2022年5月9日月曜日

子育てと京都弁

  八十才にして初孫を授かりました。男児でした。まことに稀有なこと祝ぎであります。妻も二年もすれば傘寿ですから赤子の成長についていけるかどうか共ども心もとない限りです。冗談半分で「めざすはセンテナリアン(百歳超の長寿者)」とよばわっていましたがこうなると戯れ言で済まなくなってきました。今の健康状態をできる限り維持しつづけるよう努めねばなりません。自信などまるでありませんが赤ちゃんの可愛らしさを励みに懸命努力いたしましょう。

 

 それにしても、孫は可愛いと目尻を下げて垂涎していた同輩を冷視していましたが今にして心から彼らに詫びねばなりません。どうしてこんなに可愛いのか、愛しいのか、これは予想もしていなかった事態です。スヤスヤと眠る顔を見つめていると胸の底から柔らかな痛みをともなった愛しさがこみ上げてくるのです。このような感覚はこれまで経験したことがありません。娘たちの幼いころのいとしさともことなる「やさしみ」です。どう受けいれていいのか途惑いを覚えます。不思議な感覚ですがしあわせです。娘に感謝です。

 

 産後の休養と養育の馴致を兼ねて里帰りしている娘の子育てを見ていて、こんな大変な作業だったのかと驚かされています。娘たちの子育ては全部妻任せだったのでほとんど記憶にないということはこのすべてをひとりで文句も言わず対処してくれていたわけで、わが妻の「凄さ」を思い知らされます。寝不足のつづく疲れも限界の妻に老いを見るのですが、すっかり白髪になったうたた寝の横顔に「えらいやっちゃなぁ」と感じ入るばかりです。

 ふたりが忙しく立ち働いているすき間が「おじいの見守り」時間になるのですが、ヒクッと身を震わせるときがあるのに気づきました、多分夢を見ているのでしょう。半時間ほど眠ると「薄目」を明けて見守りを確認するように見えます。野生の名残りでしょうか、生き物でいちばん無防備でか弱い存在の人間の赤ちゃんは絶えず他の獣の脅威にさらされていましたから親の絶対的な庇護が必要なのです。

 まだ誕生から三週間足らずですから三時間に一回授乳が必要で、その間おしっこもウンチもして、その都度泣くのが赤ちゃんです.。娘はほとんど睡眠がとれないわけで本当に赤ちゃんの世話というものは大変なものだと思います。

 

 子育てもロクにできないとか、ひとりで子育てもできないクセにとかいうのは完全な『無知の言』です。この何年か人類学(や民俗学)の書物に接して子育てについて学ぶこともあって、その方面から得た「子育ての要諦」は次の二つです。

(1)人間の赤ちゃんは『強制早産』ということ

(2)子育ては集団(部族)でおこなうこと

 まずニューギニアだかアマゾン奥地の原住民の妊婦と子育てについての報告によれば、女性は産後スグに仕事につくというのです。狩猟採集の発達段階にある彼らは、遠出して二泊なり三泊する遠方の狩猟は男たち、日帰りの近くでの採集は女性の役割という分担があって女性も貴重な労働力なのです。したがって産前産後の休暇期間は極めて短期で、産後の休養も一日二日で切り上げて採集という仕事で食糧確保する務めに復帰しなければならないのです。では子育ては誰がするかというと「おばあ」たちが集団で担当するシステムになっています。もちろんベテランですから手抜かりはなく次の労働力の育成に尽力することで部族での存在価値を示して狩猟採集能力の劣化を補うというシステムなのです。授乳はどうするのか、そこについて記憶はないのですが女たちが時間差で帰って来るとか、おばあの中に若いおばあがいて彼女が担当するかしたのでしょう。

 これは民俗学的なひとつの例証ですが、わが国の歴史を遡ってみても子育てを産婦ひとりで行なうのを当然としたのは戦後の一時期にすぎません。高度成長期で、画一化された労働を長時間、永年、男性が担うことが求められた時代で、それ以外の時期は三世代同居などの条件もあって子育ては協働で行なわれました。共働きが一般化して、男女共同参画が求められる現在、子育ては夫婦、祖父母、社会の共同で行われる「本来」のあり方に戻って当然でしょう。

 

 「強制早産」というのはこういうことです。人類が二足歩行になって、立って歩行をスムースに行なうためにはガニ股を直行に変更する必要がありました。結果骨盤が小さくなり産道が狭くなります。本来12ヶ月か14ヶ月必要だった胎内での生育期間を短縮して、頭蓋の発達を抑え体躯が成長し切る前に産道を通過させることで出産を容易にする必要があったのです。早産ですから肉体も内臓も運動機能も未成熟です。授乳さえ満足にできません、ムセたり吐いたりしますしシャックリも出ます。ウンコも下手ですから便秘にもなります。目も30センチほどまでが白黒でぼんやり見えるだけです。聴覚は胎内にいるときから発達していますから「おしゃべり」が一番のあかちゃんとの伝達手段です、何でもいいから話しかけてあげましょう。あかちゃんは原始時代と同じですから困ったときは高級な育児書ばかりでなくニューギニアの奥地のお母さんならどんなにするかを考えるのもいいかもしれません。

 とにかくおかあさんもあかちゃんも一緒に成長していくのが子育ての基本です。

 

 「お乳飲んでくれやらへん」「ちっとも寝やはらへん」「やっとウンチしてくれはった」。娘の京都弁が実に心地よいのです。あかちゃんと自分の関係にちょっと「あいだ(間)」置いた話し方、これが子育てに適しているように思うのです。とにかく最近の親は、子供を自分の「所有物」か「愛玩物」かのように『支配』している傾向を強く感じています。他人が自分の子供を叱ったり注意したりすると血相変えて食ってかかる親が多いのもそうした『支配』権を侵されていると感じるからでしょう。

 

 八十才の初孫。「うれしさも中くらいなりおらが孫」を心がけてまいるつもりです。

 

 

 

 

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