2019年11月26日火曜日

経済と政治への素朴な疑問

 私の周囲にはいわゆる〝経済の専門家〟と目される人が少なくない。元銀行マンや証券マン、また大学で経済学・経営学を学んで社会人となって企業で働いてきたタイプなどいろいろだが皆一家言を持っている。そんな彼らに最近の株高について納得のいく説明を求めるのだが一向に埒が明かない。そこで無謀だが素人の私が自分なりに疑問を解明しようと試みることにした。
 
 今年8月末(8月26日20,261円)に2万円を割り込みそうになった後一本調子で上り続け、9月5日21,000円台回復、以降9月19日に22,000円台、11月5日には23,251円をつけている。なぜここまで株価が上るのだろうか?経済のファンダメンタルズ(基礎条件)は米中の貿易戦争のあおりを食って貿易量が急激に減少し経常収支が悪化しているうえに、日韓関係が最悪の状況にあって韓国からの旅行インバウンドが半減するなどによって12月期の大企業の収益は軒並み大幅な〝減益予想〟になっている。こうした直近の経済指標の悪化ばかりでなく外人投資家の日本株からの逃避現象が長期的傾向として定着しているのだ。東証一部の内国株の1日平均売買高が2013年の34億4800万株を頂点に、2014年から2016年は25億株から24億株と高位安定していたのが2017年19億8800万株と急減すると2018年は16億6200万株とぎりぎり15億株(市場安定の下限売買株数とされている)をキープしたが今年ここまでの平均は13億8300万株にまで低下し日によっては10億株を割り込む日も少なくない。これは外国人投資家が昨年中期以降売り越しに転じた影響と市場関係者は分析しているが外国人にとって日本株の魅力が失われていることの証である。
 なぜ魅力がないのか?国民経済の成長率は1%内外で世界の成長率3%台後半、先進国平均の2%台と比べて相当劣っているし、民間平均給与は平成18年440万円でこれは1997年の467万円より1割近く減少しているわけでこれでは国民総支出の6割以上を占める消費が増えるはずもなく、10月の消費税の10%へのアップも加わって経済が好転する可能性は殆ど望めない。消費の活性化が短期的にはほとんど期待できない現状は労働分配率(企業の稼ぎに占める賃金の割合)が一時70%を超えていたものが2018年には60.1%まで低下してることからも明らかだ。アメリカはGAFAなどのスーパースター企業の比率が年々上昇してきたことから労働分配率の低下が説明できるが、わが国の場合は内部留保のやみくもな積み上げ志向を是正する以外に解決策は見出せない。
 
 日本経済の近年の趨勢、外国人投資家の日本株の評価、いずれをみても株価上昇の原因が見出せない中の今年8月末以降の異常な株価上昇をどう判断するか。有力な市場関係者の分析は「株式市場の巨鯨――GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)」の存在を指摘する。東証一部の1日の売買代金はおよそ2~3兆円だがGPIFの運用資産額は160兆円を有しているからGPIFが市場に影響力を及ぼそうとすれば決して不可能なことではない。これまでもGPIF相場をささやかれたことは何度もあった。しかもそれは選挙前であったり議員不祥事で政権人気にかげりがでかかったとき、というような政治がらみが疑われるときが少なくなかった。今回の2万円割り寸前から1ヶ月少々での急激な回復は、消費税10%アップに伴う景気悪化を株価上昇で打ち消そうとする「政権の思惑」が透けてみえるが、真実は?
 
 閑話休題。共通一次に代わる大学入学試験の「大学入学共通テスト」の最大の改革点であった「英語民間試験導入」が見送りになった。グローバル化の即戦力を大学に要求する企業の強い働きかけに対応して「読む」「聞く」以外に「話す」「書く」を含めた総合的な英語力を入学試験の合格判定要素に採用しようとした文科省が、既存の大学にはそれを判定する(一斉テストに対応して短期間に)能力が備わっていないと判断して『民間委託』に踏み切った措置を、政治と市民社会が見直しさせたことになる。しかし文科省の判断は考えてみれば大学側にとって失礼極まるものではないか。民間の予備校や学習塾にはあってわが国の最高教育機関にはその能力がないというのだから、ある意味ではわが国の教育制度(のある部分)が未熟であると、それを管理監督している主官庁が主張するのだからこんなおかしいことはない。これに怒りを覚えた?大学の大学『東大』が叛旗を翻したのだが安倍首相の最側近の「横やり」に腰くだけしてしまったのはなんとも情けない悲喜劇であった。
 さらにもうひとつの改革点であった国語と数学への「記述式の導入」もどうやら中止になる公算が強くなって、これで大学入試への『民間導入』は完全見直しになってしまった(「記述式」の採点は競争入札で通信教育・出版などを手がけるベネッセコーポレーションが落札していた)。
 今回の「民間導入」のいきさつについては不透明・不明朗で審議会の議事録にもその間の事情が「公文書」として記録・保管されていないらしい。
 
 「民間導入」ときいて多くの人は少子化に伴う教育関連産業先細りの『救済』であろうとスグに思いついたにちがいない。もしそうでないなら十分な時間をかけて現場も含めた「初等・中等学校」と「大学」、有識者、文科省そして教育関連産業の代表者が、それに父兄の代表も加えて、慎重に討議されるべきものだったのだ。それほど、大学入試への民間導入はわが国150年の教育制度への大改革であった、はずなのだ。予備校にしても学習塾にしても教育制度にとっては『徒花(あだばな)』であって決して「正規の」教育機関ではない。「必要悪」としての存在がいつの間にか正規の学校をも牛耳るような存在になって、文科省もうやむやのうちに『公認』してしまっていたのだ。
 
 正規の学校制度改革に「100年の大計」を打ち出せずにいる政治と官僚機構が、AIやロボットが社会に大変革をもたらすにちがいないこれからの十数年の行く末を、企業の巨大な力に阿(おもね)って「遣り過ごそう」とする『弥縫策』が「民間導入」だったのではないか?
 
 国民主権のわが国の経営を担う政治と官僚機構が、いつのまにか「国民そっちのけ」で権力維持のために、企業のために―――ということは「国民」の方を向かないで政治と行政を行うようになっている。それが「株高」であり大学入試への「民間導入」なのではないか。
 
 素人の素朴な疑問はこんな結論に至ってしまった。
 
 
 
 

2019年11月18日月曜日

喜寿の贈りもの

 
 やっと書斎が持てた。娘がくれた喜寿の年最後の贈り物だ。娘の使っていた部屋が空いて妻と娘がどうしてもそっちへ移れというのでいやいや承知した。今までの部屋は和室の六畳で仏壇と妻の洋ダンスと整理箪笥が納まった極めて狭い空間に五十余年前に社会人になってはじめて買った座り机を据えた書斎らしきつくりのものだった。朝晩布団を上げ下げするのが億劫だったが結構居心地は良かった。仏壇の古びと上質の家具と貧乏もの書きめいた和机の納まりが好みだった。妻も娘たちも他人を招じるのを好まなかったが私は平気だった。ひとつは机上の本と部屋のたたずまいに自負があった。狭いし日焼けした畳むきだしの六畳は友人たちの広い洋間のフローリングの部屋とは雲泥の差だが彼らの部屋にはなにかよそよそしさを感じた。いやそういうと少しちがうか、使い込んでいないと言ったほうがふさわしいかも知れない。木のまな板を何年も使い込んで何度も削ってきた料理人のまな板のような生活に馴染んだ道具のようなたたずまい。私の部屋がそんな上等なものとは言わないが生活の馴染みのようなものはまちがいなく有り、仏壇と道具と本の釣り合いが絶妙だった。もちろんこれは私だけの感覚で妻にも娘たちにも理解されなかったが、私にはひと様に誇れるたたずまいだったのだ。
 相当抵抗したが妻のたってのねがいを無碍にしりぞけることはできなかった。
 
 部屋うつりして十日。机は娘の使い古しだがおとなになってから買ったものだから少々落ち着き感がある。椅子はこれも五十余年使ってきたロッキングチェア。机が大きくなったので机上の本の数もこれまでよりも若干多く並べることができて、並べ方を文庫と新書を前の列に移し変えたので秩序立ってすっきり。小型のテレビと大き目の黒い年代物のラジカセを机の横に据えると部屋に馴染んでしっとりとする。西向きの二枚の掃き出しの窓は日当たりもよくロッキングチェアに揺られながらの読書はなかなか乙なものだ。なによりも独立の部屋になっているので居間とこの部屋のドアを締め切るとほとんど雑音が消えてしまうから読み書きが快適に行える。そのうえ想定外だったのはお隣さんを含めて殆どの住人が昼間は不在なので通路側に面していることもあって相当ヴォリュウムをあげてラジカセを鳴らしても苦情がこないことだ。イヤホンなしで好きなクラシックを堪能できるのはうれしい。
 お蔭で読書がはかどっていうことなしなのだが、ドアを締め切って完全に独りの空間を享受していると少々後ろめたさ――というか申し訳なさを感じる。「どこでも楽しめるのですね」という妻のことばも嫌味に聞こえる。八十才近くなって思いもかけず年来の望みであった書斎を手に入れ、毎日籠もってCDと読書を楽しみながら悦に入っている私に妻は僻まないだろうか。こんな虞を抱くとは自分に疚しいところがあるからで、齢をとっても私や娘の世話を焼くほかにテレビをみる程度の楽しみしかない妻に後ろめたいのだ。若い頃ならこうではなかったのに……。
 
 もうひとつおまけがあった。本の移動のついでにほこりをぱらぱらと掃っているなかに五千円札一枚と五百円の図書券二枚がでてきたのだ。もともと自分の物なのになにか儲かった気がするから可笑しい。早速東急ハンズで皮製のペンシルトレイとデジタルの置時計を買って机を飾るとムードがでる。図書券を手にして本の物色に書店をうろついていると新潮文庫の『O・ヘンリー傑作選Ⅰ~Ⅲ』の三分冊が目に入った。むかし英語の教科書で読んだ「賢者の贈りもの」や「さいごのひと葉」がみえる。まよわず購入。もし図書券がなかったら買わなかったにちがいないが千六百何十円が六百何十円なら高くない。決してO・ヘンリーがどうとかいうのではない。前から読みたいと思っていた作家なのだがなぜか買ってまで…とは思わなかった。そんな作家、というか作品があるものでO・ヘンリー短編集もそんな一冊だった。これでしばらく寝床で読む本に不自由しないで済む。
 
 短編なら日本の短編の名手、永井龍男に新潮文庫の『青梅雨』がある。このなかの「快晴」がいい。
 大学教授の磯崎が癌で死ぬ。会葬した友人や知人の回想から磯崎の生前の姿が浮かび上がる。教授としての給料は正妻に、小説だか随筆だかの雑文の収入を二号へ。財産分与も生前に抜かりなく行っていたのだが、思いのほかの参列者の法外な香典の配分をどうするのか。そんな厄介なお役目は勘弁してほしいと友人たちは斎場を後にする。参列者の中に香典に古びた革の靴べらを包んできた弔問客がいた、それが磯崎の頼みだったというミステリーも配した佳篇である。
 そのなかにこんな一節がある。「大都会の葬儀場に働く人々は、死者とその係累を無駄なく送迎する。応対が軽率であってはならないし、情におもねってもならない。過不足のない表情と物腰で、きわめて敏速に事務を片付けて行く。天国へ行く人のためにも、地獄へ行かなければならない人のためにも、またそれを見送る人々のためにも、航空会社以上の熟練で事務を処理して行く。/もしここの建物内に無駄があるとすれば、最上等、上等、中等と分かれた釜の周囲を装飾して、天国や極楽を思わす彫刻がなされているくらいのものだが、それとても無理にそれらを使用する必要はなかった。簡潔に故人をこの世から去らせたいと願う遺族たちのためには、無装飾の並等という釜も用意されてあった。」
 透徹した観察眼と言葉選びの巧さ、ユーモアも配した文体は今の私の齢にはぴったりの短編集だ。
 
 斎場がでてきたからではないが今週心に残ったのは、3.11の震災で娘さんを亡くされたご夫婦にやっと遺骨の一部が戻って安心されている報道だった。九年近いあいだ会いたくて会いたくて……。やっと会えて嬉しいです、とかすかに笑みを浮かべるご夫婦に不思議な感じを抱いた。娘さんが生きて帰ってきたわけではない、娘さんの一部が遺骨で帰ってきたことが嬉しいという。お骨ひとつを娘さんそのものに感じるとしたらお骨というものはそれだけ大切なものになってくる。そうだとするとアイヌや琉球人の墓を暴いて骨を持ち帰り「標本」として研究資料とした京大や東大、北大、東北大などは人として問題のある所業として非難されるべきだろう。時代だったからというのならどうして現在に至っても返還しないのか。もうひとつ最近の墓じまいや墓無しを当然とする風潮も気がかりだ。
 人間の生き死にが先祖や伝統と断絶したかたちで考えられることに、誰かが歯止めしてもういちどじっくりと考え直してみる必要があるのではないか。そんな思いにかられたご夫妻の姿だった。
 
 それにしても書斎はいいものだ。
 
 

2019年11月11日月曜日

行政には「心」がない 

 首里城の火災原因がどうやら「放火」ではないということが明らかになってホッとしている人が少なくないのではないか。一報を聞いたとき、辺野古移設問題など政府方針に頑強に反対運動をつづける沖縄県民に対して偏狭な右翼勢力のハネッ返りが逆恨みして放火したのではないか、そんな危惧が一瞬頭をかすめた人も多かったはずで、そうでなかったことがほぼ確実になって「よかった!」、と言ったらまた「不見識」と批判を受けるだろうか。でも昨今のわが国の風潮の中、「声なき声」の一市井人としては自然と上記のような懼れを抱いてしまう。たとえば、日本・オーストリア国交150年記念事業として首都ウィーンで9月下旬から開かれていた芸術展が今月に入って急にオーストリア日本大使館が公認を取り消した事案なども、現在わが国にはびこっている「表現の自由へのすくみ」を表わしているように思われてならない。日本での政治社会批判の自由と限界に焦点を当て、放射線防護服に日の丸の形に浮かんだ血が流れ落ちるオブジェや、安倍首相に扮した人物が歴史問題をめぐり韓国・中国に謝罪する動画の展示、昭和天皇を風刺する作品などもある内容だったらしいが「大使館の忖度」が働いたのではと推測させるもので、「自由は急になくなったりするものではない。いつもミリ単位で死んでいく。そしてわたしたち一人ひとり一ミリ分の責任を負っている」というクリストフ・ハインのことばが妙に身に沁みる今日この頃のわが日本である。
 
 最近腹立たしかったのは東京オリンピック2020のマラソン・競歩が東京から札幌に競技場が変更になった件に対する東京都の小池百合子知事の「東京は一銭も出しません」発言だった。おおざっぱに総予算を概算すると当初の7000億円が大きく膨らんで3兆円になり、東京都と政府が各1兆円づつ、組織委員会などで残りの1兆円弱を負担している。小池知事の言い様だとまるで全額を東京都が負担しているように聞こえるし、東京オリ・パラ2020は東京のみの力によって開催されるかのような「おごり」を感じる。費用分担だけでもそれが誤りであることがはっきりしているが、オリンピック開催にまつわるインフラ整備でどれだけ東京に恩恵が及んでおり開催に伴うインバウンドの観光収入で都民に莫大なウルオイがもたらされるなど、国民の協力に感謝する気持ちが一片でも小池知事にあったらあんな発言はなかったはずだ。そもそも東京に厖大な法人税収入がもたらされているのは本社機構が東京にあるからであって、生産工場や販売拠点などは全国に点在しておりそれら地方組織の生み出した利益が税法上の約束事で東京に集約されているだけで、一部が地方に配分されているとはいえ、東京の利益の多くは地方のお蔭であることをもっと謙虚に考えてほしいものだ。今回のオリンピックは「復興五輪」が重要なテーマであったはずで、それが逆にオリンピックのせいで東北をはじめ全国の災害復興が大幅に遅れているなど「復興五輪」が聞いて呆れる現状である。
 今でも東京オリ・パラ2020に反対している人が決して少なくないことを、被害地でおおっぴらに声を出せない人たちどんなにいることかマスコミからまったく聞けないことを残念に思うと同時に、亜熱帯の日本で8、9月開催を無理強いするアメリカの横暴に改めて怒りを覚える。
 
 腹立ちがらみをもうひとつ言わせてもらうと、紙おむつの消費税率がなぜ10%なのか、高齢者が免許返納して代わりの身分証明書―正式には「運転経歴証明書」の発行になぜ手数料を徴収する必要があるのか。言っていることとしていることがまるで逆ではないか。少子高齢化で若い人の出産を国をあげて推奨、援助しているかのように見せかけておきながら、育児の必要経費の中で負担の大きな紙おむつに軽減税率を適用しない理由が思い当たらない。紙おむつ代(1人当り)は大体1ヶ月で6000円以上、3年間で25万円弱になる。ふたり以上が望ましいのだから育児期間が重なることもありそんな場合1万円を超えることにもなるからたとえ2%の優遇措置でもありがたい。金額もそうだが国が細かいところまで気を配って応援してくれているという温かさの方がもっと嬉しいにちがいない。それは運転免許返納でもそうで、八十才手前でまだまだ自信もあるけど家族がうるさくいうから返納しようと免許センターへ行って身分証を発行してくださいと申し出たところ、「1100円発行手数料が要ります」と言われて「えっ!」と驚く人も多いのではないか。テレビなどではご褒美としてタクシーの優待乗車券や記念品などを支給しているところもあるのにこのギャップはおおきい。これも金額の問題ではない、気持ちだ。仕事をしなくなって車に乗るのは妻の買い物のお供とか、たまの役所への手続きに行くなどしかないけれど、それでもないと困るからなかなか踏ん切りがつかなかったのをやっと決心して……、やっぱりこの仕打ちは心に痛い。
 行政には心がない!いつも思い知らされる。
 
 センター試験に代わる大学入試共通テスト英語民間試験の導入延期も「行政には心がない」の格好の例だろう。どうしてこのようなシステムが用いられるようになったのか非常に不透明だが、所得格差と地方格差を何ら顧慮せず「身の丈に合った」格差を『容認せよ』という理不尽な体制を野党もマスコミも徹底検証することなく実施されそうになっていたのだから恐るべき事態であった。文部科学大臣の不用意な発言が引き金となって問題が表面化し、勢いづいた野党やマスコミの批判によって事実上の廃案になったが、もし安倍側近の緩みきった「他人事」としての「心無い」発言がなければ規定方針通り実施されていたかと思うと背筋が寒くなる。それでなくても地方と都市の格差がどんどん拡がり地方の若者の教育機会が損なわれている中で知らないうちに格差が固定されてしまっていたかもしれないと思うと役人―「行政の心のなさ」をいつものことと済ますことはできない。
 財政の劣化に対する「効率化」の絶対性、企業の要請による「実用性」の圧迫。国語の教科書から「文学」が後退して取扱説明書や行政文書などの「論理国語」が新設されて「文学国語」と「国語」が分裂されるらしいが、こうした文科省の国語改革は終戦直後の「漢字廃止と国語のローマ字化」を思い出させる。当初GHQの圧力によって漢字廃止を押し付けられていた国語審議会がその後GHQが漢字の有用性を認識して廃止論を撤回したにもかかわらず日本人議員が「ローマ字化」を推進しようとした。今から思えばあのとき漢字を廃止しなかったことの「正しさ」は明らかでGHQという外圧に代わって「企業」という外圧に負けて国語の「実用性」――いや外国語も含めて「言語の実用性」ばかりに目を向けている文科省役人の『浅慮』は救いがたい。
 
 数字や机の上だけの作業で立案している行政の施策に心が通わないのは当然で、そのうえ内閣府の権力が絶大になって国民よりも内閣――総理大臣と官房長官の方ばかり向いて仕事をしている行政に「心」のあるはずもない。今の国の仕組みは絶対に間違っている。
 
  
 
 
 
 

2019年11月4日月曜日

安倍一強の弊害とトランプべったり

(先週とりあげた川上未映子氏の『夏物語』が「毎日出版文化賞2019」を受賞しました。長編ですが是非お読みください) 
 菅原経産相が辞任した。選挙違反につながる地元選挙民への寄付行為が常態化していた疑惑によるもので、当初は文春が暴露した十数年前のメロンやカニなどの贈答が問題視されていたので逃げ切れると思われていたが、今年十月にも秘書が香典を渡した事実が明らかになり事実上の更迭となった。
 この問題は二つの視点から糾弾せれるべきで、その第一は有権者がいまだにこんな寄付行為を受け入れていることだ。公職選挙法で議員の寄付行為が禁じられていることは有権者にも十分周知されているはずで応援している地元議員が違反を犯したらそれを戒めるのが望ましい有権者というものだろう。まして東京九区(練馬区)という大都市部の選挙区で起こったところになおさら情けなさを感じる。菅原氏は六期目の当選を誇る人だけに地元後援会の結束も固く長年応援してきた選挙民も多いはずで、長年の応援への返礼というような気持ちが強かったのだろうが、あえてそれを断り議員を戒める見識があって当然ではなかろうか。議員のレベルの劣化が明らかな昨今、有権者がそれを糺すくらいでないと政治の浄化実現は難しい。
 もうひとつは安倍総理の任命責任だ。第二次安倍政権発足以来これで閣僚の辞任は九人目だが、その都度総理は任命責任を口にしてきたが、口先だけの「お詫び」で、真相の究明、議員の処分、そして総理自身の実質的な責任の取り方は何ら示されずにきている。長くつづく安倍一強下だからこそこの程度で済んでいるが以前なら「内閣総辞職」があっても不思議でない不祥事の連続である。長期政権の驕りとゆるみを指摘されているが当然である。そもそも十数年前であろうと選挙違反を犯している(文春以外にも菅原氏の贈答疑惑は早くから報じられていた)議員を入閣させたのは当選回数の多い大臣待ち議員の在庫一層以外の何ものでもなく、たとえ辞任騒動が起っても頭のすげ替えで済むというタカをくくった政権上層部の驕りそのものの行為であり、政権を玩弄するの愚そのものである。
 これでは政治が正常に機能するはずもなく公務員の綱紀粛正の実現も望み薄でまさに長期政権の末期症状を呈している。
 
 現政権が受けるべき根本的な批判は「アメリカ・トランプ政権への盲従」である。アメリカは核兵器禁止条約も気候変動枠組条約にも参加していない。それにもかかわらずトランプ氏は米国とロシアの中距離核戦力(INF)廃棄条約失効を放置し、新戦略兵器削減条約(新START)延長にも消極的である。こんな状況下で日本が1994年から25年連続国連で提出し裁決されてきた「核廃絶決議案」から「核使用による壊滅的な人道上の結末への深い懸念」という文言を削除してトランプ氏の方向性に追従を示した。
 わが国は世界で唯一の被爆国として、核軍縮をめぐる保有国と非保有国の「橋渡し役」をはたすべきであるにもかかわらず安倍政権は一貫してその役割から逃げ腰姿勢をとっている。アメリカ一強が弱体化し核保有国間の勢力図がゆらぎ「核の暴発」の危険性が現実味を帯びてくるなか、今こそわが国が「世界の知性」として機能すべきなのに、むしろ「核の傘」のもとの「安全」を享受して「空いばり」するばかりですましている現状は、被爆までして先輩たちが手に入れてくれた『平和の重み』をないがしろにしていると叱責を受けても致し方あるまい。止まるところのない「国難」ともいべき財政悪化のもとで、防衛費だけは突出して膨張をつづけてきた安倍政権はトランプ・アメリカから数兆円の『兵器』を「いい値」で買い続けている。北朝鮮がステルス性を高めた核兵器をつぎつぎと開発・実験をすすめるなかで当初1基700億円といわれていたイージス・アショアを2基2500億円で強硬導入しようとしているなど税金の無駄遣いもはなはだしい仕業である。
 
 気候変動枠組条約に関してもトランプ追従姿勢が鮮明である。世界の二酸化炭素排出量に占める米中の割合は4割を超えているにもかかわらず両国とも条約に参加していない。先進国では唯一の不参加国であるアメリカは2018二酸化炭素CO2)排出量が前年比3・4%増になったと推計されている(米調査会社ロディウムグループ発表)。07年以来減少傾向にあったものが上昇に転じたことになる。トランプ氏は地球温暖化と二酸化炭素の関係に否定的な姿勢を貫いているから「シェール革命」によってアメリカが石油輸入国から輸出国へ転換しアメリカ歴代政権の課題であった「エネルギー自立」を達成したことになるから彼の手柄として選挙戦を有利に進める格好の「武器」と考えているにちがいない。貿易赤字解消を重要な公約としている彼にとってはいうまでもなく「追い風」で、軍備とエネルギーをテコにして今後ますます売り込みに精を出すことだろう。
 しかし米国本土を襲った大型のハリケーンは年々その数を増しており、異常乾燥による想像を絶する「山火事」も毎年のように被害をもたらしている。わが国でも「100年に一度」の台風による「想定外」の被害はここ数年全国を『破壊』している。こうした気象状況が二酸化炭素排出のもたらす地球温暖化と「無関係」であると主張するには無理があるのではないか。地球温暖化への対応は緊迫度を増しており今のまま放置しておくことは許されない情況に至っている。
 アメリカと中国の二大大国は軍備削減と地球温暖化に対して積極的に取組む重大な責任がある。
 
 アメリカの横暴はオリンピックでも目に余るものがあり、「東京2020」の暑さ対策をめぐる狂騒は今や亜熱帯化したわが国での8月開催という「暴挙」の当然の結果であって、アメリカ・テレビ局の国内事情優先の「ゴリ圧し」などもう許すべきではない。アメリカ覇権時代の終焉を告げる悪あがきは大概にしてほしい。
 
 それにしても安倍首相の異常とも思える「アメリカ・トランプへの盲従」は、彼の祖父に当たる岸信介(および大叔父佐藤栄作)の「CIAエージェント説」を思い浮かばせる。直接の引き金は2007年10月4日号の週刊文春「岸信介はアメリカCIAのエージェントだった!」だが、この記事はピューリッツァー賞の受賞経験もあるニューヨーク・タイムズ紙在籍のティム・ワイナー氏の著書「Legacy of Ashes ;The History of the CIA」(翻訳本「CIA秘録(上下巻)」文藝春秋社刊)によっており、この本は、20年以上もの歳月をかけ機密解除され一般公開された5万点にも及ぶ公文書や、CIAに関与した300人以上もの人物に直接インタビューするなどして編集されたもので、1次資料に基づく1次情報と言っても間違いないものである。これに岸元首相が児玉誉士夫とともにCIAエージェントとしてアメリカ主導の下に日本復興を画策したという記述がある。戦犯であった岸氏が解除後たちまちのうちに自民党のトップに上り詰め総理総裁に就任、アメリカの望む日米安全保障条約の「軍事同盟化」を期す安保改訂を強行採決させたその裏にCIAの「自民党への秘密献金」があったというティム・ワイナーの言葉にはリアリティがある。
 こうした政治的背景をもつ安倍首相だからアメリカとの不適切な関係を疑われても仕方のないほどアメリカべったりの「トランプ盲従」を示してもなんら不思議さを感じない。それほど軍事予算の突出した膨張と「言い値」の軍備購入は異常過ぎる。
 
 一国の代表が国民の福祉向上よりも同盟国の主産業――アメリカ軍事産業にあからさまの利益誘導する姿勢はあまりにも異常である。