2023年10月16日月曜日

ネット社会と日本語

  久し振りに学生時代の友人と会って――コロナ前以来ですから4年ぶりでその分齢を取っているわけで、84才がふたり、82才もふたりの超高齢年寄り4人が飯を食いながら、酒量がめっきり減ってそれでも口達者は健在で5時間半はあっという間に過ぎました。今年4月に開館した七条東山、智積院の宝物館で長谷川等伯の国宝の障壁画を拝観しましたが「楓図」「桜図」は薄明の光彩のなかに美麗を極めた見事なものでした。観光寺院でないせいで見物客も稀で塵ひとつない壮大な伽藍にはじめての三人は感激しきりでした。約45分のお山めぐりはおみ足不如意の友人を慮って遠慮しましたがもし一巡りしておれば格別に晴れわたった澄明な境内は壮快だったにちがいないとそれだけは残念でした。

 気になったのは視力が衰えて新聞を止めたのがいて、彼の情報源はテレビとネットに限られるようになり、そのせいで随分考え方に偏りを感じたことです。食事をしながら談論風発したのですが彼の意見に反する情報――私がテレビ、ネットから得た情報で反論するとそれはすっかり忘れられていて、彼の考え方に都合のいい情報だけで考え方が補強されている、そんな傾向が強くうかがえました。若いころは批判精神旺盛な人だっただけに意外で、齢を取るということはこういうことなのかと若干口惜しい思いを感じました。

 

 「みな元気やなぁ」と一応に口にしたのは風の噂に彼も吾も肝臓を手術したとか心臓を悪くしたとか聞いていたからで、なかでもペースメーカーを三つも入れて肝臓の手術までした年長の友人がツルツルの綺麗な顔つきをしていたのが意外で、嬉しくて喜び合いました。もうひとりの年長者は認知症がちょっと進行していて、それでも通常の会話に不自由はなく、数字関係が極度に危うくなっているのを本人も自覚していて医者にも罹っているが改善の兆しはないと不安を口にしましたが深刻な様子でなかったのが救いでした。かといって他の三人が健常かといえばそんなことはなく、物覚えが怪しくなくなっているのはご同様で、どうでもいいことは忘れても別に気にしないでいると強がってみせましたがそれはそれで説得力がないわけではないのです。人の名前が思い出せない覚えられないのは四十半ばからで、思い立って居間に来たもののサテ何しに来たのか忘れることなども日常茶飯のことであって、80も超えればそんなことはみなふつうであって気に病む必要もないのです。

 ひとりだけゴルフ好きがいたのですがコロナをキッカケにすっぱり止めていました。コロナの心配がなくなったからと今さらはじめても一度ゆるめた身体がもとにもどる可能性は望み薄でクラブを手にすることもなくなったとサバサバしていました。問題はゴルフ以外に趣味というものがなかったので時間を持て余していることで、視力の衰えが思いのほかで本がまったく読めないとこぼすことしきりでした。それは私以外の三人共通で、読めても軽いものに限られて、今でも専門書を読んでいる私を羨やまれたのですがそれは「言い訳」だと断じると一斉に反撥を受けました。

 

 しかしそれは事実で、「読書」はある意味でスポーツと同じだと思います。体力も必要ですし、根気は体力の裏づけがないと衰える一方です。ウオーキング程度の軽い読書もあれば百メートル走のような強度の集中力の求められる専門書も、トルストイやドストエフスキーの長編はマラソン並みの集中力の継続が無ければ読めません。加えて日本語は複雑な経路を経て今日に至っていますからそれに対応した技術が無いと「読書力」が養われないのもスポーツと同じです。ジムで筋肉増強を図る一方で反射神経や動体視力の強化が必要なように、漢文、古文の素養がないと日本文学は極められませんし、漢字という難物があります。現代仮名遣いと旧仮名遣い(歴史的仮名遣い)、印刷文字は一様ですが書き文字の書体は楷書、行書、草書にくずし字まであります。そう考えてくると今の日本語教育――国語教育はあまりに偏っているのではないでしょうか。驚いたのですが最近は夏目漱石でさえ「現代語訳版」があるといいます。僅か百年前の日本語が現代人に通用しない、そんな「母語」教育が「文部科学省認定」として大手を振っているのですから嘆かわしい限りです。

 

 こんな状況のなかに「ネット社会」が出現したのです。

 グロ-バル・情報社会は(略)あふれかえる情報は意味記号の羅列になりさがった。そのなかにもはや、ひとはいないのである。即時性と実況性のみにことばの価値をおくネット社会は、刹那的に炎上するが、地道に積み上げる異論と批判を排除する。それによってのっぺらぼうに均質化してゆくのである。このとき「批評」は仲間内の褒め合いに転落する。英語のcriticalもフランス語のcritiqueも批評と危機的なという意味が紙の表裏をなしている。均質であることを心地よさと感じる退嬰的社会に、批評は機能しない。こうして日本社会はことばの「被膜」に覆いつくされ、息が自由にできなくなってゆく。(略)ことばと現実が肉離れした時代にあって、垂鉛からもどってくるはるかな道のりにしか詩歌の往還は実現しない。グローバル・情報社会というまことしやかにしてイミテーションの「永遠の生」があふれるなかで、死と隣りあう有限の生の深みをさぐる。功利主義にかえりみられることのない深さこそ遼遠である。(恩田侑布子『星を見る人』より

 国語教育の偏りと貧弱さは「狭い」言語空間での――意味記号の羅列、即時性と実況性のみにことばの価値をおく、それによってのっぺらぼうに均質化してゆく、均質であることを心地よさと感じる退嬰的社会に批評は機能しない、グローバル・情報社会というまことしやかにしてイミテーションの「永遠の生」があふれる――と恩田さんは嘆き危機感を言い募っているのです。

 

 人生百年時代が現実化した今、百才以上人口が9万人を超え、全国2万校の各小学校区に4、5人の百才人が存在するようになったのですから健康寿命の延伸は国家的事業です。肉体的健康と同時に精神的趣味的健康があって豊かなQOL(クオリティオブライフ)が実現できるのですから「眼の健康」も是非「健康診断」に入れてほしいものです。

 

 

 

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