2018年4月2日月曜日

出水のしだれ、近衛の糸桜

 京都新聞のさくら情報に「御所満開」とあったので早速出かけた。下立売御門から入ってまっすぐ仙洞御所を目指して歩いて行くと目の前にしだれ桜の巨樹が見える。白っぽい花が満開で多くの人が群がっている。近づくにつれて見事な美しさは迫力がある。前から、斜めから、裏側に回ると逆光で仰ぎ見る形になってなおさらに大きさを感じる。祇園の枝垂桜も有名だがそれに比べても遜色がない。圧倒されてため息混じりに「すごいなぁ」と呟きながら後にする。
 仙洞御所の拝観はすでに満員で今日は断念。北へしばらく歩くと薄紅色の群がりがぼんやりと浮かんでくる。さっきの人の集まりの数倍がうごめいている。近づくと濃い紅色から白い桜まで色とりどりのしだれ桜の群生が咲き誇っている。これはもうどこにもない唯一無比の豪華な咲き誇りだ。こんな桜の園が御所にあったとは。ベンチに腰掛けている長老に「こんな見事な桜が昔からあったんですか」と問いかけた。「昔からありますけれど、五、六年前から急に立派になってきて驚いていますのや」と誇らしげ。そのはずだ。私は二十年ほど前まで西陣に住んでいた。この時期は妻が子どもとあちこちの桜の名所に連れて行っていたからもしこんな素晴しい桜があれば私に話していたはずだ。今ほど豪華絢爛ではなかったかもしれないし、得てして地元の人間は身近なものに有り難味を感じない傾向があるからいつでも行けると思ってないがしろにしていたのかも知れない。
 それにしても見事なものだ。これほどの名園が御所にあるとは……。嬉しくもあり誇らしくもあった。
 帰ってネットで検索してみると、仙洞御所近くの桜は「出水の枝垂れ桜」といい北側のは「近衛邸跡の糸桜」という名桜だった。それを今日まで知らなかったのだからお恥ずかしい限りだが改めてまだまだ知らない京都があることを思い知らされた。
 
 府庁旧本館の桜も趣がある。旧庁舎の中庭に祇園の枝垂れ桜の孫に当たる枝垂れ桜と併せて7本の桜が咲いているがここの桜は建物との調和の中にあるたたずまいが味わい深い。平成16年に国の重要文化財の指定を受けた建物は明治期の近代建築として美術的価値のある建造物で、アーチ型のエントランスや二階のガラス窓越しの見晴らしは「風情」ということばがいかにも似つかわしいたたずまいを帯びて見るものの心を打つ。木造の階段を昇って廊下を進むと陽光が一杯に差し込んていて窓の向こうの桜を見下ろすとまるで大正か昭和はじめごろのお偉方の役人にでもなったような気分におそわれる。庭の片隅には旧五条大橋の石柱もあって古きよき時代の感興が演出されている。
 ここの桜も京都名桜に数えられるに違いないすばらしいものだった。
 
 それにしてもカメラにスマホと写真を撮る人のなんと多いことか。数年前まで「写真を撮る前に自分の目でどうして見ないのか」と批判的だったが、安物のデジカメを買ってからは私もその仲間になっている。勝手なもので今ではパチパチシャッターを押しまくっている。
 いわゆる「バカチョン」カメラだから、絞りがどうのシャッター速度がどうのという代物ではないから芸術写真の撮れるはずもないが、それでも結構アルバムは褒められる。そこでおこがましいが私の写真の撮り方を披露してみよう。
 デジカメだから何枚撮ろうが印画しなければお金はかからない。そのデジカメの特長を生かして絞りもシャッター速度もお構いなく撮りまくる。アングルを決めたら上下左右、遠景から接写まで撮りまくる。一ヶ所で数十枚、運まかせで七、八十枚は撮る。スケッチに徹して「場の雰囲気」をとらえることに主眼を置く。先の府庁の写真なら大抵の人は桜に焦点を当てるがそれでは場の特徴が出ないから建物との調和を考える。余程立派なカメラでないかぎり、腕前のすぐれた人でない限り「芸術写真」は撮れないと割り切って撮りたいものを場の力を借りて際立たせる。それが「バカチョン」カメラで撮る工夫である。
 数をこなせば写真屋へいってモニターに映ったデータを選べば十枚くらいは見られる写真がある。問題はここからだ。何の考えもなくアルバムに並べても見るものの心に響かない。「順序と配置」を工夫する。日時も入れ込んだほうがスケッチらしくなる。キャプション(説明文)も書き添えてストーリーを作る。いわゆる『編集』をすることで下手な写真も生きてくる。入場券や案内パンフも利用すると立体感が出てくる。写真を選択し、順序配置をアレコレ考えながらストーリーをつくっていると現場の感動が甦ってくる。そんな風にしてつくったアルバムだから見るたびにその時の記憶を呼び覚ましてくれるという仕掛けである。
 
 それにしても京都という「都市(まち)」は奥が深い。喜寿を迎えてますます魅力を感じる今日このごろである。
 
 

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