2023年10月30日月曜日

末法の世

  ロシアとウクライナのいつ果てるともない戦争、イスラエルとパレスチナのガザ地区での紛争、世界の至る場所で絶えることのない内紛や地域戦争、世界中で移住をつづける難民、北朝鮮の挑発的な核開発、アメリカと中国の軍拡競争。ベルリンの壁が崩れて冷戦が終結したとき(1991年12月)、世界に自由と民主主義の時代が来るであろうと『歴史の終わり』(フランシス・フクシマ)をよろこびました。しかしそれから30年、そんな楽観主義を嘲笑うかのように世界は混乱とカオスの様相を呈しています。

 

 昨年は『古今和歌集』を窪田空穂の手引きで読み込みました。今年は『古事記』を読む予定だったのですが、古今集を精読することで和歌というものが歴史書の歴史とは異なった位相から時代性を表現していることを知って西行の『山家集』を読んでみたくなったのです。『山家集』は勅撰集の『古今和歌集(905)』と『新古今和歌集(1205)』の間に位置する「私歌集」ですが古今集と新古今集の間にわが国に大変革が起こります。平安時代(794~1185)から鎌倉時代(1185~1333)の変化は公家社会から武士社会の変革という政治面の変化のみならず精神面では仏教の「末法の世」を迎えるのです(永承7年1052年)。加えてこの時期にわが国災害史上最大級の養和の大飢饉(1181)と寛喜の大飢饉(1230)が起こっていますから庶民の生活は「末法」そのものの悲惨な状態に陥いります。この間の惨状を描いた『国宝 餓鬼草紙』は庶民が飢餓に苦しむ姿がリアルに描かれています。政体の変更は支配者階級の交代ですから被支配階級に下落した層は悲惨を極めます、庶民は政権確立に必要な財政基盤確立のために徴税が強化されます、そのうえ大飢饉が襲うのですから精神の安寧を求める機運は当然高まりそこに「鎌倉仏教」が出現するのです。法然(1133~1212)日蓮(1222~1282)の出現は末法の世に待たれた存在だったのです。

 

 末法思想というのは釈迦の入滅後年代が経つにつれ釈迦の教えが廃れ悟りが開けず現世での救いが困難な時代が来るという思想で1000年後あるいは2000年後に来ると言われています。1000年後が永承7年(1052)にあたりその伝でいくと2000年後は2052年ということになります。今の混沌とした世界情勢はこのままいけばまちがいなく2050年ころ世界の大変換が起こるにちがいありません。まさに現在は「末法の世」へまっしぐらの時代になっているのです。

 

 佐藤義清(のりきよ、西行の俗名、1118~1190)は保延6年(1140)出家しますが、清盛(1118~1181)と同時期に北面武士として仕えていましたし待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)との悲恋も経験しました。清盛隆盛の対極に没落して人生の悲哀をなめる元支配層もあり彼らの多くは「出家遁世」の道をたどりました。しかしすべての人が都の花やかな生活から山里深い草庵生活に順応して平穏な精神生活に安住するとは限りませんから出家できずに逃げ出す人もあります。そんな事情を詠んだ歌が『山家集』には収められています。

 

 待賢門院は久安元年(1145)崩御しますがお仕えしていた多くの女房たちは先を争って「出家遁世」しました。これは当時の慣例で志あるものは出家することで救いの道に入れると信じていたのです。西行は出家したのちも宮廷の女官たちとの交流は途絶えなかったのですがなかでも待賢門院の女房との親しみは深く中納言局、堀川局、尾張局などが仏道に入りますがその間には西行の力添えはあったにちがいありません。堀川局の妹に兵衛局があり彼女も姉に従って仁和寺奥の山里に引籠ります。しかし俗世への未練が断ち切れずいくらも経たないうちに都に逃げ帰るのです(上西門院からのお誘いがあったのも影響しているかもしれません)。そんな事情を知らない西行が仁和寺の草庵へお見舞いにゆくと兵衛はすでに都へ帰った後でした。西行がそうした事情を兵衛局に書いて遣ると

 立ち寄りて柴の煙の哀れさをいかが思ひし冬の山里(兵衛)と歌が贈られてきます。 私の草庵へお立ち寄りいただいたそうですが、冬になっても柴を煙らすばかりの寂しい風情をどのようにご覧になりましたか。

 惜しからぬ身を捨てやらで経るほどに長き闇にやまた迷ひなん(兵衛) 捨て惜しむほどもない卑賤の身ですが、出家しないでそのまま在俗する内にまた欲が出て、迷妄の無明長夜の闇に入ってしまいそうです。

 これに応じて西行は

 山里に心は深く入りながら柴のけぶりの立ちかへりにし(西行)と返します。 出家されたと聞いてあなたの住まわれているであろう草庵を深い草を分け入りながら柴の煙の素晴らしさに私は心から深く共鳴いたしました。

 世を捨てぬ心のうちに闇こめて迷はんことは君ひとりかは(西行) 世を捨てられず出家の道にすすめず煩悩の闇が立ち込めて迷うのは、あなた一人だけではありません。誰しもそうなのです。

 さらに西行は思い悩む女房連を見ていたのでしょう、落ち込む兵衛になぐさめの書を届けます。あなたの親しかった女房たちもみな同じように悩んでおられるとお思いなさいと。

 兵衛の返し。

 なべてみな晴れせぬ闇の悲しさを君しるべせよ光見ゆやと(兵衛) 誰もが皆、悲しいことに晴れることのない心の闇に迷っています。どうぞあなたが道案内してください。悟りの光明が私たちにも見えますかどうか。

 西行の返し

 思ふともいかにしてかはしるべせん教ふる道に入らばこそあらめ(西行) 道案内しようと思ってもいったいどうしたらあなたたちを悟りの光明に導くことができましょうか。あなたたち自身が出家して仏の教える道に入る以外に道はないのですよ。

 

 同じ末法の世ですが11世紀には仏門に入るという救いの道がありました。しかし21世紀の今宗教は無力化しています。カオスからの脱却は至難の業です。私たちにその力はあるのでしょうか。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

2023年10月23日月曜日

不登校の責任は誰に

 最近ときどき思うのですが、今の学校に入って私のこれまでのキャリア――同じ学歴や職歴を再現できる可能性はどれほどあるだろうかと考えたときほとんど実現不可能ではないかと思うのです。教科書の厚さが2倍は超えていますし教科書の数も増えています。修得しなければならない知識量は倍くらいになっているのではないでしょうか(イヤもっと多いかも)。われわれ時代の高校大学の進学率と現在を比較すると断然今の方が高くなっていますからそれだけでもハードルは上がっています(10%から50%以上に進学率が上がっておれば入学可能性は単純に5分の1に減少すると考えることもできます)。私がしていたような受験参考書をコナシてラジオの受験講座を併用する程度の受験勉強ではとても希望校進学は無理でしょう。

 これほど学習量が増えたのですから1クラスの人数、1クラスの担当教員がそれぞれ少人数化、複数人化しておればそれなりの対応も取れるでしょうがまったく変更がないのですから(クラス人数が40人学級になっていますが)授業についていけない子供が増えるのは当然の結果です。それを補うものとして「学習塾」「家庭教師」「予備校」が存在しているのです。今や学校は塾(予備校、家庭教師)なしでは学習効果を十分に上げることができない状況に陥っているのです。

 

 10月発表された昨年の不登校状態にある小中学校生は29万9000人に上っています。これは920万人の総児童生徒数に対して3.25%に当たります。原因はいろいろ考えられますが学校の勉強についていけなくて「落ちこぼれ」になったことも大きな原因でしょう。ほかにも本人や保護者(両親など)の責任と呼ぶにはふさわしくない原因も少なくありません。それを東近江市の市長(小椋正清氏)さんは「不登校になる大半の責任は親にある」と言い放ったのです。「文部科学省がフリースクールの存在を認めたことにがくぜんとしている。国家の根幹を崩しかねない」とも発言しています。これは2017年に施行された「教育機会確保法(義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会確保等に関する法律)」にもとづいて文科省の策定した「学校や教育委員会とフリースクールなどとの連携強化等の対策プラン」を県独自のプランに落とし込んだ骨子を県下の各首長に示した会議での発言です。

 「教育機会確保法」は不登校の児童生徒の学習機会を確保・保証するために通常学校で行われている「一斉授業」だけでなくフリースクールなどの多様な学習活動の実状を踏まえて支援を行い、普通教育に相当する教育を受けていない児童生徒の意思を尊重して能力に応じた教育機会を確保して自主的に生きる基礎を培い、豊かな人生を送ることができるよう教育水準の維持向上を図ることを目的としています。

 

 わが国の教育は明治以来「画一的なカリキュラム」と「一斉授業」を原則として「国定教科書」を全国一律に採用して行なわれてきました。こうした教育システムは、西洋先進国をモデルとして追いつけ・追い越せの教育には絶大な効果を上げました。その結果ヨーロッパ・アメリカ以外で唯一の「工業先進国」として目ざましい成長を遂げることができたのです。この成功モデルは工業化が最盛期を迎える「バブル期」まで有効に機能しました。しかし情報化時代が始まりグローバル化が世界をひとつにする時代に至って有効性が著しく低下したのです。モデルを創造する、イノベーションを引き起こす、こんな社会に「日本式学校システム」は対応できなくなったのです。さらに「膨脹した知識」を児童生徒全員にまんべんなく修得させるにも適さなくなってしまったのです。

 「落ちこぼれ」た児童生徒に普通教育をどうすれば修得させることができるかは重要な課題ですが、「吹きこぼれ」た児童生徒(学校の授業にあきたらない、高い能力と才能を持った子供たち)の才能・能力を生かす教育も今求められているのです。どちらにも適さなくなった「日本式教育システム」。これをどう改革していくかが喫緊の課題なのです。

 

 さてここで現在の教育論議でほとんど問題にされていない日本教育システムの欠陥を指摘します。

 現在わが国では「公的認可を受けた教育(公的教育)――公立と私立の学校法人」と「認可を受けていない私的な教育(私的教育)――学習塾、家庭教師、予備校」が併存している問題です。戦後これまで繰り返し「教育改革」が行われてきました。しかし一度も成功していません。それは公的教育だけを改革して私的教育を手つかずで放置してきたからです。はじめのうちはひっそりと表の公的教育の補助機関として存在していた学習塾が、気がつけばいつのまにか公的教育の領域をどんどん侵犯して今やどっちが表か分からないほどの影響力を「教育」に与えるようになっているのです。

 はじめ私的教育は公的教育を補完する関係にありました。それがいつのまにか私的教育がないと公的教育が成立しない状況に至ったのです。「落ちこぼれ」問題はこうした教育環境が生みだした必然の結果といえます。

 

 不登校問題はわが国教制度を根本から改革しないと解決できない問題です。

 「画一的なカリキュラム」、「一斉授業」、「国定教科書」の採用義務付けの三制度を考え直す必要があります。小人数学級と複数教員による指導を公立学校の基本要件にしなければなりません。私的教育機関(塾、家庭教師、予備校など)を国(及び地方行政)の教育改革の力の及ぶ制度に改革する必要があります。

 

 東近江市の市長さんは大事なことを言っているのです。「国家の根幹を崩しかねない」状況にわが国の教育制度はなっているのです。表の数字は全児童生徒の3.25%に止まっていますが実際の数字は――今の制度では学校の勉強についていけない子どもたちはその何倍も――5%いやもっと存在していると考えるのが正しいでしょう。これを無視して現在の制度を続けていくことはもう限界です。東近江市の市長さんは現状を「是」としてこのままでは日本の教育制度は崩壊してしまうと「親に責任を押し付けた」のですが、責任を問われているのは「国」です。すでに崩壊している制度を改革せずにここまで放置してきた国――制度の設計者であり維持・管理の責任者――はその責任を自覚すべきです。そして可及的速やかに「改革」を断行すべきです。

 

 東近江市の市長さん。あなたは正しいことを言ったのです。「国家の根幹を揺るがしかねない」状況にわが国の教育制度は陥っているのです。

 

 

 

 

 

2023年10月16日月曜日

ネット社会と日本語

  久し振りに学生時代の友人と会って――コロナ前以来ですから4年ぶりでその分齢を取っているわけで、84才がふたり、82才もふたりの超高齢年寄り4人が飯を食いながら、酒量がめっきり減ってそれでも口達者は健在で5時間半はあっという間に過ぎました。今年4月に開館した七条東山、智積院の宝物館で長谷川等伯の国宝の障壁画を拝観しましたが「楓図」「桜図」は薄明の光彩のなかに美麗を極めた見事なものでした。観光寺院でないせいで見物客も稀で塵ひとつない壮大な伽藍にはじめての三人は感激しきりでした。約45分のお山めぐりはおみ足不如意の友人を慮って遠慮しましたがもし一巡りしておれば格別に晴れわたった澄明な境内は壮快だったにちがいないとそれだけは残念でした。

 気になったのは視力が衰えて新聞を止めたのがいて、彼の情報源はテレビとネットに限られるようになり、そのせいで随分考え方に偏りを感じたことです。食事をしながら談論風発したのですが彼の意見に反する情報――私がテレビ、ネットから得た情報で反論するとそれはすっかり忘れられていて、彼の考え方に都合のいい情報だけで考え方が補強されている、そんな傾向が強くうかがえました。若いころは批判精神旺盛な人だっただけに意外で、齢を取るということはこういうことなのかと若干口惜しい思いを感じました。

 

 「みな元気やなぁ」と一応に口にしたのは風の噂に彼も吾も肝臓を手術したとか心臓を悪くしたとか聞いていたからで、なかでもペースメーカーを三つも入れて肝臓の手術までした年長の友人がツルツルの綺麗な顔つきをしていたのが意外で、嬉しくて喜び合いました。もうひとりの年長者は認知症がちょっと進行していて、それでも通常の会話に不自由はなく、数字関係が極度に危うくなっているのを本人も自覚していて医者にも罹っているが改善の兆しはないと不安を口にしましたが深刻な様子でなかったのが救いでした。かといって他の三人が健常かといえばそんなことはなく、物覚えが怪しくなくなっているのはご同様で、どうでもいいことは忘れても別に気にしないでいると強がってみせましたがそれはそれで説得力がないわけではないのです。人の名前が思い出せない覚えられないのは四十半ばからで、思い立って居間に来たもののサテ何しに来たのか忘れることなども日常茶飯のことであって、80も超えればそんなことはみなふつうであって気に病む必要もないのです。

 ひとりだけゴルフ好きがいたのですがコロナをキッカケにすっぱり止めていました。コロナの心配がなくなったからと今さらはじめても一度ゆるめた身体がもとにもどる可能性は望み薄でクラブを手にすることもなくなったとサバサバしていました。問題はゴルフ以外に趣味というものがなかったので時間を持て余していることで、視力の衰えが思いのほかで本がまったく読めないとこぼすことしきりでした。それは私以外の三人共通で、読めても軽いものに限られて、今でも専門書を読んでいる私を羨やまれたのですがそれは「言い訳」だと断じると一斉に反撥を受けました。

 

 しかしそれは事実で、「読書」はある意味でスポーツと同じだと思います。体力も必要ですし、根気は体力の裏づけがないと衰える一方です。ウオーキング程度の軽い読書もあれば百メートル走のような強度の集中力の求められる専門書も、トルストイやドストエフスキーの長編はマラソン並みの集中力の継続が無ければ読めません。加えて日本語は複雑な経路を経て今日に至っていますからそれに対応した技術が無いと「読書力」が養われないのもスポーツと同じです。ジムで筋肉増強を図る一方で反射神経や動体視力の強化が必要なように、漢文、古文の素養がないと日本文学は極められませんし、漢字という難物があります。現代仮名遣いと旧仮名遣い(歴史的仮名遣い)、印刷文字は一様ですが書き文字の書体は楷書、行書、草書にくずし字まであります。そう考えてくると今の日本語教育――国語教育はあまりに偏っているのではないでしょうか。驚いたのですが最近は夏目漱石でさえ「現代語訳版」があるといいます。僅か百年前の日本語が現代人に通用しない、そんな「母語」教育が「文部科学省認定」として大手を振っているのですから嘆かわしい限りです。

 

 こんな状況のなかに「ネット社会」が出現したのです。

 グロ-バル・情報社会は(略)あふれかえる情報は意味記号の羅列になりさがった。そのなかにもはや、ひとはいないのである。即時性と実況性のみにことばの価値をおくネット社会は、刹那的に炎上するが、地道に積み上げる異論と批判を排除する。それによってのっぺらぼうに均質化してゆくのである。このとき「批評」は仲間内の褒め合いに転落する。英語のcriticalもフランス語のcritiqueも批評と危機的なという意味が紙の表裏をなしている。均質であることを心地よさと感じる退嬰的社会に、批評は機能しない。こうして日本社会はことばの「被膜」に覆いつくされ、息が自由にできなくなってゆく。(略)ことばと現実が肉離れした時代にあって、垂鉛からもどってくるはるかな道のりにしか詩歌の往還は実現しない。グローバル・情報社会というまことしやかにしてイミテーションの「永遠の生」があふれるなかで、死と隣りあう有限の生の深みをさぐる。功利主義にかえりみられることのない深さこそ遼遠である。(恩田侑布子『星を見る人』より

 国語教育の偏りと貧弱さは「狭い」言語空間での――意味記号の羅列、即時性と実況性のみにことばの価値をおく、それによってのっぺらぼうに均質化してゆく、均質であることを心地よさと感じる退嬰的社会に批評は機能しない、グローバル・情報社会というまことしやかにしてイミテーションの「永遠の生」があふれる――と恩田さんは嘆き危機感を言い募っているのです。

 

 人生百年時代が現実化した今、百才以上人口が9万人を超え、全国2万校の各小学校区に4、5人の百才人が存在するようになったのですから健康寿命の延伸は国家的事業です。肉体的健康と同時に精神的趣味的健康があって豊かなQOL(クオリティオブライフ)が実現できるのですから「眼の健康」も是非「健康診断」に入れてほしいものです。

 

 

 

2023年10月9日月曜日

ジャニーズ問題、ひとつの見方 

  日テレは10月4日夕方のニュース番組で、ジャニーズ問題に関する社内調査結果を公表し、ジャニーズ事務所に対する様々な忖度があったことを認めました。1999年文春がジャニー氏の性加害を報じた際には「芸能マター」として捉えて「報道局」は無視を決め込み、04年最高裁の判決はジャニー氏側の性加害報道が同氏の名誉棄損に当たらないと棄却した判決であったので積極的な性加害の認定と捉えることに慎重になり「報道局」マターとするに至らなかったのは、性加害に対する認識が現在ほど重要な社会問題であるという認識が欠如していた結果であり深く反省するところであると総括しました。

 

 ジャーナリズム(報道)の主要な役割は「権力の監視」にあり、真実の尊重、正確性などとともに

政府その他の権力の排除を「報道倫理」としています(「ジャーナリストの義務に関するボルドー宣言」)。これはわが国の戦前・戦中の報道姿勢が政治権力に阿(おもね)り「大本営発表」を垂れ流し国民を戦争へと誘導したことを深く反省することに基づく戦後報道機関の「報道の根本方針」に合致するものです。

 「ジャニーズ」は「芸能界」の『権力』として『君臨』していました。「芸能班」が報道機関としての自覚があったなら「反権力」が「倫理」の基底になければおかしかったのですが彼らに「ジャーナリスト」という認識は皆無でした。そして「報道局」も政治でない芸能に『権力』が存在するジャーナリズムとしての基本的認識が欠如していたのです。

 なぜ「報道局」に「権力の監視」という意識が欠落していたのか。それはわが国独自の「記者クラブ」制度があります。国政府や地方公共団体のそれぞれの主要機関に有力メディアの「記者クラブ」が存在し、主要機関のニュースレリーズをほとんど裏どりなしに報道する慣習があります。海外メディアはこれを批判的に見ており警告も発していますが廃止を検討する機運はいまだに起こっていません。

 こんな『癒着』制度が温存されていて『権力の監視』が正常に機能すると見るのはわが国だけでしょう。

 

 ジャニーズ問題はジャーナリズム――各種メディア、報道機関が「権力の監視」という基本機能を果たせなかった結果でありジャニーズが『権力』であるという認識を持てなかった結果である、というのがひとつの見方です。そこにわが国ジャーナリズムの「脆弱性」、現在の状況を「新たな戦前」の現出ならしめた根本的な問題があるのです。

 ジャニー氏という個人、ジャニーズという一企業の権力さえ監視できなかったわが国のジャーナリズムに政治という大権力の監視ができるのでしょうか。

 

 話は飛躍しますが今年の小説のトップ5にまちがいなく入るであろう多和田葉子の『白鶴亮翅(はっかくりょうし)』(朝日新聞出版)に衝撃的な文章がありました。

 大日本帝国と呼ばれた国では、262万人から312万人もの死者が出たと書いてある。(略)アメリカ合衆国の死者を見ると、41万人。(略)ところがソビエト連邦を見ると、死者の数はなんと2180万人から2800万人と書いてある。/全人口に対する死者の比率は(略)ポーランドでは全人口の二割がが戦争の犠牲になったことになっている。五人に一人が死んでいるのだ。(略)沖縄はポーランドを上回る割合で四人に一人が死んでいる。

 

 これは第二次世界大戦での戦没者に関する記述です。ソ連の1941年の人口は約2億人ですから人口の1割以上が先の戦争で死んでいることになります。ですから現ロシアの人たちにとって先の戦争に対する思いはわれわれ日本人とは異なった意味で重大な影響を今に残していることが想像できます。われわれは原爆で広島、長崎を爆撃したアメリカに対して寛容すぎます。焼夷弾で非戦闘地域を焼き尽くしたアメリカの戦争に、じゅうたん爆撃で非戦闘員を殺戮したアメリカの戦争に寛容すぎます。戦争に関係した人たちが高齢化して人口に占める割合が減少して、アメリカと戦争したことさえ知らない人口が7割以上になったことが影響しているのかもしれません。しかし沖縄の人たちは4人に1人が犠牲になられたのですから本土の人たちとは比較にならない深さ、痛さで戦争の影響が残っているにちがいありません。その沖縄にアメリカ軍の基地の7割以上を負担させているのですから、先の戦争の歴史と記憶は「上書き」されて「新しい戦前」意識が高揚しても不思議はありません。普天間基地の辺野古移設に対して7割以上の人が反対するのも当然なのです。「日米の合意」をいくら言い募っても沖縄の人の民意を無視した「合意」などなんの説得力も持たないのです。

 ロシアは戦後の冷戦時代アメリカと世界を二分する勢力を誇りました。先の戦争からの復活で戦争への恨みが希釈されたかもしれません。しかし社会主義は資本主義に敗れました。ロシアのGDPはアメリカの1割りにも満たない世界8位の弱小国に成り下がっています。こうなれば第二次世界大戦に対する遺恨が再び湧き上がるのも無理もないのです。しかも二度の世界大戦で戦場になったことのない、僅か41万人の死者(人口比0.3%)しか出さなかったアメリカがぬくぬくと繁栄を享受して世界を支配しているのです。

 われわれから見ればプーチンの戦争は不合理な暴虐にうつります。しかしこのわれわれのものの見方、感情が世界共通なものと捉えると現在の世界情勢を正確に理解することはできなくなります。今や世界の半分近い国々が「アメリカの支配」を受け入れなくなっているのです。自由と民主主義のない専制国家のロシアや中国をどうして容認するのかというわれわれの「疑問」は世界共通でなくなりつつあるのです。

 

 『白鶴亮翅』という小説が現在のメディアが伝えてくれない「忘れられた真実」を教えてくれました。プーチンの戦争が理解できないでいたわれわれにかすかな理解の道を開いてくれたのです。「権力の監視」の多様性を教えてくれたのです。われわれはアメリカ一辺倒で80年過ごしてきました。その見方で「権力の監視」をつづけてきました。しかし10人にひとり、5人にひとり、4人にひとりの同胞を先の戦争で亡くした人たちも世界にはいるのだという「考え方、ものの見方」で「権力の監視」をすることが必要な時期にさしかかっているのです。

 

 

 

2023年10月2日月曜日

「いま、ここ、わたし」ではなく

  最近にがにがしく思っている言葉があります。「子どもに迷惑かけたくないから」という言葉です。いろんな場面で表現は違っても同じような意味で使われている言葉です。この「わだかまり」をなんとかうまく伝えることできないかと思案していたのですが、はからずも恩田侑布子さんの『星を見る人』(春秋社)という本に出合いました。

 

 「わたしは次男でまあ、よかったけどさ、それでも九州の田舎まで、三回忌も七回忌も実家に帰ったからね。骨は海に撒いてくれるように子どもたちに云ってある。負担をかけたくないから」

 さまざまな事情があろうが、亡き親を弔い、供養することが「負担」だろうか。負担を免れた子や孫はせいせいするだろうか。若いころ、新聞広告で『人は死ねばゴミになる』というタイトルに驚き、それが検事総長の本とあって震え上がったことがあった。散骨風景に福島原発の汚染水処理水がダブって来た。骨は二ミリ以下の粉骨パウダーにすれば法律に触れない。しかも、墓下の先祖もまとめてさよならすれば、「複数散骨割引」で「だんぜんお得!」と、ネット広告には吹き出しの赤字がおどっている。

 すぐ隣に、私営ペット霊園がある。個別の火葬料はミルティー(作者の亡き愛犬の名)の数十倍。墓地公園の一匹ごとの「家族墓」は三十年で人間なみの値段。なのに、春秋の彼岸になると、街道は「うちの子」の法要に来る車でごったがえす。「檀家」の医者の奥さんによれば、盂蘭盆会や歳末供養祭、三回忌や七回忌の大法要まであるという。

 犬猫は遠忌まで追善法要を勧め、人間の骨は海に撒いておしまい。「顛倒夢想(てんどうむそう)」という仏教語を思い出す。2006年には『千の風になって』という歌が流行った。私は墓にいません。「千の風になって……大きな空を吹きわたっています」。秋川雅史の豊かな声量に、何千年の葬送儀礼と習俗は、吹き飛んでしまったのだろうか。

 人類は太古から愛する人の死に、この世に生きた標(しるし)と、かけがえのないたましいを弔う“よすが”を求めてきた。(略)三・一一後の東北の海辺では、せめて指一本の骨でもいいから帰ってきてと、親族がいまも遺骨を探し歩いておられる。

 人類の文化は、死者を傷む弔いから始まった。散骨業者の船に乗るのも自由だが、経済だけでなく死生観までもが“失われた三十年”ではなかったろうか。死ねばゼロ。生きている間がすべて、という功利主義に覆われてしまった。それは生の時間までペラペラの透明フィルムにしてしまうことではなかろうか。浮薄の死生観は、ことばも薄っぺらにし、日本語は揮発してゆく。

 

 現代のわが国を――いや世界といってもいいのかもしれません――よく表している言葉に「いま、ここ、わたし」があります。過去と未来、自分のテリトリー以外の場所、他人と社会・世界という視点が欠落しているのです。たとえば今うつぼつと反対意見が拡大している「神宮外苑再開発」問題にしても「100年後の完成」を期して先人が計画した「日本の始原のたたずまい」を、まさに完成の瞬間に受け継いだ首都の官僚たちが都民の意見をないがしろにして『破壊』しようというのですからこの傲慢さは許しがたいのです。顛末がどうなるか不透明ですが未来の世代に恥ずかしくない解決を祈るばかりです。

 

 もうひとつの『懸念』は「日本語の衰退」です。パソコンが登場して、字が書くものから「打つ」ものに取って代わられ、それがスマホが出るに及んで「短文のテンプレート」のやり取りで情報の交通が完結するようになり、いよいよ絶望的な状況に至っています。それについても黒田さんはこのように警告しています。

 

 原発事故は未来世代に莫大な負担を強いる。ゲームとスマホ漬けで読解力は衰弱し、語彙の貧しさは認識をがさつにする。視野と感情は断片化し、現代詩は凍える。文学評論は瀕死となり、俳句は名句も駄句も味噌クソ一緒。バラエティ番組のオモチャの太鼓だけが音高い。

 日の丸に日本はない。日本語の豊かな語彙のなかに日本はある。その日本が瘦せ細ってゆく。情報社会の奔流のなかで、言葉は陰翳をなくし、記号と同等の「情報」になりさがりつつある。

 AIには、水の輪廻を繰り返す海のようなデリケートな感情や深層意識がない。ましてや汗を吹き、糞尿を垂れるやっかいな身體もない。言葉の影を操るだけだ。この一度きりの苦しみの多い生の足場から現代の『スターゲイザー(星を見る人)』を探りたい。生成AIという「実存的意味のないあだ花」に意味を与えるのは、明知と感情を持った生きる人間の方なのである。

 

 福島原発の「汚染水処理水」の海洋廃棄についてはいろんな考え方があります。ALPSで処理して更に何倍にも希釈しているから人体に無害なものだ、という政府見解にも科学的な裏付けがあります。反対意見もそれなりの論理はあります。しかし大原則は「科学が証明しているのは自然の一部でしかない」という「畏怖心」です。分かっていないことの方が多いのだという謙虚な姿勢があまりに欠落しているのです。今の「行政の専横時代」に求められるのは「三権分立」の原則に立ち帰ることです。

 

 先祖との対話、仏壇はそのための「装置」です。いくつかの民間業者の調査によれば仏壇の保有率はおおむね40%になっています。墓参りもご先祖との魂の交流の行事ですから遺しておきたい習俗です。