惑や、ビジュアルアイデンティティーとか服育という意味不明の教育論を持ち出して不手際を正当化しようとする姿勢が教育者としていかがなものか、という感は否めない。ただ一言校長の気持ちを忖度すれば、根っからの東京人の銀座に対する思い入れは他地方の人間には理解の及ばないほどの強いものがある。たとえていえば、京都人が旧市内(上、中、下京と左京、東山)とそれ以外を区別するような、いやそれ以上の愛着と誇りを持っているのだ。まあ、それはそれとしてこの校長が教育というものを勘違いしているのはまちがいない。
 
 この記事を読んで詩人・田村隆一のエッセー《一九二三年》を思い出した。
 一九三五年(昭和十年)、ぼくは東京府立第三商業学校へ入った。(略)校長の吉沢徹という先生がとにかく変わっていたのだ。(略)商業学校だったので、生徒は下町の商家の子弟が大部分であったが、それだけに有能な実業人を育てるというのが、吉沢システムの大きな眼目だった。学習はむろんのこと、マナー、躾教育に至っては徹底していた。語学は英語と中国語と漢文に重点をおき、英語にいたっては、高商程度の実力をつけてみせると吉沢校長は豪語していた。(略)日本美術史、謡曲、短歌が正科だった。(略)月曜日はクラスごとに吉沢校長と会食があった。礼儀と服装については厳格だった。
 旧制の商業学校だから今の中学と高校が一緒になったものと思って良いが、精神年齢からいえば高学年生(四、五年)は今の大学生くらいにマセていた。それにしてもこの校長の教育の何と自由で独創的なことか。語学に中国語と漢文を入れているところが卓見だ。昭和十年といえば日中戦争の気配もあった頃で中国は敵国になるにもかかわらず中国語を学ばせようとするのは百年先を見据えればいずれ世界の大国となることも見込んでのことであり、我国の歴史を考えれば漢文を知らなければ歴史の本質に迫れないという透徹した歴史観に基づいている(漢文の必要性は当時より今のほうがより高まっていると私は考える)。自国――日本国を深く理解するためには歴史遺産としての古美術(絵画ばかりでなく書や建築を含めて)や謡曲、そして長く日本文化を底流で統合してきた『和歌(万葉集や古今集、新古今集など)』を学ばせようとする吉沢校長は誠にすぐれた教育者として称賛せずにはいられない。
 
 ふたりの校長――1935年の東京府立三商の吉沢校長と2018年の泰明小学校の和田校長、この教育観のへだたりはどう理解すればいいのか。勿論今の小学校と旧制中学校、今と昔の校長の『自由度』のちがいは考慮しなければならないだろう。しかしそれなら、自由度がいちじるしく『限定』されている現在の教育体制――学校制度は良いものなのか?昭和10年と比べて進歩しているのか?という根本的な教育制度についての「評価」につながってくる。
 
 このコラムで何度も論じてきたように、「国定教科書」問題、学習指導要領のあり方、そして「大学共通一次学力試験」など我国の教育制度を広く、深く『規制』している文部科学省行政は根本的に見直さなければ、国民の教育程度は著しく毀損されるのではないかという「危機感」はつのるばかりだ。とりわけ「共通一次」は、英語の外部機関によるリスニング、記述式試験の導入などによってますます悪化していく危険性がある。小学校での英語教育の早期化とあいまって我国教育の『多様性の喪失』は止まるところがない。一部の私立学校で「共通一次ばなれ」を志向する動きがあっても「補助金削り」という脅しをかけられると腰折れせざるをえなくなる。
 歴史を見れば教育の『多様性』が失われると国の『活力』が衰えるのは自明である。公立と私立の差、地方別の特色はほとんど消滅して東大京大などの旧帝大を頂点とした大学のヒエラルキーに統合された『単線型』教育システムでわが国は覆われている。高度成長期の大量生産に適した教育ならそれでよかったが、価値の多様化した顧客志向型商品や革新的な商品・サ-ビスを生み出していかなければならないこれからの社会で、AIやロボットに「定型業務」や「形式知業務」が置き換わるこれからの社会は、多様で革新的な教育が必須である。
 文科省による中央主権的な教育システムは時代遅れなのだ。
 
 教育だけでなく子どもにとって最も重要な『遊び』。想像力を生み出す源泉となる『遊び』でさえも、テレビゲームやディズニーランド、USJという「規格化」された遊びに支配されている現在。「インスタ映え」という「他人の好みに合わす」嗜好の「平準化」が若者を侵食している現在。教育の多様化は喫緊の課題である。
 
 学校の特色を出すのに標準服を「アルマーニ」にしようとする発想ではこれからの世界を牽引する「グローバル人材」が育たないのは明らかだ。
 
 

2018年2月13日火曜日

おはんちょう

 桂にきて二十年近くになる。何回か引越したことのある私の流義で、行きつけの喫茶店をつくって土地に馴染むようにしてきたが今度も駅前のHという店に勤めの行き帰り寄るようになった。すぐにマスターと昵懇になって気安く話すようになる。数年前大型の台風がきて桂川が危険水域を越えるほどの大水に見舞われた。「さっき、八条の橋が橋桁スレスレくらいまで水かさが上っていたけど、大丈夫かな」「ここは心配ないですよ、桂離宮があるから。あぶないのは〝おはんちょう〟のあたりですわ」。
 マスターに聞いた話では、昔心中事件があってその「おはん」と「長兵衛」の入水したのが五条大橋のちょっと上(上流)で、その辺りが昔よく氾濫したらしい。ここは離宮のすぐ側なので手当てがちゃんとしてあるから心配ないという。
 
 それから何度か台風は来たがこの地区は安全だったからこんな話のあったことをすっかり忘れていた。
 去年亡くなった大岡信さんの著作が急に読みたくなって『紀貫之』を図書館から借りてきた。「七 恋歌を通してどんな貫之が見てくるか」という節を読んでいると、この消えゆく露の命をうたった歌の不思議な魅力は、たとえば江戸の薗八節の一作、宮薗鸞鳳軒作の『桂川恋の柵(しがらみ)』(通称「お半長右衛門」)――、という記述に出あった。あれ!確かマスターは「おはん長兵衛」と言っていたが?読み進むと、「白玉か。何ぞと人の咎めなば。露と答えて消えなまし。ものを思へば戀ごろも。それは往昔(むかし)の芥川、芥川。これは桂の川水に。浮名を流すうたかたに。泡と消えゆく信濃屋の。おはんを背(せな)に長右衛門。逢瀬そぐわぬ仇枕。」云々と、四十男と年端もゆかぬ娘との心中事件(義太夫『桂川連理柵』で有名になった)の詩詞に本歌としてとられているのでも明らかなように、中年男と若い少女の切なく儚い恋を象徴するひとつの恋歌の伝統を形づくったほどである。…とつづいていた。
 
 便利な世の中である。早速ネットで検索するとこんな記事があった。押小路柳馬場の帯屋長右衛門と隣家信濃屋の娘お半の心中を扱った浄瑠璃「桂川連理柵」の史跡(お半長右衛門供養塔)が西京区西衣手町(上野橋の下又は五条通り上の桂川沿いの衣手神社西、念仏寺の北側)にあると地図つきの解説である。
 歩いて三十分、自転車なら十分そこそこの処だ。浄瑠璃は実際にあった事件を劇化したものがほとんどだからこれも、多分似たような事件が二百年ほど前にあって、中京からここまで手に手を取って逃げてきて入水心中したのだろう。記事には新京極のMOVIX近く(中京区新京極桜之町)にも「桂川連理柵の史跡」があると載っていた。押小路柳馬場と少し離れているが多分信濃屋に所縁(ゆかり)があるのだろう。
 Hのマスターの話を聞いていなければ『紀貫之』のこの件は読み飛ばしていたにちがいないし、桂に住んでいながら縁のある「お半長右衛門」の心中咄も知らずにすんでいたことだろう。地元の人との付合いがもたらしてくれた小さな発見である。
 
 七十歳を過ぎて勤めを辞めてから住まい近くのBにホームを換えた。ここも近ごろ流行りのカフェチェーン店でなく昔風の喫茶店で住宅街の真ん中にあるからKよりもこじんまりとしていて客同士の距離も近い。後期高齢者に近い人が多いがみな元気そのものである。この喫茶店がなければ近所同士なのに話すこともなかった人たちが好き勝手に会話を楽しんでいる。大型のカフェチェーン店ではこの楽しみは得られない、友だちか、知人か、仕事の付合いの人たちが店に行って、それだけだ。店で〝出会い〟はほとんどない。極端に言えば、コーヒーの旨い不味いもない。この傾向は喫茶店に限らない、居酒屋でもバーでも同じことだ。こんなことは言いたくないが若い人たちはガードが固くて他人を受け容れる柔軟さに欠けている。これでは『場』が拡がらない。勿体ないと思う。そういえばマンションの隣に引っ越してきた若夫婦は引越しの挨拶もなかったなぁ。
 
 今年の冬は寒い、マイナス気温がこんなに多い経験はしたことがない。ついつい出不精になってしまう。少し寒さが緩んだら敬老パスを使って上野橋まで行って桂川を歩いて「お半長右衛門」の供養塔に手を合わせそのあと又バスで新京極ヘ行って「桂川連理柵の史跡」を訪ねてて来よう。そこまで行ったら「スーパードライ京都(アサヒビアレストラン)」で生ビールを呑まずにはいられまい。
 春が待ちどうしい。

2018年2月5日月曜日

ビットコインは土地である

 コインチェックの資金流出問題を受けて「仮想通貨」批判が喧しいが本質を突いた論議が皆無であることに驚きを覚える。専門家の多くが早くから警鐘を鳴らしていただけに、今日の騒動は誤った報道を繰り返したマスコミの責任といっても過言ではない。
 通貨を考える場合、先ず最初に点検すべきはそれが「本位通貨」か「管理通貨」かということである。本位通貨とは「金兌換通貨」のように「金」で流通保障し、銀行に当該通貨を持っていけばその価値に相当する金と交換してもらえる通貨のことである。たとえば一万円が銀行で一グラムの金(金貨)と交換してもらえることが保障されることを意味する。従って通貨の発行量は「金」の総量に規制され、上限がある。それに対して「管理通貨」は「不換通貨」とも呼ばれ、「金」という「実物」に代わって流通保障を通貨当局(日銀や政府)の『信用』をもって行う通貨である。通貨の発行量を通貨当局が調節することで「通貨の価値」を変動させて物価の安定を図りそれによって経済成長雇用の改善、国際収支の安定などを実現しようとする制度である。
 タイトルを敢えて「ビットコインは土地である」という表現をとったのは仮想通貨が「本位通貨」であることをはっきりと解かってほしかったからで、「土地」という言葉を使うことで今起こっている「バブル」の原因を分かり易く伝えるためであった。
 
 「金融論」という学問は非常に難しいもので経済学者でも苦手にする人が多い。おまけに最近はノーベル賞級の「高等数学」を使った理論が幅をきかしているから尚更その傾向が強くなっている。仮想通貨も最新の金融理論を応用したシステムなのでその詳細をすべて理解して説明できる人――学者も少ないであろう。その超難解システムを生半可な理解で解説したり、その解説を聞いて理解したつもりで「手を出す」から「暴落」の被害にあう、それが現状である。
 はっきりしているのは「仮想通貨」は「本位通貨」であるということで、したがって流通量が限られているから人気が加熱して市場参加者(購入者)が増加して競争が激化すれば価格が「乱高下」することは至極当然である。そのことを解かりやすくするために「土地」に例えたのだ。では信用保障はどのようにおこなわれているかというと、「ブロックチェーン」というネット上のテクノロジーがそれなのだが、正直言って私程度では説明が困難な理論である。だから説明しないが「仮想通貨」が「本位通貨」ということはまちがいないから「土地バブル」があったように「仮想通貨」でバブルが起こるであろうことははじめから予想できた。マスコミを怒りをもって批判するのはそこにある。(知らないことを知ったかぶりしないこと、知らないことのどこが解からないのかを知ることはむつかしい)。
 
 リーマン・ショックがあったのは2008年だったが、このときは「サブ・プライムローン」が原因といわれた。これもアメリカのノーベル賞受賞の経済学者らの難解な金融理論にもとづいて発明された「金融商品」だった。それをわけもわからず世界中の銀行が売買を繰り返してバブルが破裂してしまった。1929年の世界恐慌は土地と株のバブルであったし1970年代後半のアジア経済危機も通貨危機だったように二十世紀以降の経済危機はすべて『アメリカ発』の「金融危機」であるといっていい。
 そこで最近疑問に思っていることがある。
 一千億円の土地と工場を持ち大がかりな機械・装置を備えた企業がある。一方でグーグルや楽天のように資本量は少なくてネット上の仕組みやソフトをつくることを仕事としている企業がある。このようにまったく成り立ちの異なる企業が同じ「株式市場」で取引されていることに問題はないのだろうか。しかも現状では大資本を有する製造企業よりもネット関連企業のほう「株価」が高いから「自社株評価額」はネット企業のほうが断然多いというケースが少なくない。すると、株式交換によってネット企業に製造業の会社が買収されるということも可能になってくる。一方は何千億という資本を何年もかけて蓄積し技術を築き上げてきた「実物企業」であり、片方は起業から数年で上場したソフト会社が同じ「株式市場」という土俵で比較・評価される。これは不合理ではないのか?
 物を知らないアホが詰まらん理屈をこねている、そう切り捨てられるのがオチかもしれない。しかし、営々と何十年の歴史を守ってきた製造業の経営者は「憤慨」しているのではないか。
 こんな理不尽?が「金融市場」というものの『介在』によって至極当然のこととして通用しているのが『現在』なのだ。
 
 それはさておき、現在の通貨制度はこれまで経験した数々の経済危機を教訓として、可能な限り「投機家」による暴力的な「市場介入」を排除し、可能な限り一般市民に不利益をもたらさない制度として「管理通貨制度」を樹立したのである。「金」のしばりから通貨を解放して、通貨当局が通貨供給量を調節することで「任意の望ましい水準」に通貨価値を設定できるような制度をつくったのである。決して完全な制度ではないけれど、通貨量に「上限」のある「本位通貨」よりはマシな制度である。グローバル化が進行して「世界共通通貨」を創造しようという気運もあるが、それが「仮想通貨(ビットコイン)」でないことは確かである。
 
 自分が理解できないものに「お金」を賭ける愚を人間は何度も繰り返してきた。今度もまた…。