2023年10月2日月曜日

「いま、ここ、わたし」ではなく

  最近にがにがしく思っている言葉があります。「子どもに迷惑かけたくないから」という言葉です。いろんな場面で表現は違っても同じような意味で使われている言葉です。この「わだかまり」をなんとかうまく伝えることできないかと思案していたのですが、はからずも恩田侑布子さんの『星を見る人』(春秋社)という本に出合いました。

 

 「わたしは次男でまあ、よかったけどさ、それでも九州の田舎まで、三回忌も七回忌も実家に帰ったからね。骨は海に撒いてくれるように子どもたちに云ってある。負担をかけたくないから」

 さまざまな事情があろうが、亡き親を弔い、供養することが「負担」だろうか。負担を免れた子や孫はせいせいするだろうか。若いころ、新聞広告で『人は死ねばゴミになる』というタイトルに驚き、それが検事総長の本とあって震え上がったことがあった。散骨風景に福島原発の汚染水処理水がダブって来た。骨は二ミリ以下の粉骨パウダーにすれば法律に触れない。しかも、墓下の先祖もまとめてさよならすれば、「複数散骨割引」で「だんぜんお得!」と、ネット広告には吹き出しの赤字がおどっている。

 すぐ隣に、私営ペット霊園がある。個別の火葬料はミルティー(作者の亡き愛犬の名)の数十倍。墓地公園の一匹ごとの「家族墓」は三十年で人間なみの値段。なのに、春秋の彼岸になると、街道は「うちの子」の法要に来る車でごったがえす。「檀家」の医者の奥さんによれば、盂蘭盆会や歳末供養祭、三回忌や七回忌の大法要まであるという。

 犬猫は遠忌まで追善法要を勧め、人間の骨は海に撒いておしまい。「顛倒夢想(てんどうむそう)」という仏教語を思い出す。2006年には『千の風になって』という歌が流行った。私は墓にいません。「千の風になって……大きな空を吹きわたっています」。秋川雅史の豊かな声量に、何千年の葬送儀礼と習俗は、吹き飛んでしまったのだろうか。

 人類は太古から愛する人の死に、この世に生きた標(しるし)と、かけがえのないたましいを弔う“よすが”を求めてきた。(略)三・一一後の東北の海辺では、せめて指一本の骨でもいいから帰ってきてと、親族がいまも遺骨を探し歩いておられる。

 人類の文化は、死者を傷む弔いから始まった。散骨業者の船に乗るのも自由だが、経済だけでなく死生観までもが“失われた三十年”ではなかったろうか。死ねばゼロ。生きている間がすべて、という功利主義に覆われてしまった。それは生の時間までペラペラの透明フィルムにしてしまうことではなかろうか。浮薄の死生観は、ことばも薄っぺらにし、日本語は揮発してゆく。

 

 現代のわが国を――いや世界といってもいいのかもしれません――よく表している言葉に「いま、ここ、わたし」があります。過去と未来、自分のテリトリー以外の場所、他人と社会・世界という視点が欠落しているのです。たとえば今うつぼつと反対意見が拡大している「神宮外苑再開発」問題にしても「100年後の完成」を期して先人が計画した「日本の始原のたたずまい」を、まさに完成の瞬間に受け継いだ首都の官僚たちが都民の意見をないがしろにして『破壊』しようというのですからこの傲慢さは許しがたいのです。顛末がどうなるか不透明ですが未来の世代に恥ずかしくない解決を祈るばかりです。

 

 もうひとつの『懸念』は「日本語の衰退」です。パソコンが登場して、字が書くものから「打つ」ものに取って代わられ、それがスマホが出るに及んで「短文のテンプレート」のやり取りで情報の交通が完結するようになり、いよいよ絶望的な状況に至っています。それについても黒田さんはこのように警告しています。

 

 原発事故は未来世代に莫大な負担を強いる。ゲームとスマホ漬けで読解力は衰弱し、語彙の貧しさは認識をがさつにする。視野と感情は断片化し、現代詩は凍える。文学評論は瀕死となり、俳句は名句も駄句も味噌クソ一緒。バラエティ番組のオモチャの太鼓だけが音高い。

 日の丸に日本はない。日本語の豊かな語彙のなかに日本はある。その日本が瘦せ細ってゆく。情報社会の奔流のなかで、言葉は陰翳をなくし、記号と同等の「情報」になりさがりつつある。

 AIには、水の輪廻を繰り返す海のようなデリケートな感情や深層意識がない。ましてや汗を吹き、糞尿を垂れるやっかいな身體もない。言葉の影を操るだけだ。この一度きりの苦しみの多い生の足場から現代の『スターゲイザー(星を見る人)』を探りたい。生成AIという「実存的意味のないあだ花」に意味を与えるのは、明知と感情を持った生きる人間の方なのである。

 

 福島原発の「汚染水処理水」の海洋廃棄についてはいろんな考え方があります。ALPSで処理して更に何倍にも希釈しているから人体に無害なものだ、という政府見解にも科学的な裏付けがあります。反対意見もそれなりの論理はあります。しかし大原則は「科学が証明しているのは自然の一部でしかない」という「畏怖心」です。分かっていないことの方が多いのだという謙虚な姿勢があまりに欠落しているのです。今の「行政の専横時代」に求められるのは「三権分立」の原則に立ち帰ることです。

 

 先祖との対話、仏壇はそのための「装置」です。いくつかの民間業者の調査によれば仏壇の保有率はおおむね40%になっています。墓参りもご先祖との魂の交流の行事ですから遺しておきたい習俗です。

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