2017年11月27日月曜日

成心・僻見(29.11)

 大相撲の「日馬富士騒動」が混迷を極めている。そのなかで明らかになっていない一つの疑問について書いてみたい。
 今回の暴力事件はある集まりの二次会で起った。騒動の報道は二次会に焦点を当てて伝えられているが事の真相は本来の一次会にあるように思う。暴行を受けた貴ノ岩は師匠の貴乃花の指導もあってモンゴル出身力士の親睦会など力士同士の集まりには努めて参加していなかった。勝負に私情が入って真正な相撲が保たれないことをおもんばかったからだ。今回の集まりは貴ノ岩の出身母校「鳥取城北高校」の校長でもあり相撲部監督でもある恩師・石浦外喜義氏の主催する会であったので参加したという。同校は大相撲の有力力士を輩出する名門校で、琴光喜、大翔のOBをはじめ現役にも貴ノ岩、石浦、照ノ富士、逸ノ城などがいる。その相撲部の監督であり相撲留学を実現してくれた石浦氏の主催する会合であれば貴ノ岩も参加せざるを得なかったであろう。ところがその場に予想もしなかった三横綱が在席していたのだ。石浦氏がどんな思惑でこの会を主催しどういうメンバーを招集したのかいまだに明らかになっていない。しかし貴ノ岩としては戸惑ったに違いない。そして問題は二次会のメンバーだ。貴ノ岩のほかは三横綱、照ノ富士のモンゴル力士以外に日本人力士数名の総勢十人ほどであったと伝えられている。
 先にも述べたか石浦氏がどんな意図でこの会を催したか不明だが、二次会の参加者を見れば明らかに「何かの意図」が読み取れる。「貴ノ岩を糾弾、または問責、懲罰」するための集まりだった、という意図である。モンゴル会と距離を置き同郷の目上の者に不遜な態度を示しがちな貴ノ岩を諌め、モンゴル会に近づけよう、そんな思惑で会が持たれた。そう見るのが至当だろう。少しは「焼きを入れてやろう」、そんな気持ちもあったかも知れない。冷静に今回の事件をたどればこんな流れが見えてくる。
 
 一連の報道でまったく触れられていないのが、石浦氏がどんな意図でこの集まりを催おされたのか、という点である。どのマスコミも取材していない。しかしこの点が明らかにならないと、二次会の性格を特定することができない。事件の核心はまさにここにあるのだが、誰も疑問すら示さないのが不思議である。もし石浦氏がモンゴルの横綱(あるいは相撲協会)に頼まれたとしたらそれはそれで問題の波及が広がるであろうし、モンゴル会がこの集会を知って割り込んできたとすればそれはそれで今回の騒動の真相が明確になる。
 事の発端である石浦氏主催の会の意図、性格を明らかにすることが真相究明の第一歩である。
  
 閑話休題。小さな記事だが非常に気にかかったので考えて見たい。
 2014年11月、埼玉県深谷市が「ふかや緑の王国」で開いた「秋祭り」で、当時5歳の幼児が輪投げの景品として置かれていた駄菓子を係員の制止を聞かず袋から取り出したので、会場のボランティアの男性大声で注意したところ、これが原因で子どもがPTSD=心的外傷後ストレス障害になったとして、女の子と両親が深谷市に約100万円の損害賠償を求める訴えを起こした裁判の判決が9日東京地方裁判所であった。鈴木正紀裁判官は「ボランティアの男性が女の子の親のしつけができていないと考え、大声で注意したことがPTSDの原因の1つになった」と指摘した一方で、女の子の父親が男性に謝罪を求め、激しい口論になったこともPTSDに関係しているなどとして親の落ち度も認め、深谷市に対して病院に通った費用や慰謝料の一部として20万円余りの賠償を命じた。「短時間の出来事で、PTSDの症状があるとすれば別の原因が考えられる」などと主張し争っていた深谷市は「判決文が届きしだい、内容をよく精査して今後の対応を協議したい」としてい
 
 ほんの些細な子どものいたずらが、なぜここまでの事件に発展したのだろうか。
 まず親のしつけができていないという見方がある。係員は最初「おじょうちゃん、勝手にお菓子だしたらダメだよ」とやさしくたしなめたに違いない。しかし子どもは言うことをきかなかった。二度三度注意したが子どもが応じなかったので大声で叱ったのだろう。今どきの親は子どもに遠慮してキツク叱ることもできないから「こわいおっちゃん」になってしつけてやろう、そんな思いも係員の方にはあったかもしれない。
 ふたつ目に、自分の子どもが他人に罵倒され叱責されたことに腹を立てた父親が、子ども可愛さの余り係員に謝罪を求めたが折り合わなかったので激しい口論になった。これには二つの側面があって、他人にわが子が叱責される謂れはないという偏狭な親の怒りと、係員は市民に対してサービスする立場の行政の人間なのに上から偉そうに振舞ったことへの腹立たしさ。
 最後に子どもの立場から考えて。叱られ慣れていない、少なくとも身に危険を感じるほどの激しい攻撃的な罵倒や叱責を受けた経験がなかった。父親が、見たこともないような野蛮で猛々しい人だということをはじめて知ったショック。
 
 しつけのできていない子どもは少なくない。家庭内では厳しいしつけを受けていて「お利口さん」な子どもでも、外では、他人に対してはまったく野放図なこどもは結構いる。このタイプの子どもは、親から暴力的な抑圧を受けていたり、食事を含めた物質的な締め付けを受けていることが多い。このような関係の親子を第三者としてみていると、「支配者と被支配者」の関係に見えることがある。子どもは親の「所有物」と思っているのかも知れない。この型の親は子どもが他人から叱責を受けたりすると、その人に対して常識外の反撃をする。それは「自己の所有物」を他人が侵した、と感じるからだろう。
 最近の傾向として、行政やサービス業の人に対して「理不尽」に「上位者意識」をもって対する人がいる。一時テレビでよく取り上げられた、コンビニの店員に「土下座」を要求するタイプの人、役所や病院で威丈高に文句を言っている輩がこれに当たる。「お客様は神様です」という間違った「おもてなし」意識がこうした志向を助長したのだろう。
 もっとも危惧するのは、公私にかかわらず「催事」の主催者の「執行能力」に対する不安である。野外コンサートでの「雷対応」の失策による「落雷死亡事故」、アイドルの握手会での傷害事件、野外の和紙オブジェの火災死亡事故、など枚挙に暇がない。今回の子どものPTSDにしても、ボランティアの係員への指導がどの程度まで行われていたのか大いに疑問がある。
 
 結局我国には「コモンズ」の概念がいちじるしく欠如しているのではないか。公私とは別に「多くの人が自由意志で集う場所」における「振舞いの約束」が共有できていないのだ。
 市民としての『成熟』、これが今後の我国の大事な課題である。

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