2019年3月25日月曜日

10連休はいいけれど

 京都市保健福祉局医療衛生推進室医務衛生課をご存知だろうか。先日私の問い合わせに応じてくれた市役所の係りの部署名だ。問い合わせたのは「10連休(4月末からの)中の地区の病院の診療体制」についてであった。かかりつけのまちの医院はみな10連休中休診になるらしいと年寄り連中はうわさしている。「ちょっとした病気に救急車は呼べへんしなぁ」と心配を漏らしている。わたしはいたって健康だからそんなことは思いもしなかったが、持病のある人や健康に自信のない高齢者は心配して当然である。また、えてして病というものは間の悪いことに正月とか日曜日とか、病院が休みの時に限ってひき起こるものだ。
 担当者の女性のこたえはこうだった。「まだ体制は整っていません。いま救急告示病院(一般に救急病院といっているものと同じと考えていい)に手を上げてもらうよう調整しています。4月上旬にはまとまると思います」「結果は刷り物にして区役所とかに置いて周知してくれるのですか」「間に合わないと思います」「ではインターネットのこのサイトでだけですか」「そうなると思います」。
 担当者の指示した京都市のネットのサイトは「京都市情報館/健康・福祉・教育」→「医療」→「救急医療・急病診療所」と検索をしていくことになると思うが、そこを開いても救急病院は一覧になっていない。ということは「広報資料・お知らせ」に発表になるのだろうか。いずれにしてもこんな面倒な手順を楽々とこなすことのできる高齢者はわずかな人たちに限られていよう。
 役所は当然のことながら連休中は「閉庁」であるから、もしなにかがあって問い合わせるときはどうしたらいいのだろうか。役所に電話しても電話に出るのは宿直のガードマンで、彼らがそれに対応できるとは思えない。そうなると、救急でない程度の病気や怪我でも救急「119」に電話が集中するにちがいない。
 
 考えてみれば年寄りの病気ばかりではない。スグに思いつくのは「保育」だ。約400万人の幼稚園保育園に通っている幼児たちは幼稚園保育園以外の施設が対応しなければならなくなるのだが政府は自治体や事業者へ丸投げ状態だ。銀行や郵便局は閉まっているから急な出費に備える必要があるし、庶民にはあまり関係ないことだが株式市場への影響もある。10連休にすることで影響のある問題がちょっと考えただけでもこんなにあるのにその対策は冒頭に書いた「一般医療」の対応をみても極めて「不安」なものになっている。
 
 2018年現在製造業の就業者数は全体の六分の一に満たない。公務員は国家公務員が約64万人、地方公務員が約375万人。確実に暦通りに休める人はこれらの人たちを含めて全就業者の三分の二にも満たない。とりわけ2200万人近い非正規雇用の人たちはその恩恵に浴せない現実を為政者はどう考えているのだろうか。そして非正規雇用の人たちはほとんどが時給・日給で働いている人たちだから休めばそれだけ収入減になる。まわりの浮かれた人たちとは裏腹に浮かれておれない人たちがこんなにいることを多くの人たちは気づいている。
 
 浮かれているといえばマスコミの「桜関係者」も『浮かれ』ているのではないか。東京の桜開花が予想された3月21日にはテレビのキー局のすべてが朝から上野公園の標本木まえにカメラを揃えて気象庁の担当官が観察する姿を映していた。「きょうはまだ開花数が不足していますので開花宣言は致しません」などというご宣託を伝えて、街行く人に「残念です」と言わせていた。
 そもそも東京の桜開花状況に我々(その他のほとんどの日本国民)は興味がないし、かといって地元の開花状況すらもそんなに「重大事」とは思っていない。近くの桜の樹が「もも色」づいたのを見ながら「もうすぐやな」と予想し「今年は大原野神社へ行ってみようかな」などと思案するだけだ。気象庁の「桜前線」の発表が大々的になってもう三十年近くなるが、それはそれなりに生活情報として重宝しているが、だからといってわざわざ標本木の下にいって気象庁の担当官の観察を見たいなどとは絶対に思わない(テレビに映っていた数十人のヒマな人たちには申し訳ないが)。
 
 このあたりが「おわコン」とテレビが言われる所以であって(おわコンというのは「終っているコンテンツ」の事で、テレビが若い者から相手にされていないことを意味している)一般庶民感覚と遊離してしまっている。東京キー局の製作者の感覚が現実の進行に完全に遅れていることに彼らは気づいていない。直近の日産ゴーン容疑者の仮出所を追跡する車両やヘリコプターの異常な多さ、取材陣の大仰さは想像を絶するものであったがゴーン氏がどんな姿を見せるか、彼がどこに宿泊するか、そんなことに興味を持っている人は限られたマニアだけだろう。それの社会的経済的文化的影響は絶無だし、そのことにこれほどの費用を掛けることの空しさを彼らマスコミ人は気づいていない。そして、その彼らが一方で、貧しい人たちへの社会保障の貧困さを訴えているのだからテレビが「おわコン」と批判を受けるのも当然である。
 
 私たちにとって最も身近な「浮かれ」ている人は安倍首相と政府の人たちだろう。安倍さんたちは第二次安倍内閣の経済運営がもたらした好景気(経済回復期間)が戦後最長だと「誇らしげ」に言い募っているが、統計指標は昨年末には下降期に入っていることを伝えている。にもかかわらず政府サイドは「最長」にこだわっているが、一般庶民感覚からは「好景気」そのものに実感がない。好景気というのは経済成長率の数字ではなく「給料が増える」ということで、加えて先行きにも希望のもててこそ景気がいいというのである。
 高度成長期は成長率が国民の幸福を表す指標としてふさわしかった、成長と給料の増加が合致していたから。しかし、平成になってからは国の経済成長と個人の給料の伸びが同調しなくなった。ということは成長率は国民の幸福を表す指標にはならなくなったということで、国連の発表する「幸福度」順位でも世界の58位(韓国54位)、G7先進7ケ国の最低にランク付けされている
 
 政治に関わる人も、経済学者も、こうした現実に眼を向けて「国民の幸福」を表現するのにふさわしい新しい指標を開発してほしいと切に願う。
 
 
 
 
 

2019年3月18日月曜日

ふたりのあいだ

 ふたりの「あいだ」はひとつ。でも三人のあいだはみっつ、そして真中にもうひとつ大きなあいだ。四人でもあいだはよっつと真中にもうひとつのあいだ。五人でも六人でも……。
 ふたりで手をつなぐ、両手でつなぐ。三人で手をつなぐ、向かい合ったら両手でつながるけれども三人いっしょに手をつなぐときは片手づつ。四人いっしょの手つなぎも片手づつ、向かいのひととはかおを見るだけ、手はジカにはつながっていない。五人でも六人でも……。
 おおぜいでも「ふたりぼっち」ならあいだはひとつ、両手手つなぎ。
 
 もしも「鏡」がなかったら。自分の顔はわからない、他人(ひと)の顔は見えるのに。自分がどんな人間なのかは鏡がなければ分からない。しかも鏡に映った顔はほんものの顔ではない、反射像の顔だ。自分の顔を自分の眼で直接見ることはできない。
 19世紀はじめドイツで今の鏡ができるまでは、鏡はかぎられた権力者の専有物だったからふつうの人たちは自分の顔は見えていなかった。ひとのことばで「自分」を知るしかなかった。手触りでおおよその輪郭を想像してひとの顔のよせ合わせの想像で自分の顔を思い浮かべるしかなかった。どうしても自分の顔を見たいときは澄んだ水面をのぞきこんで水に映った顔を見た。
 だから、李白は自分を見たいときこんな詩を書いた。「花間 一壺の酒独り酌んで相親しむ無し/杯を挙げて明月をむかえ/影に対して三人と成る……影 徒に我が身に随う/暫く月と影とを伴ないて……我歌えば 月 徘徊し/我舞えば 影 撩乱す(『漢詩を詠む―李白/NHKライブラリー』「月下独酌(石川忠久訳)」より)」〈花咲く木陰に酒壺ひとつ、ひとりぼっちの手酌で、相手がいない。そこで杯をあげて、のぼってくる月を招き、影も出てきて三人となった。…影はひたすら私の真似をするだけ。まあ、この月と影とを友として…私がうたえば、月はそれに合わせて舞い、私が踊れば、影もそれに合わせて乱れ動く〉。自分の躍動する姿を見たいときには影をみる。
 鏡のないとき自分を見るのは、他人のことばで見る、しかなかった。自分を知るのも、他人のことばで知る、しかなかった。
 
 「ことば」は自分がつくったものではない。他人(ひと)から教えられたものだ。おかあさんから口伝て(くちづて)で教えられたことばを「喃語(なんご)…アー、ウーといったあかちゃんことば」で習うことばがはじめのことば、それからおとなのことばを聞いて覚え、書かれた言葉を覚える、ひとから教わることばを習って言葉を覚えた。他人(ひと)からひとへ伝わり教わって習った、ことば。
 
 フィクションとノンフィクション。えっ!フィクションがはじめなの?「事実」が先で、それから「語りもの」「物語」じゃないの?ノンフィクションは自分が見たもの、フィクションは他人(ひと)の眼が見たもの。 
 
 「自分」は「他人(ひと)」につくられる。
 
 私らしくない文章を長々と書きつづってきたが、実は『マルコとパパ(宇野和美訳)』という絵本を読んでいたら、なんだかこんなことが書きたくなって書いてしまった。グスティ(1963年生)というアルゼンチン生まれの作家の書いた絵本で「ダウン症のあるむすこと ぼくのスケッチブック」という副題がついている。「ぼくは、けんこうな子がほしかった。ふつうな子が。でも、ふつうって、なんだろう?」こんなことばが出てくる絵本だが、障碍をもったわが子への愛情あふれる場面が本物の画家の巧みな構成で描かれた20カ国で翻訳されているこの作品はおとなにとっても読み応えがあった。愛情ある眼で観察された「ダウン症の子」の詳細なスケッチは「ふつう」ってなんだろうということを押しつけでなく考えさせてくれる。それは「マルコとパパ」がふたりで手をつないでいるから見えるのであって「あいだ」がひとつだから見えているのだと思う。見ることが「ことば」になっているからあいだが程よい。
 
 旧優生保護法下で障碍者らに不妊手術が強制的に繰り返された問題で、「おわび」と「一時金320万円」の支給を柱とした救済法案を超党派の議員立法で4月初旬に国会に提出し、月内の成立、施行を目指すという。一時金の320万円という額は1999年にスウェーデンでつくられた仕組みに準じるもので当時のスウェーデンで支給された金額を日本円に換算した300万円に若干の上積みを加えたものという。
 スウェーデンの仕組みの詳細を知らないので比較はできないが、単純に20年間のスウェーデンの物価上昇率(105.01/78.76=1.333)を反映させれば当時の300万円の現在価は約400万円になる。なによりも引っかかるのは現在係争中の各地の国家賠償請求訴訟の内容と大きく隔たっていることだ。国家の責任を明確に表記せず、訴訟で「国」となっている主体を「われわれ」とあいまいな表現を用いており、金額も最大三千万円となっているから相当な開きがある。
 法案が提出されていないのでまったく個人的な私の感覚だが「真実味」が感じられない。というよりも、とりあえず手っ取り早く収束を図ろうという「お役所仕事」然とした突き放した「冷たさ」さえ伝わってくる。大概のことで対立している野党がすんなり同意しているのも気に入らない。
 被害者との「あいだ」が開きすぎている。 
 
 私たち後期高齢者はたいてい老夫婦きりの生活になっている。人生60年をイメージした人生設計できたから「おまけ」の20年30年に戸惑っている。ふたりのあいだをどう保ったらいいのか、悩ましい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2019年3月11日月曜日

不適切動画について

 インターネット上の不適切動画が社会問題化している。コンビニや外食チェーン店のアルバイトの人たちが主にアップしているという。一度口に入れたものを元に戻すとか捨てられた食材を調理するとか、見た人に嫌悪感をもよおさせずにはおかない不潔で不快な動画が流されるのだから、そんなコンビニや外食店へのマイナスイメージははかり知れないほど甚大であろう。
 
 なぜこんな動画が投稿されるのかについて専門家は、「承認欲求」と「エコーチェンバー」そして「いじめ」を原因として説明している。 
 意外と表立って論議されていないが「いじめ」の側面は大きいのではないか。動画は映る者と映す者がいるわけで、下半身を剥き出して調理器具で隠してふざけている動画など映されている人が無理矢理「やらされている」可能性も高い。コンビニの冷凍庫で寝そべっている図などもそのキライなきにしもあらずで、恵まれない処遇への鬱屈した感情を弱い者いじめで発散している、そんな構図は十分考えられる。
 承認欲求は誰にでもあるものだが、劣悪な条件で雇用されて「自尊心」を傷つけられているような環境では「他人承認欲求」――他人に自分の存在価値を認めてもらいたいという欲求が強くなってもおかしくない。「個人として自分を見てもらいたい」「自分の考えを理解してもらいたい」「自分が役立つ存在であることを認めてもらいたい」「大切に扱ってほしい」という欲求がアルバイトや非正規雇用で不満の蓄積している人に強くなるのは当然だが、自己の存在価値を他人の評価に依存しているだけでは承認欲求が満足できるレベルに達することは難しい。技術を磨いたり能力を高めて、自分自身が自分への信頼を高める「自己承認欲求」を満たすような意識をもたなければ、正常な人間関係が保てないことは理解できるであろう。動画を投稿している人たちは自己の存在価値を他人の評価に依存しすぎているのだ、「いいね!」がほしくてたまらないのだ。
 エコーチェンバーというのは、自分と同じ意見があらゆる方向から返ってくるような閉じたコミュニティで、同じ意見の人々とのコミュニケーションを繰り返すことによって自分の意見が増幅・強化される現象をいう。動画の投稿者たちはスマホ世界にどっぷり浸かっている人たちだからSNSやUチューブを利用しているにちがいないが、こうしたサイトはプラットフォーマーの閲覧収斂システムによって「自分このみ」の情報を集中的に供給される環境に誘導されているから「エコーチェンバー現象」におちいり易い。おなじアルバイト仲間が同じような不満をぶちまけあっている、そんな情報ばかりが供給されるから自分の不満が「正当化」されていると思い募ってしまいがちである。
 承認欲求とエコーチェンバーが相乗して、結果、不適切動画を投稿してしまう。専門家達の解説は概略こんなものであろうか。
 
 そういわれてみればそんなものかと思ってしまうけれどもどうもシックリこない。どこかちがうような感じが残ってしまう。
 簡単にいえば、「仕事が面白くない」のだろうなという感じがどうしても払拭できないのだ。マニュアルにがんじがらめの仕事を押しつけられて、あまり円滑でない人間関係のなかで「時給」千円程度で「働かされて」いる。上役に不満を訴えてもその上役も「本部」の指示に従っているだけで「自由裁量」はほとんどない。自分の工夫やアイデアを生かす余地はほとんどなく、こんな環境では仕事を「喜び」としてやり遂げる可能性はゼロといっても過言ではない。
 そもそも仕事というものはそんなものだったのだろうか。そんなものでいいのだろうか。
 資本主義が進化して仕事がどんどん分業化、専門化してきたのは事実である。しかし、あからさまに「歯車」であることを、それも極々狭い範囲の「歯車」であることを強制されれば「意欲」が『摩滅』して当然ではないか。製造業の現場で「単位作業」まで分業されていたものを、ある「かたまり」の仕事を作業者にまかせる「ワークユニット化」する方向に変わってきたのも、仕事をする人間の感情をくみ上げて「やりがい」を感じてもらおうとするからである。製造業が一足早く「仕事をする人間」という視点を現場に生かす方向に転換しているのに、サービス業ではいまだに古い「ベルトコンベア方式」にこだわっているようにしか思えないのは私だけだろうか。「セブンイレブン」が24時間営業をフランチャイズに強制する姿勢を崩さないのもオーナーを「本部の支配下」に抑圧しようという『優越的地位の濫用』以外の何ものでもない。
 
 考えてみればこの30~40年ばかりの間のコンビニと百円ショップの「席巻」ぶりは空恐ろしいものがある。この二つの業態の出現によって「市場」から『消滅』していった企業あるいは広く「業種」はどれほどあるだろうか。資本主義の当然の帰結と言ってしまえばそれまでだが、それでどれほどの人が喜んでどれだけの人が泣いたかを測ってみればこの趨勢は「これで良かった」と『総括』してよいのだろうか。
 しかも、奇しくも、こうした業態は先の外食チェーンも含めて、人間を「使い捨て」にしてきた業種である。そして、いま、「人手不足時代」を迎えてこうした「業態」は「存在形態」の「見直し」を市場から迫られている。
 言わば「使い捨てられた人々」の『呪詛』がこれらの企業の経営を脅かしているのだ。
 
 「不適切動画」をアルバイトで働く人たちを『断罪』するだけで解決するように世間は考えているようだが、どっこい、それほど甘いものではない、この根は深いぞ!
 そんな『通奏低音』がどこかで唸っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2019年3月4日月曜日

 震災孤児

 椀かかへ匙使ひゐる子供らはかくも無表情孤児何千人(河野裕子『葦舟』より)。
 
 昨年暮れあたりから専門書などのかたい本に読み疲れたとき歌集を読んでいる。京都新聞が毎週水曜日、永田和宏の「象徴のうた―平成という時代」を連載していてそのいつかに「君とゆく道の果たての(とほ)(しろ)く 夕暮れてなほ光あるらし」という美智子皇后の御歌が載っていて深く感動したことがあって、短歌っていいものだなぁと感じて以来歌集を借りては読んでいるというわけだ。これまでどちらかといえば俳句に親しんでいたのだが、どちらも日本独特の定型短詩であるから今ごろの齢になるとピッタリとくるのだろうか。先輩のKさんに永田和宏の細君が河野裕子であることを教えてもらって早速読んだなかに冒頭の歌があった。 
 マスコミもなぜかまったく触れてこなかった震災孤児。復興庁によると「震災孤児」は1778人とある(平成27年10月現在、両親とも失くした孤児241人、片親を亡くした孤児1537人)。ときどきマスコミが報じる現地の姿はまだ50%の復旧さえしていないように映る。2月28日の京都新聞に被害地の沿岸部には次々と防潮堤が造られていて、10メートルを超える壁をパレスチナの分離壁に例える記事があった。小さな写真に写った人間が圧倒的な壁の前にアリのように撮られているのを見て絶望的な寂寥感におそわれた。
 孤児の問題もそうだが被害者、被害地は完全に国から見離されている。東電の責任はほとんど果たされていない。それにもかかわらず「復興五輪」を謳われた2020東京オリ・パラは開催を一年に控えて、復興をそっちのけにして空しく盛り上がっている。そればかりか2025大阪万博まで加わって「土建王国日本」は高度経済成長時代を夢見るかのように浮かれに浮かれている。そんな風潮に侵されていた私にズブリと現実を突きつけたのが「椀かかへ匙使ひゐる子供らはかくも無表情孤児何千人」であった。
 
 詩(うた)は詩人の霊感の表出であるという。たった三十一文字に凝縮された詩的真実は一瞬にして読むものに現実の本質を暴く力をもっている。
 永田と河野が歌人夫婦で、河野が乳癌を患って病苦に苛まれながら短歌づくりをつづける姿のすさまじさは歌のうえにあから様にあらわれている。それは夫の永田の歌も同様であって、歌作という過程を経て剥き出しでない「紡がれたことば」であるにもかかわらず、愛しみと憎しみがキンと伝わってくる。歌人夫婦の辛さは残酷だが「あとがき」に河野はこうつづっている。「五十年ほど歌を作ってきてほんとうに良かったと、この頃しみじみ思う。歌が無ければ、たぶんわたしは病気に負けてしまって、呆然と日々を暮らすしかなかった」。2010年8月、帰らぬ人となった河野裕子の一首はこれからのち、いつまでも東北大震災を詠う代表的な短歌として残っていくにちがいない。
 
 しかし、ひとはどうしてこんなにも『無様(ぶさま)』なのだろう。どう考えてもオリンピックよりも万博よりも『震災復興』だろう。なのにそれを忘れてリーダーの巧妙な『煽動』に乗せられてオリンピックだ万博だと浮かれてしまう。こんなことになれば復興に使われるはずの資材や労働力がそっちに流れてしまって復興(九州も広島も…)がはかどらなくなるに違いないことは分かりきったことなのに、五輪も万博もズルズルと引きずられるように開催に向ってしまう。昨年夏の豪雨災害で屋根瓦を吹き飛ばされた近所の家の復旧は今頃になってようやくブルーシートがはがされるようになった。これも無関係であるはずがない。
 
 三浦雅士が『孤独の発明』で興味ある言説を書いている。
 バルガス・リョサが、広大なインカ帝国がわずか数百人のスペイン人に滅ぼされたのは、インカに個人という概念が存在しなかったからであり、したがって皇帝が殺された軍隊はただ茫然自失し何を為すべきか知らなかったのだ、と述べている。皇帝の命令すなわち外部の命令が、将兵それぞれのうちに内部化されていなかった、自らが自らに命令できなかったからだというわけだ。少なくともインカの軍隊においては各自の判断で臨機応変に動くという個人の概念は存在しなかった、と。(略)私は古代人も現代人もほとんど違わないと考えている。(略)バルガス・リョサの説に説得力があるのは、古代インカの将兵と同じような人間が現代にも少なからず存在するからである。
 この言を認めるとすれば、われわれは『考える力』を失くしてしまってリーダーの命令のままに動かされているだけ、ということになる。そんなことはない、と気負ってみてもリーダーの思うままに操られている現実はあまりにも明確だ。決して「最善」でないことは分かっているけれども、「他よりマシだから」と言い訳しながらもう8年も同じリーダーを戴いて国の運営を任せている。最近の情勢はまたぞろ総裁任期が一期延されそうな気配もただよっている。
 
 荒川洋治は「文学は実学である」と言っている。河野の短歌が私にグサリときたように、今は進歩や成長をはやしたてる「理屈」よりも「直観」の時代なのかもしれない。理論づけはあとからでいい、とにかく「おかしい!」と感じたら「反対」を向くようにする、みんなが「いい」と言っていることには「眉にツバ」をつけてみる。
 まず直観、そのあとひとりで(みんなで)勉強しまくって、それが正しいかどうかを検証する。そんな「賢さ」を磨かねば「お手本」のない時代は生きていけない。
 河野裕子の教えである。