2021年2月22日月曜日

コロナ再考(続)

  コロナ禍の一番の教訓は、私有財産制をトコトンまで追求する新自由主義の『破綻』ということでした。いまだに「自助」を言い募るわが国の最高権力者は世界の自由主義陣営の潮流に乗り遅れコロナ対策は「後手後手」に回って夥しい失業者と中小規模の企業消滅を招いてしまいました。株価が三万円台を記録したのをうけて「回復」と喜びを口にしましたが、彼にとって日経平均三万円台はバブル最高値の38,900円への通過点と認識しているのでしょうがコロナ不況に呻吟している多くの国民にとっては、「株価と実体経済の乖離」を放置して「痛み」を感じないでいる能天気な為政者の「国民のために働く」というキャッチフレーズが「空しく」なるばかりなのです。

 

 土地とお金と教育は「売り物にしてはいけない」という考え方があります。土地は国家存立の基盤であり、しかも「限り」がありますから自由な取引に任せてしまうと「高騰」して国が無茶苦茶になってしまうおそれがあります。お金はもともと商品ではありませんからそんなものを商品として自由に取引するようになると「お金の本質」が消滅して経済が混乱してしまうというのです。教育はもともと「師弟関係」のもとで授けられるものであって、「師」は弟子から金品は受け取らない、盆暮の貢物というかたちで感謝の気持ちを受け入れるのが正しい教育の姿だと考えるのです。

 もちろんこうしたものの見方が現代にそのまま通用するとは思いませんが、基本的な考え方としては今でも一面の真理を保っているのではないでしょうか。

 

 コロナ禍であらわになったのは、わが国が「ワクチン後進国」に成り果てているということでした。それはワクチンを一般的な薬剤と同一視して市場商品にしてしまったために製造する企業がほとんど消えてしまったからです。感染症に対応できる病院が極端に少なくなってしまったのも同じ原理です。病床数は世界のトップクラスであるのに、感染者数が世界の先進国の10分の1、100分の1以下で「医療崩壊」を招いてしまうという体たらくをさらしてしまったのも、全ての病院に「市場原理」を導入してしまったからです。感染症の流行は「常態」ではありません。いつくるか分からないけれども必ずいつかくるものです。ということは「普通のとき」「感染症部門」は「営利企業」にとって利益を生まない「お荷物」な存在になるのです。しかし必ずいつかは「くる」病気です。21世紀になってからでもSARS、MERSと今回の新型コロナ感染症で5年に1症例が発生していますしインフルエンザも毎年発生しています。グローバル化が世界のすみずみまで進展すると世界の片隅に閉じ込められていた未発見のウィルスが世界的に拡散するおそれをはらんでいます。感染症対策は今や「異常事態」と考える時代ではないのです。

 ワクチンも感染症対策も「市場原理」で対応できるものではないということがはっきりしました。

 

 コロナの『補償』を考えるということは小手先の、一時的な経済的社会的対策で済ませるはずもないことなのです。わが国の経済のかたち、社会のかたちをどのようなものにするかを根本的に考え直さなければ正しい対応ができない問題なのです。

 

 まずコロナに限らず社会的に大きな「事件」の及ぼす影響を「科学的」に分析する体制を構築する必要があります。経済的な影響に関しては以前なら、21世紀になるまでは「経済企画庁」という独立性を保った機関が担っていたのですが2001年の省庁再編成で内閣府に吸収されてしまいました。このため専門性のレベルが低下するとともに政権からの「独立性」も危うくなっています。感染症という極めて広汎で影響度の強い事象に関してはときの政権に「忖度」しない「独立性」の担保された「公正な」分析のできる機関が必須条件になります(毎年の経済財政政策のもとになる「年次経済レポート」も独立性が必要です)。今のわが国の省庁編成では「科学的」なデータ分析はかなり難しい状態に陥っているのです。

 それを踏まえたうえでも経済的な影響を「早く」統計的に「確率性の高い」分析を『産業連関分析』を用いて行なうべきです。この分析方法は財務省か内閣府かは定かでありませんがいまでもどこかの省庁に必ずあるはずで活用されて当然のものです。今回のコロナであれば「移動の禁止か制限」が感染防止の基本的な方策になりますから、その条件で経済的影響が最も強く出てくる第三次産業から製造業も農漁業などの第一次産業までそんなに手間暇かけずに分析できます。やらないだけで、いや必ずやっているはずで、影響が広範囲になることを恐れて表に出すのを憚っているだけで、政府内には資料として提出されているはずです。

 酒類の提供を伴う飲食業の営業を、休業する場合、時短する場合、どの産業にどの程度の影響が出るかの分析は必ず政府のどこかに資料として存在しているはずです。それを活用すれば、当該の飲食業だけでなく納入業者にはどんな影響が出るか、それによって農漁業者へはどれほどの損失が発生するか、運輸・小売業への影響は、製造業への関連はどのくらいの範囲にどの程度及ぶか分析できているはずです。

 もしこれが活用されておれば、小出しの、後手後手の弥縫策の対応は防げていたはずです。

 

 補償の範囲は当該の企業(産業)だけでなく広範囲に実行する必要があります。「休業」を要請(命令)する場合『固定費』を補償することで感染終息後の企業存続が保証できますから「雇用」も守れます。固定費は、人件費、地代・家賃、テナント料、リース料、それに固定費ではありませんがキャッシュフロー(企業存立の基盤)から借入金の返済、支払利息も含んで補償するのが企業を「つぶさない」正しい方策です。

 人件費は「個人補償」にして勤務している本人に直接支給するべきです。勤務している企業に関係なく一律、例えば10万円(月額)支給する方式が適切だと考えます。企業活動の全部停止・一部停止の範囲は当該飲食業だけでなく地主、家主、テナント業者、リース業者、金融業者にまで広げなければ経済的合理性がありません。これまでの対応は当該飲食業か納入業者までですがそれでは不十分です。家主、テナント業者、金融業にまで企業活動を停止させてこそ「公正」が担保されることになります。

 ただしこうした考え方は「新自由主義」を改めなければなりませんが、コロナはその必要性を教えてくれました。

 

 バブル崩壊以後何度か金融危機がありました。その度に「金融支援」が行なわれメガバンクには総額約8兆円の公的資金(国民の税金)の投入を得て今日に至っています。しかも「有る時払いの催促なし」という信じられない「好条件」で投入は行われたのです。「国難」のこの時に国民に『恩返し』してもバチは当たらないでしょう。

 

 補償を考えることは「国のかたち」を変えることだということを肝に銘じるべきなのです。

 

 

 

 

 

2021年2月15日月曜日

森舌禍事件の見方

  彼は政治の世界で不適格な人でした。それもかなり酷い評価で日本国のトップを降りざるを得なかった人物です。その人がスポーツの世界では「余人に代えがたい存在」として君臨しているのです。何故かと言えば彼の「調整力」がどうしても必要だというのです。調整力は政治力を構成する諸機能の内の最も大きな要素の一つです。彼の調整力は政治の世界では評価されなかったのですがスポーツ界ではまだそれが通用するというのです。何という「時代遅れ」の世界なのでしょうか、スポーツ界というのは。彼の調整力は日本だけでなく世界――オリンピックの招致、開催・運営にも有用たといいます。もしオリンピックがそんな世界なのだとすれば現代社会には不要なものです。オリンピックは廃止するか大改革してヨーロッパ旧世界の特権階級から既得権を剥奪して新しい組織に生まれ変わらせるべきです。

 

 しかし今回の問題の本当の責任者は武藤敏郎五輪・パラリンピック組織委員会事務総長です。伝えられるところでは事件翌日、事の大きさに驚いた森氏が辞意を漏らしたにもかかわらず強力に翻意を促したのが武藤氏だったのです。武藤氏が問題の本質を理解していたら森氏辞任は当然の流れと受け入れて早急に善後策を講じるべく体制立て直しに意を注ぐべきだったのです。森氏のこれまでを知っておれば、こちらから彼に辞任を強いることは至難の技であることは分かっていたはずで、それが本人からその旨の申し出でがあったのですからこれ幸いと有り難く承認すべきで、それが何を血迷ったか「翻意」を促したというのですから何をか況や、です。ということは武藤氏自身が「女性蔑視問題」の重要性に気づいていなかったということになります。何とか乗り切れると軽るく見積もっていたのでしょう。

 森氏が重宝されたのは彼の調整力だということですが、それは武藤氏が担わなければならなかった職責だったのではないでしょうか。彼は大蔵・財務事務次官を務めた後日銀副総裁などを歴任、トップ官僚としての統治能力、事務処理能力と豊富な内外の人脈を見込まれて事務総長に据えられたのです。わが国で現在望み得る最もふさわしいオリンピック組織委員会の事務方トップと見込まれていたわけです。実際2013年9月に招致が決定してから数々の難局があったにもかかわらず何とか今日あらしめたのは彼の力量に負うところが大きかったはずです、我々の目には触れていませんが。森さんはいわばそうした彼を頂点とした事務方の地道な努力の仕上げとして「かつがれた」神輿に乗った『顔』にすぎなかった、というのが真相だったのではないでしょうか。勿論森さんの「にらみ」が重きを演じた事もあったに違いありませんからそういう意味では森さんは適任だったのです。

 ここまで何とか破綻を招くことなくこぎつけた最後の最後で最悪の結果を招いたのは「オリンピック精神」を真から奉じていなかった「古い日本人」――封建的な家長制度の尻尾を付けた人権意識も民主主義も借り物の旧世代(武藤氏も昭和18年生まれです)――のふたりだったのです。森氏ばかりが矢面に立たされていますが武藤氏の責任も追求されるべきです。

 

 この問題に対する政府と菅総理の姿勢にも大いに疑問がありました。10億円を負担しているからといって日本学術会議の人事に介入するのを当然のことと言い募ったにもかかわらず何兆円と公的資金を注入しているオリンピック組織委員会にはオリンピック憲章を盾にして不介入をよそおった姿勢には奇異の感を拭えませんでし。それが川渕氏を後任に指名して世論に見放され死に体になったと見るや否や、すぐさま「若い人か女性がいいのでは」と介入した菅総理のブレようは、人気凋落で世論調査に神経質になっている不安定な政権の体をあからさまにしました。こうなってみると不介入は森氏の隠然たる政界での力(バックには安倍前総理も控えている)に及び腰になっていただけではないかと勘ぐりたくなってきます。

 

 今回の「女性蔑視問題」はここ10年ほどの間に噴出した各種スポーツ団体の女性蔑視や暴力事件の延長線上にある、しかも最悪のかたちで日本スポーツ界の「病巣」を明らかにしてしまった感があります。女子柔道強化選手への暴力問題、女子レスリングのパワハラ問題、プロボクシング会長問題、相撲界の暴力致死事件、ほかにもいろいろありましたし日大アメリカンフットボール部の関学戦で起こった違反タックル事件も記憶に新しいところです。これらの問題の根底にあるのはみな同じで、「暴力容認」「女性蔑視」などのかたちをとった勝利至上主義の「人権蔑視」「民主主義否定」の姿勢です。

 

 ではどうすればわが国にはびこるスポーツに対する「あやまち」をただすことができるのでしょうか。突飛なことを言うようですが「日本経済の低成長」を真剣に見つめ直すことから始まるように思います。長年わが国では「男性中心」の経済運営が行われてきました。優秀な人たちがいましたから世界の最先端を走って一時は世界第2位の経済成長を達成することができました。しかし「失われた20年」を経ても「ゼロ成長」の時代がつづいています。もう男性だけの『発想』ではアイディアが「しぼり尽くされた」のではないでしょうか。これからは――デジタル後進国、ワクチン後進国、など30年前には想像もできなかった惨状を呈している日本経済社会を再生するためには、これまでまったく活用されずにきた「女性の力」を全面的に利用するのがいちばんの近道なのではないでしょうか。年功序列の縦割り組織に阻まれて充分に力を発揮できないできた「若い力」もこの際思い切って解放することが必要でしょう。「先進国気取り」で馬鹿にしてきた「開発途上国の力」もこれからは重要になってくるにちがいありません。「女性、若い力、途上国の力」、この三つを活かすことが「ゼロ成長」から脱却するための「残された道」だと思うのです。

 男社会で年功序列のタテ社会にできている「今のわが国の組織」を解体して「フラットで柔軟性に富んだ」社会制度に変えることが前提です。

 

 もうひとつ、劣化した「官僚組織」の再編成も必須の条件です。国の運営に官僚は必要不可欠ですが今の「内閣人事局制度」は一日も早く解体するべきです。理念は優れていたのですがわが国には適さないシステムでした。その結果「忖度」が横行して官僚のもっている能力が削がれて、上ばかりを見る出世主義がはびこって「若い官僚」の意欲と能力を死滅させてしまいました。

 官僚組織の再編成も非常に重要なステップです。

 

 そして今しも東日本に再び大きな地震があったのです。復興を忘れて「コロナ五輪」と言い換えた菅総理、あなたはまだ『自助』を言い募りますか。

 

 

 

2021年2月8日月曜日

コロナ再考

  先日ニュースショーのMCが「今日は家に帰って独りで『黙食』です」と宣っていたのですがおかしくないですか。また別の日にはどこかの住職が「朝の勤行をマスクでやると途中で息苦しくなって大変です。高齢のご住職は気を失うほど苦しいといっていらっしゃいます」と話しているのを見ましたがこれにも疑問を感じました。

 コロナ禍が一年経って、情報が溢れかえってどれを信じていいのか混乱するばかりで「コロナの真実」はいまだに把握できないでいますから不安は募るばかりです。

 

 先にあげた例のどこがおかしいかというと私はコロナをこう考えているからです。

 感染は感染者からしかしない、まずこれが基本中の基本です。では何が媒介して感染するかといえば「感染者の飛沫」が最大の感染源です。それがどのように感染者から第三者に罹(うつ)るかといえば、飛沫が直接粘膜に付着するか、飛沫の生きているウィルスの着いた物に触れてそれを自分の粘膜に移してしまう。こうしたメカニズムを正しいと思うから、飛沫を飛散させないためにマスクをするし、手や顔に付着したウィルスを除去するために手洗い、洗顔、ウガイをするのです。注意するのは、ウィルスが付着した場所によって二三時間で死滅することもあれば七八時間から二日も生きている場合もあるということです。粘膜は口や喉にとどまりません、眼も耳も粘膜です。マスクをしていても感染を完全に防せぐことはできないと認識すべきなのです。

 もしこうしたコロナウィルスに関する認識が正しいとするならば、先のMCは、家に帰って手洗い、洗顔、ウガイをキチンとやったなら、誰もいないのに――飛沫を飛ばされる(飛ばす)他人もいないのにどうして「黙食」する必要があるのか理解できません。住職も広い本堂で、昨夜から何時間も経った無人の空間で一人で読経をするのにどうしてマスクする必要があるのか理由が分からないのです。

 結局、これをしてはいけません、こうすると感染を防げますよ、という情報があっても何故そうなのかについての理由の説明がほとんど明らかにされないから、これもあれも、次から次へと情報が積み重なってガンジガラメになって身動きできない状態に置き去りにされてしまっているのです。

 

 以上のような認識に基づくと第三波は明らかに「東京の人たち(以下東京人)のGOTOトラベル」が原因と考えてまちがいないと思います。それも主として「東京人同士の罹(うつ)し合い」が原因なのではないでしょうか。

 そのメカニズムはこうです。マスクの飛沫透過防止率は呼気70%、吸気40%です。したがってマスクをしているからといって飛沫が飛散していないわけではないのです。ですからマスクをしていても咳やクシャミをするときに手を当てる必要はあるわけで平気な顔で他人に向けて咳をするのは厳禁です。また食事をするとき「咀嚼」は飛沫を飛散させますから大口を開いて食べると飛沫は拡散していることになります。お酒が入って大声でしゃべりながら食事をすればまちがいなく大量に飛散してしまっているのです。

 旅行するとき、旅行をする人同士は仲のいい関係にありますから親しく連れだって歩くでしょうし食事をするときも二メートルも三メートルも離れることは考えられません。旅館やホテルの食事と談笑は短時間で終わるはずもありません、四時間五時間と継続しますから飛沫の蓄積は少なくないのです。ちなみにCOCOA(ココア)――濃厚接触した可能性を知らせるアプリは「感染者と1メートル以内、15分以上の接触のあった場合」濃厚接触者と判定していますから旅行者はまちがいなくこの範疇に入っています。

 こんな状態で旅行がつづくのですからもし「感染者」が旅行仲間にいれば感染しないはずがありません。

 GOTO解禁時のPCR検査陽性率は5%を超えていましたから旅行へ行こうかと考える無症状やごく軽症の感染者は2~2.5%程度を想定するのが適正なのではないでしょうか。実効再生産数は1.1を上回っていましたから感染は増加する状況にありました。GOTOトラベルの利用者数は11月15日までで5260万人泊と発表されています。東京の人口は約1300万人、東京圏の人口は約3500万人以上になります。12月末までの東京圏の利用者数は500万人と見積もるのは多すぎるでしょうか。暫定的に500万人と想定するとGOTO利用者の中に5~10万人近い感染者が混じっていたと仮定できるのです。(人口比から考えれば東京圏で2000万人以上の利用があったと考えてもおかしくありません

 この数字の「ほんとうらしさ」がどの程度かは軽々に判断できませんがGOTOを利用した東京人のかなに少なからぬ感染者がいたかもしれないと考えることは決して誤っているとは言えません。むしろ「いた」と考える方が正しい想定です。

 

 GOTOトラベルを利用した東京人同士が旅行中に「(うつ)し合った」という仮定は相当な「確からしさ」をもって許容されるべきです。彼らが旅行から帰って「家庭内感染」をひき起こしそれが更に域内感染をもたらした。12月下旬以降の急激な東京圏の感染者数の増加の重大な原因の一つとしてGOTOトラベルを想定することの蓋然性は相当高いのではないでしょうか。

 もし為政者や行政にその気があれば――GOTOと新型コロナ感染の間の相関関係を真剣に検討する意欲があれば、感染者にGOTOの利用を確認して統計を採れば簡単に把握できるはずです。もし私が当局者であれば必ず調査しています、賢明な官僚諸氏のことですから私などの考えること以上のことをしているはずで、公表されていませんがGOTOと感染の相関状況はまちがいなく掴んでいると思います。

 

 東京人同士だけでなく旅行した地方への感染にも影響があったであろうことは否定できないと思います。しかし数的には東京の感染拡大ほどではないでしょう。いずれにしても「GOTOトラベル」の東京圏の解禁が第三波に重大な影響があったことは否めないと思います。この責任はだれが負うのでしょうか。

 

 来週はもう一つの責任問題「補償」について考えます。

 

 

 

 

 

 

2021年2月1日月曜日

上皇さんだけでも

  京都人には「天皇さんはちょっと東京に遊びに行ってはるんや、そのうち帰ってきやはる」という人が今でも結構います。令和の代替わりのときには「上皇さんくらい、京都に住まはったらええのに」と思った人は随分いたにちがいありません。かくいう私もその一人ですからきっと相当数の京都人が願ったことでしょう。幼いころからそう思い込んでいた私ですが長ずるに及んでこれが根本的なまちがいであることに気づきました。なぜなら今霞ヶ関を席巻している官庁群を収容できるだけの土地の余裕が京都にはなかったからです。いや大阪にも名古屋でもそれだけの土地はありません。版籍奉還で江戸を引き払った大名屋敷があちこちに「空き家」になっていた「江戸」だけが明治新政府の首都としての地理的優位性と可能性を保有していたのです。

 こんな当たり前のことをどうして相当な齢になるまで分からなかったのか今思えば不思議ですが学校で教えてもらった記憶もありません。考えてみると、こうした当たり前の理屈で分かることが分からないままに別の「常識」が幅を利かしていることが世の中には随分あるのではないでしょうか。今日はそんなことを書いてみようと思います。

 

 中国の香港弾圧が止まるところがありません。昨年制定された「香港国家安全維持法」というおよそ「近代法」の体裁をもたない『悪法』が傍若無人の「粛清」をしまくっているのです。「法令不遡及の原則」という近代法の原理原則を習った人は多いと思いますが、法律は制定された時点から発効するもので、それ以前をその法律で裁くことはできないというのが近代国家の常識なのですが、この香港の安全維持法は過去に遡って違反していた人を裁けるというのですからとんでもない法律なのです。だから日本人でこれまで中国や習近平を批判していた言論人などはうっかり香港に遊びに行ったりしたら突然警官に取っ捕まってしまうことがないともいえないわけで、戦々恐々としている人もきっとあるにちがいありません。

 ここでよく言われるのは香港の「一国二制度」が守られていないということです。1997年英国から中国に返還されたときの中英共同声明にある、香港の「高度の自由」は今後50年間保証されるという約束が無視され数々の抑圧策によって蹂躙されていると国際社会が糾弾しているのです。

 しかしこれを中国人の立場で考えてみるとまったく見方が変わってきます。香港が英国領土となったのは第一次阿片戦争の「南京条約」で譲渡されたことに淵源がありますが、その後第二次阿片戦争が続き1860年北京条約締結をもって終息しました。この二つの条約は中国にとってはおよそ承認できないほどの「不平等条約」で、香港、九龍島、外満州(対ロシア)の割譲や「苦力貿易」という中国人労働者を劣悪な条件で移民させるというほとんど「奴隷貿易」まがいの移民政策を受け入れさせるなどという内容だったのです。そもそも阿片戦争そのものが理不尽なもので、茶、陶磁器、絹などを大量に輸入していた中英貿易は英国の完全な赤字貿易で、支払い不足に陥った英国がインドで阿片を栽培させてそれを中国に密輸して貿易決済資金を調達するという今から考えれば完全な英国の「国際信義」を無視した交易状況を打破しようと「阿片禁輸」を打ち出した中国に難癖をつけて開戦に追い込んだ不条理な戦争だったのです。軍事力に圧倒的に勝る英国が勝利を収めるのは当然でその軍事力を背景に結ばれた条約が南京、北京の二つの条約だったのです。

 こんな不合理な条約を基礎とした「香港」が返還されるからといってそもそもの「香港割譲」が中国にとっては「暴力的剥奪」だったと考えているのですから「50年の高度な自由」など「糞食らえ」だと「ケツを捲る」行為に出ても何ら恥じるところがないのです。こんな事情があるからこそ英国も中国に面と向かって「約束違反」を突きつけることができないのです。

 

 もちろんいま中国が香港市民に行っている「暴虐」が許されるはずもありません。香港だけでなくチベット、ウィグル、モンゴル、台湾などへの抑圧は、内政干渉で片付けられるような生やさしい「人権問題」ではありません。しかしこと「香港」に限っては英国の「責任」も国際的な場で改めて論議されるべきだと思います。難民問題ももとをたどれば植民地支配で収奪の限りを尽くしたヨーロッパ、アメリカなど先進国の責任も重くあるわけで、富裕な先進諸国が古くて新しい『南北問題』に本気で取り組むべき時期に至っていることを認識すべきなのです。

 

 これは日本にとっても「対岸の火事」ではないのであって、日韓、日中、対東南アジア諸国との関係も「歴史問題」として認識すれば、今われわれが「常識」としている見方も根本的に変わってくるはずで、そうした「透徹した歴史の眼」が現在の日本には徹底的に欠けているのではないでしょうか。

 

 もうひとつ、習近平政権が昨年打ち出した「所得倍増計画」も中国共産党政権や世界の一部が中国に抱いている常識が可能性に期待しているほど蓋然性があるとは思えません。2035年までに経済規模を2倍に拡大し、5年以内に高所得国入りするというこの計画は、2030年ころまでにアメリカを抜いて中国が世界最大の経済大国になるという「常識」と同じほど実現性に疑問を感じます。

 中国の2019年の1人当GDPは1万ドル強で世界の69位ですがこれを高所得国ラインの2万ドルに5年間でするというのです。しかし中国の成長率はここ数年急速に減速して今では年率6%の成長を維持するのも難しい状態になっています。仮に6%成長が保たれたとしても2倍になるには10年以上(約12年)かかる計算になります。現状ではこれでも楽観的な見通しでまして5年以内などという計画はとても無理だといわざるをえません。2035年ころまでに経済規模を倍増するという計画は6%近い成長率を想定すれば12~15年で可能な数字ではありますが次に述べるような理由でそれも無理だと思います。

 2019年の世界のGDPは87兆5千億ドルでアメリカ(24.6%)と中国(16.9%)で全体の40%強を占めています。もしアメリカの比率を現状のままと仮定して中国だけが倍増したとすると中国の比率は33.8%となって米中の比率は60%近いものになってしまいます。このように偏った国別の成長はグローバル化が高度化した現在ではあり得ない姿です。30年ほど前までは世界の資源は7ケ国(G7)か20ケ国(G20)で利用することも可能な世界情勢でした――市場という規制はありましたが。しかしその後グローバル化が急進展して今やフロンティア(未開拓国)の存在しない緊密な連携でつながった国際経済体制になっています。多数の貧困国を搾取して強い国(軍事力のすぐれた)数ヵ国だけが資源を独占して成長の果実を独占するようなことが許されることはあり得ません。中国の「所得倍増計画」はまさにこうした軍事力を背景とした有無を言わせぬ強権的な資源独占と弱国の収奪を前提としなければ実現可能性のない計画と言わざるを得ないのです。

 

 問題はこんな無謀な計画を共産党独裁国家のトップが打ち出さなければならないような状況に中国があるのではないかという懼れです。中国のこれまでを概観するとき、漢民族と外夷の権力抗争の歴史を繰り返してきました。現在は漢民族支配の時代です。次なる外夷はどこから来るのか。外からか内からか。所得倍増を打ち出した中国は今そんな時代転換の時期にあるのかもしれません。

 

 『常識』にとらわれていると大きな時代のうねりを見逃してしまうことは歴史が物語っています。