2017年12月29日金曜日

日馬富士問題の深層 

 日馬富士問題が連日報じられているが「核心」に触れるものがない。
 
 問題は二つある。「暴行事件は何故起ったか?」という視点と「貴乃花は何を改革したいのか?」である。
 まず、暴行問題の発端と問題の所在について考えてみよう。貴ノ岩がモンゴル会に参加したのはそれが、恩師主催の「鳥取城北高校出身力士の激励会」と聞かされていたからである。恩師というのは同校の校長であり相撲部の監督でもある石浦外喜義氏のことである。彼はモンゴル人力士の発掘と養成に顕著な功績を残し照ノ富士や逸ノ城などを輩出、貴ノ岩も中学卒業と同時に相撲部に受け入れ、両親のない彼の親代わりとなって育成に尽力した。今やモンゴル人力士なしでは成り立たない日本相撲協会にとって石浦氏は欠くことのできない存在として隠然たる勢力を誇っている。
 そんな彼が主催した「鳥取城北高校出身力士の激励会」に何故白鵬以下のモンゴル三横綱が出席していたのか。報道によれば白鵬だけが招待されていて白鵬が日馬富士と鶴竜を呼び寄せたことになっている。これが表面的な事情だが、高校出身力士の激励会に何故白鵬が招かれる必要があったのか?そして何故モンゴル力士の二次会に石浦氏が参加していたのか?さらに事件後、貴ノ岩を日馬富士の元に詫びに行かせた「地元の人」とは誰なのか?
 
 最も納得のいく推察はこうではないか。白鵬は貴ノ岩の言動、振る舞い更にモンゴル会との関係に不満と不信感を抱いていた。そこで貴ノ岩の親代わりである石浦氏に相談を持ちかけ、石浦氏が仲介をして「激励会」という名目で会を催した。従って白鵬の出席は当然であり、表面的な「激励会」のあと石浦氏がモンゴル会の二次会に参加したのも当然の流れであった。そもそもの目的である貴ノ岩への叱責、説教が二次会で為され日馬富士の少々の「可愛がり」が黙認され、石浦氏が止めに入らなかったのも想定内であった。想定外の「重症」にもかかわらず貴ノ岩を日馬富士に詫びを入れさせたのも「会の目的」、貴ノ岩の「改悛」を促すためには不可欠の過程であった。そんな事情を一切知らなかった貴ノ岩が「なぜ誰も止めてくれないのか」と不満と不信感を抱き石浦氏の裏切りを口惜しんだのは、親代わりとまで信頼し思慕していた石浦氏への思いの強さの証であろう。
 マスコミ報道が石浦氏の関与と責任について一切触れないのはどうしてだろうか?それが明らかにならない限り今回の事件の『真相』は明白にならないし、従って事件の『真の解決』に行きつかないのも当然なのだ。「一番悪いのは八角理事長だ、白鵬だ」という一般ファンの追及がくすぶり続けているのも、そこが明かされないままになっているからであろう。
 白鵬と石浦氏の「日馬富士事件」での役割と責任こそが『核心』である。
 
 貴乃花の目指す「協会改革」とは何か。
 三つの問題点から解明を目指そう。第一は「入場券問題」、第二は「力士の給料と雇用関係」、最後に「力士のセカンドキャリア問題と年寄り制度」である。
 一般ファンが関係する直接的な問題点は「欲しい入場券が手に入らない」協会の「入場券発売方法」にある。入場券には三種類あり、テレビによく映る土俵間際の「砂かぶり」は「溜席(たまりせき)」といい、その後の「マス(升)席」には三種類あって、土俵近くから「Aマス席」「Bマス席」「Cマス席」となっている。2階がイス席でこれも土俵からの遠さによってA、B、Cに分けられている。二階席の最後列14列目が自由席となっていてこれだけが当日発売されている。
 購入方法は(1)先行抽選申し込み(約二ヶ月前から受付)(2)前売り(約一ヶ月前から受付)(3)当日売りの三種類に分かれている。或る人がインターネットを通じて先行抽選申し込みを行ってみた。一回だけでなく数回(数場所)試みた。その結果、「溜席」と「マス席A」は何度挑戦しても買えなかったと報告している。東京国技館の種類別席数は協会のホームページには公開されていないが定員は11.098人である。
 ここで大相撲独特の「お茶屋制度」がクローズアップされる。現在東京国技館には20の「相撲案内所」が存在するが、これが昔の「お茶屋」になる。お茶屋は「お客様に代わって、入場券やお弁当など飲食の手配を引き受ける代行業としてあった制度で「現在お茶屋案内所と名称を変えてはいますが、お客様に大相撲観戦を楽しんでいただく気持ちに変わりはありません。チケットの手配にお食事とお土産、そして雰囲気をご満足いただけるよう、上質なサービスを心掛けております」とホームページ(HP)に載っている(なお取り扱うのは「溜席」と「マス席」と断ってある)。
 ここまで堂々とHPにうたっているところをみると、溜席とマス席は「案内所」を介して買わないと入手できないのだろうということが窺われる(マス席のどのクラスまでが案内所の取り扱いかは明らかでない)。誰もが欲しい、観戦に最適の「溜席」と「マス席」の『販売独占権』が江戸時代から脈々と続くお茶屋制度存続のために『既得権』として認められているということか。しかし、これによって一般ファンが「適正な価格」で『公正』に入場券を入手することが「妨げられて」いるとしたら「公益財団法人」として「税制上の優遇」措置等を受けている「日本相撲協会」として正しいあり方だと言えるだろうか。
 貴乃花の「改革」のひとつがここにあるのは明白である。
 
 

2017年12月18日月曜日

神さんのいけず

 長年気にかかっていた――積年の疑問が氷解した。解いてくれたのは「日文研」の磯田道史氏たち。京都の西京、桂坂の京大校区の一角にある国際日本文化研究センターができて30周年になる今年、数々のイベントがあったが、そのうちのひとつ、10月28日に行われた一般公開の記念講演会「日本史の戦乱と民衆」での磯田氏の講演が「東京遷都――明治政府は何故京都を見捨てたか?」という疑問に答えてくれた。
 それなりにいろいろ見聞きして、天皇制をいただく明治新政府を成功させるには、天皇家と千年を超える縁故を保つ公家や社寺との関係を『断絶』させなければ天皇の権力と新政府を合一できないと考えて「京都」を切り捨てた。この見方が一番真実らしいと受け入れていたが、なにかもうひとつ足りないところがある、ずぅっとそこにひっかかっていた。
 磯田氏は維新前後の京都の状況を戦乱と、データと、京都日出新聞などの資料を基に、民衆のたくましい生き様を描いてくれた。そのなかで、1864年の「禁門の変」―京都では「蛤御門の変」といわれることが多いこの内乱で上京、中京のほとんどが焼き払われたこと、当時の京都の住民数が30万人足らずであったこと(大坂は35万人ほどだった)、これに対して江戸(東京)はすでに120万人に達する世界的な大都市だった。京都の膨大な戦後復興資金、東京の確立した先進的な大経済圏、国際化に適合した地理的利点。どこからみても、江戸=東京こそ新時代にふさわしい『首都』だった。
 これでスットした。口惜しいけれど明治政府要人の選択は「合理的」だった。納得した。
 
 話は変わるが最近「仇(かたき)みたい」という「京都弁」を時々思い出す。今やめったに聞くことの無いことばだが、幼い頃おとな達はよく口にしていた。「そんな、カタキみたいにセイて食べんでも、誰もあんたのおやつなんか、取らしませんがな」とか「カタキみたいな目ェして」とか使った。要するに「必死に」という意味なのだが、何とも物騒な言葉づかいではないか。そして「ユーモア」あふれているではないか。こんな奇想天外な表現を思いつくところが妙に京都人っぽい感じがして懐かしい。(この系統では「目くじら立てる」が横綱だろう)。
 もう一つ、めったに使わなくなった京ことばに「こうと」というのがある。どんな字を嵌(あ)てるのか知らないがひょっとしたら「玄人(くろうと)」が訛(なま)ったのかもしれない。ことほど左様に「中年あるいは年輩の女性の渋い粋な装い」を表していた。私のイメージでは、縦縞の地味な色合いの生地の着物に銀鼠(ぎんねず)の帯をあしらったそんな風情が、「奥さん、こーとどすなぁ」となる。「はんなり」とは少々趣を異にするが好い京ことばだった。
 
 そんな私は幼いころ病弱だったお蔭で、随分珍しい治療を受けていた。これは治療ではないが東山・即成院さんの「二十五菩薩お練供養」で菩薩様にならせてもらったことがある。どの菩薩様だったか覚えていないが、同院の本尊・阿弥陀如来と二十五菩薩が極楽浄土から現世に来て衆生を極楽浄土へ導く姿を具現する行事で、境内に特設された橋の上を練り歩く。祖母が御詠歌の講で教導まで勤めていたご縁で引き上げて下さったと覚えている。菩薩様のご加護を頂戴して少しでも私が健康になりますように、と祖母が願ってくれたのだろう。今でも十月の第三日曜日に盛大に行われている。
 「おさすりさん」と「穴村の墨灸(もんもん)」は今ではほとんど聞かなくなった。「おさすりさん」は今でいう「幼児マッサージ」になるのだろうか。年輩の女性のおさすりさんが自宅に来てくれて、縁側に座った祖母の隣で女性の膝に体をあずけながら、「ぼんは…」「ぼんは…」と語りかけながら優しく全身をさすってくれる。陽射しの暖かななかでうっとりと身をまかせているとうつらうつらして病のつらさを忘れてしまう。マッサージというよりもセラピーに近い療法だったのだろうか。
 「穴村の墨灸」は「モグサからつくった墨のような液をツボに塗る」鍼灸の一種で子どもの「カンの虫」封じなどに効くとされていた。浜大津から船で行ったから竹生島の一地域かと思っていたがネットで検索すると、草津市の西北、琵琶湖近くに穴村はあった。小さな和船に大勢が乗り合っていたから随分流行っていたのだろうに、今は知る人もいない。
 
 先日八十才と八十二才の男性が「トライアスロン」に挑戦しているテレビを見た。4kmの水泳、10kmの長距離走、20kmの自転車走を完走したおふたりは輝いていた。聞けば八十才の方は「かなづち」で六十才になってからトライアスロンに参加するため水泳を始めたという。それから20年、波の高い荒れた海を泳ぎ切った彼の肉体は健康そのものだった。
 先にも書いたように病弱だった私も本当に健康体になったのは六十才を過ぎてからだった。禁煙して、テニスをはじめて、体力増強が必要だったので食事を改善し鍛錬を重ねた。朝起きてから二時間近くもろもろのプログラムをこなして、健康を維持している。しかし、決して、ひと様に「誇示」しないように勉めている。それは、幼いころ、「あんまりイバッてたら『神さんにいけず(いじ悪)』されまっせ」と戒めてくれた祖母や母親のことばを思い出すからだ。良いことばではないか、「神さんのいけず」。
 
 京都に生まれて、長生きさせてもろて、ほんまに「おかげさん」ですなぁ。
(今年は本稿にて最終と致します。ご愛読有難う御座いました。よいお年をお迎え下さい。)
 

2017年12月11日月曜日

パロディができなくなった

 先日の「たけしのこれがホントのニッポン芸能史『喜劇』(NHK・BSプレミアム12月2日)」でゲストの伊東四朗さんが「最近はパロディができなくなってきた」と慨嘆していたのは昭和喜劇界を知る人らしい「シメの言葉」だった。パロディとは「誰でも知っている演劇(歌舞伎など)や映画、文学や詩歌を揶揄や風刺、批判する目的を持って模倣した作品、あるいはその手法」のことで、文学でいえば江戸時代の川柳や狂歌の古今集などの有名な和歌をもじった作品はパロディのひとつと言えよう。また昭和の芸人さんは、尾崎紅葉『金色夜叉』の「熱海の海岸」の場面――恋人のお宮が裏切って大金持ちの富山に結婚するのを怒った主人公貫一が熱海の海岸でお宮を蹴飛ばす場面――を借用してよくパロディを演じていた。パロディ芸能の最たるものは「俄(にわか)」であろう。歌舞伎や文楽の演目を土台にした即興的なドタバタ喜劇で、俄狂言とも仁輪加とも呼ばれた。戦後いち早く関西喜劇界で人気を博した曾我廼家十吾、渋谷天外(二代目)の「松竹新喜劇」はその流れを継いでいたが、いつの間にか「俄の伝統」は消えてしまった。伊東さんは歌舞伎をもとにした古いパロディではなく、みんなが知っている国民的な映画や歌謡曲をベースにしたパロディをいっていると思うが、その元になる『国民的』な『文化的共有財産』が世の中から消えてしまったことを嘆いているのだろう。最近で言えば小学校の音楽教科書から「小学唱歌」や「蛍の光」「仰げば尊し」が無くなったし、夏目漱石や森鴎外が国語の読本に不採用になった、ように。
 
 そういった意味では、最近高校と大学の教員らで作る「高大連携歴史教育研究会」が発表した「坂本龍馬」「大岡忠相(大岡越前)」「武田信玄」「上杉謙信」「吉田松陰」などの人気の人物を教科書から削除するという考え方は、ますますパロディを我国文化から――少なくとも「お笑い」からは遠ざけてしまうに違いない。「大学入試の歴史の問題で細かい用語が多数出題されて暗記中心に偏っている傾向を是正する」ために歴史教科書に載る用語を半分近くに絞り込む方針らしいが、これによって歴史の面白さが削がれるようなことにならない配慮が望まれる。
 しかし視点を変えるとこれは、歴史をどう捉えるか、という根本的な考え方にも関係している。歴史は人間が作るものだからその時代時代の中心となった人物の活躍を重要視して歴史を視る――ある意味で「英雄主義」的歴史観と、人間社会を「政治」「経済」「文化」などの変遷と捉えてその時代的推移を歴史と視る――謂わば科学主義的な歴史観、この二つのどちらに重点を置くかで教科書の編成も変わってくるわけで今回の研究会の提案は後者に重点を置こうとする考え方と見ることもできる。それはそれで意味のあることで、願わくば中途半端にならないで、変化の激しい今の「時代」を見抜く『歴史の目』が子どもたちの身に付く、現代にふさわしい歴史教育になることを願っている。
 
 文化的共有財産が消失した原因は娯楽とメディアの多様化のせいだろう。パソコン、スマホ、インターネットが出現するまでは、紙媒体(新聞、雑誌、本)と映画とラジオ(テレビ)が伝達手段のすべてだった、勿論『実演』が有力だったのは言うまでもないが(紙芝居も実演になるか)。コンテンツとしてパロディを支えて重要な働きをしたのは「講談」と「浪花節」だったのではないか。特に『講談全集』は「貸し本屋」の主力図書として国民の多くが読んでいた。「忠臣蔵」「忠臣蔵外伝」「義士銘々伝」「水戸黄門」「幡随院長兵衛」「曽我兄弟」「太閤記」「寛永三馬術」「川中島ノ決戦」「山内一豊」など挙げればキリがないが五十巻以上あった。私たちより年輩の層は小学校で学校を卒える人がほとんどだったが『講談』は共通の教養としてあった。「貸し本屋文化」は戦後も長く存在感を保ち、吉川英治、山岡宗八、五味康祐、柴田錬三郎などの作家の早期の作品は貸し本屋が出発点だった。やがてこの流れは松本清張、司馬遼太郎に引き継がれていくことになるが、この系譜は徳川期の頼山陽『日本外史』、大正昭和期の徳富蘇峰『近世日本国民史』に源流を求めることができる「英雄主義的歴史」の系譜といえるだろう。
 学校で学ぶ歴史と講談で得た知識が渾然となって「庶民の歴史」は描かれ、学歴の差もなく国民の共有するところとなっていた。これに加えて、歌舞伎、文楽の演目も講談と重複しながら多くの人の知るところであったし、百人一首、いろは歌留多、俳句や漢詩の有名なものも人口に膾炙していた。歌謡曲はレコードとラジオで庶民の共有物であったし、映画も「娯楽の王様」として君臨していた。
 男女、年代の隔たりもなく「全国一律」の「一般教養」として『文化的共有財産』は平成になる直前まであった。
 
 僅か三十年で世の中は一変しインターネットとSNSは国民を『分断』した。テレビゲームをはじめとした若者の娯楽と中年の娯楽は共通するところを見出せないし老人はそのどちらともつながっていない。これでは「パロディ」は成立のしようがない。
 
 ところで私が「白村江の戦(はくそんこうのたたかい)」を知ったのはつい最近のことだ。天智二年(西暦663年)朝鮮半島の白村江(今の錦江河口付近)であった我国と朝鮮との戦いで我国は惨敗した。なぜこの我国初の国際戦争が歴史から消されたのか?明治維新以来第二次大戦勃発まで我国の歴史は「神国不敗」と教えられてきた。この「歴史観」にとって「白村江の戦」は『不都合』だったのだろうか。
 
 これまでも、これからも、歴史は権力者に「歪められる」。英雄主義の歴史もそんな権力者の恣意に加担してきた一面があることを知る必要がある。
 
 
 

2017年12月4日月曜日

 ほんのちょっとの「心づかい」

 この十日ほどで三つ忘年会があった。中華のコース、豚しゃぶ会席、和食会席とバラエティに富んだ料理と有名ホテルの中華店、最近若い人に人気の店、地元桂の名店とお店にも特色があって堪能した。集まりはPTAの同窓会、高校と大学の友人、馴染みの喫茶店の食事会とこれもまたそれぞれで楽しかった。中華は素材が豪華版だったし豚しゃぶは調理法が豆乳シャブシャブでユニーク(私は初体験)、和食は板前の腕に感心させられた。
 最近は「インスタ映え」とかいってそもそもの食事の「旨さ」がそっちのけになっているがわれわれ世代はやっぱり美味しさに拘りがある。別に高級なものが食べたいわけではない、料理人の心の感じられる食事がしたいのだ。料理の良し悪しはほんの少しの「心づかい」と「てまひま」にあるのではないか。最近知ったのだが湯を沸かすのでも、高温で短時間で沸かしたのとじっくり時間をかけて煮沸した湯ではまったくちがうものといっていいそうで、舌ざわり味わいに驚くほど差が出るという。そういえばインスタントの味噌汁やコーヒーを淹れるときそれを感じたことがある、速成でいれた味噌汁が舌を刺すようで美味しさが半減していた。素材選びにしても目利きが選んだものと素人が何の考えもなしに手に取った物ではびっくりするほど良し悪しがちがう。また包丁の切れ味が悪いと素材の味が損なわれることはよく知られているし、素材の下処理で仕上がりがまったく異なることは料理本の最初のページに載っている。インターネットの人気店で期待を裏切られることが多いのは、お客が若い人がほとんどだから店側が客をなめて手を抜いているからだろう。ほんの少しの気づかい、それがびっくりするほどの味の差に結びつく。コワイことだ。
 
 最近続発している日本企業の「品質偽装・詐称」も根っこは同じだろう。
 端緒は構造計算書偽造問題を起こした2005年の「姉歯事件」だったのではないか。次に記憶にあるのは昨年の横浜のマンション傾斜事件で「杭打ち施工」が基礎地層にまで届いていない不具合が原因と特定され、杭打ち施工に関わった三井住友建設など3社が行政処分を受けた。その後同種の不正が計56件8社の偽装が見つかっている。製造業の品質偽装、詐称は「東洋ゴム」「タカタ製欠陥エアバック」「神戸製鋼」「日産自動車(等)の無資格検査」「東レ子会社製品検査データ改竄」と出るは出るはの驚くべき惨状を呈している。製造業の品質偽装の根本問題は「できることをやっていなかった」ことにある。
 戦後復興を牽引した我国製造業は「安かろう、悪かろう」のバッシングに耐え、血の滲むような苦労を重ねて世界に誇る『ジャパニーズ』を獲得した。「日本製」というレッテルがあるだけで「最高品質」という信用と「ブランド」を得たのだ。トヨタの「カイゼン」は世界語となり品質向上の世界標準となった。その日本の製造業の現場で何が起っているのだろうか?
 この問題を考えるとき真っ先に浮かぶのは、1978年ダグラス・グラマン事件で国会に証人喚問された日商岩井・副社長海部八郎が宣誓書に署名する際手が震えてなかなか署名できなかったテレビの画面である。汚職を犯したという罪悪感と衆人環視の中で「偽証」できない、「真実」を明らかにしなければならないという『倫理観』の葛藤と「国会」と「国民」への『畏怖心』が彼を追い詰めて、筆を進ませなかったのであろう。
 海部氏が保持していた『倫理観』と『畏怖心』は、今、私たちにあるだろうか。「森友事件」の籠池氏や佐川現国税庁長官、「加計学園獣医学部新設問題」に関わった安倍首相、加計孝太郎理事長、萩生田光一現自民党副幹事長たちに海部氏と同じ「倫理観と畏怖心」があると思えるだろうか。『否!』と叫ぶ声が強く響く。
 
 ゴムであれアルミ板であれタイヤ・自動車関連の繊維であれ、生産システムは自動化されているから、素材に原因があったかシステムの制御不良であるかのどちらかだろう。素材は厳密に選別されてから生産ラインに入るから「ほんの微量」の異物混入であったろうし、システム制御の不具合にしても完成度の高いシステムであるから「わずかな」パラメータの異常であったにちがいない。エアバックと自動車の完成品は検査項目それぞれの検査手順の「愚直」な実施を資格を持った検査員が行っていれば発生しなかった問題である。
 「わずかな」「微量の」「愚直な」『齟齬』、それが『大きなちがい=間違い・欠陥』につながる。料理人のほんの少しの「心づかい」と「てまひま」が『味』の決め手になる、根っこはまったく同じなのだ。
 何故それができないか。『利益』が優先されたのだ。利益追求に盲進して顧客と地域との共存を放棄するのは「資本主義の冒涜」以外の何物でもない。
 
 
 民主主義と資本主義がすぐれて『倫理観』と緊張関係にある制度であることは自明である。政治の条件は複数性にあり、複数の人間の間にある不一致を受け入れて、一致を探り、一致を達成し、コミュニティを動かしていく活動が政治に他ならない。選挙で得た「多数」を振りかざして「少数意見」を押さえ込む『丁寧さのない傲慢(=謙虚のない様)』は民主主義の対極であろう。
 
 権力の特質は人間が一致して行為するところにあり、暴力によってはそのような一致はもたらしえない。
 権力は相手の行為する力を利用するが、暴力は行為する力そのものを抑え込む。
 ――國分功一郎著『中動態の世界』より――

2017年11月27日月曜日

成心・僻見(29.11)

 大相撲の「日馬富士騒動」が混迷を極めている。そのなかで明らかになっていない一つの疑問について書いてみたい。
 今回の暴力事件はある集まりの二次会で起った。騒動の報道は二次会に焦点を当てて伝えられているが事の真相は本来の一次会にあるように思う。暴行を受けた貴ノ岩は師匠の貴乃花の指導もあってモンゴル出身力士の親睦会など力士同士の集まりには努めて参加していなかった。勝負に私情が入って真正な相撲が保たれないことをおもんばかったからだ。今回の集まりは貴ノ岩の出身母校「鳥取城北高校」の校長でもあり相撲部監督でもある恩師・石浦外喜義氏の主催する会であったので参加したという。同校は大相撲の有力力士を輩出する名門校で、琴光喜、大翔のOBをはじめ現役にも貴ノ岩、石浦、照ノ富士、逸ノ城などがいる。その相撲部の監督であり相撲留学を実現してくれた石浦氏の主催する会合であれば貴ノ岩も参加せざるを得なかったであろう。ところがその場に予想もしなかった三横綱が在席していたのだ。石浦氏がどんな思惑でこの会を主催しどういうメンバーを招集したのかいまだに明らかになっていない。しかし貴ノ岩としては戸惑ったに違いない。そして問題は二次会のメンバーだ。貴ノ岩のほかは三横綱、照ノ富士のモンゴル力士以外に日本人力士数名の総勢十人ほどであったと伝えられている。
 先にも述べたか石浦氏がどんな意図でこの会を催したか不明だが、二次会の参加者を見れば明らかに「何かの意図」が読み取れる。「貴ノ岩を糾弾、または問責、懲罰」するための集まりだった、という意図である。モンゴル会と距離を置き同郷の目上の者に不遜な態度を示しがちな貴ノ岩を諌め、モンゴル会に近づけよう、そんな思惑で会が持たれた。そう見るのが至当だろう。少しは「焼きを入れてやろう」、そんな気持ちもあったかも知れない。冷静に今回の事件をたどればこんな流れが見えてくる。
 
 一連の報道でまったく触れられていないのが、石浦氏がどんな意図でこの集まりを催おされたのか、という点である。どのマスコミも取材していない。しかしこの点が明らかにならないと、二次会の性格を特定することができない。事件の核心はまさにここにあるのだが、誰も疑問すら示さないのが不思議である。もし石浦氏がモンゴルの横綱(あるいは相撲協会)に頼まれたとしたらそれはそれで問題の波及が広がるであろうし、モンゴル会がこの集会を知って割り込んできたとすればそれはそれで今回の騒動の真相が明確になる。
 事の発端である石浦氏主催の会の意図、性格を明らかにすることが真相究明の第一歩である。
  
 閑話休題。小さな記事だが非常に気にかかったので考えて見たい。
 2014年11月、埼玉県深谷市が「ふかや緑の王国」で開いた「秋祭り」で、当時5歳の幼児が輪投げの景品として置かれていた駄菓子を係員の制止を聞かず袋から取り出したので、会場のボランティアの男性大声で注意したところ、これが原因で子どもがPTSD=心的外傷後ストレス障害になったとして、女の子と両親が深谷市に約100万円の損害賠償を求める訴えを起こした裁判の判決が9日東京地方裁判所であった。鈴木正紀裁判官は「ボランティアの男性が女の子の親のしつけができていないと考え、大声で注意したことがPTSDの原因の1つになった」と指摘した一方で、女の子の父親が男性に謝罪を求め、激しい口論になったこともPTSDに関係しているなどとして親の落ち度も認め、深谷市に対して病院に通った費用や慰謝料の一部として20万円余りの賠償を命じた。「短時間の出来事で、PTSDの症状があるとすれば別の原因が考えられる」などと主張し争っていた深谷市は「判決文が届きしだい、内容をよく精査して今後の対応を協議したい」としてい
 
 ほんの些細な子どものいたずらが、なぜここまでの事件に発展したのだろうか。
 まず親のしつけができていないという見方がある。係員は最初「おじょうちゃん、勝手にお菓子だしたらダメだよ」とやさしくたしなめたに違いない。しかし子どもは言うことをきかなかった。二度三度注意したが子どもが応じなかったので大声で叱ったのだろう。今どきの親は子どもに遠慮してキツク叱ることもできないから「こわいおっちゃん」になってしつけてやろう、そんな思いも係員の方にはあったかもしれない。
 ふたつ目に、自分の子どもが他人に罵倒され叱責されたことに腹を立てた父親が、子ども可愛さの余り係員に謝罪を求めたが折り合わなかったので激しい口論になった。これには二つの側面があって、他人にわが子が叱責される謂れはないという偏狭な親の怒りと、係員は市民に対してサービスする立場の行政の人間なのに上から偉そうに振舞ったことへの腹立たしさ。
 最後に子どもの立場から考えて。叱られ慣れていない、少なくとも身に危険を感じるほどの激しい攻撃的な罵倒や叱責を受けた経験がなかった。父親が、見たこともないような野蛮で猛々しい人だということをはじめて知ったショック。
 
 しつけのできていない子どもは少なくない。家庭内では厳しいしつけを受けていて「お利口さん」な子どもでも、外では、他人に対してはまったく野放図なこどもは結構いる。このタイプの子どもは、親から暴力的な抑圧を受けていたり、食事を含めた物質的な締め付けを受けていることが多い。このような関係の親子を第三者としてみていると、「支配者と被支配者」の関係に見えることがある。子どもは親の「所有物」と思っているのかも知れない。この型の親は子どもが他人から叱責を受けたりすると、その人に対して常識外の反撃をする。それは「自己の所有物」を他人が侵した、と感じるからだろう。
 最近の傾向として、行政やサービス業の人に対して「理不尽」に「上位者意識」をもって対する人がいる。一時テレビでよく取り上げられた、コンビニの店員に「土下座」を要求するタイプの人、役所や病院で威丈高に文句を言っている輩がこれに当たる。「お客様は神様です」という間違った「おもてなし」意識がこうした志向を助長したのだろう。
 もっとも危惧するのは、公私にかかわらず「催事」の主催者の「執行能力」に対する不安である。野外コンサートでの「雷対応」の失策による「落雷死亡事故」、アイドルの握手会での傷害事件、野外の和紙オブジェの火災死亡事故、など枚挙に暇がない。今回の子どものPTSDにしても、ボランティアの係員への指導がどの程度まで行われていたのか大いに疑問がある。
 
 結局我国には「コモンズ」の概念がいちじるしく欠如しているのではないか。公私とは別に「多くの人が自由意志で集う場所」における「振舞いの約束」が共有できていないのだ。
 市民としての『成熟』、これが今後の我国の大事な課題である。

2017年11月20日月曜日

ことばはやさしく美しくひびきよく…

                  サトウハチロー
美しいことばは
相手にキモチよくつたわる
ひびきのよいことばは
相手のキモチをなごやかにする

ことばで 語り
ことばで 受け答える
ことばで はげまし
ことばで 礼をいう

よくわかることばほど
うれしいものはない
やさしいことば使いは
おたがいの心をむすびつける

ことばがすらすらと出た日は
一日たのしい
ことばがつかえた日は
夜までくるしい

だがボクは
共通語だけを
美しいとは思っていない
方言でなければ
あらわせないもの
言いつくせない味や色や形や匂い
それをふりすててはいけない
それはそれで
とりいれなければいけない
それを
話しの間にあしらってこそ
その人のよさが出る
その人のよさがにじみ出る

おはようからおやすみまで ことば
外でも家でも ことば
ともだちとも ことば
買物も ことば                             

ことばは
いつもいっしょにいる
ことばが足ぶみしないで
唇から出るようになればしめたものだ
ことばで 動き
ことばで よろこぶ
ことばで 嘆き
ことばで うなだれる

美しいことばは
相手にキモチよくつたわる
ひびきのよいことばは
相手のキモチをなごやかにする
 
 むつかしい言葉のひとつもないこの「詩」のなんと心地よいことか。作者のサトウハチロー(19031973)は詩人・作家で佐藤愛子の異母兄にあたる人で童謡「ちいさい秋みつけた」や歌謡曲「リンゴの唄」「長崎の鐘」などをつくっている。われわれ世代はNHKラジオ「話の泉」でまず彼に接した記憶がある。テレビ草創期にはテレビにも相当出ていたように思う。この詩を知ったのはNHKテレビドラマ『この声をきみに』の最終回に朗読されたのを聞いたからだ。(このドラマはここ十年ほどで放送されたドラマの中で最高傑作だと思うがそれについては別の機会にゆずる)。
 
 この数十年の言葉の劣化はおそろしいほどである。政治の言葉はいまや空虚を通りこして「不誠実」の典型だし、SNSは「ことばをつくす」という「テマ・ヒマ」を拒絶しているから伝達手段としての「熟達」が見込めない。トランプの出現は感情的なことばの扇動が事実を凌駕する――『ポスト真実』な政治状況で世界を不安定化し混沌に落としいれている。
 
 科学は「メディア(伝達手段)」の進化と多様化をもたらしたが「ことばの劣化・貧困化」は防げないでいる。なぜそうなったかを考えてみると、ことばの「不完全性」には手をつけずに与件として――とりあえず「そこにあるもの」として科学が取り組みやすい方向に「進歩」を追求してきたからだ。ことばを少しでも良いもの、豊かなものにすることは科学の領域ではなかったからでもある。
 ところが世の中は「科学」と「資本主義」を『万能』と「たてまつ(奉)った」からこんなことになってしまった。
 ところがその「科学」と「資本主義」が決して『一番』ではないことが分かってきた。
 
 さあ、どうする。サトウハチローが、そう、いっているようだ。
 

2017年11月13日月曜日

もしも鏡がなかったら(2)

 「もしも鏡がなかったら」という設問に予想外の反応を示したのは女性だった。極端に言えば、生きることと鏡は不可分の関係にある、といっても言い過ぎではないほどの執着を女性は鏡に抱いているようだ。いうまでもなく「鏡=粧い」という関係性が成立しているためだろう。
 粧いが女性にとっていかに重要なものであるかを知ったのはつい最近のことだった。七十才をこえた妻は化粧やおしゃれに対する意欲が衰えるどころかますます旺盛になるのを間近に見ていてそう思い知らされたのだ。どこかで、なにかに、ふんぎりをつけたのか、割り切ったのか、化粧品を変えたりおしゃれのパターンを変えたりして様子が変化した。彼女の努力に対する私の評価は「可」である、振る舞いに「キレ」がでてきた。老いよりも健康が勝っているようで、それを「粧い」が強調したのかもしれない。
 
 ヨーロッパの貴族はおびただしい数の「肖像画」を遺している。お気に入りのお抱え画家に描かせたのだが、男性は肖像画を「権威」の象徴として「権力」を誇示し女性は「美貌」を顕示したかったのだろう。しかし庶民を絵画のモチーフとする画家はまだ稀にしか存在していなかったから彼らが自らを直視するのは十九世紀半ばの「ガラス鏡」の出現をまたなければならなかった。
 十九世紀初期になってヨーロッパでシャワーや入浴が衛生上有益なものであるという認識が広まりはじめた。驚くことにそれまでは水や湯に体を浸すのは明らかに不健康どころか危険でさえあるというのが社会通念だった。毛穴を土や油でふさぐことによって、病気から身を守るとされていたのだ(『世界をつくった6つの革命の物語』より)。ちょうどその頃「きれいな飲料水と信頼できる排泄物処理の問題が解決されて(同上書より)」人口数百万人規模の大都市を支えるインフラが整備できるようになる。
 「ガラス鏡」に映った自分を見て、みすぼらしい装いと不潔で臭い肉体を知った女性は「粧い」への渇望を抱いたにちがいない。
 
 女性が化粧とおしゃれに大きな意味をもつようになったのはこの頃からだろう。しかし当時は男性社会だったから男性上位の社会規範に従い女性は従属する「装飾的存在」として意識されていただろう。社会から期待されたイメージどおりに演じたり隠したり従ったりすることが求められたから、関心は自分の外見に向いがちだった、外見の方がコントロールしやすいから。若さを重要視する風潮の中で「娘」「母」「祖母」の三つの役割で定義される「女性性」は齢をとることは「衰え」を意味し自分の装飾物としての価値が減少していることに気づかされ女性を無力にした。
 鏡に映った自分を男性社会に受け入れられるようにしようと考えた女性を蝕んだ要因の第一は「依存」であり第二にたえまない「否定」があった。第三にあげられるのは「比較」であり、この三つの要因に従属せざるをえなかった多くの女性は対等な関係をもつことを困難にし、人に頼るか人から頼られる中でしか関係性を維持できない存在におとしめた。
 資本主義の発達はやがて「大量生産・大量消費」の時代を迎える。マス・メディアを通じた情報操作によって「欲望」を増幅された女性はますます「依存」と「比較」によって「おしつけられた」イメージに支配されるようになる。
 
 十九世紀から二十世紀にかけて「鏡」に「翻弄」されつづけた女性は、二十一世紀の「長寿社会」の本格化を迎えてようやく「女性性」について真剣に考えるようになる。
 「娘・母・祖母」の役割を受け入れているあいだは自尊心のある態度の大切さや、自分のからだを知り楽しむことからはほど遠い生き方をしなければならない。自分自身に目を向けるより、他人の目に魅力的にうつりたいという欲求を捨てない限り「老い」は自己の存在を「否定」するばかりになってしまう。
 産後初めて自分のからだを見たとき、肉の塊、しわ、たるみに動揺し、女性は非常に傷つく。中年期に起るほとんどは、からだの魅力の喪失である。からだの線がくずれる、美貌が衰える、しわがよる、中年太りになる、足首が太くなる――これらの言葉のどれもが中年や老年に結びつく。もし女性の自己評価が外見的な魅力にかかっているかぎり、女性は老いの無力感から解放されることはない。
 中高年の女性が経験と英知の源であることが忘れられている。ありのままの自分を祝福し自分の中のこれまで否定してきた部分を受け入れる。大切なのは「どうしたいか」であって社会の規範や期待にあわせる必要はまったくないのである。
 「女性性」を「乙女」「女」「老女」ととらえ直してみるのである。母になることや子育ても自分をなくすことではないし、「老女」とは本来の美しさや自分のからだを失わない賢い女を意味するのであり、その肉体の死が近づくにつれ、「老い」は精神的な英知の源となる。
 見ること、自分のからだを好きになることが、自分を愛する、「老い」を受容する第一歩になる。
 
 女性についてばかり書いてきた。しかし男性も外的なものに翻弄されているのは同じである。社会的地位や権力、財産などは女性の「粧い」と同じく「依存・比較・否定」を判断基準とした価値に他ならない。「二十歳までの成長期・六十歳までの生産社会時代・それ以後の老年時代」、すなわち「人生百歳時代」になれば「生産社会」から引退した「後期三十年」は『自律』した『自分だけの価値・能力』がなければ生きていけない。
 
 「鏡に映った自分の顔と肉体」を楽しみ、愛するような「生き方」が望まれている。
この稿はアン・ディクソン著『ミラー・ウィズィン』を参考にしています
 

2017年11月6日月曜日

もしも鏡がなかったら 

 普段当たり前に思っていたことが急に疑問に思えてきて、そしてその答を知ったとき世の中の見方が一変する経験をしたことはないだろうか。
 
 もしも鏡がなかったら、フトそんなことを思ったのはある朝のことだった。洗面を終わってなに気なく鏡に映ったわが顔を見て「老けたなぁ」としみじみ感じた。そりゃぁそうだろう、もう七十六年も生きているのだから老人でないはずがない。しかしもし、鏡がなかったら、自分の顔を知ることができなかったらどんな具合なのだろうか。
 一体人が自分の顔を正確に認識するようになったのはいつごろからだろう。古代史に出てくる銅鏡であったり三角縁神獣鏡の類は一種の神器であって実用的ではなかったようだし、たとえ鏡像がある程度鮮明であっても所有できるのは位の高い階級に限られていたから、自分の顔容姿(かおかたち)を知る方法は「水面」くらいしかなかったにちがいない。とすれば、今あるような鏡が発明されるまでは自分の顔を自分ではっきりと知ることはなかったと考える方が本当らしい。
 赤ん坊は自分をどのように認識しているのだろう。母親が抱きかかえてくれている、授乳してくれる、話しかけてくれる、そうした動作の反作用として「自分がある」ことをまず感覚するだろう。それがいつころまでつづくかは定かではないが、もしそうした存在の母親が虐待を加えたり育児放棄したりすれば、幼児の不安は「根源的」であり精神のうえに劇的な損傷を与えるであろうことは想像に難くない。
 おとなであっても「自己認識」のあり方は同じだったのではないか。両親であったり家族であったり周囲の人間との会話や交わりの中で相手が自分に投げかける、指示、命令、称賛、叱責、愛情、嫌悪などによって「自分像」を築いていたと考えるのが自然だろう。「人間」という言葉はそうした事情を表しているように思う。「人の間に存在するもの」として人間を捉えていた、そんな響きをこの言葉は訴えてくる。漢詩や日本の歌集に「影」を詠ったものが少なくないのは、自分のすがたや動きを自分の眼でみる身近なものとして「影」があったからだろう。李白の有名な「月下独酌」に「杯(さかずき)を挙げて名月を迎え、影に対して三人と成る 影徒(いたづらに我が身に随う暫(しばら)く月と影とを伴い 我歌えば月徘徊(はいかい)し、我舞えば影零乱(りょうらん)す」と詠われた様は、酒に酔って月に照らされた影と自分が乱れ舞う喜びの姿が髣髴としている。
 自分を知るうえで、両親、家族、地域、村・部族が非常に重要であった。まず、自分以外があって、そして自分がある。今とはまったく「正反対」の存在として「自分」があったのではないか。それゆえ、それらとの「紐帯」は強固であった。
 
 「ガラス鏡」誕生したのは1317年だが大量生産できるようになったのは1835年、19世紀最大の化学者と言われるドイツのフォン・リービッヒが開発した。日本における「ガラス鏡」の歴史は1549年フランシスコ・ザビエルによって伝えられたことに始まる。ガラス製の鏡が初めて作られたのは18世紀後半、泉州(今の大阪府)佐野市であったとされ、その頃使用されていたのは鬢鏡(びんきょう;柄付きの小さな手鏡だった。 明治時代にヨーロッパから板ガラスが輸入されるようになり、ゆがみのない大きな鏡を作ることができるようになる。
 
 鏡ができて人間はどう変わったか。新しいモノそのものとともに、自意識、内省、鏡との会話が発達した。」とルイス・マンフォードは『技術と文明』(鎌倉書房)に書いている。財産権その他の法的慣習だけでなく社会慣習も、家族や部族や都市や王国といった昔からの集団単位ではなく、個人中心に展開されるようになる。人々は内部の生活を詳しく綴るようになる。(略)とくに一人称の語り手による小説に入り込むことは、一種の観念的な室内奇術である。(略)言ってみれば心理小説とは、鏡の中の自分を見つめることに人生の有意義な時間を費やすようになると、聞きたくなる種類の物語なのだ。(略)ヨーロッパ人の意識に新たに自分を中心にすえるという根本的な転換が起こり、さざ波のように世界中に広がることになる(そしていまだに広がっている)。(略)自己中心の世界は近代資本主義と相性がよかった(略)個人中心の法律は、人権尊重のあらゆる慣習と法典における個人の自由の重視に直接つながった世界をつくった6つの革命の物語』スティヴン・ジョンソン著大田直子訳・朝日新聞出版より)。
 
 鏡ができてまだ僅かに200年ソコソコにしかならない。しかしこの間の「個人主義」の進展は急速である。特に我国のそれは異常で戦後70年、核家族化の速度、深度は想像を超える。工業化と高度成長は地方から都市への移動を極限まで推進し、故郷を喪失した都市市民は極端に『個化』した。両親との『離別』、地域社会との『離反』、『私有財産』への偏執的な拘泥。そしてSNSの浸潤は「自分」と「自分の分身」だけの「世界」以外は消滅したかの様相を呈している。
 
 北朝鮮問題が緊張感を高め戦争が現実味を帯びてきている。しかし人間が『まず自分以外があって、そして自分がある』という鏡のない頃の「人間観」を思い出せば解決策は見出せるはずだ。老いた我が顔(かんばせ)を鏡の中に見ながらそんなことを思った。
 
 
 

2017年10月30日月曜日

企業の論理を政治と学校に持ち込むな!

 哲学者ハンナ・アレントは著書『人間の条件』のなかで、政治の条件は複数性であると述べている。「複数性とは、人間が必ず複数人いるということである。人間が複数人いるということは、そこに必ず不一致があるということだ。したがって政治とは、そうした不一致がもたらす複数性のなかで、人々が一致を探り、一致を達成し、コミュニティを動かしていく活動に他ならない」。
 「一致を探る」基準として我国の政党は(1)憲法9条(「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」)を変更するか護持するか(2)私権の制限を最少に保つか、大きな政府を志向するか(3)原発推進かゼロか、などで大きく色分けされている。識者でも時々誤っているのは、自民党は右も左も幅広く包含している政党であるとあいまいに捉えている人がいるが(1)に関しては「改憲」で全党員一致している。ところが民進党は護憲派と改憲派が混在した方向性の一致していない不明瞭な政党だった。それが災いして政権奪取を果したにもかかわらず散々の態をさらして党勢衰亡の一途を辿ったのである。
 今回の衆議院総選挙で希望の党の小池代表が「踏み絵」を提示して『排除』の論理を持ち出したのは、民進党の轍を踏まないために「護憲派」を受け容れず「改憲」で『純化』を図ろうとしたに過ぎない。ただ、『言葉』の選択を誤った。なぜそんな過ちを犯してしまったのか?
 
 株の格言に「もうはまだ也、まだはもう也」というのがある。その意味するところは、もう底だろうと思えるようなときは、まだ下値があるのではないかと一応考えてみなさい。反対に、まだがるのではないかと思うときは、もうこのへんが天井かもしれないと戦術転換する警戒心が望まれる、というのである。
 小池新党(「都民ファーストの会」)は先の東京都議会議員選挙で「前代未聞!空前絶後!」の『大勝利』を果した。本当の勝負師なら「これほどの大勝ちはめったにあるものではない。ソロソロ甲の緒を締めねば」と自戒するのが常道だが小池氏は「図に乗って」しまった。自らを「大権力者」でもあるかのように「驕り高ぶった」。並居る議員を「睥睨」し党発足メンバーである若狭氏や細野氏を子ども扱いして「リセットします」とシャシャリ出た。あのときの、体面を踏みにじられ憮然とした両者の顔つきを見た多くの庶民は、完全に小池氏に背を向けたに違いない。弱者であったはずが『強者』に変貌してしまった彼女に安倍首相が二重映しになっていた。
 『風』は止む、『逆風』が吹く。地方組織は無い、党是も無く党則もにわかづくりの「ハリボテ政党」から「カリスマ党首」が消えてしまえば結果は明らかだ。「無節操」議員たちの『醜悪さ』がみじめだった。
 
 小選挙区制になって、二大政党で政権選択を競う政治環境がつくりだされて政党が主になり、政治家個人が埋没してしまいがちな政治状況だが、それでも政治は市民に負託された「政治家」ひとりひとりと彼らの『政治信条』が集約した『政党』が緊張関係を保って運営されるのが本道だろう。ところが実際は小選挙区比例代表制と政党交付金制度が相乗効果となって「政党の優位性」を不動のものにしている。「政治の論理」よりも「選挙に勝つこと」が至上命題になってしまった結果、「一致を探る基準」ではなく選挙という市場で勝つ―「市場競争の論理」が幅を利かすようになっている。この勘違いを疑問視することなく受け入れる風潮が一般化して、「都民ファーストの会」の幹事長(代理?)が議員に送られてくるマスコミなどのアンケート対策として、すべて党本部経由で回答するように規制したことを批判されて「企業なら当然のことでなぜ批判を受けるのか理解に苦しむ」というに至っている。彼は政党と企業が根本的に異なっていることを理解していないのだが、小池代表ですら「結党者」というべきところを『創業者』というのだから何をか言わんや、である。昨今この類の人物が政党を牛耳っているところに『政治の劣化』が見て取れる。
 
 企業は「最少のコストで最大の成果」を上げ、市場競争に勝って利潤を最大化する組織と見ることができる。「調整」よりも「統制」が効果的な組織でもある。企業以外にもこうした論理が有効な組織やコミュニティは少なくないかも知れない。しかし、政治と教育は企業の論理を持ち込んではいけない最たる分野である。政治は「一致を探る」組織であり、教育は「自治」を最も基本とするコミュニティだからだ。行政や病院も企業の論理以外に重要視すべき価値と論理があるように思う。
 
 市場型資本主義が優勢な現在、あらゆる分野で資本の論理や企業の論理が幅を利かす風潮が強いが、価値が多様性した現代社会はそれほど単純ではない。

2017年10月23日月曜日

なぜ「社内留保」が積みあがるのか

 20世紀は「専業主婦」の時代であった。「夫婦子ども二人の四人家族」が「標準家庭」として当たり前のように考えられていた。政府や地方公共団体が種々の統計や計画を立てる場合にも「夫婦子ども二人の四人家族」が社会の基礎的単位として採用されていた。夫は「会社人間」で毎日の残業は当然、仕事のあとは接待で午前様の帰宅も珍しくなかった。土日の休みも接待ゴルフで家庭に居ない夫、お父さんでも家族は不満を云わなかった。たまに子どもがグズって駄々をこねるようなことがあれば「お父さん、頑張ってお仕事してくれるから皆んなが安心して暮らせるのよ」と妻が諭したものであった。
 そうなのだ、あの頃は『夫の収入』だけで家族四人が暮らせて、ローンを組めば持ち家も可能だったし子どもも何とか大学へ行かせられた。
 
 平成になって状況は一変した。1991年(平成3年)バブルが崩壊し2008年(平成20年)のリーマンショックで事態は更に深刻化した。1980年、昭和55年専業主婦世帯は約1100万世帯、共働き世帯は600万超世帯だったのが2016年(平成28年)にはそれが664万世帯と1129万世帯に逆転している。バブル崩壊から僅か5年―1996年に共働き世帯が専業主婦世帯より多くなり社会構造が大転換した、それからもう20年以上経過しているのに社会システムの変革がそれに追いついていない。
 日本の多くの企業は「新卒一括採用」で採用した社員を社内外の研修やOJTの現場教育で教育訓練して使えるように、戦力化した。終身雇用と年功序列の「日本型経営」は生活給型の給与制度を採用して年齢とともに給与が上昇したから結婚すれば「配偶者手当」、子どもが誕生するごとに「扶養家族手当」が支給され「夫だけの収入」で家族を養うことができた。大企業では社宅が完備していたから住居費を割安で済ませられたし中小企業でも「住宅手当」が支給されることが多かったから40才代でローンを組んで持ち家を手にすることも可能だった。高額の高等教育の授業料を負担して大学を卒業させた子どもたちが独立する頃には親を引き取って面倒を見る家庭も多く見られた。
 要するに、戦後我国の社会福祉政策はその多くを社員の雇用維持・保障と福利厚生制度によって企業に機能分担させてきたのである。政府は高度経済成長による税収増を減税に回して納税者に還元し、公共事業で企業に仕事を提供しその乗数効果で日本全体の雇用を維持することを図った。経済成長と企業の努力と労働運動と政府の施策の総体として日本における社会保障システムは機能してきたのである(実際の仕事は専業主婦たる女性が分担することが多かったが)。
 バブル崩壊とリーマンショックと経済のグローバル化はこうした「日本型経営」の維持を困難にしたので、企業は終身雇用・年功序列の改変と成果配分型の給与制度への移行、系列の解消などによって「企業経営の自由度」を高め、グローバル競争に対抗できる「スリムな企業体質」を獲得しようとした。
 
 「脱日本型経営」の進行とともにサラリーマンの平均年収は2001年(平成13年)の505万7千円を最高に2015年(平成27年)には420万円にまで減少した(厚労省賃金構造基本統計調査)。雇用に占める非正規雇用者の割合は2016年(平成28年)には37.5%にまで上昇し、平均給与は正規雇用者が418万円非正規雇用者が171万円で250万円近い格差になっている。男女別でみると正規雇用の男性521万円女性276万円で男性は女性の約1.9倍の収入を得ている。貧困率(相対貧困率/厚労省国民生活基礎調査による)は1980年12%、2000年15.3%、2012年16.3%と年々上昇してきた。
 こうした状況を背景に介護保険制度が2000年(平成12年)に施行された。「子育て支援」は1994年(平成6年)に「エンゼルプラン」としてスタートしたが保育所の整備によって潜在的保育需要(働いてはいないが就労を希望する子育て世代)が掘り起こされ、また認可外保育施設利用者が認可保育所に入所を希望するようになったことなどによって保育所不足は今も深刻な社会問題とになっている。
 
 社会保障制度の大きな部分を企業が負担することで「低負担中給付」を可能にしてきたのだが、「グローバル対応」の大義のもとに企業がその多くを放棄したために社会保障制度を維持することが困難になってきている。低成長で国の経済はほとんどセロ成長であるにもかかわらず企業のいわゆる「内部留保」は増加の一途をたどり2016年度の「内部留保金融業、保険業を除くは前年度よりも約28兆円多い4062348億円と、過去最高を更新した財務省法人企業統計によるちなみに1998年度の内部留保は131.1兆円であった
 内部留保の積み上がりのすべてが社会保障制度の負担分返上によるものとは云わないがそれも可なり影響していることは否めない。そのうえ、社員の戦力化を高等教育(大学)に肩代わりさせようとするのは身勝手が過ぎるというものだろう。
 
 戦後ここまで「アメリカ追随」「アメリカ方式の採用」でまあまあの国家経営ができてきた。市民、企業、政府の関係も偏りを最少に保ってきた。しかしここにきて、企業が突出して利益を得ているように国民の多くが感じている。北朝鮮、中国、ロシアとの東アジアでの勢力争いの名目で「戦力強化」費用が高騰しそうな情勢が迫っている。結果として「格差」がさらに拡大しそうである。過去の歴史の教訓は「格差拡大」は社会不安につながっている。
 折りしも「総選挙」である。保守・革新の程好いバランスが保てるような結果が出ることを願う。