2014年4月28日月曜日

老書生の管見

 最近やたらと「速読術」の広告が多い。興味がないのでどういうものか全く知らないが、文字をフローとして読解していたのではとても広告で謳っているような時間で読むことはできないから「静止画像」のような形で文字列を把握するのだろうか。それにしてもどうしてそんなに早く読みたいのだろう。例えば今読んでいるポール・オースターの『孤独の発明』の「ある意味では、すべてのものは他のすべてのものの注解として読むことができる」とか「記憶―物事が二度目に起きる空間」などという表現はじっくり玩味して記憶しておきたいものであり、その工程が次に読む文章を深めていってくれるのだが、「速読」はこのような愉しみを与えてくれるのだろうか。
 こんなことを考えていたせいか先日「小沢征爾のドキュメント」をみているとき、指揮者の暗譜は「速読術」のような記憶をするのだろうな、と突然思った。指揮者は多くの楽器パートのすべての譜面を記憶しなければならないから音符のフローで記憶するのは不可能だ。一体どうしているのか以前から疑問だったのだが「速読術」がヒントになってそんなことを考えた。合っているかどうか分からないが多分そうなのではないかと思って一人悦に入っている
 
 アメリカ型資本主義がグローバル化の潮流にのって世界を席巻しようとしているが本当に優れているのか疑問に思っていた。もし欧州や日本のように第二次世界大戦で国土を壊滅的に破壊されていたら今日の隆盛はあっただろうかとフト考えたとき、アメリカ経済は圧倒的なアドバンテージに恵まれていたのだということに気づいた。世界経済がほとんど供給力を失っているときに唯一アメリカだけがそれを保持していて、完全な売り手市場で世界中に不足物資を供給して莫大な利益を上げることができ、更にそれがアメリカドルを「基軸通貨」に仕立て上げることにつながり、基軸通貨なるが故の優位性を最大限に利用して今日のアメリカ経済の繁栄を築いてきた。確かにこれまでアメリカ経済は世界をリードしてきたがそれは、「アメリカ型資本主義」の客観的な有効性の結果であるといっていいものかどうかは検討の余地がある。G8がG20になり今や「G0」の時代になりつつある。これからが正念場である。
 
 オバマ大統領訪日に際して中国韓国との対応と我国に対するそれがどうであるとかこうだとかの詮議が喧しいが、なんとも腹立たしい。又尖閣問題に関して中国にもっと強硬な姿勢で臨んでほしいという論議もある。どうしてそこまでアメリカに頼ろうとするのか。何故もっと毅然とした態度で「外交」できないのだろう。
 福沢諭吉の「文明論之概略」にこんな一節がある。「英に千艘の軍艦があるのは、ただ軍艦があるだけではない。軍艦が千あれば、万の商売船がある。万の商売船があれば十万人の航海者がいるに違いない。航海者を作るには学問が必要だ。学者や商人が多く、法律が整い商売が繁昌し社会基盤が十分に整備されて、千艘の軍艦保有するのにふさわしい国の有様が整のだ。」「他の諸件に比して割合なかるべからず。割合に適せざれば利器も用を為さず。」「軍備偏重している国では、そうした割合を無視して兵備に金を費やし、借金をして自国をつぶしてしまうことも少なくない」(引用は筆者による現代語訳)。
 
 ここ数年、中国の軍備が突出しそれが東アジア諸国をはじめとして世界脅威になっている。しかしそれは諭吉の言う「他の諸件に割合適す」ものだろうか。ソ連が崩壊したのもこの割合を無視し「軍拡」に突っ走った結果であり、今またアメリカが影響力を失い「世界の警察」の地位を失いつつあるのもそのせいである。中国はどこまでいっても「国のGDPと国民一人当りの所得」のあいだに矛盾をはらむ宿命を背負っているから現体制では一流の先進国にはなれない。それに比して我国は「諸件の割合に均衡」を保って「世界第3位の経済国」の地位を維持し、しかも格差はアメリカよりはくかに小さい
 
 賢明で冷静な外交を貫ぬいて、独立独歩、「成熟した文明国」の道を進むべきである。

2014年4月21日月曜日

日本的賃上げ事情


 2014年春闘の経団連集計結果で7000円超という16年ぶりの賃上げ状況が示された。大企業11業種41社のものだから平均より相当高い数字だろうし中小企業への波及度合いによって景気への影響がどの程度になるか即断出来ないが久しぶりに明るいニュースである。ところが今回の賃上げは政府の介入による『官製』相場だから自由・資本主義の原則にそぐわない日本独特の『奇異』なものと批判する向きがあるがそれはどうだろうか。我が国には我が国特有の資本主義の形があっていいのであって明治維新以来の歴史を見てもそれは明らかだ。たとえば戦後経済復興のスピードは世界の『驚異』と呼ばれたがその時の経済体制は日本独自の、当時の資本主義の教科書にはなかったものだ。それが今では中国をはじめ途上国の発展モデルとしてスタンダードになっている。
 賃上げを「官製」と驚くのなら明治維新の「廃藩置県」などそれこそ「驚天動地」ではないか。何しろ「領土の召上げ」が「紙切れ一枚」で紛争ひとつなく実現されたのだから。
 
 明治政府の改革は、一切合財、紙切れ一枚の《名分の改革》に過ぎなかった、と安岡章太郎が「歴史の温もり(講談社、以下廃藩置県の引用は本書による)」で言っている。「廃藩置県」とは明治政府が版籍奉還された全国300近い各藩の領地を明治政府に統合するという大事業である。
 「倒幕は実現したが明治の朝廷には、全国各地に割拠し(略)ている各藩の勢力を統合して、その権力を中央政府に結集させるだけの実力はなかった。(略)各藩も、明治に入ってから競争で外国から武器を買い入れ、兵制を近代化して(略)戦備の拡充に大童になっていた。(略)これでは、時がたてばたつほど、相対的に政府の力は衰えるばかりである。それでやむを得ず、政府は乾坤一徹の覚悟を決めて、各藩の勢力を一掃するために廃藩置県の詔書を出した。すると、これが意外にも、各藩から何の抵抗も摩擦もなくスラスラと通ってしまったのである」。
 このようなことは欧米諸国は勿論のこと中国でも韓国でもありえないことであろう。それが我が国では実現したのである。
 「弱小の藩は財政が窮乏し、藩政が立ち行かなくなっているところも多く、そんな場合は藩主が旧禄高の十分の一の禄高を貰えば、大勢の家来を養う義務がなくなっただけ、以前よりは暮らしがラクになるのだから、よろこんで藩を投げ出した」。こんな裏事情もあったに違いないが、それ以上に『時代の大変革』を肌に感じ危機感を抱いていた「藩主をはじめとした上層部」が『新展開』を新政府に託した、という一面も大きかったのではないか。福沢諭吉は「改革に反対する保守派は勢力においては圧倒的であったが、時代を先導していた改革派の智力が保守派を凌駕していたから廃藩置県が実現した(「文明論之概略」の文意をまとめる)」といっている。
 
 『お国(政府)頼み』は今回の「消費増税」に伴う「税の物価への転嫁」も同様であった。それどころか「値上げへの尻込み」も増税を機に一挙に解消し、4月1日時点で「0.8%」税抜き価格が上昇したという報告がされている(4月18日日経・経済教室・渡辺努東大教授)。この数字は「東大物価指数」によるもので、スーパー300店舗で販売されている食料品・日用雑貨の数字だが、これを弾みに安定的な物価上昇が続けばデフレ脱却も実現性を帯びてくる。
 
 すべてがアメリカ型資本主義である必要はないがそれにしても現在の我が国の経営者・企業家はもう一度経営・経済の本質に立ち返るべきだ。「政府は世の悪を止るの具にあらず。事物の順序を保て時を省き、無益の労を少なくするがために設るのみ」「受くべからざるの私恩はこれを受けず(略)一毫をも貸さず一毫も借らず、ただ道理を目的として止まる処に止まらんことを勉むべし(「文明論之概略」)」。福沢の言うごとく「独立独歩」こそが経営の本質であり、政府は無闇に規制をせず企業活動が円滑・公正に行える環境を整備するに勉めるべきであり、ましてや『補助金』や『減税特措法』に頼るなど企業家精神にもとる所業であることを銘記ずべきである。

2014年4月14日月曜日

タモリと「笑っていいとも」

タモリの「笑っていいとも(1982~)」が終わった。週日のお昼休みの1時間、32年間8054回続いたフジテレビの看板番組が幕を閉じ一時代が終わった。生活の一部になっていた視聴者も多く『タモロス(タモリロス症候群)』に陥っている人が少なくないらしい。生活習慣の修正ができない「戸惑い」はあって当然で、それでなくても見たい番組の少なくなった昨今テレビ離れに拍車がかかるのではなと心配する
 
何故こんなに長く続いたのか、そもそも「笑っていいとも」とは何だったのか。あれこれ思いをめぐらしたが、お笑いタレントの格付け番組であったと考えるとスンナリと収まりがいた。少なくとも「いいとも」がお茶の間に定着しタモリに『権威』が出来てから以降はそうであったと思う。お笑いタレントが大量生産されて視聴者ばかりか制作サイドさえも整理がつかなかった混乱状態いつの間にかこの番組が格好の「格付け効果」を発揮するようになって、そして「子の部屋」が広い意味でのタレントと『旬の人』の「格付け番組」としての機能をっていたから、この二つの番組で『タレント棚卸し』が行われテレビ業界が回転してきたといっても強ち間違ってはいないだろう
大阪のタレントが東京に進出して「いいとも」にレギュラーをもって、「いいとも」を卒業して「徹子の部屋」に出演できれば「一流芸人」の地位が確固たるものになる、そんな流れでここ20年近くお笑い界が動いてきた。その一方が消えてしまった今、お笑いタレントの『液状化現象』が起こりはしないか。そうなったときテレビはどうなるのだろうか。
 
民放テレビの歴史は60年(1953~)になるがその間主導権は大きく変動した。草創期テレビ局主導でスタートしたが程なく(広告)代理店に主導権が移り、今やタレント事務所が業界を蹂躙している。独断と偏見を云えばテレビの一番面白かったのは「局主導の時代」であった。「実験」と「主張」が交錯する中で「技術」が飛躍的に進歩し「浅間山荘事件(1972年2月)」でテレビの魅力と威力が最大限に発揮された。
お笑いタレントの育成が徒弟制度から養成所に移行して毎年一定数が市場に送り出されるようになり総数が累増する中でマネージする側は市場を「お笑い」から「テレビ全般」に拡大した。そのうえ盆暮れ番組改変期連動させ「タレント総売り出し」番組で1週間テレビを乗っ取り事務所のボーナスを稼ぎ出すという厚顔無恥な振る舞いするに及んでテレビは「娯楽の首位の座」から転落を余儀なくされた。折りしも薄型テレビ、デジタル放送への切り替えが行われ、3Dテレビ4Kテレビとハードは進歩の度を高める中で「タレント事務所主導」のテレビ業界は大きな曲がり角に追い詰められている。「いいとも」はそんな時期に終を迎えた。
 
ファミコンが1983年に発売され「スーパーマリオ」が1985年に出ているから「いいとも」と「ゲーム」はほとんど同時進行していた。21世紀になって携帯電話とインターネットが接続したから「いいとも」の後半は携帯(スマホ)との共存時代になった。ということはテレビがゲームや携帯・スマホ・PCと競争する時代に「いいとも」あったわけで、それは「タレント事務所主導のテレビの時代と重なり、結果としてコンテンツとしてのテレビは質的に著しく劣化してしまった。バラエティにドラマ、子供番組やニュースショウにまでお笑いタレントが幅を利かす今のテレビ界にあって格付け機能を担っていた「いいとも」を失うことの影響の大きさにテレビ界はまだ気づいていない。世はあげて「高学歴社会」であり団塊の世代が「高齢社会」の中心を占めてくる。格付けを失った粗製乱造のお笑いタレントコンテンツの充実を図れるのだろうか。
 
テレビが売れるためにはもう一度テレビが面白く再生する必要がある