2017年11月6日月曜日

もしも鏡がなかったら 

 普段当たり前に思っていたことが急に疑問に思えてきて、そしてその答を知ったとき世の中の見方が一変する経験をしたことはないだろうか。
 
 もしも鏡がなかったら、フトそんなことを思ったのはある朝のことだった。洗面を終わってなに気なく鏡に映ったわが顔を見て「老けたなぁ」としみじみ感じた。そりゃぁそうだろう、もう七十六年も生きているのだから老人でないはずがない。しかしもし、鏡がなかったら、自分の顔を知ることができなかったらどんな具合なのだろうか。
 一体人が自分の顔を正確に認識するようになったのはいつごろからだろう。古代史に出てくる銅鏡であったり三角縁神獣鏡の類は一種の神器であって実用的ではなかったようだし、たとえ鏡像がある程度鮮明であっても所有できるのは位の高い階級に限られていたから、自分の顔容姿(かおかたち)を知る方法は「水面」くらいしかなかったにちがいない。とすれば、今あるような鏡が発明されるまでは自分の顔を自分ではっきりと知ることはなかったと考える方が本当らしい。
 赤ん坊は自分をどのように認識しているのだろう。母親が抱きかかえてくれている、授乳してくれる、話しかけてくれる、そうした動作の反作用として「自分がある」ことをまず感覚するだろう。それがいつころまでつづくかは定かではないが、もしそうした存在の母親が虐待を加えたり育児放棄したりすれば、幼児の不安は「根源的」であり精神のうえに劇的な損傷を与えるであろうことは想像に難くない。
 おとなであっても「自己認識」のあり方は同じだったのではないか。両親であったり家族であったり周囲の人間との会話や交わりの中で相手が自分に投げかける、指示、命令、称賛、叱責、愛情、嫌悪などによって「自分像」を築いていたと考えるのが自然だろう。「人間」という言葉はそうした事情を表しているように思う。「人の間に存在するもの」として人間を捉えていた、そんな響きをこの言葉は訴えてくる。漢詩や日本の歌集に「影」を詠ったものが少なくないのは、自分のすがたや動きを自分の眼でみる身近なものとして「影」があったからだろう。李白の有名な「月下独酌」に「杯(さかずき)を挙げて名月を迎え、影に対して三人と成る 影徒(いたづらに我が身に随う暫(しばら)く月と影とを伴い 我歌えば月徘徊(はいかい)し、我舞えば影零乱(りょうらん)す」と詠われた様は、酒に酔って月に照らされた影と自分が乱れ舞う喜びの姿が髣髴としている。
 自分を知るうえで、両親、家族、地域、村・部族が非常に重要であった。まず、自分以外があって、そして自分がある。今とはまったく「正反対」の存在として「自分」があったのではないか。それゆえ、それらとの「紐帯」は強固であった。
 
 「ガラス鏡」誕生したのは1317年だが大量生産できるようになったのは1835年、19世紀最大の化学者と言われるドイツのフォン・リービッヒが開発した。日本における「ガラス鏡」の歴史は1549年フランシスコ・ザビエルによって伝えられたことに始まる。ガラス製の鏡が初めて作られたのは18世紀後半、泉州(今の大阪府)佐野市であったとされ、その頃使用されていたのは鬢鏡(びんきょう;柄付きの小さな手鏡だった。 明治時代にヨーロッパから板ガラスが輸入されるようになり、ゆがみのない大きな鏡を作ることができるようになる。
 
 鏡ができて人間はどう変わったか。新しいモノそのものとともに、自意識、内省、鏡との会話が発達した。」とルイス・マンフォードは『技術と文明』(鎌倉書房)に書いている。財産権その他の法的慣習だけでなく社会慣習も、家族や部族や都市や王国といった昔からの集団単位ではなく、個人中心に展開されるようになる。人々は内部の生活を詳しく綴るようになる。(略)とくに一人称の語り手による小説に入り込むことは、一種の観念的な室内奇術である。(略)言ってみれば心理小説とは、鏡の中の自分を見つめることに人生の有意義な時間を費やすようになると、聞きたくなる種類の物語なのだ。(略)ヨーロッパ人の意識に新たに自分を中心にすえるという根本的な転換が起こり、さざ波のように世界中に広がることになる(そしていまだに広がっている)。(略)自己中心の世界は近代資本主義と相性がよかった(略)個人中心の法律は、人権尊重のあらゆる慣習と法典における個人の自由の重視に直接つながった世界をつくった6つの革命の物語』スティヴン・ジョンソン著大田直子訳・朝日新聞出版より)。
 
 鏡ができてまだ僅かに200年ソコソコにしかならない。しかしこの間の「個人主義」の進展は急速である。特に我国のそれは異常で戦後70年、核家族化の速度、深度は想像を超える。工業化と高度成長は地方から都市への移動を極限まで推進し、故郷を喪失した都市市民は極端に『個化』した。両親との『離別』、地域社会との『離反』、『私有財産』への偏執的な拘泥。そしてSNSの浸潤は「自分」と「自分の分身」だけの「世界」以外は消滅したかの様相を呈している。
 
 北朝鮮問題が緊張感を高め戦争が現実味を帯びてきている。しかし人間が『まず自分以外があって、そして自分がある』という鏡のない頃の「人間観」を思い出せば解決策は見出せるはずだ。老いた我が顔(かんばせ)を鏡の中に見ながらそんなことを思った。
 
 
 

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