2018年4月30日月曜日

ひとは少し不幸な方がいい

 衣笠祥雄さんが亡くなった。広島第一期黄金時代の名選手で連続出場の世界記録保持者でもあった(衣笠さんは2215試合で今でも日本記録だが世界では大リーグ・ボルチモア・オルオールズのカル・リプケン選手の2632試合がある)。「鉄人」という称号をもった選手は今では阪神の金本さんが有名だが初代は衣笠さんで、金本さんはフルイニング出場のナンバーワン(1492試合)として今後も「元広島」のふたりが「鉄人」として並び称されていくことだろう。
 
 彼の栄光に至る数々のエピソードはテレビや新聞で伝えられているから重複を避けるが、身体に余り恵まれていない彼がなぜ名プレーヤーになったかについて少々書いてみたい。
 新聞などでは「平安の負けじ魂」と「広島の猛練習」が今日を築いたと分析しているがそれだけではなかっただろう。確かに当時の平安高校は中村という名監督が率いてハードな練習は有名だったし、広島カープ球団の猛練習は球界の伝説にもなるほどのもので入団当時の関根コーチの力も与ってトップに登りつめたことは疑うべくもない。しかしもうひとつ、『差別』にたいする『反撥心』があったのではないかと「京都人」として思う。そしてそれは戦後の我国を語るときの重要なキーワードでもあった。
 京都というまちは非常に「差別意識」の強い町だった。あえて「過去形」で書くが、そして慙愧の念をこめて私自身もそうであったと白状する。まず激しい「部落差別」があった。奈良もそうだが神社仏閣の多い地方は歴史的に「被差別部落」が存在したから自ずと差別が日常化していた。在日を含めた「朝鮮人」差別も少なくなかった。早くから朝鮮の人を受け入れていたのは朝鮮半島との交流が深かった歴史も影響していたのだろうか。烏丸紫明に「部落解放同盟」のビルがあるのはそうした歴史的な背景を物語る証拠である。「非健常者」差別もあった。今では「禁句」になっている「片輪」ということばが普通に流通して差別が行われていた。
 衣笠さんは黒人(アフリカ系アメリカ人)との「混血」だった。チリチリの頭髪と肌色のちがいが明白だったのだから「京都」で差別を受けないはずがない。伝聞だが、漢字もろくに書けない成績劣等生で手におえない悪ガキだったとしても当然と思わすほどの当時の京都の事情をはっきり記憶している。そんな彼が「野球」と出会って、優れた指導者とめぐり合い今日を成したことは幸せであった。しかし彼の中に差別に対する反撥心があったのは確かだろうし、その強烈さが彼を不屈の『鉄人』に育て上げたのもまちがいない。後年マスコミにみる穏やかで慈味深い容貌に接するとき、そして味わい深い言説を耳にするとき、一芸に秀でたひとの凄さを思い知るとともに、その胸底に秘められた青少年時代の『屈辱』を思わずに居られないのは、「京都人」としての猛烈な『慙愧の念』の然らしむところである。
 
 しかし私たちは忘れているが、いや知らないフリをしているのかも知れないが、野球界の伝説的な名選手にはそうした差別を受け迫害された人は少なくない(野球界に限らないが)。数え上げれば現役選手にもその存在は認められるのだがここでは「王貞治」さんと「張本勲」さんを上げておこう。王さんは台湾人の両親のもとで生まれ育った幼年期に公にされていない苦労があったと思うが我々が知っているのは国籍問題で国体に出場できなかったことである。全国優勝を果した直後の国体に優勝投手が出場を拒絶された「恥」と「屈辱」は本人の彼だけでなくチームメートの青少年たちの心も深く傷つけた違いない。一方張本さんは朝鮮生まれで終戦前に内地(日本)に移り広島で被爆した。極貧の中で差別にさらされながら野球人に成って今日があるのだが、いつだったか川上哲治さんが張本さんの被爆の傷跡(彼は決して他人の目にそれを曝さなかったが尊敬する川上さんに一度だけ見せた)を目にして「おまえ、ようこんなんで野球できたな」と驚愕したというからそれは惨いものだったのだろう。
 今やソフトバンクチームの会長として好々爺然としている王さんや毎週日曜日毎日放送のサンデーモーニングで「喝!」と楽しげに振舞っているおふたりからは青少年期の『屈辱』はうかがうべくもないが、それはそれは並大抵のものではなかったに違いない。
 
 閑却。年も年だから友人知人の喪中葉書は年々増加の一途だが、ここ数年本人自身の「鬼籍入り」を伝えるものが多くなってきた。それらを手にしながら友人たちの来し方を思い遣るのだが最近気づいたことがある。それは「戦争未亡人」の母親に育てられた「ひとり息子」には孝行息子が多いことで、何をもって孝行というかといえば、若くして「持ち家」を実現していることである。三十代前半で入手しているし当然ながら所帯を持ったのも早かった。各人とも成績優秀で「いい会社」に入っている。苦労して大学まで入れてくれた母親に早く楽をさせてやりたい、そんな気持ちが強かったにちがいない。親の苦労に子が報おうとして懸命に努力して、その親も恙なくおくり孫に囲まれて悠々自適。そんな彼らが誇らしい。
 
 今の時代は我々の若いころとは比較にならないくらい「豊か」になっている、と一般にいわれている。本当にそうなのだろうか。我々はゼロからスタートして徐々に生活が整い住まいを得て今日があるが今の若い人たちは生まれたときから全部が有る状態で人生をはじめている。それを「豊か」といっていえないこともないが彼らにとっては「当り前」、独立して生活基盤を整えてもそれは当然のことで達成感、充実感は稀薄であろう。そうした心情が今の『閉塞感』につながっているようにも思う。
 
 「豊かさ」や「喜び」というのはある意味で『比較』の問題だから全体のレベルが上って平均化している現代は「喜びの少ない時代」になっていると言えなくもない。だとすれば「比較」できない自分だけの豊かさであり喜びを見つける必要性があるのだが「SNSの時代」は他人さまの「いいね」の多寡を競って一喜一憂している。こうした矛盾を抱えながら自分だけの「豊かさ」「喜び」を見出すことは極めて難しい。
 
 人間は少しくらい不幸(貧乏)な方がいいのかもしれない。
 
 

2018年4月23日月曜日

蕪村をよんで

 齢がいくとどういうものか俳句や和歌、詩――現代詩や西洋詩に興味が惹かれるようになる。根気がなくなって小説など長文のものが億劫になるせいもあるが、ある種の「赤ちゃん返り」なのかもしれない。幼いころはじめて書くものは詩のような断片的なものになってしまう。それは語彙が不足していることと書く技術が未熟だからそうなるのであって、しかしそれだけに貧弱なことばに処理しきれない「意味」を盛り込んでなんとか「思い」を伝えようとする。こうした作業は字数を限られた「短詩形」の制約と通ずるところがあると言えるかもしれない。
 そんなこともあって最近、新聞に載る幼い子たちの俳句(?)や書がおもしろい。坪内稔典さんが京都新聞で添削している「子ども俳句」に時々面白いのがある。小学一年生か二年生のもので知恵がつく高学年の作はつまらない。書もそうで幼稚園から小学低学年の紙からはみ出そうな奔放なものがいい。俳句は毎日放送が毎週木曜日に放送している「プレパト俳句」も面白い。芸人やタレントが発句の出来栄えを競う番組で今のところ梅沢富美男、藤本敏文(漫才のHUZIWARA)、東国原英夫が名人クラスでトップ争いしているが浜田雅功(ダウンタウン)の軽妙な司会と講師の夏井いつきの添削が見事で俳句のつくり方鑑賞の仕方を面白おかしく手ほどきしてくれるから私も随分教えられた。
 
 最近読んだ『蕪村俳句集―岩波文庫ワイド版』はひとりの作家の俳句を系統立てて鑑賞したはじめての経験だったので新鮮だった。とくに「春風馬堤曲」は「澱河歌」「北寿老仙をいたむ」とともに『俳詩』とよばれるジャンルのもので、俳句、漢詩と漢詩和訳風の文体を混交させた自在な形式の清新な詩情をただよわせた他に比をみない優れた文学作品で蕪村の先進性を認識させられた。勿論俳句にも好きな句が数々あったのでそれらをつなぎ合わせて『わたしの蕪村』をつくってみた。
 
 うたゝ寝のさむれば春の日くれたり/春の夕(くれ)たえなむとする香をつぐ/花ちりて木間(このま)の寺と成(なり)にけり…この三句が200番から202番に並べてあってつづけて読んでいると暮春の山里のうつり行きが鮮やかに感得された。寒かった冬が終わって春が来てそのうららかな暖気に眠気を誘われうつらうつらしてフッと目が覚めればもう暮れ方になっている。先祖のおひとりの祥月命日だったので仏壇に線香をあげておいたのがまさに燃えつきかけている。あたらしく線香に火をつけて縁側に出る。道の向こうのお寺は門をくぐって本堂へのみちの両側が見事な桜のアーチになって本堂を覆いかぶせていたのだがその桜も散り果ててなん日ぶりかで木の間から本堂が姿を現している。
 この句の少し前に「一片花飛減却春」という前書があって「さくら狩美人の腹や減却す」がおいてあり「一片ノ花飛ンデ春ヲ減却ス…杜甫『杜律集解』上、曲江二首」と脚注がある。そこで杜甫の漢詩集をひもといてみる。曲江二首 其一「一片の花飛びて春を減却す/風は万点を翻して正に人を愁えしむ」云々。ひらひらと花が散っても春の色を減らすのに、風が万片を吹き散らして人の心を愁えさす。と解説してある。つづいて其二はとみるとその二聯に「人生七十古来稀…人生七十古来稀なり」と訓み下してあって古稀の出典となったものという解説が添えられている。そうか、杜甫の「曲江」という漢詩が「七十歳/古稀」の謂れになっているのだ。少し賢くなったと得心する。(NHKライブラリー『漢詩をよむ――杜甫一〇〇選』石川忠久著より)
 前書のうちに「もろこしの詩客は千金の宵ををしみ、我朝の歌人はむらさきの曙を賞す」いうのがあった。その脚注を読んで合点した。「千金の宵――蘇東坡『春宵一刻値千金』(『詩集』春夜)/むらさきの曙――清少納言『春は曙、…紫だちたる雲の細くたなびきたる』(『枕草子』一)。中国の春を象徴的に詠ったものとしては蘇東坡の漢詩が、我国では清少納言の枕草子にある「春は曙…」が代表的なことばとして当時人口に膾炙していたのだろう。
 同じく前書に「芭蕉庵会」というのがあって「芭蕉庵――京都一乗寺村の金福寺境内に蕪村らによって建てられた草庵」と注書きがある。ネットで調べてみると今も一乗寺才形町20にあって、こんぷくじと読むらしい。864年(貞観6)円仁(慈覚大師)の遺志を継ぎ安恵僧都が創建したもので、芭蕉が鉄舟(当時の住職)と親交を深めたという芭蕉庵は荒廃したがのち与謝蕪村が再興したと記してあった。今度一乗寺方面へ行った節には訪れてみよう。
 
 春の句で最も好きなのはこの句だ。「筏士(いかだし)の蓑やあらしの花衣」。保津峡は昔木材を筏に組んで嵐山まで川流れに送り込んでいた、その筏にのって川下りする筏士の蓑に川沿いの満開の桜が散りおちて降りかかる。その様がまるで花ごろもを着たように見えたのだろう。「足よはのわたりて濁るはるの水」足よわというのは女子供のことをいうがここは文字通り足の弱った年寄りの手をとって若い嫁が狭い川幅の川を渡っていると見よう。飛び石伝いによたよたと進むうちについフラッと足を滑らして川床の砂をまきあげてしまう。冷たく刺す様な冬の水でなく水温む春の川水の澄きとおった美しさが鮮やかにうかびあがる。「花に暮れて我家遠き野道かな」。花見に遠出したのだろう。うっかりして時間を忘れて楽しんだ帰り道、家につくにはまだまだかかりそうだが別に急ぐわけでもない、のんびりと野道を歩いている様がうらやましい。「ゆく春や逡巡として遅ざくら」。行こう行こうと思っていたのに仕事の忙しさにかまけてつい行きそびれてしまって今日は遅咲きの桜がぽつりぽつりと残っているばかり。来年はきっと満開の桜を見たいものだ。
 「けふのみの春をあるひて仕舞けり」。あわただしく春も過ぎようとしている。春をさがして歩いてみたがもう花のかげはない。青々した若葉は初夏のおとずれをつげている。季節の移ろいと春の名残り。
 
 こんなにゆっくりと本を読めるのも後期高齢者の贅沢。今回は巻之上、春之部を楽しんでみました。
 

2018年4月16日月曜日

 地下鉄道

 珍しく小説を続けて読んだ。一冊は小川洋子の『口笛の上手な白雪姫』でもう一冊はコルソン・ホワイトヘッドの『地下鉄道』。小川洋子は『博士の愛した数式』でファンになってから何冊か読んでいるが今度のは短編集だ。彼女の魅力は『博士の…』のように誰も思いつかなかった新鮮なものの見方と女性らしい繊細な表現で独特の「小川洋子ワールド」をもっているところにある。勿論著名な作家は誰でも「…ワールド」をもっているもので、逆にいえば「…ワールド」のない作家はダメ作家ということだ。短編には男性作家によくみられる随筆風で哲学や人生論を語るものと、アイディアが長編にするほどでないけれど捨てておくには勿体ない面白いものを短くまとめたもののふたつがあって、今回の小川さんのは後者の部類だった。タイトルにもなっている『口笛の上手な白雪姫』は、あるまちの公衆浴場にいつから住みついたのか誰も(若い経営者すらも)はっきりとは思いだせない小母さんが主人公で、赤ちゃん連れのお母さんから赤ちゃんを預かってあげて安心して自分のからだを洗えるように手助けしてあげる彼女のサービス(無料の)が評判になってこの公衆浴場が繁盛する、お母さんの利用者なら誰でもが欲しかったアイディアが短篇に仕立てられている。彼女は口笛がうまいのだがそれは赤ちゃんに聞かせて安心させるためのもので騒々しい女湯の脱衣場ではほとんどひとの耳にとどかないほど微かな音しか響かせない。なぜ「白雪姫」なのかは小説を読んだお楽しみとしてこの短編集には数々の彼女らしい素敵な表現がちりばめられている。そのうちのひとつ。「私はハンカチを裏返した。りこさんの刺繍が、表と等しく裏も美しいことを私はよく知っていた。ふと、爪の先が糸に引っ掛かった。ほんの微かな一瞬だった。はっと思う間もなく、するすると糸が解けていった。あらかじめ定められた決まりに従うように、りこさんの手つきをなぞるように、アルファベットはごく自然に一本の糸に戻っていった。気がつくと、ついさっきまで目の前にあったはずの一文字がなくなっていた。何が起ったのか確かめずにはいられない気持ちで、残りの一文字の糸に爪を掛けた。ただ同じことがもう一度起ったに過ぎなかった。小さな針の穴の連なりだけを残し、私の名前は宙に溶けて消えてしまった」(『亡き王女のための刺繍』より)。この短編集はゆっくり楽しみながら読もうと思っていたのだがこんな素敵な文章が各篇にちりばめられてありテーマのアイディアが秀逸なせいもあって一気に読まされてしまった。読み終わってスジを思い出そうとしても佳い短編の常でほとんど思い出せない。旨いエンターテイメント小説とはそんなものだ。(上の引用はこれを書くために再読して拾い上げたものです
 
 『地下鉄道』はアメリカ南北戦争前の「奴隷」へのすさまじい虐待と「自由」をもとめて脱走を企てる奴隷を救うために造られた「地下鉄道」の物語だ。鉄道をだれがつくったのかは定かでない、作家のフィクションなのだが鉄道が「唯一の救い」となっていく過程がリアルに迫ってくる。
 読みながら気に入った言葉や文章のあるページに付箋を貼り付けて読後採集するのが私の習慣なのだがこの小説では119頁にあった次の文章が強烈でこれを上回る文章に出会うことはなかった。
 老人はもはや失われたアフリカの部族の言葉と、奴隷言葉をごちゃ混ぜに使った。昔、母親に教わったことがある。半分ずつの混成言語が大規模農園の声なんだと。遥かなアフリカの故郷の村から拉致されてきた奴隷たちは、複合的な言葉を使う。大洋を渡る以前の言葉は、時とともに身体から叩き出されてしまう。主人にわかりやすいように、身元を忘れさせるために、反乱を起こさせないために。残るのはただ、自分が誰だったかまだ憶えている者の、身体の奥深くに鍵を掛けて仕舞われた言葉だけ。「そのひとたちは、このうえなく貴重な黄金のようにそれを隠すの」メイベルはそう言った。
 なんと惨(むご)たらしい表現だろうか。哀しすぎる『アメリカの歴史』。文中に描かれているようにアメリカはインディアンから「毟り取った土地」である。そして「広大」な土地とアフリカから「拉致」してきた『奴隷』という「無尽蔵」な労働力を使った「棉花」の栽培で「厖大な資産の蓄積」を果たし西洋先進国に追いつくための「国力」を備蓄することができた。だがそれを行ったアメリカ移民=「白人」は腐敗した旧大陸(ヨーロッパ)の先進諸国を『否定』し新しい土地で『新世界』を築くために『選ばれた』『清教徒』たちだったのだ。
 何たる『矛盾』!
 その後アメリカは「奴隷解放」を行い大量の移民と資産を受け入れ国力を充実し、二度の世界大戦を『利用』して『覇権国』に成り上がった。1964年、「ケネデイ暗殺」という代償を払って公民権法制定長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになる。
 
 しかしアメリカの250年近い歴史の中で「全国民の自由と平等」が保障されてからまだ60年にもならない。「差別してきた」側の国民の意識のなかで『差別』が「消滅」するには時間が短かすぎる。法の精神を実現するためには『学習』と『寛容』が必要だ。一方60年の間に「差別されてきた人たち」は『自由』を生かした。それによって富を占有してきた「白人」を「保護」する社会経済構造に「地殻変動」が起り、白人というだけで「保護」される社会ではなくなったのだ。
 それなのにトランプは35%の「支持層」のために歴史の流れに逆らって「アメリカの変化」を止めようとしている、アメリカ国民の意識の底に「執拗」に息づいている『差別の意識』を掻き立てて。
 この時期に『地下鉄道』の書かれた意義は大きい。
 
 アメリカばかりを批判してもおられない。我国で最近「神聖な土俵に『穢れ』のある女性が上がることは伝統として許されない」という言説が「表立って」マスコミで流布している現状は『人間存在』に対する根本的な理解が至っていないことを明らさまにしている。神道では古から『穢れ』思想があって女性は出産・月経時の出血で「穢れ」の存在とされてきた、などと知ったかぶりをする輩がいるが正しい知識ではない、神道や「穢れ」の歴史を深く知るべきである。そして21世紀のこの時代に、女性を「穢れの存在」と平気な顔をして発言することに「羞恥」する感覚をもつべきだ、知識としても倫理としても。
 
 「みんながいいということ、には眉に唾をつけるというのが私の主義です」、そういった芸人・小沢昭一さんの言葉が今の私の唯一の「哲学」である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年4月9日月曜日

道徳の教科化について

 大相撲の舞鶴巡業中に起った、市長の突然の顛倒を救護した女性への「女性は土俵から下りてください」というアナウンスへの批判が噴出し、国会での虚偽証言や文書隠蔽・書き換えにもとづく大臣の「うそ答弁」が連日報道で取り上げられている、今、小中学校での道徳教育が「教科化」される(中学校は来春から)。おとながこれほど「反道徳」な行いをやったり「古い道徳」への疑問が渦巻いている、今、どんな顔をしておとなは子どもに『道徳』を『教える』のか。政治家や文科省のトップは偉そうな顔で役人に命令すればそれで済むだろうが、現場の先生たちはどう対処すればいいのか?
 これまで道徳教育を教科として教えることは「心の中を評価することになるから、教科にはなじまない」と中教審が反対してきたが、2011年の大津市中2男子の自殺を契機として教科導入が決まったとされている。しかし「いじめ自殺」は「道徳心の欠如」によって惹き起こされたのだろうか。そして「教科としての道徳」を教えることで「いじめ自殺」は根絶できると文科省は考えているのか?
 
 問題の第一は「道徳教育」は『評価』できるのか、という点である。実際の評価は数値ではなく、教員が児童生徒の長所や成長などを記述する形をとるという。しかしどんなかたち取るにせよ、道徳は『実行』されてこそ意味をもつものだという『本質』において評価はなじまない。
 そもそも評価はどんな観点から行われるのだろうか。「A.主として自分自身に関すること(善悪の判断、自律、自由と責任/正直、誠実/節度/個性の伸長/希望と勇気、努力と強い意志/心理の探求)」、「B.主として人との関わりに関すること(親切、思いやり/感謝/礼儀/友情、信頼/相互理解、寛容)」、「C.主として集団や社会との関わりに関すること(法や決まりの理解、権利と義務/差別偏見と公正公平と正義/労働の喜びと公共への役立ち/父母等への尊敬/先生や学校の敬愛と集団生活/伝統・文化と郷土愛/国際感覚)」、「D.主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること(生命自然の尊重/自然環境の保全/自分を超えたものへの感動と畏敬の念/生きることの喜びを知る)」以上22の項目が教科項目として規定されている。そこでためしに「希望と勇気」「友情、信頼」についてどのように「成長」の過程を評価するかを考えてみた。ほとんど不可能だし無意味な作業に思えた。
 列挙されている多様な項目のうちには国語や社会など他の教科で学ぶことと重複しているものが少なくないがそれらの調整はどうするのだろうか。現場の裁量に委ねられるのだろうが先生たちにそんな余裕があるとは思えない。 
 
 そもそも道徳とは、上の22の教科項目に見るように、現在の社会を肯定しその社会構造を保持するための「機能」を主眼としており、『批判』や『改革』とは『対極』にある。
 一方、激変の時代と認識してグローバル化やイノベーションに対応していく人材として今求められているのは、多様なものの見方による新しい思考、コミュニケーション力と想像力の国際化、人と活発に交わり情熱と好奇心によってキャリアを積み上げる力であり、「新たな価値を生み出すイノベーション人材」としての、社会的課題や取り組むべき価値ある問題を見つけて解決への道筋を示し、それを他者とともに実行するリーダーシップ、先端技術の利用価値を判断できる人、とされている(2018.4.3京都新聞「現論」田中優子・法大総長より)。
 こうした『能力』『人材』と「道徳教育」とは多くの部分で矛盾している。「道徳」は現実主義者を生み出す倫理体系であり、今求めれているのは、現実を大きく変化させようとしているグローバルな力に現実をどのように即応させていくかという「能力」である。現実主義者は何か「理念」にもとづいているのではなく、事実の価値以外に判断となる「基準」をもっていないし、現実を受け入れ理解すること以外に善なるものは存在しないと考える。
 
 最近の世界動向に目を転ずれば、突然の南北朝鮮の宥和と米朝会談の現実化、アメリカの偏向的な国内産業保護、中ロ指導者の独裁権力強化など、3ヶ月前には予想することは困難だったことが起っている。しかし朝鮮民族の立場に立てば、朝鮮戦争休戦協定の平和条約化すら南北朝鮮の主体的取り組みが見通せない(休戦協定の直接の当事者でない)現状は、民族自決の精神からしても我慢のならない屈辱的な状況であることは明らかで、米・中・ロの三大強国の桎梏から解放され独立国として世界に認められ、朝鮮民族の統一を願うのは当然の心情である。例えてみれば、関が原を境に東西日本が「内戦」していたところへ、アメリカと中国が割り込んできて、東西に分断されて65年も過ぎてしまったとしたら、東西に分かれた同胞と、年老いていく親兄弟と何とか生きているうちに再会したい、一緒に暮らしたいと願うのは至極当然の「民族感情」であることが分かるであろう。
 ところが現実主義者は、たとえ種々の変化があってもそれが「現状変更」の「動力」と認識することはできず、「現状不変」の固定観念から逃れることができない。現実主義者が犯した過ちの数々は歴史上枚挙に暇がない。
 
 「現状維持」という『閉塞感』に満ちた国情は、ここ数年の論文や特許出願数の世界比較に見る我国の凋落傾向や電気産業や半導体産業の衰退、そしてIT産業のアメリカ独占など目を覆うばかりの国力の低下に明らかであり、また「幸福度の世界比較(国連SDSN2016年版)」においてわが国は、アメリカは勿論のことシンガポール、タイ、台湾、マレーシアよりも下位の51155カ国地域中/2013年43位2015年46位)に留まっている(韓国は56位、中国は79位だった)。しかも幸福と感じている人の割合が40%に満たないことも心配である。
 
 明治維新以来の「近代化」は戦後の「高度経済成長」で頂点を極めたが、バブル崩壊後のデフレを伴う長期低迷の今は、「近代化」に変わる新しい『社会理念』の発見、創造が求められている。この時期に「現状肯定」を主眼とする『道徳教育』で若い人たちの「伸びる芽」を押さえよう、縛りつけようとする「教育転換」はどう考えても「時代錯誤」に映るのだが、あなたはいかがお考えだろうか。
 
 
 
 

2018年4月2日月曜日

出水のしだれ、近衛の糸桜

 京都新聞のさくら情報に「御所満開」とあったので早速出かけた。下立売御門から入ってまっすぐ仙洞御所を目指して歩いて行くと目の前にしだれ桜の巨樹が見える。白っぽい花が満開で多くの人が群がっている。近づくにつれて見事な美しさは迫力がある。前から、斜めから、裏側に回ると逆光で仰ぎ見る形になってなおさらに大きさを感じる。祇園の枝垂桜も有名だがそれに比べても遜色がない。圧倒されてため息混じりに「すごいなぁ」と呟きながら後にする。
 仙洞御所の拝観はすでに満員で今日は断念。北へしばらく歩くと薄紅色の群がりがぼんやりと浮かんでくる。さっきの人の集まりの数倍がうごめいている。近づくと濃い紅色から白い桜まで色とりどりのしだれ桜の群生が咲き誇っている。これはもうどこにもない唯一無比の豪華な咲き誇りだ。こんな桜の園が御所にあったとは。ベンチに腰掛けている長老に「こんな見事な桜が昔からあったんですか」と問いかけた。「昔からありますけれど、五、六年前から急に立派になってきて驚いていますのや」と誇らしげ。そのはずだ。私は二十年ほど前まで西陣に住んでいた。この時期は妻が子どもとあちこちの桜の名所に連れて行っていたからもしこんな素晴しい桜があれば私に話していたはずだ。今ほど豪華絢爛ではなかったかもしれないし、得てして地元の人間は身近なものに有り難味を感じない傾向があるからいつでも行けると思ってないがしろにしていたのかも知れない。
 それにしても見事なものだ。これほどの名園が御所にあるとは……。嬉しくもあり誇らしくもあった。
 帰ってネットで検索してみると、仙洞御所近くの桜は「出水の枝垂れ桜」といい北側のは「近衛邸跡の糸桜」という名桜だった。それを今日まで知らなかったのだからお恥ずかしい限りだが改めてまだまだ知らない京都があることを思い知らされた。
 
 府庁旧本館の桜も趣がある。旧庁舎の中庭に祇園の枝垂れ桜の孫に当たる枝垂れ桜と併せて7本の桜が咲いているがここの桜は建物との調和の中にあるたたずまいが味わい深い。平成16年に国の重要文化財の指定を受けた建物は明治期の近代建築として美術的価値のある建造物で、アーチ型のエントランスや二階のガラス窓越しの見晴らしは「風情」ということばがいかにも似つかわしいたたずまいを帯びて見るものの心を打つ。木造の階段を昇って廊下を進むと陽光が一杯に差し込んていて窓の向こうの桜を見下ろすとまるで大正か昭和はじめごろのお偉方の役人にでもなったような気分におそわれる。庭の片隅には旧五条大橋の石柱もあって古きよき時代の感興が演出されている。
 ここの桜も京都名桜に数えられるに違いないすばらしいものだった。
 
 それにしてもカメラにスマホと写真を撮る人のなんと多いことか。数年前まで「写真を撮る前に自分の目でどうして見ないのか」と批判的だったが、安物のデジカメを買ってからは私もその仲間になっている。勝手なもので今ではパチパチシャッターを押しまくっている。
 いわゆる「バカチョン」カメラだから、絞りがどうのシャッター速度がどうのという代物ではないから芸術写真の撮れるはずもないが、それでも結構アルバムは褒められる。そこでおこがましいが私の写真の撮り方を披露してみよう。
 デジカメだから何枚撮ろうが印画しなければお金はかからない。そのデジカメの特長を生かして絞りもシャッター速度もお構いなく撮りまくる。アングルを決めたら上下左右、遠景から接写まで撮りまくる。一ヶ所で数十枚、運まかせで七、八十枚は撮る。スケッチに徹して「場の雰囲気」をとらえることに主眼を置く。先の府庁の写真なら大抵の人は桜に焦点を当てるがそれでは場の特徴が出ないから建物との調和を考える。余程立派なカメラでないかぎり、腕前のすぐれた人でない限り「芸術写真」は撮れないと割り切って撮りたいものを場の力を借りて際立たせる。それが「バカチョン」カメラで撮る工夫である。
 数をこなせば写真屋へいってモニターに映ったデータを選べば十枚くらいは見られる写真がある。問題はここからだ。何の考えもなくアルバムに並べても見るものの心に響かない。「順序と配置」を工夫する。日時も入れ込んだほうがスケッチらしくなる。キャプション(説明文)も書き添えてストーリーを作る。いわゆる『編集』をすることで下手な写真も生きてくる。入場券や案内パンフも利用すると立体感が出てくる。写真を選択し、順序配置をアレコレ考えながらストーリーをつくっていると現場の感動が甦ってくる。そんな風にしてつくったアルバムだから見るたびにその時の記憶を呼び覚ましてくれるという仕掛けである。
 
 それにしても京都という「都市(まち)」は奥が深い。喜寿を迎えてますます魅力を感じる今日このごろである。