2019年11月11日月曜日

行政には「心」がない 

 首里城の火災原因がどうやら「放火」ではないということが明らかになってホッとしている人が少なくないのではないか。一報を聞いたとき、辺野古移設問題など政府方針に頑強に反対運動をつづける沖縄県民に対して偏狭な右翼勢力のハネッ返りが逆恨みして放火したのではないか、そんな危惧が一瞬頭をかすめた人も多かったはずで、そうでなかったことがほぼ確実になって「よかった!」、と言ったらまた「不見識」と批判を受けるだろうか。でも昨今のわが国の風潮の中、「声なき声」の一市井人としては自然と上記のような懼れを抱いてしまう。たとえば、日本・オーストリア国交150年記念事業として首都ウィーンで9月下旬から開かれていた芸術展が今月に入って急にオーストリア日本大使館が公認を取り消した事案なども、現在わが国にはびこっている「表現の自由へのすくみ」を表わしているように思われてならない。日本での政治社会批判の自由と限界に焦点を当て、放射線防護服に日の丸の形に浮かんだ血が流れ落ちるオブジェや、安倍首相に扮した人物が歴史問題をめぐり韓国・中国に謝罪する動画の展示、昭和天皇を風刺する作品などもある内容だったらしいが「大使館の忖度」が働いたのではと推測させるもので、「自由は急になくなったりするものではない。いつもミリ単位で死んでいく。そしてわたしたち一人ひとり一ミリ分の責任を負っている」というクリストフ・ハインのことばが妙に身に沁みる今日この頃のわが日本である。
 
 最近腹立たしかったのは東京オリンピック2020のマラソン・競歩が東京から札幌に競技場が変更になった件に対する東京都の小池百合子知事の「東京は一銭も出しません」発言だった。おおざっぱに総予算を概算すると当初の7000億円が大きく膨らんで3兆円になり、東京都と政府が各1兆円づつ、組織委員会などで残りの1兆円弱を負担している。小池知事の言い様だとまるで全額を東京都が負担しているように聞こえるし、東京オリ・パラ2020は東京のみの力によって開催されるかのような「おごり」を感じる。費用分担だけでもそれが誤りであることがはっきりしているが、オリンピック開催にまつわるインフラ整備でどれだけ東京に恩恵が及んでおり開催に伴うインバウンドの観光収入で都民に莫大なウルオイがもたらされるなど、国民の協力に感謝する気持ちが一片でも小池知事にあったらあんな発言はなかったはずだ。そもそも東京に厖大な法人税収入がもたらされているのは本社機構が東京にあるからであって、生産工場や販売拠点などは全国に点在しておりそれら地方組織の生み出した利益が税法上の約束事で東京に集約されているだけで、一部が地方に配分されているとはいえ、東京の利益の多くは地方のお蔭であることをもっと謙虚に考えてほしいものだ。今回のオリンピックは「復興五輪」が重要なテーマであったはずで、それが逆にオリンピックのせいで東北をはじめ全国の災害復興が大幅に遅れているなど「復興五輪」が聞いて呆れる現状である。
 今でも東京オリ・パラ2020に反対している人が決して少なくないことを、被害地でおおっぴらに声を出せない人たちどんなにいることかマスコミからまったく聞けないことを残念に思うと同時に、亜熱帯の日本で8、9月開催を無理強いするアメリカの横暴に改めて怒りを覚える。
 
 腹立ちがらみをもうひとつ言わせてもらうと、紙おむつの消費税率がなぜ10%なのか、高齢者が免許返納して代わりの身分証明書―正式には「運転経歴証明書」の発行になぜ手数料を徴収する必要があるのか。言っていることとしていることがまるで逆ではないか。少子高齢化で若い人の出産を国をあげて推奨、援助しているかのように見せかけておきながら、育児の必要経費の中で負担の大きな紙おむつに軽減税率を適用しない理由が思い当たらない。紙おむつ代(1人当り)は大体1ヶ月で6000円以上、3年間で25万円弱になる。ふたり以上が望ましいのだから育児期間が重なることもありそんな場合1万円を超えることにもなるからたとえ2%の優遇措置でもありがたい。金額もそうだが国が細かいところまで気を配って応援してくれているという温かさの方がもっと嬉しいにちがいない。それは運転免許返納でもそうで、八十才手前でまだまだ自信もあるけど家族がうるさくいうから返納しようと免許センターへ行って身分証を発行してくださいと申し出たところ、「1100円発行手数料が要ります」と言われて「えっ!」と驚く人も多いのではないか。テレビなどではご褒美としてタクシーの優待乗車券や記念品などを支給しているところもあるのにこのギャップはおおきい。これも金額の問題ではない、気持ちだ。仕事をしなくなって車に乗るのは妻の買い物のお供とか、たまの役所への手続きに行くなどしかないけれど、それでもないと困るからなかなか踏ん切りがつかなかったのをやっと決心して……、やっぱりこの仕打ちは心に痛い。
 行政には心がない!いつも思い知らされる。
 
 センター試験に代わる大学入試共通テスト英語民間試験の導入延期も「行政には心がない」の格好の例だろう。どうしてこのようなシステムが用いられるようになったのか非常に不透明だが、所得格差と地方格差を何ら顧慮せず「身の丈に合った」格差を『容認せよ』という理不尽な体制を野党もマスコミも徹底検証することなく実施されそうになっていたのだから恐るべき事態であった。文部科学大臣の不用意な発言が引き金となって問題が表面化し、勢いづいた野党やマスコミの批判によって事実上の廃案になったが、もし安倍側近の緩みきった「他人事」としての「心無い」発言がなければ規定方針通り実施されていたかと思うと背筋が寒くなる。それでなくても地方と都市の格差がどんどん拡がり地方の若者の教育機会が損なわれている中で知らないうちに格差が固定されてしまっていたかもしれないと思うと役人―「行政の心のなさ」をいつものことと済ますことはできない。
 財政の劣化に対する「効率化」の絶対性、企業の要請による「実用性」の圧迫。国語の教科書から「文学」が後退して取扱説明書や行政文書などの「論理国語」が新設されて「文学国語」と「国語」が分裂されるらしいが、こうした文科省の国語改革は終戦直後の「漢字廃止と国語のローマ字化」を思い出させる。当初GHQの圧力によって漢字廃止を押し付けられていた国語審議会がその後GHQが漢字の有用性を認識して廃止論を撤回したにもかかわらず日本人議員が「ローマ字化」を推進しようとした。今から思えばあのとき漢字を廃止しなかったことの「正しさ」は明らかでGHQという外圧に代わって「企業」という外圧に負けて国語の「実用性」――いや外国語も含めて「言語の実用性」ばかりに目を向けている文科省役人の『浅慮』は救いがたい。
 
 数字や机の上だけの作業で立案している行政の施策に心が通わないのは当然で、そのうえ内閣府の権力が絶大になって国民よりも内閣――総理大臣と官房長官の方ばかり向いて仕事をしている行政に「心」のあるはずもない。今の国の仕組みは絶対に間違っている。
 
  
 
 
 
 

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