2010年10月25日月曜日

存在証明

 戸籍の電子化に伴う行政の対応について市民から強い不満が訴えられている。
 
 戸籍法の改正により従来の紙の戸籍を「電子情報処理組織による戸籍事務の取扱いに関する特例」が設けられその施行細則で「戸籍の筆頭者以外で除籍された者について『省略できる』」としているために電子化前に亡くなった者が新戸籍に転籍されないケースが相次いでいるのだ。にもかかわらず電子化後の物故者は電子データに残るというから単に移行時の事務作業の軽減という『手抜き』を認めるため以外の何ものでもない。旧来の紙戸籍は「原戸籍」として150年間保存されるので、物故者等の除籍者の載った戸籍は数百円の手数料を払えば交付されるみちは残されている。

 子どもを亡くした親がその兄弟姉妹の入学手続きなどで戸籍を取りに行ったとき、当然家族全員が記載されているはずと思って手にした戸籍に亡くした子どもの名前が削除されていたとしたらどんな気持ちに襲われるであろうか。親にすればどんな事情であれ夭折した我が子には特別な思い入れがあるに違いない。たとえ『現し身』は無くても心の内には生きている兄弟姉妹と共にいつも傍にいる存在としてあるに違いない。「最愛の家族を再び失ったような気持ち」という嘆きが訴えられるのも当然である。

 少し前マスコミを騒がした『高齢者所在不明問題』はこれとは全く逆のことになるが根は同じで「事務処理の手抜き」に他ならないし、『消えた年金問題』にもそれが言える。一体役人と呼ばれる人たちは『人間の存在証明』ということを真剣に考えてみたことがあるのだろうか。昔のように大家族制度で先祖代々の土地に暮らしていた頃と異なり現在の我々にとっての存在証明は非常に「不確か」になっている。例えばリストラにあい、離婚して家族と離れ離れになり住居を失えばいとも簡単にホームレスになってしまうが、この状態での『存在証明』を手に入れることは甚だ困難になる。

 そもそも「自己の存在証明」とは極めて哲学的な問題であり、戸籍であれ年金記録であれそれは形式的な一部に過ぎないが、それ故にこそ蔑ろにできない『よすが』なのであって事務処理の軽減などというレベルとは異次元のものなのだが、昨今の役人にそれだけの『深み』をもって仕事をすることは期待できないものなのだろう。

2010年10月18日月曜日

セカンドオピニオンは必要か

 昨今のテレビはやたら保険の広告が目立つ。その広告の『売り』は先進医療とセカンドオピニンをサービスに含めていることが多い。そこでセカンドオピニオンについて考えてみたい。

 文明の進歩と社会の疾病構造の変化について英国の疫学者が次のような仮説を立てている。文明の第一段階にある社会では「消化器系感染症」が死因のトップを占め、以下第二段階では「呼吸器系感染症」、第三段階になると「生活習慣病」に変化し最終段階では「社会的不適合」による死が主役になるだろうというものである。我国のこれまでを振り返ってみると、明治維新から昭和初期にかけてはコレラや疫痢・赤痢などの消化器系感染症で死ぬ人が圧倒的に多かったが、昭和に入ると結核や肺炎などの呼吸器系感染症が主役に躍り出た。それが今ではがん、心疾患、脳血管疾患の生活習慣病に属する疫病が主要死因を占有している。

 こうした疾病構造の変化を医師と患者の関係でとらえると、感染症の場合は体内の病原体を殺すこと、悪い働きをしなくすることが治療だから主役は医師であり患者は医師にまかせておけばいい。しかし生活習慣病では患者が治療の主役になる。医師や看護婦、薬剤師などの医療行為はあくまでも患者に対する援助サービスであって、その『実行』は患者自身やその家族に委ねられている。治療行為の実践者としての本質的役割は医師ではなく患者側にあって、医療の本質が「キュア(治療)からケア(看護)へ」変化しているのである。

 この変化を正しく理解している人は以外と少ない。高血圧や糖尿病であっても医師に頼りっきりでただ薬を服(の)み続けるだけの場合が多い。指示通りに服む人はまだいい方でそれすらいい加減な人もいる。大体生活習慣病の患者に何故禁煙を強制しないのか。高い薬を服用しても喫煙していたのでは病状が改善されるわけがない。多分喫煙は個人の自由だからなのだろうが、こうしたことを放置しているから医療費の公負担が厖大に積みあがって財政を圧迫するに至ったのではないか。
 
 医師と患者の関係を良好にする第一条件はどちらもが正しく情報を交換することだ。その段階をなおざりにして『セカンドオピニオン』を取り入れても治療は正常に行われないに違いない。患者は医師に助けられるが、医師を育てるのは患者だということも認識する必要がある。

2010年10月11日月曜日

公園をみんなで守ろう

 先日「北部みどり管理事務所」というところから電話があった。これは私が毎朝ゴミ拾いとグランド整備を行っている公園の管理を担当している市役所の関連部署である。電話の内容はグランド整備に使用している木製トンボの支給や修繕を取止めにしたいという申し入れだった。理由は市管理の他の公園ではトンボを支給していないからだという。双方がそれぞれの立場から言分を繰り返したが結局後日改めてということになった。

 この公園には珍しく『壁打ちの壁』があり他に軟式野球場や幼児の遊び場も整備された市内でも有数の施設である。禁煙したとき何か運動をしなければと思いたってテニスを選んだのもこの壁のお陰といっても過言ではない。しかし5年前のグランドの状態は無惨なものだった。手入れが行き届いていないから石ころがむき出しになっておりとてもテニスなど出来るものではなかった。そこで市役所の緑地管理課に談判して『グランドを使用可能な状態復旧する。その代り私が毎朝トンボで整地する』という同意が成立し今日に至っている。トンボについては自由に使用できるよう鍵もかけずに公園の一隅に置いている。

 今最も大事なことはお金の乏しいなかで如何に住民サービスを維持するかということである。そのためにはこれまでのような行政至上主義(何でも行政がやらなければならないという思い込み)や行政の無謬性を排除することが必須である。公園管理一つをとってもプロパティーマネージメントと捉えて市有財産のストック管理という観点から取組む必要がある。折角市民の側から公園管理の手伝いをしようという機運が立ち上がっているのに公園の特殊性(壁打ち用の壁の整備されている公園は殆んど無い)を無視して市内一律の管理基準を遵守することにどれ程の意味があるのだろう、僅か1本のトンボを支給停止することが市民の参加意欲を萎えさせ大事な市の資産である立派なグランドが使用不能になるというのに。
 
 高齢化による社会保障費の膨張は社会資本整備を圧迫するから箱物施設の新設はほとんど不可能になろう。とすれば今ある施設を大事に使っていく仕組みが必要になるが、市民の力の集約なしに仕組みは考えられない。少子高齢化の時代では新しい地域コミュニティーの形成が不可欠だがその機能の一部として施設管理が加えられても良い。

 電話してきた指導係長にどれほどの考えがあったか、はなはだ疑問である。

2010年10月4日月曜日

孤独な消費者

 パソコン(PC)の故障でコラムを二週間休まざるをえないハメになった。この間の事情を通じて消費者のおかれている環境が如何に無力で孤独であるかを感じた。

 9月17日故障発生、18日に購入した家電量販店Kに持ち込み28日に一旦修理完了したのだが翌日再度故障、10月1日N電機サポートセンターの出張修理でやっと修理が終わった。という経緯なのだがこの間のやり取りを箇条書きにすると次のようになる。
(1)28日Kに引き取りにいくと「電源ユニットの故障でした。今回に限り無償で、メーカー負担で行います」という修理事情をKの係員が伝えた。
(2)通常修理が無償で行われることはありえない。メーカー側に何か不都合があるのではないか。メーカーに詳細を問合せるよう依頼した。
(3)リコールをするほどではないが購入後3年前後(私のPCも購入後3年半である)で電源ユニットに不具合の発生するケースが多いので、持ち込まれたお客様に限り無償で修理している。というメーカー側の返答。(ここまでが最初の修理)
(4)静電気の帯電で立ち上がらないことがあるので放電処理が必要な場合がある。(2回目の修理)

 この間Kの係員の対応は実に良かったのだが、しかし問題がある。
一、 詳細を問合せるよう指示しなければ詳しい事情は分からずに終わったに違いない。
 大概の客はタダで修理ができたら「儲かった」と帰ってしまうに違いない。私が文句を言ったから不具合事情が把握できたわけだが、私の前にKが何故無償なのかに疑問を抱きNに事情を質すべきだ。
二、 メーカーに更に突っ込んで聞いたところ、同機種或いはビジネスタイプを大量に一括購入した企業から3年前後で電源ユニットの故障が発生するのはおかしいというクレームがあって無償対応を決めた、という説明があった。
 企業からのクレームが無かったら今回のような対応ができていただろうかという疑問が生じるし、大体こうした事案はリコールの対象にならないのだろうか。

 昔は街の電気屋さんが親身になって客の立場で対応してくれたものだが、今の量販店にそれを望むのは無理な相談なのだろうか。あらゆる製品がブラックボックス化した今、消費者は無力だ。