2022年5月30日月曜日

孫は何故かわいいか

 ――私の場合――

 わざわざ「私の場合」と断ったのは80才にして初孫を授かるという特異な条件があるからです。今どき早い人なら40才台で、大抵は60才台には経験していることを80才という人生も最晩年に至っての初体験ですから相当様子が異なるだろうと思うからです。そんな事情を言わせたのは次のような結論を得たからでもあります。

 なぜ孫は可愛いか?それは(1)孫だけでなく皆が愛しく思えるから(2)赤ちゃんが一番大変だということを知ったから、が私の結論です。

 

 40日間の滞在を終えて孫さまが無事ご帰還されました。まことに幸せな日々でした。「孫ロス」もありますがとりあえず「虚脱感」が全身を浸しています。疲れました!とにかく80才なのですから。78才の妻はほんとうに大変だっと思います。膝に孫を寝かせたまま背もたれに仰向いてうたた寝する白髪頭の妻に老いを見たとき愛しさがこみ上げてきました。こんな感情ははじめてでした。そんな妻に「Hクン、お母さんのことおかあさんと思たはるのと違うやろか」と娘が泣いて訴えたことがあったそうです。授乳後寝かしつけようといくらあやしても泣き止まない孫が「おばあちゃんとお散歩しましょうか」と抱きかかえて妻があやしながら歩いてやると暫くで寝付くということが何度かあって自信を失くした娘が思い余ったのでしょう。「なにいうてんの、Hチャンはあんたのことおかあさんと思たはるに決まってるやないの。Hチャン、あんただけが分かったはるの、他の人はまだ区別できてへんのよ」と諭したそうですがこれを「産後クライシス」というのでしょう。出産した女性が、激変してしまった生活に感じる現実的なしんどさにくわえて、ホルモンのバランスの崩れによる根源的&精神的な大不安、簡単にいうと全方位的に「まじ限界」という状況におかれること(川上未映子『きみは赤ちゃん』より)という状態に陥った娘が不憫でいとしくて……。あの子が人生のこんなところにまで成長してくれたのかと思うと本当に嬉しかった。そして人生の先輩として妻を認め頼る娘に、そして妻に、限りない「やさしさ」を感じたのです。

 妻や娘にやさしくなれなくて、孫だけを愛しく思うことなど可能でしょうか。考えてみると娘の生まれた当時の私はただただ赤ちゃんを育てなければならないという責任感ばかりで、ぎゃん泣きする赤ちゃんが早く首が座って健康な幼児に成長してくれることばかりを願っていました。赤ちゃんを「世話する対象」としか考えていませんでしたが赤ちゃん自身が成長しようと努力しているとは思いもしませんでした。

 赤ちゃんが『強制早産』で生まれてくることを知ったのは「人間観」の大転換でした。本来なら12~14ヶ月必要な生育期間を10ヶ月に短縮して早産で生まれるようになったのは人類が二足歩行になってスムースに早く歩くために(大きな獣の襲撃を避けるため)ガニ股から直行歩行が必要になりそれが骨盤と産道を狭くした、出産が困難になったので頭蓋骨と肩幅が成長し切る前に――10ヶ月に早産しなければならなくなって未熟児で生まれざるを得なくなったのです。勿論首は座っていませんし――首の骨がしっかり固定していたら狭い産道を通る時に骨が折れて死んでしまいます。聴覚以外は皆不完全で筋肉も骨も未成熟、内臓も成長途上です。だから赤ちゃんは生まれてから人類としての幼児の完成形に成長していかなければならないのです。授乳も下手ですし目もほとんど見えていません。膀胱は止水弁が完成していませんから満杯になれば溢れますし便は排出筋肉が不全ですから排泄が上手に出来ず便秘になりやすいのです。ミルクの嚥下機能と食道や胃腸が成長しますからゲップ、シャックリ、クシャミ、咳もしばしば発症します。

 赤ちゃんは自分で一生懸命成長しようと努力しているのです。母親は(おばあちゃんも父親も)赤ちゃんの手助けをしているのです。そんな赤ちゃんの姿を見ていると涙がこぼれそうになります。うーンと顔を真っ赤にしてキバッている赤ちゃんをみるとガンバレ、ガンバレと応援したくなります。こうした事情を知れば、育ててやっているという親の傲慢さは生まれようもないはずで育児書の第1ページには「強制早産」を記すべきです。育児の第一歩がここにあるということをまず知るべきなのです。

 そんなこんなで孫がたまらなく可愛いのです。娘が、妻が愛しいのです。

 

 泣く以外に伝達能力がありませんから「泣き声」は変化に富んでいます。空腹、排尿排便の不快、温度湿度の異常など。1ヶ月にもなると母親へ甘えることも多くなりますし、ほったらかしにされると「おーぃ」と呼ぶこともあるようです。室温には注意していても湿度管理は忘れがちですが、加湿器をつけて40~60%に保つようになってから夜泣きがピタリと止んで夜の寝つきも良くなりました。入眠直前にするぎゃん泣きは寝ることの危険性――未開時代の獣に襲われる危険性の意識がまだ残っているのでしょうか。授乳後などによくみられる「意味不明」の大泣きはひょっとしたら内臓の生長変化による違和感が影響しているかもしれません、成長期の子供が夜寝ているうちにも背が伸びて身体がキシることがあるように。

 

 孫は可愛いと目尻を下げていた友人たち。彼らの喜びがこの齢になってようやく知ることができました。そしてつくずく思うのです、こんなに幸せであっていいのかと。夫婦ともども健康に恵まれ毎日楽しみながら生活できて周りの人たちは親切に接してくれます。少しは世間のお役に立っているようですし喫茶店でご近所とも円満なつき合いができています。読書は快調ですし書く方も順調です。これから孫の成長を喜べる日がつづくとなると……もうどうしましょうか。

 

 初孫の 土筆めでたや おむつ換え――清英

 

 

 

 

 

 

 

2022年5月23日月曜日

今度生まれたら

  毎朝仏壇に手を合わせ「昨日も生かしていただきありがとうございました。息災に暮らすことができました」とご先祖にお礼を述べるだけになったのは70才ころからです。そのころテレビで「仏さまや神様にお願いをするものではありません。生かしていただいていることに感謝するのです。生きていることが尊いのです」とどこかのお坊さんが言っているのを聞いて妙にひびいたのです、ストンときたのです。

 30年ほど前、きんさんぎんさんが評判になりました。100才をすぎても元気で仲良く暮らす老姉妹を「理想の老後像」ともてはやしていました。しかし当時はどこかで「ただ長生きすることにどれほどの価値があるのか」と批判する気持ちがあったのも事実です。ところが70才を超えて身体のあちこちに衰えを感じることが多くなってくると、つつがなく長寿をまっとうしている老人に尊敬の念をいだくようになったのです。「生きる」ことは技術だ、とさえ思うようになりました。毎日食事をおいしくいただきキチンと排泄することがいかに困難であり、ありがたいことかを思い知ったのです。

 

 今月からNHK―BSPのプレミアムドラマ(日曜日午後10時~)で「しずかちゃんとパパ」のあと「今度生まれたら」がはじまりました(「しずかちゃんとパパ」は最近のドラマで最高に気持ちのいいドラマでした)。自分を犠牲にして専業主婦として生きてきた70才の女性が人生に疑問を抱きもがくドラマです。「70才になって、だれからもどこからも必要とされず余生を読書や趣味に費やす毎日をあなたは我慢できますか」と講演会で同年代の講師の女性弁護士にぶつけるシーンがありました。彼女には大学にいって造園業にすすむ道があったのですがそれを断念したことを後悔しています、70才になって何もない自分に不満を抱いています。こんな彼女に共感する人は多いかもしれません。

 

 60才をすぎて何年かたって暇ができたので、「老年期の読書」に取り組もうと決心しました。ただの「読書」でなくわざわざ「老年期の読書」としたのは「漱石の『草枕』がちゃんと読めるようになる」という目標があったからです。もうひとつ「展覧会や博物館で『書』が読めるようになりたい」という希望もあったのです。

 『草枕』は漱石の中で一番好きな作品でしたが「漢詩」がたびたび出てきてそれが読めなくて、当然のことながら理解できないで読みとばしてきました。それを克服したい。高齢になって展覧会を見る機会が多くなって、読めないくせに「書」が好きで、部分的にでもいいから何とか読めるようになりたい。このふたつの目的を達成するために、古文と漢詩に挑戦する、これが「老年期の読書」をはじめるにあたっての「課題」としました。タイミングが良かったのは当時NHK教育の早朝(6時)に「漢詩をよむ」という番組があって講師の石川忠久氏の解説とバックに流れる中国の景色の美しい映像が気に入って熱心に視聴できたことで漢詩は抵抗なく取り組むことができました。古文はなぜか西行の『西行物語』や『山家集』から入りました。万葉集、古今集、新古今集もざーっとですが目を通し、古事記、方丈記、土佐日記、和泉式部日記にも挑戦しました。大岡信や丸谷才一の研究書を読んで理解を深めました。およそ三四年は「修行」しました。勿論小説も乱読しましたが。

 この期間を通じて得たのは読解力だけでなく読書集中力の向上でした。長時間読書をつづけられなかった欠点を補うことができ長編を読めるようになったのはその後の読書生活に極めて強力な成果をもたらしてくれました。

 現在の毎日のスケジュールは午前中3~4時間の読書、昼2~3時間テレビ(録画したドラマとドキュメント)、1~2時間の書き物。朝はYouTubeをコンポにとばしてクラシックかジャズを聞きながら読書することも最近の楽しみですがそれは娘が嫁に行って空いた部屋を書斎にしたおかげです。むかし画廊周りで手に入れておいた素人画家の油絵を何枚か壁に飾ったことも読書を促進してくれているかもしれません。75才まで10年間テニスの打ち込んで身体を鍛えた名残りで今も毎朝1時間近くトレーニングする習慣がついて体力維持できていることはありがたいことで、食事がおいしくいただけているのは虫歯一本ない歯の健康のおかげです。

 20年近い読書生活を経て(1)意識・ことば・文字(2)権力の正当化としての天皇制のふたつの系列に好奇心が収斂してきました。古文は今、窪田空穂の評釈を手がかりに古今集と新古今集を読み込んでいます。万葉集は言葉が難解で感覚も隔たり過ぎて敬して遠ざけました。小説は女性作家のものに時代性が富んでいて多く読むようになっています。

 

 わたしにとって読書は「ヒマつぶし」ではありません、生活の中心です。「今度生まれたら」の主人公の女性は読書や趣味を「ヒマつぶし」にとらえています。それでは生活を充実させることはできなくて当然です。彼女は社会的に求められること、自分の能力が「生産社会」で生かされることで生きている充実感を得ようとしていますが、だれであれいずれはそんな環境が消滅する日が来るものです。百年時代の今、「以後の生活」が75才から始まるか80才85才であろうと25年~15年は彼女のいう「虚しい」生活を送ることになります。その時彼女はどうするのでしょうか。

 

 生きていること、生かされていることに「意味」を見いださない限り人生の最晩年は「ヒマつぶし」になってしまいます。「生かされている」ということは自分を第三者の視点でとらえていることにもつながります。自分の能力で生きているだけでなくおおきな存在の力を借りて生きていることを認めることにもなります。

 

 ドラマの彼女はどんな解決を見いだすでしょうか。全7話、あと5話の展開が楽しみです。

 

2022年5月16日月曜日

子育てのバイブル

  娘が1ヶ月検診に出かけました。約半日われわれ夫婦があずかることになります。「ちょっと見ててくれはりますか」と洗濯ものを乾そうとした妻がソファに座った私のヒザに孫を預けました。首の下に手を回して据わりを確かめあかちゃんを受け取りました。「無心」ということばそのままの黒目勝ちの眼がみつめています。なんとかわいいのでしょうか。黙ってただ見つめる、ただそれだけ。「無為」といってこれほど無為はありません、何するでもなくそっと両手でからだを支えて見ているだけ。ときどき消えているテレビの真っ黒の画面を見つめます。画面に映った白い自分と画面の黒が分かっているのでしょうか。至福の三十分でした。

  はじめて母親が自分の傍から消えるのですから不安を感じるにちがいありません。泣き止まずに手を焼かすのではないか、不慣れな紙おむつを変える時にむずからないだろうか。ミルクは充分にのんでくれるだろうか。そんなこっちの不安を気づかってくれたのか普段母親が世話している時よりもスムースに孫の世話を終えてほっとして娘夫婦にバトンタッチ。ところが娘が抱いたとたんにあかちゃんは猛烈に泣き出したのです。生まれたはじめての「大叫喚」。体を震わせのどが潰れるのではないかとおそれるほどの爆発的な泣き喚きは沐浴の間も授乳中も絶えることなく二時間近くつづきました。

 これはどうしたことでしょうか。

 あかちゃんはまだ誕生から1ヶ月ですから完全に「母体との同一性と均衡」の状態にあります。胎内で十ヶ月、生まれてからも三時間に一回の授乳、おしっことウンチの不快感からの解放などすべての「欲求」は母親が満たしてくれますから胎内でいるのと変わらない同一性と均衡が母親の体熱の伝わり方や臭い、触覚を通じて保たれています。

 それが突然前触れもなく「同一性と均衡」が消失したのです。本能的に「警戒心」を抱いたにちがいありません。大声で泣いて攻撃を受ける危険性、泣き喚いて授乳や排泄の世話をしてくれなくなることも本能的におそれるはずです。すべて「本能」で警戒心を貫いたのです。「あかちゃんは分かったはるんやね、おばあちゃん下手やから手ェ焼かしたらアカンて」と妻は言っていますがそれはない、本能的警戒心がそれをやらせたのです。

 母親が帰ってきて、気配と声と触覚などを総動員して母親を感じ取ったあかちゃんは警戒心から解放されて一挙に「不安」を訴えたのです。最大限の表現で「同一性と均衡」を消失した不安を伝えようとしたのです。もう二度と「放置」されないように、母親が「おそれ」を抱くくらいに極限の大音量と動きで訴え続けたのです。二時間もそれをつづければあかちゃんもシンドイはずですがそれでも「身の危険」にかかわることですから必死の訴えを決行したのでしょう。

 

 孫を一ヶ月観察していてヒシヒシと感じたのはこの「母体との同一性と均衡」でした。母親と他のもの――おばあちゃんも父親も、勿論おじいもはっきりと分別しています。母親には甘えるし怒り(?)もぶつけますが他のものには「直接的」な訴えはしないように感じます。「泣く」ことが最大の訴え手段であるあかちゃんの鳴き声は多様です。本能的な欲求を訴える時とほったらかしにされている不満を伝える時は鳴き声はまったくちがいますし、一ヶ月にもなると「ひとりごと」をしゃべるときもあるのに気づきました。

 いづれにしてもあかちゃんにとって一番大切なことは「母体との同一性と均衡」です。今どきの育児法では窒息をおそれて「添い寝」を禁止しているようですが、寝つきの悪いときの入眠導入には有効だと思うのですが娘はガンとして受けいれようとはしません。

 

 川上未映子さんが『きみは赤ちゃん(文春文庫)』というエッセー集を出しています。妊娠・出産・子育ての体験を関西弁のオカシさを巧みに活かした文体でつづられたこの本はどんな高級な育児書よりも赤ちゃんをもったお母さんに寄り添った「子育て応援歌」になっています。一番驚いたのはおかあさんがこんなに「泣いている」ことです。根本原因は「不眠」です。三時間ごとの授乳、おしっことウンチの清拭それに沐浴、これを昼夜を問わず行なうのですからよくて二時間、普通は一時間か半時間ほどの断続的睡眠ですから「熟睡」は不可能です。人間の三大欲望――食欲、性欲、睡眠欲のうち睡眠がもっとも根源的な欲望だと川上さんは述懐しています。ストレスが極限まで嵩じて、感情のバランスが崩れ、孤独、無理解、夫との隔絶感、劣等感、このどれもがささくれだった神経に突き刺さって感情を破壊して「泣く」のです。娘も妻の前で泣いたことがあり驚かされたと言っていました。

 全ページが男性にとっては未知の領域ですからすべてを写したいのですがそうもいきませんから次の一節を読んでいただきましょう。

 産後クライシス(略)出産をした女性が、激変してしまった生活に感じる現実的なしんどさにくわえて、ホルモンのバランスの崩れによる根元的&精神的な大不安、簡単にいうと全方位的に「まじ限界」という状況におかれることであって、なーんにもなくても涙がでて止まらないし、不安で体が震えるし、もうこのさきなにをどうやってのりこえていけばいいのかがわからなくなってほとんどパニックになってしまうような状態がつづくさまをいうのだけれど……。(略)それにくらべて、父親はどうよ。/ちょっと手伝っただけで「イクメン」とかいわれてさあ、男が「イクメン」やったら女の場合はなんて呼べばいいんですか、そんな言葉ないっちゅうねん。(略)そう。ないのよ。母親が感じるこの手の「申し訳ない感」を、おそらく父親のほとんどがもたないのではなかろうか。(略)知らないあいだにわたしのなかにあった、その「赤ちゃんはわたしの身体の延長なの」的感覚を、意識して排除することにした。わたしだって、あべちゃん(川上さんの夫さん)とおなじように、する。「ごめんね」も「すみません」も、金輪際、口にしないし、ぜったいに思わない。だってオニ(赤ちゃんの愛称)はふたりの赤ちゃんなのだから。そう決めて、実行するようにしたら、いろんなことがずいぶんらくになったように思う。/なにかが苦しかったり、悲しかったり不安だったりするとき。(「父とはなにか、男とはなにか」から)

 

 子育てとは母と父と赤ちゃんがともに成長しながらやっていくもの。それを実感させてくれる『きみは赤ちゃん』は子育てのバイブルとして読んで欲しい、世のお母さんお父さんたちに。

 

 

2022年5月9日月曜日

子育てと京都弁

  八十才にして初孫を授かりました。男児でした。まことに稀有なこと祝ぎであります。妻も二年もすれば傘寿ですから赤子の成長についていけるかどうか共ども心もとない限りです。冗談半分で「めざすはセンテナリアン(百歳超の長寿者)」とよばわっていましたがこうなると戯れ言で済まなくなってきました。今の健康状態をできる限り維持しつづけるよう努めねばなりません。自信などまるでありませんが赤ちゃんの可愛らしさを励みに懸命努力いたしましょう。

 

 それにしても、孫は可愛いと目尻を下げて垂涎していた同輩を冷視していましたが今にして心から彼らに詫びねばなりません。どうしてこんなに可愛いのか、愛しいのか、これは予想もしていなかった事態です。スヤスヤと眠る顔を見つめていると胸の底から柔らかな痛みをともなった愛しさがこみ上げてくるのです。このような感覚はこれまで経験したことがありません。娘たちの幼いころのいとしさともことなる「やさしみ」です。どう受けいれていいのか途惑いを覚えます。不思議な感覚ですがしあわせです。娘に感謝です。

 

 産後の休養と養育の馴致を兼ねて里帰りしている娘の子育てを見ていて、こんな大変な作業だったのかと驚かされています。娘たちの子育ては全部妻任せだったのでほとんど記憶にないということはこのすべてをひとりで文句も言わず対処してくれていたわけで、わが妻の「凄さ」を思い知らされます。寝不足のつづく疲れも限界の妻に老いを見るのですが、すっかり白髪になったうたた寝の横顔に「えらいやっちゃなぁ」と感じ入るばかりです。

 ふたりが忙しく立ち働いているすき間が「おじいの見守り」時間になるのですが、ヒクッと身を震わせるときがあるのに気づきました、多分夢を見ているのでしょう。半時間ほど眠ると「薄目」を明けて見守りを確認するように見えます。野生の名残りでしょうか、生き物でいちばん無防備でか弱い存在の人間の赤ちゃんは絶えず他の獣の脅威にさらされていましたから親の絶対的な庇護が必要なのです。

 まだ誕生から三週間足らずですから三時間に一回授乳が必要で、その間おしっこもウンチもして、その都度泣くのが赤ちゃんです.。娘はほとんど睡眠がとれないわけで本当に赤ちゃんの世話というものは大変なものだと思います。

 

 子育てもロクにできないとか、ひとりで子育てもできないクセにとかいうのは完全な『無知の言』です。この何年か人類学(や民俗学)の書物に接して子育てについて学ぶこともあって、その方面から得た「子育ての要諦」は次の二つです。

(1)人間の赤ちゃんは『強制早産』ということ

(2)子育ては集団(部族)でおこなうこと

 まずニューギニアだかアマゾン奥地の原住民の妊婦と子育てについての報告によれば、女性は産後スグに仕事につくというのです。狩猟採集の発達段階にある彼らは、遠出して二泊なり三泊する遠方の狩猟は男たち、日帰りの近くでの採集は女性の役割という分担があって女性も貴重な労働力なのです。したがって産前産後の休暇期間は極めて短期で、産後の休養も一日二日で切り上げて採集という仕事で食糧確保する務めに復帰しなければならないのです。では子育ては誰がするかというと「おばあ」たちが集団で担当するシステムになっています。もちろんベテランですから手抜かりはなく次の労働力の育成に尽力することで部族での存在価値を示して狩猟採集能力の劣化を補うというシステムなのです。授乳はどうするのか、そこについて記憶はないのですが女たちが時間差で帰って来るとか、おばあの中に若いおばあがいて彼女が担当するかしたのでしょう。

 これは民俗学的なひとつの例証ですが、わが国の歴史を遡ってみても子育てを産婦ひとりで行なうのを当然としたのは戦後の一時期にすぎません。高度成長期で、画一化された労働を長時間、永年、男性が担うことが求められた時代で、それ以外の時期は三世代同居などの条件もあって子育ては協働で行なわれました。共働きが一般化して、男女共同参画が求められる現在、子育ては夫婦、祖父母、社会の共同で行われる「本来」のあり方に戻って当然でしょう。

 

 「強制早産」というのはこういうことです。人類が二足歩行になって、立って歩行をスムースに行なうためにはガニ股を直行に変更する必要がありました。結果骨盤が小さくなり産道が狭くなります。本来12ヶ月か14ヶ月必要だった胎内での生育期間を短縮して、頭蓋の発達を抑え体躯が成長し切る前に産道を通過させることで出産を容易にする必要があったのです。早産ですから肉体も内臓も運動機能も未成熟です。授乳さえ満足にできません、ムセたり吐いたりしますしシャックリも出ます。ウンコも下手ですから便秘にもなります。目も30センチほどまでが白黒でぼんやり見えるだけです。聴覚は胎内にいるときから発達していますから「おしゃべり」が一番のあかちゃんとの伝達手段です、何でもいいから話しかけてあげましょう。あかちゃんは原始時代と同じですから困ったときは高級な育児書ばかりでなくニューギニアの奥地のお母さんならどんなにするかを考えるのもいいかもしれません。

 とにかくおかあさんもあかちゃんも一緒に成長していくのが子育ての基本です。

 

 「お乳飲んでくれやらへん」「ちっとも寝やはらへん」「やっとウンチしてくれはった」。娘の京都弁が実に心地よいのです。あかちゃんと自分の関係にちょっと「あいだ(間)」置いた話し方、これが子育てに適しているように思うのです。とにかく最近の親は、子供を自分の「所有物」か「愛玩物」かのように『支配』している傾向を強く感じています。他人が自分の子供を叱ったり注意したりすると血相変えて食ってかかる親が多いのもそうした『支配』権を侵されていると感じるからでしょう。

 

 八十才の初孫。「うれしさも中くらいなりおらが孫」を心がけてまいるつもりです。

 

 

 

 

2022年5月2日月曜日

フランスにできてなぜ日本でできない

  最近ツクズク思うのですが、マスコミが劣化したなぁ……、ほとんど役所や企業のプレスリリース(メディア向け資料)の垂れ流しではないかと。たとえば昨年の人口が64万人減少したという報道がそうです。15日総務省が発表した2021年10月1日現在の人口推計によると、総人口は64万4000人少ない1億2550万2000人で減少は11年連続、減少率0.51%は統計を取り始めた1950年以来最大となった、と報じています。以下労働の担い手となる「生産年齢人口」の減少、少子高齢化に歯止めがかからないなどとつづき、コロナの入国制限による外国人の流入が減った(2万8000人の純減)のも一因である、と結んでいます(日本経済新聞からの引用)。これは総務省のプレスリリースそのままか要領よくまとめただけのものでしょう。

 しかし一般市民はコロナで外出機会が減って出会いが急減したこと、濃厚接触を怖れてセックスを控えたことなどが大きく影響したのではないかと考えるのではないでしょうか。記者自身も多分そんな考えも少なからずあったはずですがプレスリリースにはそんな記載はなかった、記者会見でそんな疑問を役人にぶつける記者もいなかった、のでしょうか。

 

 毎日更新されるコロナの数字で際立っているのはアメリカの死者数です。100万人という死者数はウクライナ戦争の死者の何倍いや何十倍にもあたるのですからとんでもない数字です。人口比でみても0.3%に達していて先進国のうちで突出しています。アメリカに次いで多いのはイギリスの17万人、フランスて14万人ドイツ13万人ですからアメリカの異常さが際立っています。ちなみにわが国は2万9千人です。アメリカの事情はいろいろあるでしょうが健康保険がわが国のように国民皆保険でないから貧しい人は十分な医療が受けられないのも一因でしょうし格差が途方もなく大きいことも影響しているはずです。見方によれば「見捨てられた」人たちが多くいることになります。アメリカという国はヒドイ国なんだなあ、と毎日のように思っているのですがそんな論調の記事はどこにもありません。

 

 同じ人口に関する総務省の統計に「わが国における総人口の長期的推移」があります。これによると総人口が2050年には9千5百万人に2100年には6千4百万人になると推計されていて、これにもとづいて日本経済が衰退の一途をたどるという悲観的な識者の意見を掲載した新聞、雑誌そしてテレビのニュースショーも度々放送されてきました。しかし本当にそうなのでしょうか。

 2021年の人口をみるとドイツは8千4百万人、イギリスは6千8百万人、フランスは6千5百万人です。それでいてGDPはそれぞれ42億25百万ドル(1人当GDP5万8百ドル)、31億87百万ドル(4万72百ドル)、29億35百万ドル(4万48百ドル)になっています。わが国は49億37百万ドル(3万93百ドル)です。明らかにわが国の生産性が劣っているのです。イギリスもフランスもドイツもおおむね資本主義と民主主義の国ですから制度的にわが国と異なっているわけではありません。そうでありながらこんなに差があるのはわが国の経済・政治・社会システムが彼の国々より劣っているからと言わざるをえません。それが結果的に『失われた30年』となって今日があるのです。この問題点を点検して英米独仏並みに改良を加えれば人口が9千万人になろうと6千万人になろうとそれらの国と同じ程度の生産と所得を上げることができるはずです。国土の広さもドイツはほとんど同じですしイギリスは約6割、フランスは1.5倍ですから条件的に3国とそんなに差はないのです。問題は「システム」です。

 これについては4月18日のコラムで「各分野で競争がない」のが原因だと述べました。たとえば労働組合が強くなりすぎると企業の自由な活動の阻害要因になるとされてその弱体化が政治もからんで推し進められてきました。そして労働組合の組織率は10%台にまで低下し今や組合員数は1千万人に過ぎません。その結果給料が30年間ほとんど横ばいでGDPの大きな要素である「消費=購買力」が伸びず成長低下の原因になっているのです。ちなみに「賃金の決定要因」のうちで「労働組合と使用者の団体交渉」の影響が大きいと考えている割合は日本20%なのに対してフランス42%、デンマーク51%、アメリカでさえ29%――そして驚くべきことに中国が47%を占めているのですから日本の「労使関係」における競争力劣化は明らかです(リクルートワークス研究所資料より)。

 女性の能力が十分に活用されていないのもわが国の成長力を低下させている大きな原因でしょう。有名な「ジェンダーギャップ指数2021(世界経済フォーラム)」によればわが国は156ヶ国中〈0.656/120位〉で、〈ドイツ0.796/11位〉〈フランス0.784/16位〉〈イギリス0.775/23位〉に比べてまことにお粗末な限りです。

 企業税制の優遇策による「内部留保」の大幅増とゼロ金利による銀行と企業の競争関係弱体化も企業活動を低下させていることはまちがいありません。バブル崩壊前なら年間8%以上の利益を上げなければ銀行への返済が滞おりますから企業も必死に成長を図ったでしょう。しかし現在は〈1%~2%〉に過ぎませんから企業の緊張感が低下し成長力を引き下げてしまったのです。

 経済成長の根本は企業の「創造力ある活力」にあります。現在は「経営者資本主義」です。その経営者が政治に甘やかされ、労働者や女性、銀行の圧力から解放された「ぬるま湯」的環境にあったのでは経営責任に真正面から向き合う緊張感を喪失するのも当然の帰結です。

 

 わが国は戦後驚異の高度成長を遂げました。その「成功体験」から抜け出せずに「失われた30年」を過ごしてしまいました。「男女共同参画」であったり「男性の育休取得促進」であったり「政治分野における女性参画の拡大」など制度は取り繕われてきましたが実現は遅々として進んでいません。もしこのままの状態がつづくのであれば2050年2100年に『日本沈没』の可能性はゼロとは言えないでしょう。

 

 岸田さんのいう「新しい資本主義」がどんなものになるのか。

 フランスが、ドイツが、イギリスができていることが日本でできないはずがない、「日本をぶっ潰す!!」そんな気概で舵取りをして欲しい。切実なる願いです。