2018年2月13日火曜日

おはんちょう

 桂にきて二十年近くになる。何回か引越したことのある私の流義で、行きつけの喫茶店をつくって土地に馴染むようにしてきたが今度も駅前のHという店に勤めの行き帰り寄るようになった。すぐにマスターと昵懇になって気安く話すようになる。数年前大型の台風がきて桂川が危険水域を越えるほどの大水に見舞われた。「さっき、八条の橋が橋桁スレスレくらいまで水かさが上っていたけど、大丈夫かな」「ここは心配ないですよ、桂離宮があるから。あぶないのは〝おはんちょう〟のあたりですわ」。
 マスターに聞いた話では、昔心中事件があってその「おはん」と「長兵衛」の入水したのが五条大橋のちょっと上(上流)で、その辺りが昔よく氾濫したらしい。ここは離宮のすぐ側なので手当てがちゃんとしてあるから心配ないという。
 
 それから何度か台風は来たがこの地区は安全だったからこんな話のあったことをすっかり忘れていた。
 去年亡くなった大岡信さんの著作が急に読みたくなって『紀貫之』を図書館から借りてきた。「七 恋歌を通してどんな貫之が見てくるか」という節を読んでいると、この消えゆく露の命をうたった歌の不思議な魅力は、たとえば江戸の薗八節の一作、宮薗鸞鳳軒作の『桂川恋の柵(しがらみ)』(通称「お半長右衛門」)――、という記述に出あった。あれ!確かマスターは「おはん長兵衛」と言っていたが?読み進むと、「白玉か。何ぞと人の咎めなば。露と答えて消えなまし。ものを思へば戀ごろも。それは往昔(むかし)の芥川、芥川。これは桂の川水に。浮名を流すうたかたに。泡と消えゆく信濃屋の。おはんを背(せな)に長右衛門。逢瀬そぐわぬ仇枕。」云々と、四十男と年端もゆかぬ娘との心中事件(義太夫『桂川連理柵』で有名になった)の詩詞に本歌としてとられているのでも明らかなように、中年男と若い少女の切なく儚い恋を象徴するひとつの恋歌の伝統を形づくったほどである。…とつづいていた。
 
 便利な世の中である。早速ネットで検索するとこんな記事があった。押小路柳馬場の帯屋長右衛門と隣家信濃屋の娘お半の心中を扱った浄瑠璃「桂川連理柵」の史跡(お半長右衛門供養塔)が西京区西衣手町(上野橋の下又は五条通り上の桂川沿いの衣手神社西、念仏寺の北側)にあると地図つきの解説である。
 歩いて三十分、自転車なら十分そこそこの処だ。浄瑠璃は実際にあった事件を劇化したものがほとんどだからこれも、多分似たような事件が二百年ほど前にあって、中京からここまで手に手を取って逃げてきて入水心中したのだろう。記事には新京極のMOVIX近く(中京区新京極桜之町)にも「桂川連理柵の史跡」があると載っていた。押小路柳馬場と少し離れているが多分信濃屋に所縁(ゆかり)があるのだろう。
 Hのマスターの話を聞いていなければ『紀貫之』のこの件は読み飛ばしていたにちがいないし、桂に住んでいながら縁のある「お半長右衛門」の心中咄も知らずにすんでいたことだろう。地元の人との付合いがもたらしてくれた小さな発見である。
 
 七十歳を過ぎて勤めを辞めてから住まい近くのBにホームを換えた。ここも近ごろ流行りのカフェチェーン店でなく昔風の喫茶店で住宅街の真ん中にあるからKよりもこじんまりとしていて客同士の距離も近い。後期高齢者に近い人が多いがみな元気そのものである。この喫茶店がなければ近所同士なのに話すこともなかった人たちが好き勝手に会話を楽しんでいる。大型のカフェチェーン店ではこの楽しみは得られない、友だちか、知人か、仕事の付合いの人たちが店に行って、それだけだ。店で〝出会い〟はほとんどない。極端に言えば、コーヒーの旨い不味いもない。この傾向は喫茶店に限らない、居酒屋でもバーでも同じことだ。こんなことは言いたくないが若い人たちはガードが固くて他人を受け容れる柔軟さに欠けている。これでは『場』が拡がらない。勿体ないと思う。そういえばマンションの隣に引っ越してきた若夫婦は引越しの挨拶もなかったなぁ。
 
 今年の冬は寒い、マイナス気温がこんなに多い経験はしたことがない。ついつい出不精になってしまう。少し寒さが緩んだら敬老パスを使って上野橋まで行って桂川を歩いて「お半長右衛門」の供養塔に手を合わせそのあと又バスで新京極ヘ行って「桂川連理柵の史跡」を訪ねてて来よう。そこまで行ったら「スーパードライ京都(アサヒビアレストラン)」で生ビールを呑まずにはいられまい。
 春が待ちどうしい。

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