2017年11月13日月曜日

もしも鏡がなかったら(2)

 「もしも鏡がなかったら」という設問に予想外の反応を示したのは女性だった。極端に言えば、生きることと鏡は不可分の関係にある、といっても言い過ぎではないほどの執着を女性は鏡に抱いているようだ。いうまでもなく「鏡=粧い」という関係性が成立しているためだろう。
 粧いが女性にとっていかに重要なものであるかを知ったのはつい最近のことだった。七十才をこえた妻は化粧やおしゃれに対する意欲が衰えるどころかますます旺盛になるのを間近に見ていてそう思い知らされたのだ。どこかで、なにかに、ふんぎりをつけたのか、割り切ったのか、化粧品を変えたりおしゃれのパターンを変えたりして様子が変化した。彼女の努力に対する私の評価は「可」である、振る舞いに「キレ」がでてきた。老いよりも健康が勝っているようで、それを「粧い」が強調したのかもしれない。
 
 ヨーロッパの貴族はおびただしい数の「肖像画」を遺している。お気に入りのお抱え画家に描かせたのだが、男性は肖像画を「権威」の象徴として「権力」を誇示し女性は「美貌」を顕示したかったのだろう。しかし庶民を絵画のモチーフとする画家はまだ稀にしか存在していなかったから彼らが自らを直視するのは十九世紀半ばの「ガラス鏡」の出現をまたなければならなかった。
 十九世紀初期になってヨーロッパでシャワーや入浴が衛生上有益なものであるという認識が広まりはじめた。驚くことにそれまでは水や湯に体を浸すのは明らかに不健康どころか危険でさえあるというのが社会通念だった。毛穴を土や油でふさぐことによって、病気から身を守るとされていたのだ(『世界をつくった6つの革命の物語』より)。ちょうどその頃「きれいな飲料水と信頼できる排泄物処理の問題が解決されて(同上書より)」人口数百万人規模の大都市を支えるインフラが整備できるようになる。
 「ガラス鏡」に映った自分を見て、みすぼらしい装いと不潔で臭い肉体を知った女性は「粧い」への渇望を抱いたにちがいない。
 
 女性が化粧とおしゃれに大きな意味をもつようになったのはこの頃からだろう。しかし当時は男性社会だったから男性上位の社会規範に従い女性は従属する「装飾的存在」として意識されていただろう。社会から期待されたイメージどおりに演じたり隠したり従ったりすることが求められたから、関心は自分の外見に向いがちだった、外見の方がコントロールしやすいから。若さを重要視する風潮の中で「娘」「母」「祖母」の三つの役割で定義される「女性性」は齢をとることは「衰え」を意味し自分の装飾物としての価値が減少していることに気づかされ女性を無力にした。
 鏡に映った自分を男性社会に受け入れられるようにしようと考えた女性を蝕んだ要因の第一は「依存」であり第二にたえまない「否定」があった。第三にあげられるのは「比較」であり、この三つの要因に従属せざるをえなかった多くの女性は対等な関係をもつことを困難にし、人に頼るか人から頼られる中でしか関係性を維持できない存在におとしめた。
 資本主義の発達はやがて「大量生産・大量消費」の時代を迎える。マス・メディアを通じた情報操作によって「欲望」を増幅された女性はますます「依存」と「比較」によって「おしつけられた」イメージに支配されるようになる。
 
 十九世紀から二十世紀にかけて「鏡」に「翻弄」されつづけた女性は、二十一世紀の「長寿社会」の本格化を迎えてようやく「女性性」について真剣に考えるようになる。
 「娘・母・祖母」の役割を受け入れているあいだは自尊心のある態度の大切さや、自分のからだを知り楽しむことからはほど遠い生き方をしなければならない。自分自身に目を向けるより、他人の目に魅力的にうつりたいという欲求を捨てない限り「老い」は自己の存在を「否定」するばかりになってしまう。
 産後初めて自分のからだを見たとき、肉の塊、しわ、たるみに動揺し、女性は非常に傷つく。中年期に起るほとんどは、からだの魅力の喪失である。からだの線がくずれる、美貌が衰える、しわがよる、中年太りになる、足首が太くなる――これらの言葉のどれもが中年や老年に結びつく。もし女性の自己評価が外見的な魅力にかかっているかぎり、女性は老いの無力感から解放されることはない。
 中高年の女性が経験と英知の源であることが忘れられている。ありのままの自分を祝福し自分の中のこれまで否定してきた部分を受け入れる。大切なのは「どうしたいか」であって社会の規範や期待にあわせる必要はまったくないのである。
 「女性性」を「乙女」「女」「老女」ととらえ直してみるのである。母になることや子育ても自分をなくすことではないし、「老女」とは本来の美しさや自分のからだを失わない賢い女を意味するのであり、その肉体の死が近づくにつれ、「老い」は精神的な英知の源となる。
 見ること、自分のからだを好きになることが、自分を愛する、「老い」を受容する第一歩になる。
 
 女性についてばかり書いてきた。しかし男性も外的なものに翻弄されているのは同じである。社会的地位や権力、財産などは女性の「粧い」と同じく「依存・比較・否定」を判断基準とした価値に他ならない。「二十歳までの成長期・六十歳までの生産社会時代・それ以後の老年時代」、すなわち「人生百歳時代」になれば「生産社会」から引退した「後期三十年」は『自律』した『自分だけの価値・能力』がなければ生きていけない。
 
 「鏡に映った自分の顔と肉体」を楽しみ、愛するような「生き方」が望まれている。
この稿はアン・ディクソン著『ミラー・ウィズィン』を参考にしています
 

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