2021年2月22日月曜日

コロナ再考(続)

  コロナ禍の一番の教訓は、私有財産制をトコトンまで追求する新自由主義の『破綻』ということでした。いまだに「自助」を言い募るわが国の最高権力者は世界の自由主義陣営の潮流に乗り遅れコロナ対策は「後手後手」に回って夥しい失業者と中小規模の企業消滅を招いてしまいました。株価が三万円台を記録したのをうけて「回復」と喜びを口にしましたが、彼にとって日経平均三万円台はバブル最高値の38,900円への通過点と認識しているのでしょうがコロナ不況に呻吟している多くの国民にとっては、「株価と実体経済の乖離」を放置して「痛み」を感じないでいる能天気な為政者の「国民のために働く」というキャッチフレーズが「空しく」なるばかりなのです。

 

 土地とお金と教育は「売り物にしてはいけない」という考え方があります。土地は国家存立の基盤であり、しかも「限り」がありますから自由な取引に任せてしまうと「高騰」して国が無茶苦茶になってしまうおそれがあります。お金はもともと商品ではありませんからそんなものを商品として自由に取引するようになると「お金の本質」が消滅して経済が混乱してしまうというのです。教育はもともと「師弟関係」のもとで授けられるものであって、「師」は弟子から金品は受け取らない、盆暮の貢物というかたちで感謝の気持ちを受け入れるのが正しい教育の姿だと考えるのです。

 もちろんこうしたものの見方が現代にそのまま通用するとは思いませんが、基本的な考え方としては今でも一面の真理を保っているのではないでしょうか。

 

 コロナ禍であらわになったのは、わが国が「ワクチン後進国」に成り果てているということでした。それはワクチンを一般的な薬剤と同一視して市場商品にしてしまったために製造する企業がほとんど消えてしまったからです。感染症に対応できる病院が極端に少なくなってしまったのも同じ原理です。病床数は世界のトップクラスであるのに、感染者数が世界の先進国の10分の1、100分の1以下で「医療崩壊」を招いてしまうという体たらくをさらしてしまったのも、全ての病院に「市場原理」を導入してしまったからです。感染症の流行は「常態」ではありません。いつくるか分からないけれども必ずいつかくるものです。ということは「普通のとき」「感染症部門」は「営利企業」にとって利益を生まない「お荷物」な存在になるのです。しかし必ずいつかは「くる」病気です。21世紀になってからでもSARS、MERSと今回の新型コロナ感染症で5年に1症例が発生していますしインフルエンザも毎年発生しています。グローバル化が世界のすみずみまで進展すると世界の片隅に閉じ込められていた未発見のウィルスが世界的に拡散するおそれをはらんでいます。感染症対策は今や「異常事態」と考える時代ではないのです。

 ワクチンも感染症対策も「市場原理」で対応できるものではないということがはっきりしました。

 

 コロナの『補償』を考えるということは小手先の、一時的な経済的社会的対策で済ませるはずもないことなのです。わが国の経済のかたち、社会のかたちをどのようなものにするかを根本的に考え直さなければ正しい対応ができない問題なのです。

 

 まずコロナに限らず社会的に大きな「事件」の及ぼす影響を「科学的」に分析する体制を構築する必要があります。経済的な影響に関しては以前なら、21世紀になるまでは「経済企画庁」という独立性を保った機関が担っていたのですが2001年の省庁再編成で内閣府に吸収されてしまいました。このため専門性のレベルが低下するとともに政権からの「独立性」も危うくなっています。感染症という極めて広汎で影響度の強い事象に関してはときの政権に「忖度」しない「独立性」の担保された「公正な」分析のできる機関が必須条件になります(毎年の経済財政政策のもとになる「年次経済レポート」も独立性が必要です)。今のわが国の省庁編成では「科学的」なデータ分析はかなり難しい状態に陥っているのです。

 それを踏まえたうえでも経済的な影響を「早く」統計的に「確率性の高い」分析を『産業連関分析』を用いて行なうべきです。この分析方法は財務省か内閣府かは定かでありませんがいまでもどこかの省庁に必ずあるはずで活用されて当然のものです。今回のコロナであれば「移動の禁止か制限」が感染防止の基本的な方策になりますから、その条件で経済的影響が最も強く出てくる第三次産業から製造業も農漁業などの第一次産業までそんなに手間暇かけずに分析できます。やらないだけで、いや必ずやっているはずで、影響が広範囲になることを恐れて表に出すのを憚っているだけで、政府内には資料として提出されているはずです。

 酒類の提供を伴う飲食業の営業を、休業する場合、時短する場合、どの産業にどの程度の影響が出るかの分析は必ず政府のどこかに資料として存在しているはずです。それを活用すれば、当該の飲食業だけでなく納入業者にはどんな影響が出るか、それによって農漁業者へはどれほどの損失が発生するか、運輸・小売業への影響は、製造業への関連はどのくらいの範囲にどの程度及ぶか分析できているはずです。

 もしこれが活用されておれば、小出しの、後手後手の弥縫策の対応は防げていたはずです。

 

 補償の範囲は当該の企業(産業)だけでなく広範囲に実行する必要があります。「休業」を要請(命令)する場合『固定費』を補償することで感染終息後の企業存続が保証できますから「雇用」も守れます。固定費は、人件費、地代・家賃、テナント料、リース料、それに固定費ではありませんがキャッシュフロー(企業存立の基盤)から借入金の返済、支払利息も含んで補償するのが企業を「つぶさない」正しい方策です。

 人件費は「個人補償」にして勤務している本人に直接支給するべきです。勤務している企業に関係なく一律、例えば10万円(月額)支給する方式が適切だと考えます。企業活動の全部停止・一部停止の範囲は当該飲食業だけでなく地主、家主、テナント業者、リース業者、金融業者にまで広げなければ経済的合理性がありません。これまでの対応は当該飲食業か納入業者までですがそれでは不十分です。家主、テナント業者、金融業にまで企業活動を停止させてこそ「公正」が担保されることになります。

 ただしこうした考え方は「新自由主義」を改めなければなりませんが、コロナはその必要性を教えてくれました。

 

 バブル崩壊以後何度か金融危機がありました。その度に「金融支援」が行なわれメガバンクには総額約8兆円の公的資金(国民の税金)の投入を得て今日に至っています。しかも「有る時払いの催促なし」という信じられない「好条件」で投入は行われたのです。「国難」のこの時に国民に『恩返し』してもバチは当たらないでしょう。

 

 補償を考えることは「国のかたち」を変えることだということを肝に銘じるべきなのです。

 

 

 

 

 

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